2018年度大会「転換期としての1990年代」

日時
2018年12月8日(土) 10:00~17:00(9:30受付開始)
会場
関西学院大学上ケ原キャンパスF号館(最寄り駅:阪急線 甲東園駅からバス約5分 ほか)
全体会:「転換期としての1990年代」(13:30~)
井手英策(慶應義塾大学経済学部)
日本経済の歴史的転換、そして分断社会へ
進藤 兵(都留文科大学文学部)
開発主義国家から新自由主義国家へ――分水嶺としての1990年代 ※中止
大澤 聡(近畿大学文芸学部)
理論の死と「のっぺりした世界」――1990年代日本の文化状況
コメンテーター
菊池信輝、高岡裕之
自由論題報告(10:00~)
  • 長志珠絵「方法としての占領期神戸:神戸ベースとキャンプ神戸のあいだ」
  • 川口悠子「戦後広島市の外資獲得政策と在米日本人への働きかけ:「破れた国」にとっての「移民」の意味」
  • 片岡英子「映像作品からみる1950年代のBC級戦犯の「責任」:『私は貝になりたい』と『壁あつき部屋』」
  • 松田ヒロ子「自衛隊の民生支援活動:1950~60年代を中心に」
  • 直野章子「原水爆禁止運動分裂期の被爆者運動」
  • 韓昇憙「東アジア冷戦と植民地主義批判:日本朝鮮研究所と日本共産党の思想的対立を中心に」
  • 古波藏契「60年代前半の沖縄におけるアメリカの経済広報活動:アメリカ・ビジネスというアクターを導入する」
  • 髙木眞澄「アメリカ式住宅生産システムの移転に伴う大工の再定義」
  • 野口侑太郎「自民党政治家は「政治改革」の意味内容をどのように捉えてきたのか?:1980年代前期・中期における行政改革の進展を手がかりに」
  • 三宅明正「個人が収集した歴史資料の共同利用に向けて」

※当初予定から若干の変更があります。(2018年12月7日追記)

報告要旨

日本経済の歴史的転換、そして分断社会へ

井手 英策(慶應義塾大学経済学部)

 本報告は、1990年代後半における日本社会の歴史的な転換の実態とその帰結について、財政社会学の視点から解き明かしていく。
 報告者は、日本型福祉国家の特徴を「勤労国家」として定式化した。勤労国家は、一方には大恐慌期に形成された総額重視型の大蔵省統制が存在し、他方には勤労、倹約、そして貯蓄によって生存と生活を維持する自己責任モデルが存在した。だが、1990年代後半の経済財政構造の転換によって、勤労国家は機能不全に陥ることとなる。
 1990年代の後半でもっとも注目すべきは、資金循環構造が大きく変化したことである。戦前来、資金不足部門だった企業は、金融機関への債務の返済とキャッシュフロー経営への転換をすすめ、資金余剰部門へと転じた。これと軌を一にして、雇用の非正規化、可処分所得の連続的な減少が始まり、将来不安に怯えた人びとは、消費を抑え、持続的な物価の下落へと結びついていった。いわゆるデフレスパイラルである。
 一方、総額重視型の大蔵省統制と自己責任モデルの結合は、普遍的利益を軽視した、個別利害の集積としての財政を作り出した。1995年の財政危機宣言とともに、小渕恵三内閣期の上方屈折を挟みながらも、政府は緊縮財政へと大きく舵を切っていくこととなる。こうして、どの予算から歳出を削減していくかという政治闘争が開始され、歳出削減と経済成長とを結合させた新自由主義イデオロギーが日本社会に深く浸透していったのである。
 財政による生活保障機能の弱体化、ニーズからの乖離は、所得格差を拡大させ、同時に、歳出削減をめぐる「犯人探し」と「袋叩き」の政治は政府への不信感を強めた。これに可処分所得の減少、とりわけ中間層の所得減少が重なることで、低所得層に対する社会的寛容も消失することとなった。その結果としてもたらされたのが「分断社会」だった。

参考文献

開発主義国家から新自由主義国家へ――分水嶺としての1990年代

進藤 兵(都留文科大学文学部教員)

※進藤兵氏の報告は事情により中止となりました。以下には当初予定されていた要旨を掲載します。(2018年12月6日追記)

 本報告の目的は、資本主義国家理論を用いながら、1989-2008年の日本政治――1996年で大きく区切られる――を素描してみることである(B. Jessop, The State, Polity Press, 2016 を参照)。①戦後日本政治は、「戦後憲法体制」の形成(1945-48)→復古型国家構想の挫折と戦後革新運動の形成(1949-60)→「戦後型開発主義国家」(1960-1989、このうち確立期1960-73→ケインズ主義的福祉国家化1973-81→新自由主義化(「福祉国家破壊型新自由主義」)1981-89)をへて、1989-96年に同国家構造の再編期をむかえた(進藤「高度成長期の国家の構造」、大門正克ほか共編『高度成長の時代1 復興と離陸』、大月書店、2010年、374頁以下、参照)。このことは、②「環太平洋トヨタ主義経済」がグローバル化・新自由主義化・産業構造転換によって「東アジア圏ハイブリッド型経済」に再編されたこと、③「企業社会」が1995年日経連「新時代の日本的経営」によって解体され、「貧困・格差社会」へと再編されたこと(中西新太郎ほか共著『1995年―未完の問題圏』大月書店、2008年;雨宮処凛『生きさせろ!』太田出版、2007年、参照)とカップリングされていた。④日本政治(および東アジア国際政治)では、冷戦終結(1989年)の影響は北米西欧圏ほど大きくなかった。1989-96年の政治再編は、政治改革(小選挙区制の導入)-自由民主党の分裂・再編―細川「非自民」連立政権―小選挙区制衆院選挙による第2次橋本政権の発足と「6大改革」の開始という経路で行われ、自・公連立政権(99年)-小泉政権(01年-)へと向かった。一方、日本の「新しい社会民主主義」は1989年(参院選、総評解散)に生まれ、1993年(衆院選)に終焉していた(北米・西欧圏について、進藤「私は新しい種類の政治に票を投じたのだ―イギリス労働党2015年党首選」、『世界』2015年11月号、参照)。それ以後の政治対抗は、新自由主義的改革派vs開発主義的守旧派vs戦後革新運動であった。1996年以後、日本政治では「新自由主義国家構想」がヘゲモニーを掌握した(~2008「全盛期新自由主義」→2008~市民社会+平和・福祉国家(憲法13+9+25条)をめざす対抗構想の登場→「経済危機以後型(危機管理型)新自由主義」への再編)(進藤「現代日本の経済危機以後型(危機管理型)新自由主義とその動揺」、『教育』2018年6月号、参照)。

理論の死と「のっぺりした世界」――1990年代日本の文化状況

大澤 聡(近畿大学文芸学部准教授)

 報告者は昨年夏に『1990年代論』(河出書房新社)という編著を刊行した。1990年代の日本社会を20ジャンルから多角的に検討した1冊である。報告者も編者として「思想」の項目を担当している。同拙稿および序文は、たとえば以下のような時代認識にもとづいて書かれた。
 1980年代までの思想は、ある意味で否定神学的な構造に支えられていた。みずからは積極的に語らずとも、それをどこかで信じる者たちを前提することによって肯定性へとくるりと反転させる。つまり、いつまでも到来するはずのない「革命」なり「最終戦争」なりを反措定することで世界秩序は保たれ、こちら側でも投機的にマルクス主義を運用することが可能だった。受容するにせよ拒否するにせよ、マルクス主義を軸にあれやこれやの理論は組み立てられ、相互のコミュニケーションが成立していた。
 ところが、1990年代に入るや、現実の社会主義体制であるソ連が解体し、東西冷戦の終結をむかえる。それとともに否定神学的な構図は機能しなくなった。それを別の側面から「大きな物語の終焉」(ジャン=フランソワ・リオタール)と呼ぶこともあれば、「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)と呼ぶこともある――これらの整理は再考の余地を残す。あらゆる個別領域に適用可能なマルクス主義というグランドセオリー(一般理論)が空洞化する。そのことは学問分野のあいだの対話を可能にする共通言語やアリーナの不在をまねき、各所のタコツボ化なり島宇宙化なりを押し進めた。それぞれが「小さな物語」の最適解を求めて汲々とする。後出しの補填として、「学際性」や「領域横断性」が声高に掲げられもしたが、多くの場合は既存学問の諸成果の上澄みを手際よくシャッフルさせるにとどまった。断片化したタコツボをどれだけ積分しようと、全体性は確保されない。世界全体を見渡す特権的な視座も消滅した。
 いつしか、思想はどこまでものっぺりした肯定性に支えられ、学問はエビデンスと社会還元を過度に重視するようになる。そうやって、おどろくほど急速にバックラッシュがやってきた。典型的な現象が、1990年代の人文・社会科学系アカデミズムにおけるカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル理論の流行だろう。本報告は、そうした1990年代のいくつかの学問領域における理論動向と、社会全体における文化状況とを立体的に接続させつつ、討議のための論点提出を行なうことに主な目的がおかれる。

自由論題報告者・報告要旨(50音順)

【名前】
長 志珠絵(おさ・しずえ)
【所属】
神戸大学大学院国際文化学研究科教員
【報告タイトル】
方法としての占領期神戸――神戸ベースとキャンプ神戸のあいだ
【報告要旨】
本報告は、方法としての「地域占領」を「神戸」を対象に検討する。占領期研究は「地域」研究が進むが、例えばGHQ/SCAP文書やプランゲ文庫は1949年を終着点とした資料群であるなど、朝鮮戦争以降の変化を組み込めていない。しかし神戸をはじめ、占領軍の重要拠点では、朝鮮戦争以降の地位協定を前提とした変化が地域に与えた影響は大きい。初期占領期にとどまらず、駐留軍の時代に接続する占領期像の検討が必要である。神戸は第8軍管轄のKobe Baseを機能させ、朝鮮戦争後はCamp Kobeへと編成替するなど、地方軍政部中心の地方占領研究とは事情を異にする。他方、「非常事態宣言」の発令など、「間接統治」が揺らぐ「地域」でもある。報告では神戸占領のしくみとその推移や地域占領としての特徴を「家族住宅」「神戸事件」、Kobe Baseに勤務した女性軍属の手紙等によって検討し、冒頭の課題を提起したい。
【名前】
片岡 英子(かたおか・えいこ)
【所属】
龍谷大学文学研究科日本史学専攻博士後期課程在席
【報告タイトル】
映像作品からみる1950年代のBC級戦犯の「責任」――『私は貝になりたい』と『壁あつき部屋』
【報告要旨】
1950年代、手記や遺書集をもとに、BC級戦犯を題材とした映像作品が製作された。『私は貝になりたい』と『壁あつき部屋』がそれである。両作品で描かれた「責任」がどのようなものであったのか、またそれは手記とはどのような相違があったのかを明らかにする。両作品は、対照的とも言える戦犯像を提示しているが、それは作中で描かれた「責任」の在り方の違いに由来していると考えられる。この「責任」の違いを定義づけし、両作品が同時代においてどのように評価されたのかを確認することで、作品を戦後日本社会の思想情況のなかで位置づける。これにより、先行研究で示されてこなかったBC級戦犯の戦争責任について論じるとともに、従来の戦争責任論の再考の一助としたい。
【名前】
川口 悠子(かわぐち・ゆうこ)
【所属】
法政大学教員
【報告タイトル】
戦後広島市の外資獲得政策と在米日本人への働きかけ――「破れた国」にとっての「移民」の意味
【報告要旨】
戦後初期、広島市・県の行政当局者や地元経済界の有力者らは、原爆の被害を受けた経済を復興させるための一方策として、外貨の獲得を重視していた。本報告では、これらの人々が在米の日本人移民、なかでも広島県出身の一世の存在をその糸口にしようとしていたことに着目する。広島県は明治時代以来日本最大の移民送出県の一つであり、米国にはハワイ準州や太平洋沿岸諸州を中心に、多数の広島県出身者が暮らしていた。
報告では、外貨獲得の有力な方法だと考えられていた輸出振興や観光客の誘致、また米国の市民や篤志家、財団に対する援助や融資の依頼にあたり、広島県出身者にどのような働きかけがなされたのかを跡づける。そして広島市の戦後史を外国社会との交流の中に位置づけ直すとともに、一世の戦後史を検討することで日系アメリカ人史研究にも貢献することを目指す。
【名前】
髙木 眞澄(たかぎ・ますみ)
【所属】
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程
【報告タイトル】
アメリカ式住宅生産システムの移転に伴う大工の再定義
【報告要旨】
 今日の日本における木造住宅について、オープン構法すなわち誰でも参照可能な建物の構成方法は、二つである。一つは在来構法(木造軸組構法)であり、柱・梁を組み合わせる従来からの建て方である。もう一つはツーバイフォー(木造枠組壁構法)で、強度ある壁面・床面で建物を構成する北米のフレーミングである。
 後者の技術移転は、アメリカ式住宅生産システムを日本に定着させる試みだった。廉価な庶民向け住宅を提供する仕組み作りを模索する日本側の関係者たちが、また一方では新たな技能に困惑しつつも新しい仕事に対応しようとする現場作業の担い手たちがいた。
 本報告では、アメリカ式の戸建住宅生産システムが日本に導入される経緯とそれに伴った町場の大工の再定義について、アメリカニゼーションの論点で考察する。焦点となる時期は、建設省が住宅産業を重視しはじめる1968年から木造新工法が一定程度定着する1970年代半ばまでである。
【名前】
直野 章子(なおの・あきこ)
【所属】
広島市立大学教員
【報告タイトル】
原水爆禁止運動分裂期の被爆者運動
【報告要旨】
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は原爆体験を結節点とした集合体の協議会であり、支持政党も思想信条も異なる人びとから成る。1956年の結成時から、核兵器廃止(原水爆禁止)と原爆被害への国家補償(原爆被害者援護法)を運動目標として掲げてきたが、50年代末から安保改正をめぐる政治闘争が激化するなか、どちらの目標に力を注ぐべきか激しい議論が交わされることになる。被爆者援護を原水爆禁止から切り離そうとする保守陣営からの揺さぶりもあり、日本原水協との関係を巡って被団協は分裂の危機にされされるが、原水爆禁止を運動目標から降ろすことなく、かろうじて統一を守り、70年代以降、国家と対立的な運動へと転換していく。本発表では、「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」がこの7年間で収集した被団協運動関連文書の検討を通して、原水爆禁止運動の分裂期における被爆者運動の組織的および理念的な抗争を描写する。
【名前】
野口 侑太郎(のぐち・ゆうたろう)
【所属】
名古屋大学大学院法学研究科博士課程後期課程
【報告タイトル】
自民党政治家は「政治改革」の意味内容をどのように捉えてきたのか?-1980年代前期・中期における行政改革の進展を手がかりに
【報告要旨】
 1945年以降の日本政治において、1990年代の「政治改革」は、2000年代以降のいわゆる首相中心の政治運営スタイルの制度的条件を提供した点において、重要な研究課題である。既存研究の多くは、「政治改革」を選挙制度改革と捉え、その狙いが腐敗防止と政権交代の実現にあったと考えてきた。
 しかしながら、「政治改革」は絶えず選挙制度改革を指す訳ではなく、この意味内容は所与ではない。そこで本報告では、「政治改革」の意味内容を、とくに自民党政治家に絞って検討する。サブ論点として、①首相のリーダーシップが関心を集め始めた、1980年代という時期、②当時の課題であった行政改革と国会改革への評価、そして③若手とベテラン議員の評価の違いに注目する。
 本報告が明らかにするのは、①行政改革が進むにつれて、国会と選挙制度の問題点が顕在化するという政治過程と、②その背後にあった自民党内での対立である。③最後に、「政治改革」の意味内容を再検討する。
【名前】
韓 昇憙(はん・すんひ)
【所属】
東京外国語大学大学院博士後期課程
【報告タイトル】
東アジア冷戦と植民地主義批判――日本朝鮮研究所と日本共産党の思想的対立を中心に
【報告要旨】
本発表は、日韓条約批准とベトナム戦争の拡大を起点に、日本朝鮮研究所(以下、朝研)と日本共産党の間に、日本の植民地主義の評価をめぐって潜在していた思想的対立が表面化したことに注目する。それが、東アジアの冷戦下における日本の植民地主義批判の試みが直面せざるを得なかった難しさをよく表していると考えるからである。
ベトナム戦争反対を運動の最優先課題とした共産党は、寺尾五郎の日朝友好運動論を、かつてのアジア侵略の歴史にこだわって現在のアメリカ帝国主義の侵略的側面を軽視していると厳しく批判した。しかし、日韓条約批准後、すぐに日本政府が民族教育弾圧を行ったことで、植民地主義批判なしに日朝友好運動はあり得ないという寺尾の主張は一層説得力を持つようになった。結局、寺尾は共産党から除名され、朝研を離れることになるが、朝研は、民族教育擁護運動に積極的に関わった日朝協会の支部員や日教組の教師たちに支えられていく。
【名前】
古波藏 契(こはぐら・けい)
【所属】
日本学術振興会特別研究員(明治学院大学社会学部付属研究所)
【報告タイトル】
60年代前半の沖縄におけるアメリカの経済広報活動-アメリカ・ビジネスというアクターを導入する
【報告要旨】
27年に及ぶアメリカの沖縄統治の中で、経済政策は、沖縄の軍事的機能を安定化させる上で極めて重要視されていた分野である。住民の社会的・経済的地位を向上させることが施政権者としての地位の正統性を調達することに資すると考えられたからである。50年代の末よりアメリカの現地当局(USCAR)は、外資導入に基づく工業化路線を打ち出し、投資環境の整備を進めると同時に、域外に向けて投資を奨励するプロモーション活動を展開した。1960年代前半、「自治神話」演説で知られるキャラウェイ高等弁務官の下で強硬な改革路線が加速すると、現地経済界には反発を生み、政界には保守分裂を惹起した。こうした同時期の米軍と住民との緊張関係の具体的な諸相に新たな光を当てるべく、本報告では、外部のビジネスにとって魅力的なマーケットとしての沖縄を整備することが現地社会にもたらしたインパクトを検討する。
【名前】
松田 ヒロ子(まつだ・ひろこ)
【所属】
神戸学院大学現代社会学部教員
【報告タイトル】
自衛隊の民生支援活動――1950~60年代を中心に
【報告要旨】
2014年度に内閣府が実施した世論調査では、「自衛隊に対する印象」について「良い」、または「どちらかといえば良い」と回答した者は有効回答数の92.2%にのぼった。そして、「自衛隊が存在する目的は何か?」との質問に対して、「災害派遣」を挙げた者の割合は81.9%と最も高く、「国の安全の確保」(74.3%)を上回った。これらの結果からも、今日の日本社会における自衛隊の意義や自衛隊と市民社会との関係を考察する上で、災害派遣を含む自衛隊の民生支援活動は極めて重要と考えることができるだろう。本報告ではまず創設期自衛隊の思想的基盤と民生支援活動との関連について考察する。さらに、自衛隊の機関紙ともいえる『朝雲』新聞の記事を資料として1950-60年代に自衛隊がどのような民生支援活動を展開したのか明らかにし、それらの意義について検討したい。
【名前】
三宅 明正(みやけ・あきまさ)
【所属】
千葉大学文学部名誉教授
【報告タイトル】
個人が収集した歴史資料の共同利用に向けて
【報告要旨】
 近年、日本の大学では教員の定年退職が相次いでいる。1940年代後半から1950年代はじめにかけて生まれた人々であり、人口ピラミッドの山をなしていた。その中には、本会の会員の多くのように、近現代の日本を歴史的な手法で研究してきた者も少なくない。
 こうした人々の研究の進め方には一つの特徴がある。従来一般には知られていなかった史資料を自ら探し出し、それらを用いて個別の実証研究を進めたことである。史資料の所蔵元は団体・機関や個人など広範囲に及ぶ。その利用によって近現代日本の史的研究は、対象の広がりと実証の精度において新しい段階に入っていった。
 しかし原本のほか筆写やフィルム、コピー等で収集された史資料は、公刊や資料館等に寄託されたりした場合を除き、一般に他者が利用できる状態にはない。本報告は、状況を俯瞰し、こうした史資料の利用を広く可能にするための一つの提案を行う。