同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)
*以下、会場ごとに、報告の①タイトル、②報告者(名前のよみ/所属等)、③要旨、の順で掲載しています。
*A~Eの全5会場は、すべて東京経済大学2号館の2階教室となります。
*開催形態は、全5会場とも、対面のみとなります。
A会場[B202[小教室]]
報告A-1
① 馬の食料化から考察する沖縄戦飢餓:沖縄島北部と宮古島の事例から
② 謝花直美(じゃはな・なおみ/同志社大学〈奄美₋沖縄₋琉球〉研究センター嘱託研究員)
③ 沖縄戦で飢餓をしのぐために馬を食べたという住民証言は多い。戦前には馬は沖縄各地の日本軍飛行場建設のための徴発、食糧増産の農耕、戦闘直前には住民立退き・避難の荷物車運搬に活用された。住民は所有する家畜の扱いにも制限を受けた。食糧確保が課題となった持久戦準備のために、沖縄県は家畜数を把握し所有者の自由屠畜を禁止した。管理が強化された家畜は豚の場合、連合軍侵攻前に多くが保存食糧にされたと考えられる。一方の馬については、日本軍徴発後からすでに食糧化が始まっており、戦争進行により統制・秩序も崩壊し 、飢餓拡大とともに住民もまた役畜であった馬を食糧としたと考えられる。本報告では、沖縄戦の飢餓拡大と深刻化を「馬を食べる」ことから明らかにしつつ、日本軍と住民、住民同士の対抗的関係について、立退き・避難地となった沖縄島北部と馬産地宮古島の例を通して考察する。
報告A-2
① 「戦後」台湾の経験と日本の社会運動:ライフヒストリーからの考察
② 松田京子(まつだ・きょうこ/南山大学人文学部教員)
③ 日本による植民地統治下の台湾で、植民地政府による学校教育を受けた台湾の人々のなかには、「戦後」の台湾で起こった二二八事件、その後の50年代白色テロルによって、大きな被害を被った人々がいる。「政治受難者」である彼ら彼女らは、例えば釈放後も日常生活の中で様々な困難を経験し、さらなる政治的な「受難」に直面する場合もあった。そのような中で、彼ら彼女らにとって日本語は「思考し表現するための主要言語」(洪郁如『誰の日本時代』法政大学出版局、2021年、p.6)であったといえる。日本統治期の経験は、ポストコロニアル状況の中で、彼ら彼女らにどのような影響を与えたのか。また彼ら彼女らにとって、「日本」とはどのような存在であったのか。また彼ら彼女らの「受難」に対して、「戦後」日本の社会運動はどのように向き合い、どのように関わったのだろうか。これらの問題を、ある夫妻のライフヒストリーにそって、具体的に考察してみたい。
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B会場[B203[小教室]]
報告B-1
① 占領期検閲と高群逸枝の女性史学
② 蔭木達也(かげき・たつや)
③ 近年、連合軍占領期検閲に関する研究が進展している。しかし、歴史学系の著作における占領期検閲の影響についての研究は、戦中と戦後の断絶に鑑みて、検閲の研究を分析する作業が困難な部分がある。戦中期に皇国史観を掲げた研究者は戦後、著作を発表する間も無く追放され、占領期検閲の影響を辿ることは難しい。逆に、津田左右吉など戦中期は弾圧されていて戦後すぐに活躍した歴史学者は、占領期検閲で大きな問題となるような論述をする必要がなかったため影響がわからない。占領期検閲の影響が最も強く現れるのは、戦前に皇国史観に近い立場から天皇に関する研究を行い、しかし戦後占領期検閲の影響を受け、自説に修正を加えて歴史研究を続けた歴史研究者に限られる。そこで本報告では、一九三一年から歴史研究の道に没頭し、戦中期も研究成果を書籍や論文で発表し、戦後まで継続的に日本女性史の研究に取り組んだ高群逸枝を取り上げ、GHQとの関わり、著作出版の経緯などを分析し、占領期検閲の歴史学への影響の一端を明らかにすることを試みたい。
報告B-2
① 毛呂清輝の戦後における言説
② 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
③ 毛呂清輝(1913~78年)は、戦前から戦後にわたる昭和期に活動した「右翼」または「昭和維新」運動家である。國學院大學に在学中、神兵隊事件に参加した彼は、戦前期には大日本生産党や維新公論社等の組織に関与し、戦後には、機関誌『新勢力』の主幹を務め、同誌において影山正治や葦津珍彦、または鈴木邦男等、広く昭和期の右翼・愛国・保守運動を牽引した人物を、論客として多く呼び寄せた。
毛呂が積極的に自らの思想を発信・展開するのは、戦後(公職追放の解除)を迎えてからである。自らが携わる『新勢力』をはじめとするメディアにおいて毛呂は、戦後日本における「国民運動」としての「昭和維新」を模索・提起したが、これまでその思想・活動について殆ど顧みられることがなかった。本発表では『新勢力』の他、『共通の広場』等のメディアにおける毛呂の言説を取り上げるとともに、「昭和維新」運動史上での毛呂の位置を明らかにする。
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C会場[B206[中教室]]
報告C-1
① 知識人たちの内灘闘争と内灘試射場返還
② 宮下祥子(みやした・しょうこ/立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)
③ 全国初の本格的な反米軍基地闘争として知られる内灘闘争(1952~53年)は、戦後日本の通史では必ず言及されるものの、本格的な歴史研究の対象とされる機会は稀であった。本報告は、清水幾太郎を中心とする論壇知識人と金沢在住知識人たちの議論を手がかりとして、内灘闘争および内灘試射場返還(1957年)の内実に、従来の歴史叙述とは別の角度から光を当てるものである。
闘争時、外部の知識人・革新政党・労組・婦人団体等が盛んに内灘を訪れて重要なアクターとなったが、彼らの多くは、米軍基地問題の根本要因をなす日米安全保障条約の破棄を究極の目標としていた。他方で、内灘砂丘・海面の接収「絶対反対」を叫んだ内灘村民のほとんどは零細な農漁民であり、彼らにとっては生活権の擁護こそが差し迫った問題であった。両者の異質性は闘争の結末に決定的な影響を及ぼしたが、そこに向き合った知識人の議論と関与を明らかにすることで、闘争の再考を試みたい。
報告C-2
① 反戦・反軍運動と女性解放運動が交わる時:1970年代初頭の沖縄におけるウィメンズハウス
② 大野光明(おおの・みつあき/滋賀県立大学人間文化学部准教授)
③ 1972年秋、沖縄県コザ市にウィメンズハウスというスペースが米国のベトナム反戦運動団体パシフィック・カウンセリング・サーヴィス(PCS)によって開設された。PCSは1969年にカリフォルニア州で活動を始め、反戦意識をもつ兵士の抵抗をさまざまなかたちで支援していた。その後、PCSは米国西海岸の諸都市へ、そして1970年春以降には東京、沖縄、岩国、フィリピンなどへと活動拠点を広げた。ウィメンズハウスは沖縄駐留部隊に所属する女性、男性兵士の妻子、日本のウーマンリブ活動家、沖縄の女性などが、女性としての抑圧について自らの経験に即して話し、考え、解放を求めるスペースとして運営された。本報告では、ウィメンズハウスがなぜ、どのようにつくられたのか、また、どのような活動が行われたのか、文書資料とオーラルヒストリーから明らかにする。越境する女性運動と反戦運動の歴史を交差させ、70年代初頭の沖縄での取り組みの歴史、内容、意味を検討する。
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D会場[B204[演習室]]
報告D-1
① 1960年の日玖通商協定の締結と池田政権の対キューバ「独自路線」
② ロメロ・イサミ(ろめろ・いさみ/帯広畜産大学准教授)
③ 1959年の革命の勝利後、池田政権 (1960〜64年) は、米国の敵国であったにもかかわらず、日本はキューバに対して「独自路線」を展開した。なぜ日本はこのような外交を打ち上げたのか。先行研究では、日本のキューバ糖依存が強調されている。当時、キューバは日本の砂糖輸入先国の1つであった。そして1960年に締結した日玖通商協定によって日本政府は、キューバが価格競争力を維持する限り、年間45万トンの砂糖輸入をコミットメントしたのだ。したがって、1961年に米国政府が池田政権に対キューバ「封じ込め」政策への協力を求めたとき、日本は協力できなかった。国交を断絶すれば、国内砂糖が減少する可能性があったのである。
しかし、田中高が2012年に『ラテンアメリカ・レポート』誌で掲載した論文「日本キューバ貿易小史-通商協定締結の軌跡」を除いて、日玖通商協定を1次史料で検証した研究は存在しない。本報告では、日・米・キューバの外交史料を軸に、池田政権の対キューバ「独自路線」に影響を及ぼした日玖通商協定の締結過程について論じる。
報告D-2
① 1982年歴史教科書問題発生時の日韓の反応と共同研究の流れ
② 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科国際地域文化専攻博士後期課程)
③ 本研究では、1982年に起こった歴史教科書問題について取り上げる。日韓の両国政府と政治家の動きは、先行研究を参照しながら、国会議事録、新聞記事を資料として分析した。世論の動向を知るための手段としては新聞記事を資料とし、それぞれ発行部数が第一・二位を占めている、日本の「読売新聞」「朝日新聞」、韓国の「朝鮮日報」「東亜日報」を分析対象とした。研究者の動きについては、先行研究の読み取りに加え、両国の関連学会の機関誌に掲載された声明等の分析を行った。
また、このような摩擦を乗り越えるため、歴史共同研究の動きが活性化する傾向が見られた。これについては、先行研究や共同研究に参加した研究者が書いた文章に加え、共同研究の成果物として出版されている教材等を資料として調査を行った。対立と、乗り越えようとする動きの両面を見ることで、今後の日韓間における歴史・教育研究の道標を作るための一つの材料となることを目指したい。
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E会場[B205[演習室]]
報告E-1
① 江藤淳と1980年代初頭の憲法論争
② 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)
③ 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932~99年)が、自身のGHQ占領期の研究と関連する形で行った日本国憲法をめぐる主張と、それに対するメディア上での知識人の反応に焦点を合わせ、1980年代初頭における憲法論争を再検討する。
1978年、文芸評論家・本多秋五らと第2次世界大戦における日本の降伏形態をめぐって、「無条件降伏」論争と呼ばれる論戦を繰り広げた江藤は、翌1979年10月から、米国ワシントンDCのウィルソン研究所を拠点に、占領期の言論検閲に関する資料の検索と検討を精力的に行っていく。また、江藤は言論検閲の研究と並行して、日本国憲法に関しても主張を行い、この点においてもメディア上で論戦が展開されていくこととなった。
本報告では、江藤の日本国憲法をめぐる主張を整理するとともに、当時の知識人たちが江藤の議論にどのような反応を行ったのかを確認することで、1980年代初頭における憲法論争がいかなる意義を持つものであったのかを考察したい。
報告E-2
① ポスト冷戦移行期「日本」の自画像:「湾岸戦争に反対する文学者声明」をめぐる議論を中心に
② 名合史子(なごう・ふみこ/東京外国語大学大学院博士前期課程)
③ 1991年湾岸戦争のさなか、柄谷行人をはじめとした日本の一部の知識人が「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表した。この声明は、反戦という立場を表しただけでなく、ポスト冷戦世界における日本を再考するような意味合いを持つものだった。本報告では、「声明」とその批判を含めた同時代の議論の分析を通して、「声明」が「日本」をめぐるナショナル・トランスナショナルな問題にどのように応えていたかを検討する。「声明」とその議論の大部分は、日本国憲法と天皇制をめぐるネーションとしての「日本」の問題を引き受け、戦後の歴史化を迫った。一方で、アメリカや東アジアという「他者」を部分的に認識し、トランスナショナルな歴史観の中から暫定的な「日本」の理念を見出す可能性と限界を露わにした。これらの議論は、ポスト冷戦移行の中で一部の知識人が共有した、過去を歴史化することと、過去を超越して未来を創ることの葛藤と切迫感を表すものだった。
以上