本大会では、現在にまで継続する諸問題の系譜を歴史的に検証する試みの1つとして、1960年代から1980年代という、やや長期的な時間設定のなかで、社会運動の転換と社会制度の転換とが、いかなる関係性をもって推移したのかといった問題を考えたい。前者の社会運動の転換については、安保闘争やベトナム反戦運動など、60年代を通した高揚が、ある種の敗北を経験するなかで、新たな視点や態勢が獲得されていく70年代の動きが核になるだろう。そして、その後、相互に連携しつつ、また緊張感をもちながら展開された諸運動が、いかに推移していくのかといった問題を、沖縄の本土復帰や在日朝鮮人、ウーマンリブなどの動向に注意しながら考察したい。また、後者の社会制度の転換については、いわゆる管理社会化やシステム化が進展する現代社会の趨勢のなかで、前者の社会運動の転換をいかに受け止めていくのか。それが80年代に全開する新自由主義的な動向といかに連動するのか、といった論点が重要となるだろう。
2010年12月4日(土)、成城大学3号館311教室
会場までのルートは 成城大学交通案内 http://www.seijo.ac.jp/access/ を参照してください。
※資料代:500円
本報告では、主に日本教職員組合教育研究全国集会の事例から、そこに表れた「復帰」前後における「本土」の沖縄認識の変容を描き出すことを試みたい。教育研究全国集会は沖縄代表が第2回から継続して参加しており一種の「本土」側と沖縄側の係争の〈場〉として、そこでの議論は両者の相互作用の軌跡として捉えられる。
具体的には、沖縄がどのように学習の課題とされてきたのか/こなかったのか、集会録における議論を中心に検討する。それにより1950年代から現在にかけて「沖縄学習」の系譜をおおよそ五期に区分できると考えている。①60年代前半までの「例外」期、②65年から「復帰」までの「沖縄問題」学習期、③「復帰」から80年代前半までの「空白」期、④80年代後半から90年代前半の「平和学習」期、⑤90年代後半以降の「多文化学習」期である。なお沖縄における「沖縄学習」でも類似の系譜がみられることがわかった。その内容の共通点と相違点もまた大変重要である。
これら五期を俯瞰することにより、それぞれの時期において沖縄に投影される学習の課題が、時代の要請に従って諸力によって、そして「本土」側と沖縄側によって係争されながら焦点化され、変遷してきたことが明らかになるだろう。そしてそこには両者のその時どきの沖縄認識(沖縄の位置付け)が色濃く反映されていること、それは大きく変容していることを指摘したい。またその構造が沖縄返還/復帰運動とどのように関連し、どのような意味をもつのか考察したい。なお本報告では、すべての事例において「本土」と沖縄の二項対立として描くことを意図していない。五期を並べることを通して、それぞれの期や場面に表れる〈線〉とその変化を対象化し、意味を考えることを目的としている。
その上で特に注目したい点は、1972年沖縄施政権返還と、「復帰」という出来事の関係性である。それは「沖縄学習」の議論を検討することにより、国土、沖縄戦、文化に関する言説空間において、沖縄を矛盾なく包摂しうるように再編成される過程が浮かび上がることによって示される。それぞれの位相で「復帰」という出来事があり、それらは時間差を伴い、1960年代~90年代という幅をもつ。沖縄の「復帰」という出来事は、個別の位相においても、またそれらを束ねた複合的な動態としても捉えられよう。また、より広い文脈では、「本土」とは異なる動きを含む沖縄における言説空間の再編成過程を視野に入れ、両者を合わせた動態を「復帰」として捉えることもできるだろう。そのことは、〈1972年〉に限定されない「復帰」という出来事の複層性、幅と深さを示しているのではないだろうか。これらの動態を考え合わせると、「復帰」という出来事は、国土を有機的なシステムとして統合しようとする指向、いうなれば国土の弁証法として考えることができるのではないだろうか。だとすれば、沖縄の「復帰」という出来事は、国土とnationをめぐる「戦後」の東アジアの事例として、広い地平につながる可能性もあるだろう。
本発表では、1970-80年代の日本のフェミニズムとアジアとの関わりについて検討する。
これまで、日本のリブについては、その一国主義や「帝国のフェミニズム」としての限界が批判される一方で、アジアへの視点や加害者の視点が含まれていたことが指摘されることもあった。ただ後者の場合も含めて、90年代に「慰安婦」問題がフェミニズムの重要な課題となる以前の日本のフェミニズムとアジアの関わりが本格的に検討されたことはなかった。
そもそも、アジアへの視点や加害者の視点は、1960年代後半のベトナム反戦や入管闘争の過程で提起され始めた。重要なことは、日本のフェミニズムが、単に同時代の新左翼運動とそうした問題意識を共有したということではなく、固有の視点に基づいて、日本とアジアの関係性にまつわる問題意識をどのような仕方で発展させ、具体的な運動に結びつけていったのかを問うことである。本発表では、侵略=差別と闘うアジア婦人会議(以下アジア婦人会議と略)とアジアの女たちの会を中心に据えて、この点を検討したい。
アジア婦人会議は、松岡洋子、飯島愛子ら日本婦人会議の左派メンバーを中心に結成されたグループであり、リブの産婆役とも言える重要な役割を果たした。アジア婦人会議は、呼びかけ文において女性差別と「アジア的視点」を二つの柱に据えた。こうした視点は極めて斬新だったが、アジア婦人会議における「アジア」とは何よりも革命の先進国中国であり、それゆえ、その理解は観念的であると同時に理想化されてもいた。また、アジア婦人会議は、女性差別とアジアへの侵略を表裏一体とする視点を提起しながら、両者の関係性を掘り下げるには至らなかった。
上のようなアジア理解を大きく変えたのは、韓国の民主化闘争とキーセン観光問題である。これらは韓国における同時代のアクチュアルな現実であり、とくに後者は高度成長を経て先進国の仲間入りをした日本とアジアとの間の南北構造を指し示すものでもあった。
松井やよりらを中心として1977年に本格的に発足するアジアの女たちの会は、韓国を中心に据えて、「経済侵略」という言葉が象徴する同時代の日本と韓国の不平等な関係性をフェミニズム的な視点で問い直そうとした。やがて、アジアの女たちの会にとっての「アジア」の範囲は東南アジアに広がると同時に、その活動は、戦前における日本のアジアに対する「軍事侵略」の問い直しを含むものとなる。その過程で、アジアの女たちの会は「慰安婦」問題をも先駆的に提起した。
アジアの女たちの会の活動は、一国主義とは正反対の世界的な視野に立脚する極めてユニークな運動であった。本発表では、その背景として、会に関係した様々なフェミニストのアジア体験、問題意識、活動の場の多様性についても言及したい。
川満信一氏は、1932年、沖縄・宮古島生れ、1956年琉球大学国文科卒、『琉大文学』の同人となり、詩・創作・評論を書くとともに尖鋭な批評活動を展開した。また伊佐浜土地闘争に参加。のち『沖縄タイムス』記者、論説委員、文化事業局長、常任監査役などを歴任した。沖縄返還をめぐっては、反復帰論の立場から国家論、共同体論などを執筆した。特に『新沖縄文学』(No. 48)「特集・琉球共和国へのかけ橋」(1981)には、「琉球共和社会憲法C私(試)案」を執筆、また同(No. 53)「特集・沖縄にこだわる――独立論の系譜」(1982)には「独立論の位相」を寄稿、新川明らとともに「反復帰論」の潮流を作り、大きな影響力をもった。著書に『川満信一詩集』(オリジナル企画、1977年)、『沖縄・根からの問い――共生への渇望』(泰流社、1978年)、共編『沖縄自立への挑戦』(社会思想社、1982年)、『沖縄・自立と共生の思想』(海風社、1987年)、『世紀末のラブレタ――川満信一詩集』(エポック、1994年)、『宮古歴史物語――英雄たちを育てた野崎の母たち』(2004年)などがある。
川満氏はのちに「現在、沖縄が直面している基地問題をはじめとする経済・社会問題の根っこは、1960~1970年代の復帰運動と、その政治的帰結に大かた起因している」(川満信一「日本復帰と「沖縄」の行方」『沖縄を知る事典』日外アソシエーツ、2000)と書いている。今回の「聞書き」では、1960~1970年代における「復帰と反復帰」の相克が内蔵していた政治的思想的問題を軸に、一方では1950年代における『琉大文学』を中心に、戦後沖縄思想史の論理をふりかえっていただきながら、他方では1980年代以後、「本土復帰」という「制度化」のなかで、どのような「抵抗」の試みがおこなわれたのかなどを中心に、「琉球共和社会憲法C私(試)案」や「反復帰論」と「独立論」の区別と連関などの論点を含めて、自由なお話をうかがいたいと思っている。それは、今回の全体テーマである「転形期」を沖縄の政治・思想の文脈で捉えなおす試みであり、同時に未来への展望を語りなおす試みともなることを期待したい。なお、最近の川満信一論としては、仲里効「〈沖縄と文化批評〉2 吃音と根畏(ニーヤグ)み」(『未来』2010年4月号)が、意味に還元されることを拒否する詩的言語が指さす喪失の予感を描いて興味深い。(文責・安田常雄)
本報告では、テレビが1970年代の日本をどのように記録しようとしたかを、当時制作・放送されたドキュメンタリー番組を中心にして考察する。テレビ史ではこれまであまり注目されてこなかった転換期としての1970年代について考えてみたい。
1960年代、テレビでは数多くのドキュメンタリー番組が制作された。この時期は、安保闘争やベトナム反戦運動、大学紛争などが吹き荒れた「政治の季節」だった。また、高度経済成長は日本の都市や農村の風景を猛烈な勢いで作り替えていった。カメラの先には、常に衝突や変化があった。
NHKではドキュメンタリー番組の草分けと言われる『日本の素顔』(1957-64)を引き継ぐ形で『現代の映像』(1964-71)が始まった。また、小さな個人の生き様から時代を描こうとする『ある人生』(1964-71)も新たにスタートした。この時期、NHKのドキュメンタリーを担う中心人物のひとりだった工藤敏樹は『和賀郡和賀町‐1967年夏』(1967)や『富谷國民学校』(1969)、『新宿‐都市と人間に関するリポート』(1970)などで、急速に変貌する都市と農村の姿を映像と音声でモンタージュし、注目を集めた。
日本テレビでは、プロデューサーの牛山純一率いる『ノンフィクション劇場』(1962-68)が大島渚や土本典昭といった個性的な監督を映画界から招き入れ、作家性のある番組を次々に作り出していった。日本兵として戦った韓国籍の傷痍軍人を取材した『忘れられた皇軍』(1963)、土本が水俣とはじめて向き合った『水俣の子は生きている』(1965)、放送中止事件で有名になった『南ベトナム海兵大隊戦記』(1965)、返還前の揺れる沖縄を描いた『沖縄の十八歳』(1966)など、高度経済成長下で忘れられつつある人々の姿を描いた番組が話題になった。
TBSでは『カメラ・ルポルタージュ』(1962-69)に加えて、『現代の主役』(1966-67)や『マスコミQ』(1967-69)で実験的な試みが盛んに行われた。その中心的存在だった萩元晴彦や村木良彦は有名な『あなたは…』(1966)や『ハノイ・田英夫の証言』(1967)で、同時録音による生中継風ドキュメンタリーの手法を開花させ、ドキュメンタリーの方法論を新しいテレビ論へと昇華させていった。
ではその後、テレビのドキュメンタリー番組はどうなったか。一般的には、1970年代以降、テレビのドキュメンタリー番組は「冬の時代」を迎えたといわれる。しかしその一方で、現在へとつながる新たなテーマや表現方法もこの時期に生まれつつあった。1970年代に制作・放送された、いくつかのドキュメンタリー番組を具体的に取り上げながら、テレビの転換期としての1970年代について考えてみたい。
日本政治は、高度成長に伴う巨大な社会変動を受け、1960年代後半から1970年代前半にかけて、革新自治体にみられる市民参加の時代を迎えた。しかし、石油危機もあって、それは長くは続かず、中曽根政権の行政改革に示される市場競争の時代に移行していった。こうした参加民主主義から新自由主義へという図式は、はたして正しいのであろうか。それを批判して、1980年代の行政改革は新自由主義としては不徹底であったとする見解も、確かに存在している。しかし、そうした見解も、この時期に独自の位置づけを与えているわけではない。
本報告は、1970年代から80年代にかけての自民党政権、とりわけそのブレーンであった香山健一の主張を手がかりとして、この問題を再検討したい。結論的にいえば、この時期は、参加民主主義とも新自由主義とも異なる、日本型多元主義の時代であったというのが、本報告の主張である。日本型多元主義論は、1970年代前半、高度成長に伴う社会変動を背景として、自民党が危機に陥ったことから登場する。そして、総裁予備選挙の導入を骨子とする党改革と、西欧型の福祉国家批判に基づく行政改革の両方を導き、1980年代半ば、自民党政権に黄金時代をもたらした。それは参加と競争の両方の要素を部分的に含みながらも、集団的多様性を重視する点で独自の保守主義的なイデオロギーであったが、1990年代に入ると急速に後退し、新自由主義に取って代わられていった。
本報告は、参加民主主義および新自由主義に加えて、日本型多元主義をポスト高度成長期の主要な政治的イデオロギーの一つとして位置づけることで、今日に至る日本政治史について新たな解釈を提示することを目指したい。