2025年度大会「『多文化共生』の同時代史――理念と実践の歴史的断層を照射する――」

2025年度大会「『多文化共生』の同時代史――理念と実践の歴史的断層を照射する――」

 同時代史学会2025年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

 なお、本年度は対面のみで実施します。

日時
2025年12月6日(土)
会場
名古屋大学東山キャンパス文学部本館、文系共同館1、2階(愛知県名古屋市千種区不老町)
キャンパス・マップ:B4③
https://www.nagoya-u.ac.jp/extra/map/index.html
参加費
無料
日程
10:00~12:00 自由論題報告(会場A~会場D、8名)
12:20~12:50 総会  【会場:237】
13:00~17:30 全体会 【会場:237】
〈報告〉
鄭康烈(日本学術振興会 特別研究員PD(早稲田大学))(13:10~14:00)
「戦後から現代にかけての在日コリアンの包摂と排除――労働市場における格差・不平等の分析から」(仮)
巣内尚子(岐阜大学)(14:00~14:50)
「剥奪されたSRHRと移民女性のサバルタン・エイジェンシー―ベトナム人移住女性労働者の事例から」

〈コメント〉
上野貴彦(都留文科大学)(15:00~15:20)
蘭信三(国際日本文化研究センター/上智大学/社会福祉法人さぽうと21理事長)(15:20~15:40)

全体討論:15:50~17:30
18:00~ 懇親会

全体会 「『多文化共生』の同時代史――理念と実践の歴史的断層を照射する――」
趣旨文

 今年はベトナム戦争終結から50年という節目の年である。

 「冷戦」と呼ばれた体制が大きく変化する重要な転換点であったこのアジアにおける「熱戦」は、多くの難民を生み、国際的な〈移民〉の歴史に新たな刻印を記すことになった。

 そうした中、日本はそのベトナムを始めとした、東アジア、東南アジアに戦端を開き、地域に大きな変動を巻き起こした主体でありながら、戦後は自らが植民地化した地域からの〈移民〉については人権を軽視した対応に終始し、ベトナム難民の受け入れも限定的なものにとどまった。

 ところが、バブル景気の下での労働者の不足を補うため、いわゆる「日系二世・三世」が「定住者」として日本に迎えられた。そして新自由主義の自己責任の時代において、日本の多くの人々の自衛的なライフ・スタイル選択が少子化を招来するなかで、東アジア、東南アジアから「技能実習生」の名のもとに安価な労働力として多くの人々が日本に迎えられるようになった。とはいえ、「いわゆる移民政策はとることは考えておりません」としながら実際には移民を受け入れるという政府の政治的姿勢の問題に加え、日本と各国の間の歴史問題が禍いし、多くの〈移民〉たちが不安定な身分のまま日本社会で生きることを余儀なくされたのである。

 同時代史学会は、学際的に同時代を扱う学会であり、『同時代史研究第17号』でも「ボーダーコントロールの同時代史」という特集を組むなどの取り組みを続けてきたが、目下最大の問題であると言ってもいい、日本社会の「内なるグローバル化」における〈移民〉の「排除と包摂」の問題、換言すれば「多文化共生」という言説が肯定から否定へと転じているかのような昨今の問題を改めて正面から扱わなければならないと考え、従来からこの問題に取り組んできた社会学者の力を借りて、この問題の歴史的再検討と将来への視角を得ることを企図するに至った。加えて、「特別永住者」として扱われている在日コリアンや在日中国人も視野に入れ、より広い視野で戦後の日本における、国境を超えた人の移動を捉え直すことを目指すことにした。

 なお、日本語の〈移民〉という用語法は、かなり不安定で、誤解を招きやすいものになっている。世界的に見れば〈移民〉(migration)は、将来的な永住を前提とした移住に限定されないし、国内における人口移動をも含む概念である。そもそも国境を超えて移動する人々には様々な背景がある。ところが日本語の〈移民〉という言葉は、政治的なコンテクストや、過去の日本からの出移民に対する情緒的な把握などが介在し、世界的に見れば特殊な、しかし一定しない、非常に厄介な使われ方がなされてしまう。とはいえこの用語法の混乱を注視することは、〈移民〉をめぐって抱え込んでいる思想/思考の上での混乱を解きほぐす糸口になるのではないかと考えられる。

 そこで本年度の大会では、既に世代を重ね、複雑な階層性と交差性を有している在日コリアン社会を研究されている鄭康烈氏、ベトナム人実習生の研究を続けてこられている巣内尚子氏に報告をいただき、これにヨーロッパの移民問題に取り組んでいる上野貴彦氏のコメント、および帝国崩壊と人の移動を歴史社会学から追求しいまは難民など外国ルーツの学生支援や教育支援をおこなう団体の理事長として現場でも活動する蘭信三氏のコメント、以上の4名によるセッションを開催し、会場の出席者とともに議論を深めることとしたい。


 振り返れば、当学会は既に数々の大会企画や研究会で、社会学をはじめ、人文社会科学の諸分野との交流・議論を重ねてきた。〈移民〉という課題の今日性に向き合うとき、この姿勢は重要な意味を帯びてくる。

 本大会では、〈移民〉に関する現状分析を主題とする報告を行い、その内容をめぐって歴史的な射程を持ちながら議論を行う形とした。排外的な主張が繰り出される今日の状況を踏まえた上で、歴史を改めて捉え直し、思考をめぐらすことにしたい。

 参加者諸氏の活発なご議論を期待する。

同時代史学会2025年度大会 自由論題 報告一覧

A会場[128教室(文学部本館1階)]

報告A-1

  1. 代議士の妻に見る戦前・戦後の選挙と支持基盤:川崎康子を事例に
  2. 高島 笙(たかしま・しょう/慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任研究員(雇用型学振PD))
  3. 本研究は、代議士の妻の役割が戦前・戦後にかけてどのように変化していったのかについて、三重一区選出の戦前派代議士川崎克の妻康子を事例に検討するものである。康子は夫である克が代議士になると、次第に選挙に深く関わっていく。やがて事実上の地元秘書と化した康子は、地方選挙の采配まで揮うようになり「伊賀の宋美齢」と呼ばれることとなった。
     戦後、夫である川崎克は公職追放となり、追放中に急死した。その際、いわゆる身代わり代議士として次男秀二が地盤を引き継いでいく。一方で、秀二の選挙戦では依然として康子が克以来の支持基盤を引継ぎ、采配を揮うという状況が1950年代後半まで続いていく。
     本研究では、こうした康子の生涯における選挙へのかかわり方の変化から、選挙の政党化や夫の代議士としての出世、公職追放や息子の落選など、様々な理由でジェンダーバランスが変化していく様子を長期的なスパンで考察していく。そこから、妻の政治活動の歴史的展開を明らかにしたい。

報告A-2

  1. 戦後日本の「性教育」:厚生省資料から
  2. 松元実環(まつもと・みわ/神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート学術研究員)
  3. 本研究は、戦後日本における「家族計画」を中心とした「性」と生殖の政治を、教育・「啓蒙」的言説から再考することを目的とする。従来は女性の身体や権利に焦点が当てられてきたが、1960年代の核家族モデル形成において、夫・父としての男性身体がいかに語られ、また不可視化されてきたのかは十分に検討されていない。本研究では、「純潔教育」や「性教育」の周辺で、厚生省人口問題研究所を中心とした人口学者・優生学者らが、男性身体をいかに教育・啓蒙の対象として構築したのかを分析する。特に、男性身体に階層的差異を見出す視点に着目し、戦後日本における男性身体の在り方を明らかにする。資料は人口問題研究所の出版物や関係者の著作を中心とし、第5代所長・篠崎信男に関する資料を重点的に扱う。本研究は、従来の女性中心の議論を補完し、戦後日本社会における「性」の政治の再検討に資することを目指す。

B会場[127教室(文学部本館1階)]

報告B-1

  1. 暴力対策と〈青少年〉の変遷
  2. 中山良子(なかやま・よしこ/大阪公立大学工業高等専門学校准教授)
  3. 占領期から高度経済成長期にかけては非行の「第一のピーク」(1951年)、そして「第二のピーク」(1964年)と呼ばれる状況が存在する。この間に「青少年問題」とよばれる政策群がある。本研究では、このピークの形成を、暴力対策を含めた〈青少年〉を射程とする治安対策の変遷としてあらためて捉えなおす。具体的には、警察・司法関係者が〈青少年〉をどのように取り組みの射程に収めていったのか、そこで何が問題として語られたのかを分析する。着目するのは、警察による未成年者を対象とした内規の変化(1950年の「問題少年補導要綱」から1960年の「少年警察活動要綱」へ)や、その前後にある警察の暴力対策の変化(1954年の警察法改正、1961年の暴力犯罪防止対策要綱案)、また石井栄三・森田宗一らの発言や動き、1960年以降の「人つくり政策」の動き等となる。つまるところ、規範/逸脱への言及を内在した統治用語が〈青少年〉である。

報告B-2

  1. 1960年前後の山谷における治安管理体制の再編強化
  2. 渡邉啓太(わたなべ・けいた/東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)
  3. 本報告は、1950年代末から1960年代にかけて、東京都の山谷地域において民警一体のもとで推進されていく治安対策の展開過程とその内実について明らかにすることを試みる。
     先行研究では、1950年代末以降この地を対象に取り組まれていく環境浄化運動や暴動対策によって、セックスワーカーとその「ひも」、「ぐれん隊」の追放、家族世帯の転出という事態が生じ、その結果、山谷が単身男性労働者の街へと再編されていったことが指摘されている。この運動・対策について、福祉・保護(権力)という側面からはその実態が一定解明されている反面、治安管理という点に関しては明らかになっていないことも少なくない。よって本報告では、上記の運動・対策の担い手のうち、地元有力者と警察に着目し、緊密な協力関係のもとで両者がこの地域の「明朗化」に向けていかなる戦略を立てており、実際にどのような治安管理の実践を行なっていたのか、地域紙や警察史料にもとづき論じてみたい。

C会場[1AB教室(文系共同館1階)]

報告C-1

  1. 長崎ベ平連の位相:地域ベ平連における独自性をめぐって
  2. 港 那央(みなと・なお/日本学術振興会特別研究員(PD・立教大学))
  3. 1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃に対して、同年4月にベトナム反戦市民運動体として「ベトナムに平和を!」市民連合(以下、ベ平連)が東京で結成された。その後、日本各地で「ベ平連」を名乗る運動体が誕生し、その数は数百にのぼった。近年、東京で最初に結成されたベ平連にくわえて、日本各地のベ平連=地域ベ平連に焦点を当てた研究が進められ、ベ平連の運動を再構成する作業が行われてきている。
     本報告では、これまでの(東京の)ベ平連研究および地域ベ平連研究をふまえたうえで、地域ベ平連の一つとして長崎県長崎市にて1968年1月末に結成された長崎ベ平連に注目し、その運動展開を明らかにしながら独自性を検討する。具体的には、東京のベ平連、他の地域ベ平連と適宜比較しながら、他組織との関係性や運動課題などについて独自の性質をもって展開したことを考察する。

報告C-2

  1. 戦後日本の「台湾」に対するまなざし:来日台湾人の支援運動を中心に
  2. 郭 書瑜(カク・ショユ/一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)
  3. 戦後に来日した旧植民地出身者は、制度上「外国人」として扱われた。しかし、冷戦構造による「分裂国家」状況のもと、彼らは異なるアイデンティティを抱いていた。台湾出身者の中には「人民中国」に傾倒する者、「中華民国」を支持する者、さらに「台湾独立」を志向する者が存在した。こうした異なる立場をもつ来日台湾人に対して、日本社会の対応は一様ではなく、その差異は戦後日本における台湾および中国への認識を反映していた。また、日本の出入国管理体制の下で、台湾出身者はしばしば在留問題に直面し、ときに強制送還の危機にさらされた。本報告は、1972年の日中国交正常化までに展開された来日台湾人への支援運動、なかでも中国派の陳玉璽・劉彩品支援運動と、台湾独立派の林景明支援運動を対象に、運動路線、支援者の構成、当事者に対する態度などを比較分析することによって、戦後日本社会が日本帝国最初の植民地である台湾に対して抱いたまなざしを検討するものである。

D会場[129教室(文学部本館1階)]

報告D-1

  1. 名古屋オリンピック招致に抵抗した人々:「反オリンピック市民運動連合」の活動から
  2. 古木龍太郎(ふるき・りゅうたろう/名古屋大学大学院人文学研究科日本史学分野・専門博士後期課程)
  3. 1988年夏季オリンピックの名古屋招致は、1977年8月に仲谷義明愛知県知事が構想を発表して以降、行政と財界主導で進められた。革新系団体の多くは「簡素な五輪」を求める条件付き賛成にとどまり、明確な反対姿勢は示さなかった。その後、1981年4月の名古屋市長選を契機に、財政負担や環境破壊への懸念、商業主義・政治利用への批判を掲げる複数の団体が結集し、「反オリンピック市民運動連合」が結成される。連合は独自候補の擁立や署名運動、公開討論会に加え、西ドイツ・バーデン=バーデンでのIOC総会に合わせたデモやビラ配布など、国際的な直接行動も展開した。
     本報告では、参加者の証言や史料から、人々がなぜ運動に加わり、どのような論理で招致に異議を唱えたのかを明らかにする。あわせて、1980年代初頭の市民運動の特徴を、地域活動の広がりや海外とのつながりに注目しつつ、国際的な大規模イベントと市民参加の様相を解明する。

報告D-2

  1. 野坂昭如が語り続けた「戦争の記憶」と日本人論
  2. 小酒奈穂子(こさけ・なほこ/立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程)
  3. 本報告の目的は、野坂昭如が戦後日本社会において語り続けた戦争の記憶と、野坂の語る日本人論との関連を明らかにし、野坂の言説に潜む思想の論理構造を検討していくことである。
     野坂昭如は1968年に『アメリカひじき』『火垂るの墓』で直木賞を受賞した。その後メディア文化人として、様々な分野において、戦争の記憶や戦後の日本社会への批判を語り、没後は反戦を貫いたと評されている。
     一方1970年後半から、様々な分野の専門家との対談で日本社会について言及する中、野坂は必ずといっていいほど日本人論を持ち出し、議論を展開していた。本報告では、野坂の語る日本人論はいかなるもので、なぜ語るようになったのか、その社会背景はどうであったのかを分析する。野坂の日本人論と語り続けた「戦争の記憶」との関連を明らかにし、野坂の言説に潜む思想の論理構造を検討する。
    以上