2011年度大会「越境する知と日本」

◆主旨文

 2002年に発足した同時代史学会は、グローバリゼーションの歴史的な意味を問い続けてきました。これまでの大会でも、東アジア地域やナショナリズムといった問題がテーマとして取り上げられましたし、国境を越える社会運動に関する報告もいくつかなされています。それを踏まえて、今回の10回目の大会では、文化や思想といった広い意味での「知」のあり方を手掛かりに、トランスナショナル・ヒストリーの視角から戦後日本を再考したいと思います。
 歴史的にみても、質量をもたない「知」は、モノやヒトと比べて、容易に国境を越えてきました。しかし、古代以来の「先進」国・地域から「後進」国・地域への文化や思想の移動にとどまらず、近年、世界大の知的空間・ネットワークが形成されつつあります。とりわけ、科学・技術などの領域においては、専門家による知識共同体(epistemic community)が出現し、国際機関や各国の政策に影響を及ぼしているといわれます。こうした「知」のグローバリゼーションを踏まえ、戦後日本を主たる対象として検討を試みるのが、この大会のねらいです。
 午前は「マルクス主義と戦後日本の知的状況」をテーマとします。戦後日本の「知」のあり方に大きな影響を与えた思想の一つとしてマルクス主義を挙げるのは、正当なことだと思われます。それは、いうまでもなく西欧発の思想ですが、インターナショナルな指向を有し、日本で独自の発展を遂げました。トランスナショナルな「知」を考える歴史的な前提として、マルクス主義が戦後日本でいかなる意味を持ったのかについて、その国際的な性格に着目しながら分析したいと思います。
 午後は「知のトランスナショナル・ヒストリー」と題して、比較的近い時代について考察を加えます。具体的には、経済、性、平和をめぐる「知」が取り上げられます。グローバルな「知」の日本での受容とその特質、日本における知的状況の変化と日本からの発信、グローバルな知的空間・ネットワークのあり方とその日本での位置などが、主要な論点になると思われます。また、水平的イメージを持つトランスナショナルな現象に潜む、世界的な権力関係が浮き彫りになるかもしれません。

◆開催日と場所

2011年12月10日(土)、専修大学神田キャンパス 7号館731教室

会場までのルートは 専修大学交通案内 http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/campus_info/kanda_campus/kanda_campus_index.html を参照してください。

◆プログラム

10:00 - 受付開始
10:30 - 10:50 総会

午前の部「マルクス主義と戦後日本の知的状況」
11:00 - 13:00
司会者
源川真希氏(首都大学東京)
報告者
加藤哲郎氏(早稲田大学)
崎山政毅氏(立命館大学)
討論者
安田常雄氏(国立歴史民俗博物館)

休憩
13:00~14:00

午後の部「知のトランスナショナル・ヒストリー」
14:00~17:00
司会者
植村秀樹氏(流通経済大学)
報告者
黒崎輝氏(福島大学)
金富子氏(東京外国語大学)
伊藤正直氏(東京大学)
討論者
岩崎稔氏(東京外国語大学)
五野井郁夫氏(立教大学)

懇親会
17:30 -

※資料代:500円


報告要旨

日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか

加藤哲郎(早稲田大学)

 1954年8月30日、民主主義科学者協会歴史部会編『世界歴史講座』の最終第6巻が、三一書房から刊行された。第5巻「戦争と内乱——第一次世界大戦とローザ・ルクセンブルグ」「搾取のない国の誕生——1917年のレーニン」「革命いまだ成功せず―孫文とその時代」から20世紀に入り、第6巻は「ソ同盟と第二次世界大戦の到来——スペイン内乱より独ソ戦争開始まで」「すべての目から涙を―ガンジーとネールとインド民衆」「全世界は叫ぶ、アメリカは朝鮮から手を引け―植民地主義の終焉」と展開する、当時の日本マルクス主義による同時代史、民科風「世界史」である。

 最終巻最終章は、鳥居広「現代と原子力——平和は話し合いで」であった。その最終章は「7 水爆時代——人類絶滅の危機」で、1953年12月8日国連総会でのアイゼンハワー米国大統領演説Atoms for Peace を「ニュールック戦略」と名付け、54年3月ビキニ水爆実験、第5福竜丸の「死の灰」、ストックホルムアピール、ベルリン・アピール以降の平和運動・原水禁運動も言及された。その末尾「あとがきに代えて」は「ソ同盟の原子力発電所完成に寄せて」と副題された。「原子力の平和的利用という歴史的な栄冠がソ同盟の手におちたということは決して偶然ではない。それは、科学技術を最大限の利潤をもとめるための手段としてしか使うことを知らぬ帝国主義に対して、科学技術を国民の福祉の増進のために使おうとする社会主義の体制の優位を事実をもって示した」と、それまでの全人類史・世界史が総括された。

 ちょうどこの頃、日本の高度経済成長と政治の「55年体制」が始まろうとしていた。保守傍流の中曽根康弘・正力松太郎が仕掛けたAtoms for Peace日本版、原子力基本法から原子力発電の流れが始まった。原発は2011年3月11日「フクシマの悲劇」まで、日本マルクス主義の流れから原理的に批判されることはなかった。同じ頃、「ヒロシマ・ナガサキの悲劇」に発する原水爆禁止運動が出発したにもかかわらず。むしろ原水禁運動・平和運動の中では「原子力の平和利用」が分裂の一因となった。なぜだったのか?

 報告では、日本マルクス主義の「原子力」観を、核をめぐる情報戦の視点から1945-54年の占領・朝鮮戦争期、1955-73年の原発導入期における「社会主義の核」幻想の崩壊、1974-89年の原発確立期の「反原発運動」への態度、1990-2011年の「安全神話」とその崩壊期に分けて、それぞれの時期の理論的思想的特質を概観する。世界を4大矛盾(資本対賃労働、帝国主義対被抑圧民族、帝国主義国家間、資本主義対社会主義体制)・3大革命勢力(労働者階級、反帝民族解放運動、社会主義国家体制)からみる「資本主義の全般的危機」論での「帝国主義対平和勢力」評価が「原子力の平和利用」「社会主義の核」幻想を産んだが、後に「科学的社会主義」と命名される科学主義が、それを下支えした。さらにその根底にある経済還元主義、生産力主義、共産主義社会像、武谷三男の役割などについても、可能な限り言及する予定である

「研究」と「運動」の距離:マルクス主義と戦後日本の知的状況

崎山政毅(立命館大学)

 このセッションで私に求められていることは、一定の範囲での戦後「マルクス主義」にかかわる問題の提示であろう。この際の「一定の範囲」とは、党派運動・学生運動・労働運動との具体的な関係や社会的距離において画定されるべきものであり、一般的な規定ではない。以下、問題の範疇を粗雑だが「研究」「運動」に区切り、それぞれのトピックスを挙げ、現時点での課題へとつなげたい。

 また、付け加えておかなければならないことは、「六全協」(1955年)に至る過程での朝鮮人共産主義者の日本共産党からの排除を帝国の残滓たる「国内」的起点とし、ソ連共産党(ボ)第20回大会(1956年)でのフルシチョフによる秘密報告(第1次スターリン批判)を「国際」的起点におく、「即時史immediate histories」的経過を取り扱う点である。

①研究

 「雪解け」からはじまったマルクス研究の深化と、国際情勢を反映した「複数のマルクス主義」の紹介と解釈。さらに68年からの情勢を背景とした廣松渉や花崎皋平らによる初期・中期マルクス研究や、平田清明ら「市民社会派」の中期マルクス研究、英独仏における「初期社会主義」の比較研究・「1848年革命」研究・「ヘーゲル左派」研究をもとにしたマルクスの批判(的位置付け)の社会史的拡張。この過程で(とくに中世史研究をつうじて)マルクス主義歴史学の後景化が起こっている。

 レーニン批判を基礎とする「国家論ルネッサンス」(70年代末)の紹介は、グラムシ『獄中ノート』大月書店版(1981年、日本共産党の内部粛清で第1巻で途絶)などと共鳴しながら進んだが、80年代半ばまでに頓挫。同時期に大谷禎之介による逸早い「利子生み資本」草稿の読解(81~90年→MEGAⅡ-4-1/2, 1993)など、マルクス文献学は着実にすすんだが、基本的にアカデミズム内部に終始。

 90年代以降のアルチュセールの再登場。またA. ネグリやJ. ホロウェイの翻訳・紹介は「アカデミック・ジャーナリズム」の中での流行(←「ニューアカ」・「マルクス葬送派」あたりからの現象か?)によっていた。後者は、複数小文字の「アナキズム」の求める「非レーニン(E. パシュカーニス、ローザ、A. パンネクック)」「素朴疎外論的マルクス」といった内容に終始している。

②運動

 反スターリン主義の志向性からのいわゆる「新左翼」の登場が画期をなす。日本トロツキスト連盟(57年)、共産主義者同盟(第一次、58年)、そして「日本のこえ」分派など。しかし、それぞれの組織においては高学歴エリートが主流を占め、その組織性はスターリン主義の桎梏を脱せないか、大衆直接行動主義の先鋭化を代替物とするようなものだった。

 ある種の「訓詁的原理主義」の恣意性と左派のイニシアティヴを争う主観的規定(60年代初頭に日本帝国主義が成立といった)とのアマルガムのもと、宇野派的な「(実践を)欄外に置く」ことを根拠にした無理論の跋扈と「綱領」論争をはじめとする不毛さと、その対極にある党派暴力。第三世界「主義」の極北化と第三世界への無知・軽視の併存。

 全共闘運動をめぐる諸力(「68年」は革命か?)からは積極的な戦闘的無党派が登場したが、「いわゆるマルクス主義」への距離感は大きく、研究との懸隔はますます拡大していった。フェミニズム(80年代半ばまではリヴ)を含む、多様なシングル・イシューの連携を望むも、課題並列では克服しえない問題の登場(グローバルな金融資本主義の動き・ネオリベラル的労働ヒエラルヒーの形成・農業の周辺化と疲弊)。

 では、われわれにとっての同時代史的課題とは何なのか?

日本における核抑止の受容と抵抗
――核兵器との共存を拒んだ日本の科学者 1954‐1975年――

黒崎輝(福島大学)

 本報告が取り上げる「知」は、核兵器の出現を受けて生まれた戦略思想「核抑止」である。冷戦時代、東西両陣営の多くの国々では核兵器が国家安全保障に不可欠な抑止力とみなされ、米ソ間の相互抑止によって世界の平和と安定が保たれることが期待された。熾烈な核軍備競争が繰り広げられ、核戦争の恐怖が世界に暗い影を落とし続けるなか、人類は核兵器と共存することに馴化する。とはいえ、このような時流に抗おうとした人々が存在しなかったわけではない。本報告は、日本でいち早く核抑止論批判を展開した湯川秀樹と朝永振一郎を中核とする科学者グループに焦点を合わせ、日本における核抑止の受容と抵抗を考察する。これは、「被爆国」日本の歩みをトランスナショナル・ヒストリーの視点から問い直す試みでもある。

 課題は二つある。まず、湯川・朝永らの活動を追いながら、その核抑止論批判の形成に国内要因のみならず、トランスナショナル要因も作用していたことを明らかにする。それは、湯川・朝永らが、①パグウォッシュ会議として知られる科学者国際組織との関わりを通じて、軍備管理研究や戦略研究の先端的な議論を学んでいたこと、②日本人科学者として、第5福竜丸事件を契機に日本社会で醸成された反核感情を共有していたこと、そして③パグウォッシュ会議の起源と言われる「ラッセル=アインシュタイン宣言」と日本国憲法の平和主義に通底する、脱軍事・脱国家主義指向の安全保障観に共鳴していたことである。1960年代中葉までにパグウォッシュ会議で「最小限抑止」の実現を当面の軍縮目標とする考えが支配的になる一方、湯川・朝永らは核抑止論批判を展開し始めるが、そうした諸要因に光を当てることにより、パグウォッシュ会議のような「知識共同体」を通じた「知」の受容過程の複雑な様相も浮き彫りにしたい。

 もうひとつの課題は、日本社会やパグウォッシュ会議で湯川・朝永らが果たした役割の検討である。1960年代から1970年代にかけて湯川・朝永らは核兵器の廃絶を訴え、その障害となる核抑止論を批判し続けた。その一方で日本政府は、他の西側諸国政府と同様に国家安全保障の観点から核抑止概念を受け容れ、米国が提供する核抑止力、いわゆる「核の傘」の下で日本の安全を確保する姿勢を強めていった。1968年初頭には佐藤栄作首相が核四政策を表明し、「核の傘」依存は日本政府の「宣言」政策になった。驚くことではないが、湯川・朝永らの核抑止論批判に現実政治を変える力はなかったし、日本社会やパグウォッシュ会議における彼らの影響力は限られていた。本報告は、その原因を探りながら、むしろ湯川・朝永らが日本社会とパグウォッシュ会議において特異な存在であった点に注目する。彼らは核抑止論の知的ヘゲモニーに挑戦を続け、普遍的な訴求力をもつ「反核の論理」を築いたのである。核時代の終わりが見えない今日、湯川・朝永らの足跡を振り返る意義もここにある。

戦時性暴力とグローバルな〈記憶〉の共同体

金 富子(KIM Puja)(東京外国語大学)

 今年は、1991年8月に韓国在住の元「慰安婦」である金学順が歴史的なカミングアウトをしたのち、同年12月に来日して日本政府を相手に補償を求める裁判を起こしてから20周年に当たる。そもそも前年である1990年に、韓国女性運動とそれに促された日本の女性運動によって、「慰安婦」問題の解決を求める運動はすでに始まっていたが、性のからむ問題ゆえに被害をうけた当事者が名乗りでないまま運動が行われていた。日本政府も「民間業者が連れ歩いた」という1990年6月の政府答弁の立場を変えていなかった。しかしこれを聞いた金学順が立ち上がる決意をして証言を始めたことから、日本敗戦後から半世紀もの間、封印されてきた〈記憶〉の歯車が動き出したのである。

 金学順と彼女に続くアジア各国の被害女性の証言によって具体的で多様な性暴力被害のあり様が明らかにされ、加えて研究者・市民の協働により公文書史料の発掘、加害兵士の証言発掘、「慰安婦」など戦時性暴力訴訟が行われた。そして、それらに促されたジェンダーの視点による歴史的事実や国際法の見直しにより、封印された〈記憶〉と従来の「知」に対する画期的なパラダイムシフトが起こり、「慰安婦」制度は「性奴隷制」、「処罰されるべき女性に対する戦争犯罪」であるというグローバルな〈記憶〉の共同体がつくられていった。さらに被害者が求める真相究明と法的責任への対応を通じて、研究者・市民のグローバルなネットワークが形成された。それらの集約が2000年12月に東京で開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」と判決文、2007年のアメリカ下院本会議、オランダ下院本会議、カナダ下院、欧州議会本会議(加盟27ヵ国)による「慰安婦」問題謝罪要求対日決議であった。

 このように「慰安婦」問題をめぐってグローバルな〈記憶〉の共同体が新しく形成された一方で、〈記憶〉をめぐって国際社会と日本社会(とりわけ保守派)との内外格差が浮き彫りになった点は見逃せない。

 報告では、1990年代の被害女性のカミングアウト以降、戦後半世紀の凍りついた〈記憶〉がどのように溶け出してグローバルな〈記憶〉になっていったのか、その経緯と背景、意義、そして日本社会の〈知〉のあり方について、みていきたい。

グローバル化と新自由主義

伊藤正直(東京大学)

 1970年代初頭の二つの危機、通貨危機と石油危機は、それまでの調整可能な固定相場制としてのIMF体制を崩壊させたが、これを画期として、戦後資本主義世界経済とくに先進資本主義諸国の安定的持続的高度成長は終焉した。そして、この高度成長の終焉のなかで、それまでの先進国経済の成長と安定を支えてきたとされるケインズ的総需要管理政策への批判が噴出し、以後40年近くにわたって、マネタリズム、サプライサイダーズ、合理的期待といった反ケインズ主義経済理論が、先進国経済政策における政策理念の基礎、政策イデオロギーの基礎に置かれるようになった。

 1979年からのサッチャリズム、81年からのレーガノミックス、同じく81年からの中曽根臨調・行革は、その内部にかなりの差異を含みながらも、いずれも、小さな政府、規制緩和、民間活力、効率性と合理性などをスローガンとして、「官」に対する「民」の優位、「政府の失敗」に対する「市場の規律付け」の優位を強調した。80年代後半の一連の東欧革命とソ連崩壊、中国、ベトナムにおける社会主義市場経済、ドイモイの推進も、経済計画や政府の役割に対する市場の優位を示しているようにみえた。この間、82年の中南米危機、90年代初頭の北欧金融危機、97年のアジア通貨金融危機と一連の国際金融危機が連続的に発生したが、そこで主張されていたのも、やはり、市場化の不徹底、身内資本主義という不完全・不健全なシステムこそが危機を引き起こしたというものであった。

 しかし、2008年9月に勃発したリーマンショックは、こうした見方に強烈な反省を迫るものとなった。もっとも市場規律が働き、効率的で合理的な市場であるはずのアメリカにおいて、激しい金融危機が発現したからである。そして、この金融危機に際して、アメリカが実施した危機対策は、それまでアメリカやIMFが強く批判してきたもの、そのものであった。市場原理主義への批判が登場し、政府の役割についての見直しが行われ、脱規制(de-regulation)から再規制(re-regulation)への転換が、ようやく始まったかのようにみえる。

 だが、ことがらはそれほど単純ではない。1980年代から急速に進行した世界経済のグローバル化の歯車は、リーマンショックによってその向きを反転させただろうか。脱規制から再規制への転換は、市場経済の世界的浸透と拡大を押しとどめただろうか。答えは、いずれも否定的である。登場しているのは、1980年代とは一段質を異にした新自由主義であり、それへの批判である。必ずしもベンサム的功利主義に立たないリバタリアニズム(さしあたりはロールズ)と、中間的共同体を柱に公共圏の再構築を図ろうとするコミュニタリアニズム(さしあたりはサンデル)の対抗といってもよい。震災・原発災害からの復旧・復興・再生案においても、この対抗は鋭く現れている。

 報告では、2008年9月以降の状況を前提としつつ、1970年代以降の新自由主義の展開過程をトレースすることを主たる課題としたい。