2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史」

2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史」

 同時代史学会2024年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。なお、本年度は対面のみで実施します。

日時
2024年12月7日(土)
会場
駒澤大学 駒沢キャンパス 3号館(東京都世田谷区駒沢1-23-1)
駒沢キャンパス案内 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/campus/komazawa.html
参加費
無料
日程
10:00~12:00 自由論題報告(会場A~会場E、9名)
12:30~13:10 総会
13:30~17:30 全体会
〈報告〉
長志珠絵(神戸大学):13:40~14:30
「防空と銃後」
千地健太(東京大空襲・戦災資料センター学芸員):14:40~15:30
「東京大空襲における朝鮮人の空襲被害―実態、証言、展示―」
〈コメント〉
田中利幸(歴史家):15:40~16:00
伊香俊哉(都留文科大学):16:00~16:20
全体討論:16:30~17:30
18:00~ 懇親会

趣旨文
空襲/空爆とその記憶の同時代史

 空爆による無差別大量虐殺は、第一次世界大戦から本格的に始まり、第二次世界大戦を経て、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、シリア内戦、そして現在もなお続くロシアのウクライナ攻撃やイスラエルのガザ地区攻撃に至るまで、およそ100年以上にわたって連続している。
 第一次世界大戦後に戦略爆撃を体系化したイタリアの将軍ジュリオ・ドゥーエは、空爆は「残虐な特性にもかかわらず流血が少ないので、高い立場から見れば従来の戦闘よりも人道的である」と述べて、無差別爆撃を正当化した。加害者研究においても、被害者との物理的・心理的距離は罪責感を麻痺させ、加害行為を容易にすることが指摘されているが、「高い立場」から爆撃を命令し、爆弾投下を可能にした20世紀以降の「空の戦争」は、爆撃の下で苦しむ無数の人々の視点を完全に欠落させることで行われてきた。1970年代以降の空襲記録運動とその継承活動は、爆撃を受ける側の「空襲」の視点に立ち、こうした「高い立場」から攻撃を加える「空爆」を批判的に捉え返す営為であり、現在進行中の空爆の下で起きている現実と、今後長期にわたって続く破壊的な影響を人類につきつけている。
 一方、これまでも度々指摘されてきたように、帝国主義の時代に誕生した飛行機が初めて戦争の兵器として利用されたのは、バルカン半島と北アフリカでの植民地戦争からであり、日本も1930年に植民地統治下の台湾で起きた霧社事件の際に、空爆による大規模な「鎮圧」作戦を行った。また、十五年戦争において日本は、アメリカによる無差別爆撃の被害を受ける前に、錦州や南京、重慶に無差別爆撃を行う加害国でもあった。さらに、連合国軍側の攻撃対象は、大日本帝国の植民地や東南アジア各地の日本軍の拠点、「満洲」の満鉄沿線の工場地帯に及んだ。それだけではなく、原爆が投下された広島・長崎と同様に、東京や大阪などの大都市には、戦時労働力として動員された植民地出身の人々が居住しており、多くの人々が空襲の被害を受けた。彼らの被害はこれまであまり語られてこなかったが、被害の実態調査や、「創氏改名」後の日本人名で慰霊碑に記録されてきた名前を本名に変更する取り組みなどが近年市民活動によって進められている。彼らがなぜそこにいたのかをふまえれば、「日本国民の被害」として均質化されがちな空襲経験を、植民地支配責任の観点から再度捉え直す必要があるだろう。
 以上をふまえて、一人目の報告者である長志珠絵氏には、戦時下の「防空」の動員・管理の対象であった女性や植民地出身者について報告していただく。また二人目の千地健太氏には、東京大空襲戦災資料センターにおける朝鮮人被害者に関する展示の経緯について報告していただく。両報告を通じて、空爆/空襲論においては、顔も名前もない集合的な死者として、あるいは「庶民」「民衆」「日本人」として括られがちであった空襲言説をジェンダーと植民地主義の観点から再考する場となるであろう。また、コメンテーターは伊香俊哉氏と田中利幸氏に依頼した。
 空襲/空爆の問題は、現在の日本社会とも無縁ではない。日本政府は植民地戦争や植民地支配に起因する空襲の被害者、中国への侵略戦争の際に行った爆撃の被害者に対する謝罪や賠償を行っておらず、国内の空襲被害者についても、「戦争被害受忍論」を理由に補償を拒み続けている。また、朝鮮戦争・ベトナム戦争の際には、在日米軍基地は米軍機の出撃・補給基地として無差別爆撃に関わった。そして、現在進行中の空爆による無差別大量虐殺を止めることができていない。本シンポジウムが、20世紀初頭から現在まで続く、無差別大量虐殺とその不処罰の歴史に抗するための議論の場となることを期待したい。


<主要参考文献>
荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波書店、2008年。
伊香俊哉『戦争はどう記憶されるのか 日中両国の共鳴と相剋』柏書房、2014年。
栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』岩波書店、2022年。
長志珠絵「『防空』のジェンダー ―戦前戦後における日本の空襲言説の変容と布置」『ジェンダー史学』11号、2005年。
長志珠絵「交差する植民地主義とジェンダー ―歴史認識としての空襲」『日本思想史研究会会報』39号、2009年。
田中利幸『空の戦争史』講談社、2008年。
塚崎昌之『大阪空襲と朝鮮人そして強制連行』大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会、2022年。
林博史『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』高文研、2023年。
前田哲男『戦略爆撃の思想 ―ゲルニカ、重慶、広島』凱風社、2006年。

同時代史学会2024年度大会 自由論題 報告一覧

A会場[3-211教室]

報告A-1

  1. 戦後日本の「性教育」論
  2. 松元実環(まつもと・みわ/神戸大学大学院国際文化学研究科文化相関専攻博士後期課程)
  3. 戦後初期の日本における「性教育」の歴史的研究は、主に1947年から1972年に文部省が推進した「純潔教育」を中心に展開されてきた。従来の研究は、主に女性史において、性売買との関連の中で論じられてきたが、同時期の「性科学」領域においても同様の議論が広がっており、十分に検討されていない点が課題である。
     本研究では、戦後初期の日本における「性」に関する教育的および啓蒙的な議論に着目し、特に「性科学」分野の言説が果たした役割を明らかにする。この分野では、「純潔教育」にも触れつつ、さらに多様で複雑な「性」に関する議論が展開された。当時の資料を基にその議論の構造を整理し、背後にある思想的背景を掘り下げることで、戦後初期の日本における「性教育」の意義を再検討し、従来の枠組みを超え、より体系的に戦後の「性教育」を捉えるための新たな視座を提示することを目指す。

報告A-2

  1. 戦後右翼陣営における「大同団結」とその結実:「救国国民総連合」に焦点を当てて
  2. 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
  3. 個々に活動する組織が共通の目的のために結集し、勢力の拡充を図る「大同団結」は、政治運動では度々見受けられる。1954年に発足した「救国国民総連合」(以下「総連合」)もその一つである。公職追放が解除された直後、日本国内の右翼活動家らが図ったのが自陣営の集結であったが、その背景には、戦後に台頭した左派陣営への意識があったものと推察される。その結実として発足したのが総連合であった。だが、発足に際して有力団体が合流しなかったために、組織としては機能不全な状態に陥った。このことが、総連合がこれまで注目されてこなかった所以であろう。
     本報告では総連合の発足以前から発足、そしてその後という時期区分を設けた上で、戦後における組織の集結と勢力拡充という課題に対し、戦前からの活動家たちはどう捉えていたのかを見ていく。また、結果的には挫折した「大同団結」であるが、それがその後何をもたらしたかについても併せて論じたい。

B会場[3-202教室]

報告B-1

  1. 《赤とんぼ》を歌うことの表象:1950年代~1960年代前半の映画を中心に
  2. 栫 大也(かこい・まさや/九州大学大学院芸術工学府博士後期課程)
  3. 本報告の目的は、戦後約20年間における《赤とんぼ》(1927年作曲)に関する表象の一端を明らかにすることである。同曲はしばしば「懐かしい曲」として説明されてきた。しかし、そうした見方がどのように現れたかという研究が十分になされてきたとは言いがたい。
     前記の目的のため、本報告では以下の手順で検討を進める。まず、対象時期におけるこの曲の位置づけを、教科書、うたごえ運動などから確認する。次に、『少年死刑囚』、『ここに泉あり』(以上1955年)、『やくざ先生』(1960年)、『夕やけ小やけの赤とんぼ』(1961年)といった映画を検討する。これらの作品では、山奥の児童や戦災孤児、混血児といった多様な主体が《赤とんぼ》によって包摂される様子が描かれた。以上を踏まえ、遅くとも1960年代までには、《赤とんぼ》が「懐かしい曲」として挙げられる状況が成立していたと思われることなどを報告する。

報告B-2

  1. 部落問題はいかに上演されたか:1960年代前半の『差別』上演活動を中心として
  2. 長島祐基(ながしま・ゆうき/早稲田大学先端社会科学研究所助教)
  3. 1960年代の演劇運動(労働者が社会の問題を扱った劇を創り、上演する活動)は労働組合を基盤とする運動が停滞し、地域に基盤をおく労働者劇団や市民劇団が運動の新たな担い手となった時期とされる。本報告では大阪における地域劇団の一つである劇団未来を扱う。1962年に結成された劇団未来は旗揚げ公演で部落問題を扱った『差別』を上演し、同作は東京や大阪近郊でも上演された。本報告では同劇団とその前身となった演劇サークルにおいて部落問題がいかにして戯曲のテーマとして取り上げられ、各地で上演され、観客から評価されたのかを検討する。活動を通じた担い手の認識の変化や部落問題を上演することの難しさを明らかにするとともに、「職場を描く」という職場演劇の理念と部落問題という地域の課題の関係にも言及する。本報告は1950年代後半から1960年代初頭にかけての演劇運動の質的変化を具体的な上演活動に即して問うものである。

C会場[3-203教室]

報告C-1

  1. 暴力の「後」を生きること:沖縄に生きた元日本軍「慰安婦」、裴奉奇に着目して
  2. 廣野量子(ひろの・りょうこ/同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程)
  3. 1975年、沖縄で日本軍「慰安婦」だった人物として、裴奉奇の存在が公にされた。1944年11月、裴は朝鮮から沖縄の渡嘉敷島に日本軍「慰安婦」として連れて来られ、1945年8月、渡嘉敷島の武装解除がなされた後、座間味捕虜収容所、屋嘉収容所、石川収容所へと移送され、その後も沖縄本島内を転々と移動しつづけた。
  4.  本報告では、裴のとくに「慰安婦」の「後」に着目する。裴の聞き書きをした、川田文子の『赤瓦の家—朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房、1987)によれば、川田が訪ねた頃の裴は周期的に襲われる頭痛に苦しめられていたという。本報告では、「トラウマ」の概念を用いながら、裴が被った暴力とその暴力の「後」の生について考える。その際、裴が生きた土地が沖縄であったこと、すなわち1945年以降も現在に至るまで、沖縄という場所自体が複数の構造的な暴力に晒され続けた/ているという点を重視し、併せて考察していく。

報告C-2

  1. 開拓地を開発する:1950年代沖縄の農村開発構想の検討
  2. 座間味希呼(ざまみ・きこと/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)
  3. 本報告では、米軍統治期の沖縄北部開発計画の形成過程を次の三点に着目して跡付ける。第一に米軍基地開発によって立ち退かされる住民に対する琉球列島内への開拓移住計画との連関、第二に琉球政府による開発計画への本土農学者の関与、第三に北部市町村にとっての開発計画である。これを通じて沖縄島北部地域が開拓移住地から地域開発の対象とされていく過程を明らかにする。米軍統治期の開拓移住政策は成果があがらず、農村開発計画の達成率も低く、消極的であったという評価が与えられている。本報告の検討を通じて、開発計画の方針と農村地域の希求したものの絡まり合いを分析する。資料は沖縄現地政府の琉球政府資料、米国側の統治機構である琉球列島米国民政府資料、新聞記事、市町村議会議事録等を用いる。

D会場[3-212教室]

報告D-1

  1. 2001年「新しい歴史教科書をつくる会」教科書の検定通過に関する日韓の反応
  2. 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科博士後期課程)
  3. 1997年に正式発足した「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)は、歴史教科書における「従軍慰安婦」の記述の削除を求めるなど、保守系の言論を展開していた。「つくる会」の制作した歴史教科書が2001年、教科書検定を通過すると、国内外から様々な反響が起こった。韓国をはじめとする近隣諸国からは、抗議の声も強まることとなる。
     本研究では、「つくる会」の準備段階であった1996年から、検定を通過した2001年を経て、日韓両政府による「日韓歴史共同研究」の報告書が出される前年の2004年までを対象として、日韓それぞれの政界、学界、新聞報道においてどのような反応が示されたのか、分析を行う。また、「つくる会」の動きが、日本と韓国の歴史・教育分野の共同研究にどのような影響を与えたかについても、明らかにしていく。

報告D-2

  1. 江藤淳の「検閲影響論」と1980年代後半の言論空間:日米経済摩擦と「閉された言語空間」をめぐって
  2. 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)
  3. 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932-99)によるGHQ占領期の言論検閲をめぐる主張と、それに対する当時の言論空間での反応に焦点を合わせることで、1980年代後半における占領期言論検閲に関する認識について考えたい。1978(昭和53)年の「無条件降伏」論争以降、江藤は占領期の研究と論考の執筆に注力し、その成果は『一九四六年憲法——その拘束』(1980年)や『落葉の掃き寄せ』(1981年)、『自由と禁忌』(1984年)などの占領期の言論検閲を扱った作品群に結実していく。本報告では、江藤の主張の中でも、占領期の言論検閲が現代の日本社会においても影響を及ぼし続けているとする見解を「検閲影響論」と名付け、『日米戦争は終わっていない』(1986年)、『昭和の文人』(1989年)、『閉された言語空間』(1989年)などの作品を取り上げ、日米経済摩擦といった当時の情勢を踏まえつつ、1980年代後半における江藤の言説と言論空間での反応について検討していく。

E会場[3-210教室]

報告E-1

  1. 1980年代中盤における梶村秀樹による「二重の課題」論の深化:指紋押捺拒否運動からの触発
  2. 大槻和也(おおつき・かずや/大阪公立大学非常勤講師)
  3. 本報告では、朝鮮史研究者である梶村秀樹が在日朝鮮人運動において重要な視角だと提唱した「二重の課題」論が、指紋押捺拒否運動に関わる中でどのように深まったのかを具体的に論じる。
     梶村は1970年代中盤以降、在日朝鮮人運動において朝鮮の解放運動の一端を担うという課題、そして日本での生活権を獲得していくという課題の「二重の課題」の追求があることを重要な視角としていた。指紋押捺拒否運動に梶村が積極的に関わっていった1980年代中盤以降、生活の場での「在日の統一」経験の場としての指紋押捺拒否運動の位置づけ、第三世界ナショナリズム思想と共鳴する「民族への帰属意識」論の提唱、日本国家と日本社会による在日朝鮮人に対する構造的同化暴力の分析などを行っていった。
     本報告ではこれらの論点を「二重の課題」論の深化と位置づけて論じ、梶村秀樹による運動への参加が彼の研究に及ぼした往還関係とその思想的地平を探究したい。