本部会のテーマ「地域と冷戦」を考察するひとつの事例として、本報告は山口県東端、広島県境に位置する岩国市を取り上げる。岩国は人口約15万人、面積約873平方kmの地方都市であるが、他都市との違いは在日米軍基地を抱えている点であり、それゆえ朝鮮戦争やベトナム戦争といったアジア冷戦の展開に直接的な影響を受けてきた。近年の米軍再編をめぐって、厚木から岩国への米空母艦載機移駐の是非を問うた2006年の住民投票や、国に抵抗した現職に「小泉チルドレン」が僅差で勝利した2008年の岩国市長選は、記憶に新しいところである。
岩国に基地が作られたきっかけは、日中戦争の勃発であった。航空機の搭乗員養成が急務となったが、呉海軍航空隊だけでは足りず、江田島の海軍兵学校近くに練習航空隊が必要となった。そこで白羽の矢が立ったのが、岩国であった。旧日本海軍は宅地や耕地を半ば強制的に買収し、門前川と今津川によって形作られたデルタ地帯に飛行場を建設した。敗戦後、米海兵隊に接収された岩国基地は英連邦軍基地を経て米軍基地となるが、その主導権は空軍、海軍、海兵隊と目まぐるしく移っていく。
朝鮮戦争の勃発に伴い米軍の大部隊が移駐すると、岩国基地周辺は西日本一の活況を呈し、「基地経済」が発達した。朝鮮休戦直後、山口県下で社会主義を賛美する「赤い日記」が小中学生に配布された時、反発は岩国から沸き起こった。1955年前後、米兵が小学生に小銭をばらまいたり、女性や老人を川へ投げ込む事件が頻発し、市民の基地感情を悪化させた。しかし講和後3次にわたり行われた土地接収に対する反対運動は盛り上がりに欠け、同時期の沖縄の島ぐるみ闘争や本土の内灘、砂川闘争などとは対照をなしている。
基地拡張を受け、韓国から第1海兵航空師団が移駐してきたことで、岩国基地の性格は決定づけられた。1950年代末から60年代半ばにかけて、岩国には米空母が寄港したが、反対運動よりも歓迎ムードの方が勝っていた。革新勢力による反基地運動は存在したが、一般市民の参加は少なく、外からの動員に多くを負っていた。岩国を含む旧山口2区は岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の選挙地盤であり、「重宗天皇」の異名をとった重宗雄三参院議長は岩国出身であるなど、岩国は保守的な土地柄で知られる。それゆえ岩国は例外的に基地に好意的な街として知られ、市民は基地と共存してきたのである。
ベトナム戦争激化に伴い、第1海兵航空師団司令部や主力戦闘機部隊はベトナムへ移駐し、岩国は後方基地的色彩が強まった。このため将兵は減少し、ドル防衛政策とあいまって、岩国に「ベトナム不況」をもたらした。そうした最中、1968年の米軍機九大墜落事件を受けて、隣の福岡県では板付基地撤去運動が高まり、1972年には大部分の返還を勝ち取った。この事件は岩国にも衝撃を与え、民青、社青同などに属する「山口県青年学生総決起大会」は基地撤去を要求する集会を行った。彼らは、表に毛沢東の肖像画、裏に毛語録が書かれたプラカードを押し立て、「アメリカを追い出せ」を叫んだが、基地歓楽街で働く商人たちは「実情を知りもしないよそ者が、毛沢東を持ち込むな」と目をつり上げた。
米軍機九大墜落事件を受け、社会党、共産党などは「岩国から基地をなくする会」を結成し、労組の組織加盟のおかげで岩国最大の反基地運動団体となった。これに対し、板付基地の米軍を誘致することで、岩国を国際空港化しようとする団体が現れた。この構想を唱えた「岩国国際空港建設促進期成同盟会」は「共産圏の侵略から守ってくれている米軍に尽くすのは当然」という考え方を持っており、革新陣営からは「完全な右翼団体」と見なされていた。岩国市議会の保守系議員は、基地撤去とも板付誘致とも一線を画し、基地の沖合移設による問題解決をめざし、自民党ルートを通じて陳情を繰り返した。しかし6000億円かかる沖合移設はなかなか認められず、規模を大幅に縮小して実施されるのは、冷戦後のことである。
1969年11月、第1海兵航空師団がベトナムから岩国に戻ってくると、兵員数は朝鮮戦争当時をしのぐようになり、基地内には恒久的施設が建設された。これに呼応するように、岩国にもべ平連が登場し、それまでにない反基地運動を展開した。1972年2月、基地近くに出現した反戦喫茶「ほびっと」は基地内の反戦米兵に対してはかなりの影響を与えた。しかし、反戦・反基地運動の先頭に立ったのは県外から集まってきた若者であり、大多数の岩国住民の動きは鈍いままであった。1974年1月の東京べ平連解散後も「ほびっと」は活動を続けたが、米軍のベトナム全面撤退で客足も離れた。「ほびっと」は環境保全など新しい活動指針を求めたが、サイゴン陥落後の1976年1月、閉店したのである。
本報告は、在日コリアンの活動家がいかに米国の黒人解放運動と神学を見つめ、それを自分たちなりに読み替え、運動の糧としたのかを、1960年代末から70年代初頭にかけての川崎市南部を舞台に検討する。在日の運動と黒人解放運動が重なり合い、共鳴し、国境を越えて展開する動的過程を詳らかにすることで、1960年代の市民権運動のトランスナショナルな側面に光をあてる。また、両者の運動が時差を伴いながら展開する過程に着目し、「長い60年代」「長い市民権運動」という視点から「60年代」を再考することも目指したい。
報告では、川崎市における国籍条項撤廃運動の中心となった在日大韓キリスト教川崎教会と、教会を基盤としつつも1973年に分離、独立して設置された社会福祉法人青丘社の活動を中心に検討する。川崎教会と青丘社の活動については、運動側の当事者や、交渉にあたった行政側が記したもの以外には、社会言語学や教育学、社会学の分野で優れた研究が発表されている。しかし、これらは川崎市在日外国人教育基本方針(1986年)と川崎市ふれあい館の設置(1988年)及びそれ以降の市の「多文化政策」を主として扱っており、1960年代末から70年代にかけての教会の活動や日立裁判については「前史」として片付けられがちである。一方、歴史学の分野においては、戦前の朝鮮人の抑圧と民族解放を求めた抵抗の歴史に焦点をあてた研究から、1970年代以降、戦後史を扱ったものが数多く出版され、1990年代以降は「帝国主義の糾弾、抵抗」という枠組みを超えて、在日2世、3世の定住化と権利の拡大を視野に含めた研究が進んだ。これらの研究成果をふまえながら、本報告は、川崎市ふれあい館所蔵の非出版史料や文献、個人文書や手記、関係者へのインタビュー、日立就職差別裁判の史料、青丘社のニュースレターや、川崎市公文書館、川崎市立川崎図書館、神奈川県立川崎図書館、「川崎市立労働会館」内「労働資料室」で得られた史料を渉猟し、川崎市南部における在日の活動家による就職差別裁判支援活動とその後の福祉権運動に焦点をあて、従来の研究では触れられることの少なかった米国の黒人解放運動及び神学との関わりを明らかにしたい。
本報告はまた、米国における「市民権/公民権運動」を、国境を越えた視座からとらえなおす試みとも軌を一にする。米国の「市民権/公民権運動」史は、M・L・キング牧師ら指導者と公民権団体を軸に、公民権法の成立を頂点とする歴史(「第一世代」)、地域における草の根レベルの闘争に目を向け、「黒人解放運動」としての側面を明らかにする研究(「第二世代」)を経て、今日では、「市民権/公民権運動」の「始まり」と「終わり」を問い直すもの、女性解放運動との関係を分析するもの、同時代に展開した貧困対策事業とのつながりに注目するもの、米国政府の反共政策との関係や、世界各地で展開した反帝国主義・人種差別闘争との関係を探るものなど、多岐に渡る研究が発表されている。黒人解放運動を「合衆国固有の」運動とみなすのではなく、世界各地で展開した反帝国主義・人種差別闘争との同時代史的な繋がりの中でとらえるべきだ、と指摘する声はあるものの、実際にそれを行った研究は極めて少ないのが現状である。本報告はそうした国境を越えた「市民権/公民権運動の歴史」を探る試みの一つでもある。
また、1960年代の市民権運動の「越境性」に着目することは、「長い60年代」という概念を考察する上でも有効である。米国の黒人解放運動及び黒人神学が川崎の地に伝播し、再解釈・再定義され、反就職差別、国籍条項撤廃運動に組み込まれる、その過程を理解するためには、より長期的なタイムスパンで「60年代」をとらえることが必要である。「長い60年代」、または「長い市民権運動」という枠組みを設定することで、市民権運動の国境を越えた繋がり、広がりを論じることがより一層可能となるのではないだろうか。
以上の問題関心に基づき、本報告では、まず、1960年代後半の川崎市南部における在日居住区を取り巻く状況を検討し、李仁夏牧師をはじめとする川崎教会の関係者が黒人解放運動と黒人神学にいかなる関心を抱いたかを論じる。その上で、川崎における国籍条項撤廃と福祉権運動の原点となった、日立就職差別裁判支援運動に焦点をあてる。日立製作所ソフトウェア戸塚工場から採用通知を受けながら、就業機会を奪われた朴鐘碩による裁判への支援活動において、教会関係者がいかに米国や韓国のキリスト教関係者の支持を勝ち取り、裁判に勝利したかを論じる。最後に、裁判闘争が川崎の地でいかに福祉権運動に受け継がれていったかを明らかにしたい。「人間都市」の創造を謳う伊藤三郎革新市政下で、日立裁判支援活動が児童手当と市営住宅入居資格の獲得を目指す運動となり、その運動が礎となって、自治体が国に先駆けて国籍条項を撤廃し在日外国人の権利を保障する「川崎方式」が編み出されるのである。70年代後半から80年代にかけての青丘社運動の変容と市の政策の変化も視野に含めながら、日立裁判支援運動とその後の福祉権運動がいかなる意味をもっていたのかを考察したい。
個人的な経験からまずは考えてみたい。私が研究を始めたのは1980年代、研究対象は1930年代の国家主義運動だった。満州事変前後の時期から二・二六事件までの国家主義運動が地域のレベルでどのように展開していったのかということを明らかにするために、当事者たちの聞き取り調査を含む資料調査を行った。今から振り返ってみると、当時の私は約50年前の出来事について調べていたことになるわけであるが、今回同時代史学会がテーマとして取り上げている「60年代」は、現在から40~50年前の時代であり、時間的な距離というものがあるとすれば、80年代の私にとっての満州事変や二・二六事件とほぼ同じ時間的な距離をもっていると言うことができる。
しかしながら、80年代の時点での1930年代イメージと今日の時点での1960年代イメージとは随分と異なっているように思う。それは、1930年代と80年代の間に、敗戦と戦後改革のなかでの体制転換があったからであり、60年代と今日の間には、そのような体制転換がなかったからと、ひとまずは考えることができるだろう。つまり、80年代の時点において、1930年代は、「戦前」、「戦争とファシズム」、「軍部の暴走と対外侵略」などなど、その当否は別として、一定のイメージないし時代像が存在していたように思われる。これに対し、果たして「1960年代」という時代が、一つのイメージないし時代像として存在しているのだろうか。「60年代」再考というが、再考すべき明確な「60年代像」というものがあるのだろうか?
もちろん、1960年代に関して、研究がなかったわけではない。とりわけ、社会運動研究の分野では、運動の記録や当事者たちの回想などの出版が盛んになっており、それらを基に優れた研究もなされてきている。ただ、近年の動向については、次のような問題点があるのではないかと個人的には考えている。
(1)当時の運動に関して、学生運動や知識人の運動にかかわるものが中心となっているのではないか。そのため60年代の運動が、果たしてどこまで社会的な広がりを持っていたのか、浸透していったのかという点が看過されているのではないのか。
(2)(1)と関連するのであるが、60年代の社会運動のなかで学生や知識人が果たした役割が大きかったとしても、彼等の社会的出自や成長過程での意識形成を、当時の日本社会の変化と関連づけて捉える必要があるのではないのか。というのは、60年代の社会運動の研究にしばしば見られるのは、当時の運動主体相互あるいは知識人間相互の運動内部における認識の相違や路線問題に傾きすぎているように思われるからである。
(3)戦後日本の社会運動にとって60年代というかたちで一つに括ることができるのだろうか。一つに括るとすればどのような枠組みで括ることができるのだろうか。端的に言えば、1960年安保闘争と、1968年前後の大学闘争を中心とする社会運動を、同一の時代の社会運動と考えることができるのかどうか、という問題である。
以上のような疑問点ないし問題点を解く鍵の一つが地域レベルの社会運動にあるように思われる。というのは、周知の通り1960年代は高度成長の時代でもあり、その過程で地域社会が急激に変貌した時代でもあるからである。そうした地域社会の変貌は、何らかのかたちで社会運動のあり方にも影響を与えたのではないのだろうか。60年代の地域社会の変貌のプロセスと社会運動の有り様の相互関係を検討することによって、果たして60年代の社会運動とは何だったのか、あるいは、戦後日本の社会運動にとって60年代とは何だったのか、という問題にアプローチできるのではなかろうか。
とは言え、知識人や学生運動経験者に関する記録に比べ、地域レベルの社会運動に関する資料は極めて不十分なかたちでしか残されていない。むしろ、一定の目的意識の下で資料の発掘・収集と保存を行わないならば、歴史の闇に埋もれてしまう可能性が大きい。
本報告では、こうした地域社会運動にかかわる資料状況の問題にも触れながら、地域社会運動の視点から60年代の社会運動像を検討してみたい。