2012年度大会「同時代史をどうみるかーーさまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」

◆主旨文

 同時代史学会は、歴史学、政治史、経済史、思想史、国際関係史、労働史等等、学問的なディシプリンを少しずつ異にする分野の研究者が集まって、同時代の日本と世界を歴史的にとらえようとしてきました。発足以来、大会や会誌を通して一定の研究成果をあげてきたと自負するものですが、近現代の日本を直接のフィールドとする人びとが、史的な考察を行うところに、相対的に大きなウエイトが置かれてきました。
 今回の大会では、向き合う方向を逆にして、日本の近現代を直接の専門的な対象とはしていない人びとが、同時代史、わけても日本のそれをどのように考えるのか、考えてきたのか、そこに焦点をあてることとしました。
 いわゆる外国史研究、ならびに日本の前近代史研究を専門とする人びとは、同時代の日本を強く意識しつつ、自らの専門とする地域、時代の歴史像を造ってきました。その背後にはそれぞれの人が生きた、生きてきた日本の同時代史像があるわけです。これらの人びとの問題関心や問題設定の仕方には、同時代、とくに日本のそれを歴史的に考察しようとする全ての人にとって、示唆的な論点、とくに自省のための視点が数多く含まれていると考えられます。
 このような理解から、今回の大会では、次の方々(敬称略)にパネリストをお願いして、表題のテーマを議論することとしました。


森建資(イギリス、労使関係)
南塚信吾(ハンガリー、世界史)
小谷汪之(インド、近代社会)
久保亨(中国、現代史)
荒野泰典(前近代日本、国際関係)

 パネリストの方々には、1 どのような歴史的な背景と問題関心とから、それぞれの対象に接近してきたのか、2 同時代の日本において自らの研究課題をどのように位置づけてきたのか、これら2つの点を中心にそれぞれ話してもらい、それをふまえて会場の参加者と共に議論していきたいということを伝えました。その際には、冷戦、民主主義、社会主義、経済成長、グローバル化といった用語を意識してほしいということと、日本の同時代を直接の対象とした歴史研究(日本現代史とか戦後史などと一般には呼ばれています)をどのようにみてきたのか、できるだけ批判的にコメントしてほしいということを要望しました。
 会員のみなさんの積極的な参加をお願いします。
                                モデレーター 三宅明正

◆開催日と場所

2012年12月8日(土)、千葉大学西千葉キャンパス・人文社会科学系総合研究棟1階

千葉大学西千葉キャンパスまでのルートは 千葉大学交通アクセス

会場の人文社会科学系総合研究棟は、千葉大学西千葉キャンパスマップを参照してください


◆プログラム

9:30 - 受付開始

午前の部「自由論題」(人文社会科学系総合研究棟1階の4つの教室)
10:00 - 12:00
総会(人文社会科学系総合研究棟1階マルチメディア講義室)
12:00~12:30

休憩・昼食
12:30~13:30

午後の部・大会企画「同時代史をどうみるかーーさまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」(人文社会科学系総合研究棟1階マルチメディア講義室)
13:30~17:00

懇親会(人文社会科学系総合研究棟2階グラジュエイトラウンジ)
17:00 -

※資料代:500円

自由論題第1グループ要旨

1.「からだ」と「わざ」の米軍慰問――戦後芸能史断章

青木深 一橋大学学生支援センター特任講師

 占領期から1950年代後半にかけて、日本「本土」各地におかれた米軍基地や接収建物では、日本の音楽家・芸人による米軍慰問が行われた。そのうち、ジャズバンドなどによる音楽演奏に関しては比較的知られているが、バラエティ・ショーの実態は不鮮明なままである。戦後の米軍慰問では、奇術、太神楽、アクロバット、綱渡り、足芸、糸あやつり、自転車曲芸、舞台漫画、各種ダンス、スポーツ(体操やボクシングなど)、楽器ソロや歌唱など、さまざまな芸を組み合わせたバラエティ・ショーが行われた。日本語を解しない米軍将兵を観客としたこれらの芸は、言葉による演技を主として客を楽しませるものではなく、身体と道具を駆使した演技で客を楽しませるという点で特徴的である。本報告では、占領という特殊な状況下で発生した米軍慰問のバラエティ・ショーの実態を解明しながら、戦後日本の芸能史の一断面を明らかにしたい。

2.教育勅語の戦後的再解釈とその受容

長谷川亮一

 本報告では、主として戦後において神社神道関係者や政・財界人などが教育勅語の擁護・再評価を目的として作成し流布させてきた、教育勅語の各種「現代語訳」および解釈書等について、その内容について検討するとともに、その流布状況についての検討を行う。1970年代に明治神宮が流布させた、いわゆる「国民道徳協会訳」に典型的に見られるように、こうした戦後の教育勅語解釈においては、徳目条項が道徳の基本として強調される一方で、天皇が臣民に対して下す言葉、という勅語本来の性格をほとんど無視するような意図的読み替えがなされる傾向がしばしば見られる。こうした意図的読み替えの分析等を通じて、戦後から今日に至る天皇制・国体論に対して教育勅語が持った意味を検討する。

3.中国文化大革命と日本知識人 ―菊地昌典と新島淳良の場合―

黄芳 大阪大学 国際公共政策研究科 博士後期課程

 1966 年中国社会主義の「新しい発展段階」として発動され、十年後に四人組の逮捕で劇的な幕を閉じた文化大革命は、1981年に中国では全面否定された。文革について、日本の新聞や論壇は当初から強い関心を寄せたが、本報告では、文革を熱烈に支持した知識人たちの代表として二人の人物をとりあげ、その文革論の軌跡を跡づける。一人はロシア政治研究者の菊地昌典で、もう一人は中国研究者の新島淳良である。結論をいえば、かれらの文革理解は、文革の大衆動員やそのスローガンのなかに自分たちの社会主義の理想を読みとり、その逆の側面として、文革の実態に即した負の側面を見落としており、多くの誤解があったことは否定できない。しかし菊地や新島の理解(あるいは誤解)は、決してかれらの個人的な事情に帰すことができない側面がある。本報告は、この二人に代表される日本知識人の文革の理解に、戦後日本の精神史の重要な一面を読みとろうとする試みである。

自由論題第2グループ要旨

1.戦後史における福井震災の記憶〜震災と戦災の記憶の関係性を中心に〜

高野宏康 国立歴史民俗博物館 機関研究員

 1948年に起こった福井震災をめぐる記憶は、GHQ占領下であったこと、また福井空襲後の戦災復興過程に発生したことにより、戦災の記憶とは複雑な関係にある。本報告では、震災と戦災の記憶の関係性に着目し、ナショナルなレベル、ローカルなレベルの表象・実践を共に分析することで、戦後史における福井震災の記憶のあり方を考察する。

 マスメディアや行政の公的な記念行事では、震災後の近代的な都市計画による福井の発展や防災が強調されがちであるが、戦災補償や福井震災後に制定された公安条例の問題、都市計画を担った熊谷太三郎市長が後に積極的に原発を推進したことはほとんど言及されない。震災・戦災の負の側面も含め資料蒐集や展示を行ってきた文化運動団体の活動、各地の復興観音での慰霊行事を中心に、震災・戦災をめぐる多様な記憶を包括的に継承してきた地域社会を視野に入れることで、福井震災の記憶の多様性が浮かび上がってくる。

2.高度成長期の衣服産業の展開ー東京立地製造卸業者の群像ー

柳沢遊 慶応義塾大学

 本報告の課題は、東京のワイシャツ・紳士既製服製造業者の動向を、高度成長期の都市型衣服産業の発展構造に位置付け、彼らの経営の盛衰を規定した社会的経済的条件を解明することである。仕入問屋の選定、下請縫製業者の育成、自家工場の建設、販売先の開拓、末端市場における「流行」の把握、下請・自家工場労働者の賃金引上げ要求など、彼らの発展にあたり、クリアしなければならない制約要因は、複数あり、しかもその内容は、刻々と変化していた。岩本町や日本橋に集積した衣服生産問屋は、こうした環境にいかに対応しようとしたのであろうか。本報告はそれを明らかにし、高度成長期の都市型衣服産業史の端緒を切り開くものである。

3.戦後の思想としての青年会議所活動

柿田肇 大阪大学大学院 文学研究科 日本学研究室 博士後期課程

 青年会議所は40歳未満の会員による国籍・性別・職業を越えた社会活動団体である。男性の比率が非常に高く、また経済人を自認する中小企業家が目立つという特色をもつ。日本の青年会議所活動の端緒は1949年の東京青年商工会議所創立で、まさに日本の戦後史と軌を一にしてきた。各会議所は自治体単位で設立され、「街づくり」など地域に即した活動の他、会員研修、さらに例えば60年代に「福祉国家建設」を提議するなど、資本制の適正化を前提に会員間で国家や体制の議論を重ねてきた。他方で外部からは2世経営者の社交場のように揶揄されることも多かった。彼らの実業家的な実践知と批判性を欠く国民国家観の混在する活動に高次の運動理論の不在を指摘することはたやすい。だが多層的に戦後の公共圏に関与しながらも思想的前衛でなく民衆史の対象でもなかった青年会議所活動からは保守/革新という構図を越えた複線的な思想・戦後史叙述の可能性が見いだされる。

自由論題第3グループ要旨

1.沖縄米軍基地の「固定化」過程―沖縄返還実現前後を中心に

野添文彬 一橋大学大学院法学研究科特任講師

 今年は沖縄施政権返還40周年だが、普天間基問題をめぐる動向に示されるように、沖縄への在日米軍基地の集中は、日米安保体制や日本の安全保障政策にとって大きな問題であり続けている。そしてそもそも沖縄返還が実現した1970年代初頭は、沖縄に在日米軍基地の約75%が「集中」し、「固定化」するという状況が形成された時期でもあった。この時期、日本本土の米軍基地が削減される一方で、沖縄の米軍基地はほとんど維持されたからである。従来の研究は、1969年の沖縄返還合意に至る日米交渉過程に関心を集中させ、それ以降の政治過程は研究上空白だった。これに対して本報告は、1970年代前半、ニクソン・ドクトリンや米中接近といった東アジア冷戦の変容や、コザ騒動などの沖縄現地情勢の中で、日米両政府によって沖縄基地削減が検討され、しかしそれが挫折するに至る過程を分析し、沖縄米軍基地「固定化」過程の重要局面を明らかにする。

2.1960年前後の日中建築界の学術交流とその影響 -建築学者西山卯三を中心に

三村達也 千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程

 本報告では、建築学者であり、庶民住宅研究の第一人者でもある西山卯三を中心とした日本建築界が1960年前後の中国に如何なる影響を及ぼしていたのかに焦点を当てることで、新たな史実を明らかにしたい。特に、1960年代の冷戦構造に変化に伴う中ソ関係の悪化で、それまで友好的だった中ソ間の距離が広がり、それと対照的に中国は日本建築界に触手を伸ばす。従来の研究史では1960年当時は中ソ間のみの関係に焦点が当てられ、日中間の建築界の関係や、またその関わりによって生じた影響には全く関心が向けられてこなかった。本報告では、そうした1960年前後の日中間、特に双方の建築界の関わりに関して建築学者西山の動向を中心において考察する。そうすることで、これまで中ソ関係一本であった中国建築界に対して、日本建築界がそこに如何なる働きかけを行い、どのような影響をもたらしたのか、或いはそれを中国側がどう受け止めたのかが明らかになるはずである。

3.米国の文化外交から見た同盟国内の反米感情への対応

山本章子 一橋大学大学院社会学研究科博士課程

 アイゼンハワー政権は同盟国重視の外交政策をとったというのが通説であるが、その内容は主に同盟国との軍事的負担分担の文脈で議論されてきた。本報告では、同政権の同盟国向けの文化外交を取り上げ、米国が同盟国内の反米感情に危機感を持ち、どのように対処したかを分析する。具体的には、西欧諸国と日本に対する文化外交の特徴を比較し、以下の違いがあったことを明らかにする。すなわち、西欧諸国に対しては、米国文化の流入に強い反発が起きたことから、ヨーロッパの伝統文化の分野でも米国の優位を証明することで、反米感情を解消しようとした。一方、日本に対しては、ヨーロッパ文化に対する長年の憧憬を考慮せず、ひたすら米国文化の摂取を奨励することで、親米化を促進しようとした。対同盟国文化外交における共通点としては、「米国優位」が、相違点としては、西欧諸国に対しては「理解」、日本に対しては「教育」が特徴となっていたといえる。

自由論題第4グループ要旨

1.現代における「行旅病人及行旅死亡人取扱法」の示す問題点

小川信雄

 現行法令の行旅病人及行旅死亡人取扱法(1899年3月)は恤救規則(1874年)、軍事援護法(1917年公布)、救護法(1929年公布)とともに近代日本の救貧法のひとつであった。近現代日本の救貧・社会政策は、大沢真理『イギリス社会政策史 救貧法と福祉国家』が近代救貧法から福祉国家へ移譲された重い社会的責務の一端であると指摘した、"right 〔of the poor〕to relief"という認識は基本的に存在しない。現在、「貧困者」自身が扶助・救済を求める権利を持つことについて、政治・社会の認識は希薄である。戦後の公的扶助=生活保護法の受給資格にある「親族扶養優先の原則」は生活保護バッシングを生む土台になっている。Right of relief の認識のないことは、行旅病人及行旅死亡人取扱法が、法成立の当初にあった慈恵的な意味すらもなく、氏名や来歴など不詳のまま、摩滅し、行き倒れる、絶対的貧困以下の人々を、ただ処理するだけの法となっていることにつながっている。

2.所有をめぐる政治 ―「外国人の財産取得に関する政令」(1949年)を事例に―

安岡健一 同志社大学大学院 グローバル・スタディーズ研究科 日本学術振興会特別研究員PD

 あらゆる「もの」が商品化されて所有権が設定され,それが帰属する主体が問題となることに現代政治の一つの焦点がある.敗戦後,経済復興を目的とする外国資本の導入は片山政権以来課題となり芦田政権によって強力に推進されたが,それと並行して在日外国人による財産所有への制限が実施された.このことはとりわけ旧植民地出身者及び戦前来日本に滞在する華僑にとって深刻な問題となり,制度の是正を求める運動が生じた.開国期の居留地制度から1925年の外国人土地法に至る,帝国時代の所有をめぐる政治がこの時期に大きく展開したのである.本報告は,戦後日本において「誰が」「何を」所有する権利があるのかが争われた過程を捉えるという観点から,1949年3月に制定された「外国人の財産取得に関する政令」を事例に,政策の概要と人びとの運動について検討することを目指すものである.