2023年度大会「安定化させる力学とかき消されていく声――1973年以降の水俣から考える」

2023年度大会

 同時代史学会2023年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

日時
2023年12月9日(土)
会場
東京経済大学国分寺キャンパス2号館(東京都国分寺市南町1-7-34)
(総会と全体会はハイブリッド開催、オンライン参加の場合は事前申し込みが必要です)

会場校へのアクセスの基本は国分寺駅南口より徒歩(所要12分)となります。
徒歩の道順、並びにバスのご利用の仕方については、以下の東京経済大学のHPを参照してください。
アクセス https://www.tku.ac.jp/access/kokubunji/
キャンパスマップ:https://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/

タクシーをご利用の場合は、東京経済大学の「東北門」へお回りください。なお、タクシーの構内(会場建物まで)への乗り入れはできません。
参加費
無料
日程
10:00~12:00 自由論題報告(対面のみ)
12:40~13:10 総会 (オンラインによる中継を予定)
13:30~17:40 全体会(オンラインによる中継を予定)
「安定化させる力学とかき消されていく声―1973年以降の水俣から考える―」
井上ゆかり( 熊本学園大学水俣学研究センター 研究員 )
原子栄一郎( 東京学芸大学環境教育研究センター 教員 )
遠藤邦夫 ( 水俣病センター相思社 元職員 )
18:00~   懇親会

※昼食をご持参ください。
当日は土曜日のため学内食堂(生協)は閉まっており、また大学の周囲には食堂がありません。昼食については、少し歩いたところにあるコンビニでご購入いただくか、事前にご用意いただくように御願いします。もちろん、国分寺の駅前まで戻られると、食べる場所には困りません。

オンライン参加登録について(12月7日締切)

今年度の同時代史学会大会は、午後の全体会、および総会のみ、ハイブリッド開催します。
自由論題報告については、オンライン配信は行いませんのでご了承下さい。

オンラインから参加される方は、12月7日(木)までに、下記のフォームから登録して下さい。(メールニュースでご案内した申込締切を延長します)
※会場においでになる方は、登録は不要です。

 ZOOMのIDは、大会・総会の当日までに、【同時代史学会2023年大会(gakkaitaikai+2023doujidaishi ★ gmail.com)】よりお送りします。

※オンラインでの大会への参加は、同時代史学会会員、および会員の紹介がある方に限定します。
※オンラインでの総会への参加は、同時代史学会会員に限定します。


【大会参加登録フォーム】
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf2BCI67WAEZpObHdLvaOOs8G2oQ3K109tqzOfv5b6tlCMegA/viewform?usp=sf_link

全体会 「安定化させる力学とかき消されていく声――1973年以降の水俣から考える」

【趣旨文】

 本年度は1973年に水俣病第1次訴訟の熊本地裁判決が出て50年の節目にあたる。そこで、同時代史学会では、「安定化させる力学とかき消されていく声ー1973年以降の水俣から考えるー」と題して大会企画を組んだ。
 2002年に設立された同時代史学会では、すでに2008年に「消費からみる同時代史」と題して、高度経済成長期の消費生活と公害問題のあり方について論じた。また、本年度5月に開催された歴史学研究会の現代史部会では、「社会運動と環境・民主主義― 新自由主義時代の民衆像を求めて―」と題する企画が組まれている。他方、1990年代から活動を続けている水俣フォーラムがこの秋「水俣・福岡展2023」を開催したほか、今月は2013年に発足した「公害資料館ネットワーク」のシンポジウムも予定されている。
 これらをふまえ、本企画では熊本地裁判決後の「水俣」について、被害者やその家族のその後の「生」のリアルや地域社会の実像をていねいに拾いながら、「かき消されていく声」を考察したいと考えた。その含意は以下の通りである。
 ある段階で社会的に喚起されたり再喚起されたりする問題は、そのつど「安定化」させる力学にさらされ、さまざまな現場の「声」がかき消されていく。今日の原発問題をはじめ、戦争や震災からの「復興」といった過程にも、同様の現象が見られるだろう。この「安定化」に関わる動きは多元的で複合的である。加害企業や行政による動きもあれば、メディアや一般的な世論の動きもある。地域社会内部でのさまざまな人間関係によってもそれはもたらされるだろう。大量消費社会や新自由主義によって痩せ細っていく公共圏の問題もある。アカデミズムや教育現場の関与も否定できない。
 1950年代に「奇病」として顕在化した水俣病は、1959年に新日本窒素肥料株式会社(以下チッソ)の工場排水による有機水銀中毒であることが熊本大学医学部の研究班によって特定されたが、行政やチッソの妨害などから被害者の訴えは封印された。1960年代後半に全国的に反公害の機運が高まるなか、1973年の熊本地裁判決によりチッソの加害責任が確定するが、それ以後も、補償協定をめぐる直接交渉が行われたほか、環境庁(当時)の定めた認定基準をめぐる未認定患者の問題は現在も係争中である(9月27日 大阪地裁判決)。その間、「水俣病関西訴訟」で国や県の行政責任が問われるなか(2004年10月15日最高裁判決)、国家による「和解」や「救済」にむけた取り組みがある一方で、水俣では市民同士の分断を修復する「もやい直し」の試みが1990年代以降取り組まれてきた。
 そうしたなかで水俣のローカルな現状は、ともすると美化され神話化される。その傾向は、アカデミズムの良心的な研究活動にも内在しうるし、「水俣を教える」という場面においても、無視できない傾向としてあるだろう。過去の問題を現在の問題に直結させて考える「非歴史的思考」の陥穽もある。リアルな(そして歴史的な)「人間」の存在がともすれば軽視されるこれらの傾向に対して、私たちはまず、生身で等身大の「水俣」が1973年以降も存在するという当たり前の事実を再確認したいと思う。そこには、被害者同士の軋轢や葛藤も当然含まれよう。そうしたローカルな視点を見失うことで、「安定化」させる力学に対して私たちは無防備となる。今回の大会では、被害者や地域社会の実像を美化することなく提示し、「かき消される声」や「安定化する力学」の具体像を1973~1990年代を軸に検討したいと思う。
 そこでまず井上ゆかり氏には、「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」と題して、1973年以降の「かき消されていく声」の実状を、女島の漁民やチッソ労働者の視点、また現在の胎児性世代の訴訟や認定されない被害当事者の状況などを中心に紹介していただく。これまで多くの患者さんに接してこられ、「人間の営みを中心とした理論形成」を志してこられた井上氏に、さまざまな立場をふまえた生のリアルを見据え、「安定化」させる力学にさらされた現場の視点から問題提起していただく。
 また、原子栄一郎氏には、「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」と題して、ご自身が経験された研究上の転回をふまえ、「チッソは私だ」という緒方正人さんの「魂」の視点から論じてもらう。緒方さんの視点は、加害企業や行政を免罪しかねない危険性があるものの、その視点を抜きにした社会批判もまた表面的なものになりかねない。水俣病事件を環境教育として取り上げるさい、その視点をいかに活かしたらよいか。ご提案いただければと思う。
 これら2つの報告をふまえ、患者支援団体である水俣病センター相思社の元職員・遠藤邦夫氏には、本企画担当者である及川英二郎との「対談」を通して、主に「もやい直し」に至る経緯やその歴史的意義について、「集合的トラウマ」の両義的側面などに着目しながら論じていただく。活動家として、また支援者として関わってこられたご経験をふまえ、社会運動のあり方やその限界について論点を提示していただければと思う。
 「安定化」させる力学がいまもなお作動ししつづけるなか、水俣が発信する問いは何か、それはどのようにして受け止められるべきか。「水俣」を論ずるさい、「公害」一般のなかでそれを普遍的に思考する視点とともに、その固有性を注視し、個々の「人間」に立脚点を見出しながら、「公害」だけではない他の諸問題とリンクさせて思考する視点が同時に求められよう。これら2つの視点は、せめぎ合い、かつ共存することで、より生産的な知見が得られるはずである。フロアからの積極的な参加を期待したい。

報告1:井上ゆかり(熊本学園大学水俣学研究センター)
「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」

 1973年の水俣病第一次訴訟判決から今年50年を迎えた。この判決では加害責任と一時金の賠償命令のみであったため、患者がチッソと直接交渉し現在の補償協定内容になった。翌年には認定申請患者協議会が結成され、いわゆる未認定患者総申請運動が始まり、係争課題は加害責任追及から水俣病かどうかに変わっていった。こうしたなかで幾度も被害当事者は声を上げ続け勝訴し、結果として国は1996年の水俣病総合対策医療事業から2005年、2009年と3度「チッソとの紛争状態の終結」として「行政責任は今後追及しない」ことを条件に和解施策をとってきた。しかし、この和解は必ずしも被害当事者側が望んだ形ではなかった。
 2023年9月27日に水俣病不知火患者会近畿訴訟大阪地裁判決で原告全員を水俣病と認める司法判断が下された。同訴訟の熊本や東京での判決も控え、さらには第二世代訴訟、また新潟の二次訴訟も続いている。事態が長期化するのは、 訴訟で原告が勝訴すれば潜在していた被害当事者が新たな認定申請者として増加するという状況が50年も続き、その反面、地元ではこれまでの和解が「水俣病ではないのに一時金を貰っている」という地域内での差別を生み出し、申請が抑制されていたからにほかならない。
 一方、水俣市議会の議会運営委員会は2019年に水俣病問題を審議する「公害環境対策特別委員会」の名称から「公害」を外す議案を可決し、2023年百間排水口の樋門撤去工事が突如発覚し被害者団体の抗議行動が起こった。水俣市長は「ここまで注目されるという認識はなかった。」と地元新聞の取材に答えている。 権力が公害への強い圧力を示す水俣において、被害当事者が声を上げ続けることは、その声をかき消そうとする圧力との闘いでもあった。一次訴訟原告は「人間としての復権」、いまの第二世代訴訟原告は「胎児性世代、不知火海沿岸住民を代表する闘い」だと表現する。
 この報告では、故原田正純らと地域に入り調査研究をすすめてきた経験を踏まえ、漁民やチッソ労働者らの現状と「かき消す」力とは何か、さらに研究者としての中立とは何か考えてみたい。
参考:井上ゆかり『生き続ける水俣病:漁村の社会学・医学的実証研究』(藤原書店、2020年)

報告2 原子栄一郎(東京学芸大学環境教育研究センター)
「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」

 現代環境教育の世界標準は、ESD(持続可能な開発のための教育)である。その根本課題は、「持続不可能な社会を支えている教育を考え直し、その向きを変えること」である。環境教育を担う者にとって、これは避けて通ることができない課題である。
 報告では、私の大学環境教育実践の試みを紹介する。実践では、教育にかかわる一人ひとりが自分を棚上げにしないで、自分のこととして根本課題を受け止め、<この私>はどこから来たのか、<この私>は何者か、<この私>はどこへ行くのかを、自分を振り返り、よく吟味し考えてみることを基本方針としている。このもとに、持続不可能な社会を象徴する水俣病を取り上げて、「一人の人間」として、いろいろな立場から水俣病に深く長くかかわった人(たち)に着目し、その人(たち)に関する文字資料を読み、映像資料がある場合には視聴して、その過程で<この私>は何をどのように感じたり、思ったり、考えたりしたか、自分の心の消息を綴り、クラスメートと共有し議論するワークを行っている。
 緒方正人さんは、このシリーズ「水俣病から考える」ワークの中で扱う「一人の人間」である。
 報告では、大学環境教育実践の概要を紹介した後、緒方さんの「魂のゆくえ」(栗原彬編『証言 水俣病』岩波書店、2000年)をテキストにして彼の来歴をたどる。その際、来歴の中に見て取ることができる「転生」と呼びうるような生の質的転換、特に「魂」の境地への到達と、それを引き起こした出来事や事情に注目する。その上で、2000年代半ばに研究上の「自己分裂」を引き起こしていた私に与えたインパクトを含め、水俣病を手掛かりにして現代環境教育の根本課題に取り組むことにおいて、緒方さんを考材とすることによって何がもたらされるか、現代環境教育の根本課題、人間として生きる、水俣病のとらえ方、環境教育のパラダイムなどとのかかわりでお話ししたいと思う。

同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

A会場[B202[小教室]]

報告A-1

  1. 馬の食料化から考察する沖縄戦飢餓:沖縄島北部と宮古島の事例から
  2. 謝花直美(じゃはな・なおみ/同志社大学〈奄美₋沖縄₋琉球〉研究センター嘱託研究員)
  3. 沖縄戦で飢餓をしのぐために馬を食べたという住民証言は多い。戦前には馬は沖縄各地の日本軍飛行場建設のための徴発、食糧増産の農耕、戦闘直前には住民立退き・避難の荷物車運搬に活用された。住民は所有する家畜の扱いにも制限を受けた。食糧確保が課題となった持久戦準備のために、沖縄県は家畜数を把握し所有者の自由屠畜を禁止した。管理が強化された家畜は豚の場合、連合軍侵攻前に多くが保存食糧にされたと考えられる。一方の馬については、日本軍徴発後からすでに食糧化が始まっており、戦争進行により統制・秩序も崩壊し 、飢餓拡大とともに住民もまた役畜であった馬を食糧としたと考えられる。本報告では、沖縄戦の飢餓拡大と深刻化を「馬を食べる」ことから明らかにしつつ、日本軍と住民、住民同士の対抗的関係について、立退き・避難地となった沖縄島北部と馬産地宮古島の例を通して考察する。

報告A-2

  1. 「戦後」台湾の経験と日本の社会運動:ライフヒストリーからの考察
  2. 松田京子(まつだ・きょうこ/南山大学人文学部教員)
  3. 日本による植民地統治下の台湾で、植民地政府による学校教育を受けた台湾の人々のなかには、「戦後」の台湾で起こった二二八事件、その後の50年代白色テロルによって、大きな被害を被った人々がいる。「政治受難者」である彼ら彼女らは、例えば釈放後も日常生活の中で様々な困難を経験し、さらなる政治的な「受難」に直面する場合もあった。そのような中で、彼ら彼女らにとって日本語は「思考し表現するための主要言語」(洪郁如『誰の日本時代』法政大学出版局、2021年、p.6)であったといえる。日本統治期の経験は、ポストコロニアル状況の中で、彼ら彼女らにどのような影響を与えたのか。また彼ら彼女らにとって、「日本」とはどのような存在であったのか。また彼ら彼女らの「受難」に対して、「戦後」日本の社会運動はどのように向き合い、どのように関わったのだろうか。これらの問題を、ある夫妻のライフヒストリーにそって、具体的に考察してみたい。

B会場[B203[小教室]]

報告B-1

  1. 占領期検閲と高群逸枝の女性史学
  2. 蔭木達也(かげき・たつや)
  3. 近年、連合軍占領期検閲に関する研究が進展している。しかし、歴史学系の著作における占領期検閲の影響についての研究は、戦中と戦後の断絶に鑑みて、検閲の研究を分析する作業が困難な部分がある。戦中期に皇国史観を掲げた研究者は戦後、著作を発表する間も無く追放され、占領期検閲の影響を辿ることは難しい。逆に、津田左右吉など戦中期は弾圧されていて戦後すぐに活躍した歴史学者は、占領期検閲で大きな問題となるような論述をする必要がなかったため影響がわからない。占領期検閲の影響が最も強く現れるのは、戦前に皇国史観に近い立場から天皇に関する研究を行い、しかし戦後占領期検閲の影響を受け、自説に修正を加えて歴史研究を続けた歴史研究者に限られる。そこで本報告では、一九三一年から歴史研究の道に没頭し、戦中期も研究成果を書籍や論文で発表し、戦後まで継続的に日本女性史の研究に取り組んだ高群逸枝を取り上げ、GHQとの関わり、著作出版の経緯などを分析し、占領期検閲の歴史学への影響の一端を明らかにすることを試みたい。

報告B-2

  1. 毛呂清輝の戦後における言説
  2. 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
  3. 毛呂清輝(1913~78年)は、戦前から戦後にわたる昭和期に活動した「右翼」または「昭和維新」運動家である。國學院大學に在学中、神兵隊事件に参加した彼は、戦前期には大日本生産党や維新公論社等の組織に関与し、戦後には、機関誌『新勢力』の主幹を務め、同誌において影山正治や葦津珍彦、または鈴木邦男等、広く昭和期の右翼・愛国・保守運動を牽引した人物を、論客として多く呼び寄せた。
     毛呂が積極的に自らの思想を発信・展開するのは、戦後(公職追放の解除)を迎えてからである。自らが携わる『新勢力』をはじめとするメディアにおいて毛呂は、戦後日本における「国民運動」としての「昭和維新」を模索・提起したが、これまでその思想・活動について殆ど顧みられることがなかった。本発表では『新勢力』の他、『共通の広場』等のメディアにおける毛呂の言説を取り上げるとともに、「昭和維新」運動史上での毛呂の位置を明らかにする。

C会場[B206[中教室]]

報告C-1

  1. 知識人たちの内灘闘争と内灘試射場返還
  2. 宮下祥子(みやした・しょうこ/立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)
  3. 全国初の本格的な反米軍基地闘争として知られる内灘闘争(1952~53年)は、戦後日本の通史では必ず言及されるものの、本格的な歴史研究の対象とされる機会は稀であった。本報告は、清水幾太郎を中心とする論壇知識人と金沢在住知識人たちの議論を手がかりとして、内灘闘争および内灘試射場返還(1957年)の内実に、従来の歴史叙述とは別の角度から光を当てるものである。
     闘争時、外部の知識人・革新政党・労組・婦人団体等が盛んに内灘を訪れて重要なアクターとなったが、彼らの多くは、米軍基地問題の根本要因をなす日米安全保障条約の破棄を究極の目標としていた。他方で、内灘砂丘・海面の接収「絶対反対」を叫んだ内灘村民のほとんどは零細な農漁民であり、彼らにとっては生活権の擁護こそが差し迫った問題であった。両者の異質性は闘争の結末に決定的な影響を及ぼしたが、そこに向き合った知識人の議論と関与を明らかにすることで、闘争の再考を試みたい。

報告C-2

  1. 反戦・反軍運動と女性解放運動が交わる時:1970年代初頭の沖縄におけるウィメンズハウス
  2. 大野光明(おおの・みつあき/滋賀県立大学人間文化学部准教授)
  3. 1972年秋、沖縄県コザ市にウィメンズハウスというスペースが米国のベトナム反戦運動団体パシフィック・カウンセリング・サーヴィス(PCS)によって開設された。PCSは1969年にカリフォルニア州で活動を始め、反戦意識をもつ兵士の抵抗をさまざまなかたちで支援していた。その後、PCSは米国西海岸の諸都市へ、そして1970年春以降には東京、沖縄、岩国、フィリピンなどへと活動拠点を広げた。ウィメンズハウスは沖縄駐留部隊に所属する女性、男性兵士の妻子、日本のウーマンリブ活動家、沖縄の女性などが、女性としての抑圧について自らの経験に即して話し、考え、解放を求めるスペースとして運営された。本報告では、ウィメンズハウスがなぜ、どのようにつくられたのか、また、どのような活動が行われたのか、文書資料とオーラルヒストリーから明らかにする。越境する女性運動と反戦運動の歴史を交差させ、70年代初頭の沖縄での取り組みの歴史、内容、意味を検討する。

D会場[B204[演習室]]

報告D-1

  1. 1960年の日玖通商協定の締結と池田政権の対キューバ「独自路線」
  2. ロメロ・イサミ(ろめろ・いさみ/帯広畜産大学准教授)
  3. 1959年の革命の勝利後、池田政権 (1960〜64年) は、米国の敵国であったにもかかわらず、日本はキューバに対して「独自路線」を展開した。なぜ日本はこのような外交を打ち上げたのか。先行研究では、日本のキューバ糖依存が強調されている。当時、キューバは日本の砂糖輸入先国の1つであった。そして1960年に締結した日玖通商協定によって日本政府は、キューバが価格競争力を維持する限り、年間45万トンの砂糖輸入をコミットメントしたのだ。したがって、1961年に米国政府が池田政権に対キューバ「封じ込め」政策への協力を求めたとき、日本は協力できなかった。国交を断絶すれば、国内砂糖が減少する可能性があったのである。
     しかし、田中高が2012年に『ラテンアメリカ・レポート』誌で掲載した論文「日本キューバ貿易小史-通商協定締結の軌跡」を除いて、日玖通商協定を1次史料で検証した研究は存在しない。本報告では、日・米・キューバの外交史料を軸に、池田政権の対キューバ「独自路線」に影響を及ぼした日玖通商協定の締結過程について論じる。

報告D-2

  1. 1982年歴史教科書問題発生時の日韓の反応と共同研究の流れ
  2. 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科国際地域文化専攻博士後期課程)
  3. 本研究では、1982年に起こった歴史教科書問題について取り上げる。日韓の両国政府と政治家の動きは、先行研究を参照しながら、国会議事録、新聞記事を資料として分析した。世論の動向を知るための手段としては新聞記事を資料とし、それぞれ発行部数が第一・二位を占めている、日本の「読売新聞」「朝日新聞」、韓国の「朝鮮日報」「東亜日報」を分析対象とした。研究者の動きについては、先行研究の読み取りに加え、両国の関連学会の機関誌に掲載された声明等の分析を行った。
     また、このような摩擦を乗り越えるため、歴史共同研究の動きが活性化する傾向が見られた。これについては、先行研究や共同研究に参加した研究者が書いた文章に加え、共同研究の成果物として出版されている教材等を資料として調査を行った。対立と、乗り越えようとする動きの両面を見ることで、今後の日韓間における歴史・教育研究の道標を作るための一つの材料となることを目指したい。

E会場[B205[演習室]]

報告E-1

  1. 江藤淳と1980年代初頭の憲法論争
  2. 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)
  3. 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932~99年)が、自身のGHQ占領期の研究と関連する形で行った日本国憲法をめぐる主張と、それに対するメディア上での知識人の反応に焦点を合わせ、1980年代初頭における憲法論争を再検討する。
     1978年、文芸評論家・本多秋五らと第2次世界大戦における日本の降伏形態をめぐって、「無条件降伏」論争と呼ばれる論戦を繰り広げた江藤は、翌1979年10月から、米国ワシントンDCのウィルソン研究所を拠点に、占領期の言論検閲に関する資料の検索と検討を精力的に行っていく。また、江藤は言論検閲の研究と並行して、日本国憲法に関しても主張を行い、この点においてもメディア上で論戦が展開されていくこととなった。
     本報告では、江藤の日本国憲法をめぐる主張を整理するとともに、当時の知識人たちが江藤の議論にどのような反応を行ったのかを確認することで、1980年代初頭における憲法論争がいかなる意義を持つものであったのかを考察したい。

報告E-2

  1. ポスト冷戦移行期「日本」の自画像:「湾岸戦争に反対する文学者声明」をめぐる議論を中心に
  2. 名合史子(なごう・ふみこ/東京外国語大学大学院博士前期課程)
  3. 1991年湾岸戦争のさなか、柄谷行人をはじめとした日本の一部の知識人が「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表した。この声明は、反戦という立場を表しただけでなく、ポスト冷戦世界における日本を再考するような意味合いを持つものだった。本報告では、「声明」とその批判を含めた同時代の議論の分析を通して、「声明」が「日本」をめぐるナショナル・トランスナショナルな問題にどのように応えていたかを検討する。「声明」とその議論の大部分は、日本国憲法と天皇制をめぐるネーションとしての「日本」の問題を引き受け、戦後の歴史化を迫った。一方で、アメリカや東アジアという「他者」を部分的に認識し、トランスナショナルな歴史観の中から暫定的な「日本」の理念を見出す可能性と限界を露わにした。これらの議論は、ポスト冷戦移行の中で一部の知識人が共有した、過去を歴史化することと、過去を超越して未来を創ることの葛藤と切迫感を表すものだった。