同時代史学会2022年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)
*各報告については、①報告タイトル、②報告者(名前のよみ、所属等)、③報告要旨、の順で掲載しています。
*会場となる各教室の詳しい案内については、追って掲載いたします。
*すべての会場が対面報告となります。
A会場
報告A-1
① 財閥解体に伴う福利厚生組織の「解体」:三菱養和会の事例から
② 秦 文憲(はた・ふみのり、総合研究大学院大学大学院博士課程)
③ 本報告では、昭和15年に三菱財閥から分離して設立された財団法人である「三菱養和会」を取り上げ、戦中から敗戦直後の期間における当該団体の展開を追ってゆく。
三菱養和会は、三菱財閥の、スポーツをはじめとする娯楽活動を行う福利厚生の組織であったが、戦時中には急速にその規模を拡大させ、敗戦直後には財閥解体の影響により、三菱との関係を断つことになった。
本報告では、三菱養和会のこうした動向、特に敗戦直後の時期に注目して見ていくことを通じて、従来の研究では会社組織や会社重役の動向に注目が集まりがちであった財閥解体の、より広範な影響を、福利厚生という視点に着目して明らかにする。
また、三菱財閥時代における本社と各分系会社、解体後はかつて三菱財閥を構成していた各社間の繋がりを、三菱養和会の活動と施設の設置・廃止・売却といった資産の動向から明らかにしていく。
報告A-2
① 帝国陸海軍軍人の東京裁判対策とその歴史認識
② 中立悠紀(なかだて・ゆうき、明治大学研究・知財戦略機構研究推進員)
③ 東京裁判に関する研究は、粟屋憲太郎、大沼保昭、日暮吉延、宇田川幸大などが重要な研究成果を提出してきた。しかしながら、裁判に関わった人々が、この裁判を通じてどのような歴史認識・思想を培ったのかという視点は看過されてきた傾向がある。本報告では、裁判を「新たな戦争記憶の生成の場」として捉え、日本側で弁護支援に関わった旧軍人官僚の歴史認識・思想の内実を一次史料から分析し、これを通じてその後の歴史問題の一背景も描写する。
本報告における旧軍人官僚とは、厚生省の復員官署法務調査部門(法調)という戦犯裁判事務を所管した組織に所属した者たちを指す。この組織に属した旧帝国陸海軍の佐官級官僚たちは、サンフランシスコ講和条約発効後に戦犯釈放運動と、靖国神社への戦犯合祀を推進した者たちでもある。
報告では、a.彼らの裁判対策がどのような歴史認識のもとで形成され、b.彼らの歴史認識が裁判の過程でどのように変容したのか、という点を析出する。
報告A-3
① 占領期における日韓通商交渉の歴史的再検討
② 谷 京(たに・けい、一橋大学大学院法学研究科博士後期課程/学振DC2)
③ 本報告の目的は、敗戦後の日本経済再建構想における朝鮮半島の位置づけを確認したうえで、その延長線上にあった日韓通商交渉の展開過程と歴史的意義を再検討することである。具体的には、主として外務省外交史料館所蔵史料にもとづき、次のように論じる。
日本政府は、敗戦直後から東アジアとの分業関係にもとづく経済再建構想を打ち出し、特に日朝間の経済再結合を展望した。米国/GHQもまた、東アジアへの冷戦の波及にともない、日本経済の早期再建と自立化を志向するようになった。そして、韓国が日本経済の後背地となることへの期待とともに、日韓通商交渉は開始された。ところが、交渉は双方の思惑の違いから難航し、実際の日韓貿易額も伸び悩んだ。この日韓通商交渉の「失敗」は、その後の日韓関係に影響を与えたのみならず、1950年代の日本が東南アジアおよび中国・北朝鮮に対する「経済外交」を展開していく一因ともなった。
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B会場
報告B-1
① 尾崎行雄はなぜ選挙に落ちたのか:戦前派代議士と1953年総選挙という転換点
② 髙島 笙(たかしま・しょう、東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
③ 1953年、いわゆる「バカヤロー」解散によって、第26回衆議院議員総選挙が行われた。この総選挙は保守勢力の不調と左派社会党の躍進から、1955年体制への道程として理解されている。一方、この選挙では公職追放から復帰して前年1952年の第25回総選挙で当選した戦前派大物代議士が多く落選・引退しており、1955年体制と戦前派代議士の限界という二重の意味での転換点を形成している。
先行研究では第26回総選挙において戦前派が苦戦する様子が指摘されるものの、なぜ彼らが落選したのかについては検討されて来なかった。そこで本報告では、従来の研究ではあまり重要視されて来なかった戦前派の限界という転換点を、落選組の中で最も象徴的な人物である尾崎行雄とその後援会を事例に考察することで、戦前と戦後の議会政治の連続性を明らかにしたい。
報告B-2
① 売春防止法前史としての反基地運動:奈良R・Rセンターに反対した大学生たちの活動に着目して
② 松永健聖(まつなが・たけまさ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程)
③ 本報告は、1956年制定の売春防止法の前史として、米軍への反基地運動が与えた影響を明らかにするものである。
先行研究で、全国の「基地の街」での反基地運動が、米兵相手に性売買(セックスワーク)を行う「パンパン」の女性たちの追い出しを目的とし、各地で風紀取締条例を制定させたことが指摘されてきた。同条例は売春防止法の原案というべきものだが、運動内の対立を超え、多くの住民を巻き込んでの条例制定がどのように可能になったのかは明らかでない。
本報告では、「パンパン」の追い出しに教育関係者らが果たした役割に着目する。具体的には、1952年から53年まで設置された米軍施設の奈良R・Rセンターをめぐり、大学教員らの後押しのもと、センター廃止・「パンパン」反対の立場から運動した教育大生作成の史料や彼らへの聞き取りをもとに、子どもへの風紀問題を懸念する声が、地域での条例制定や「パンパン」の追い出しを強く推進した過程を描き出す。
報告B-3
① 高度成長期日本警察の「暴力犯罪」対策における「防犯」の上昇:東京・警視庁を中心に
② 渡邉啓太(わたなべ・けいた、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)
③ 戦後日本警察に関する批判的研究は、戦後の警察制度も警備・公安等の「政治警察」優位の体制として形成・維持されているがゆえに、刑事・防犯・交通・少年等の「市民警察」的活動においてその本来の任務からの逸脱が生じているということを、「政治警察」に従属し変容を被った「市民警察」的活動の事例を中心的に取り上げ論じる傾向にある。これに対し本報告では、警視庁を中心に、1950年代後半から1960年代前半における警察の「暴力犯罪」対策の変容の分析を通じて、「市民警察」的活動に付随する、「政治警察」優位の体制に還元しきることのできない統治と暴力の一断面を描くことを試みる。具体的には、1956年の「ぐれん隊」の大々的な問題化を契機に本格化する警察の「暴力犯罪」対策において、「市民警察」的活動としての防犯活動の重要性が年々増大していくことと、人びとの社会生活において警察のヘゲモニーの及ぶ領域が拡大していくこととの関係を考察する。
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C会場
報告C-1
① “生きた歴史”への模索:1970年代日本と雑誌『日本のなかの朝鮮文化』の実践
② 山口祐香(やまぐち・ゆうか、学振PD/神戸大学大学院国際協力研究科)
③ 本報告は、1969年に京都で創刊された歴史雑誌『日本のなかの朝鮮文化』(1969~81年)を手がかりに、1970年代における歴史実践の事例について跡付ける。同誌は、日本人の朝鮮観の変革を目指し、在日朝鮮人作家の金達寿や実業家の鄭詔文らを中心に、作家の司馬遼太郎や古代史研究者の上田正昭など、関西の知識人が協力して刊行された。日本と朝鮮半島に関わる歴史・文学・芸術などのテーマを取り上げる先駆的な雑誌として好評を博した。また、70年代における日韓連帯運動や関西の在日朝鮮人運動、歴史学界の変遷、メディアによって後押しされた「古代史ブーム」などの影響も受けながら、様々な背景をもつ日本人市民が熱心な読者となっている。報告では、70年代日本の社会的文化的背景を踏まえつつ、同誌の刊行に携わった在日朝鮮人・日本人たちの言説や活動の分析を行い、同誌の戦後市民運動史および在日朝鮮人運動史上における位置づけを検討する。
報告C-2
① 地域のなかのアジアと歴史問題:1970年代以降の神奈川における市民運動を中心に
② 櫻井すみれ(さくらい・すみれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
③ 本報告では、1970年以降の戦争や植民地支配に起因する歴史問題に取り組んだ市民運動を対象に、ローカルコミュニティのなかでいかにアジアと向き合ったのか、地域での活動に即して明らかにすることを課題とする。
具体的な考察対象として、1970年以降の神奈川における2つの事例を取り上げる。一つは、1976年から相模ダム建設における強制連行の史実解明と追悼行事を行ってきた市民団体、もう一つは80年代の神奈川における指紋押捺拒否運動の拒否者と日本の市民による活動である。市民グループが残した会のしおりやニューズレターの分析を通じて、地域における取り組みのなかで志向されたアジアとの共存について考える。
地域レベルからアジアへと繋がるこれらの事例は、当時の長洲一二県知事が提唱した「民際外交」とも共鳴しており、70年代の国際変動がローカルな次元に如何なる影響を与えたのか、その一端を考察する。
報告C-3
① 江藤淳と「無条件降伏」論争
② 多谷洋平(たや・ようへい、立命館大学大学院博士課程)
③ 本報告では、1978年に江藤淳と本多秋五らとの間で起こった「無条件降伏」論争を取り上げる。
「無条件降伏」論争は、江藤が第二次世界大戦での日本の無条件降伏を否定したことに対して、本多が反論したことで起こり、特に江藤の主張については様々な反応が示された。
同論争を仔細に見ていくと、江藤とほかの論者との間には認識の相違が生じており、江藤の主張が必ずしも理解を得られなかった様子が窺える。従来の研究でも同論争についてはしばしば言及されてきたが、こうした認識の相違に関しては着目されて来なかった。
本報告では、江藤とほかの論者の主張を対比して検討することで、いかなる認識の相違がなぜ生じたのかを考える。
以上の問題意識から本報告では、江藤やほかの論者がどのような主張を展開したのか、双方の間にはいかなる認識の相違が生じたのか、そうした相違はなぜ生じたのかを検討し、1970年代後半における歴史認識の一端を明らかにする。
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D会場
報告D-1
① 「女・子ども」目線の「満洲体験」:北村栄美さん(大古洞下伊那郷開拓団)の語りから
② 平井和子(ひらい・かずこ、一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員)
③ 下伊那郷送出の第八次大古洞開拓団に一家6人(父母、兄妹弟)で参加した北村栄美さん(1934年生)の聞き取りから、「女・子ども」目線で敗戦時の「満洲体験」を報告する。特に、成人女性たちがさらされていた性暴力に対する子どもたちの視点と危機に際しての結束力、また、ソ連軍の命令に応じて「提供させられた」2人の女性に関しても、団の公的記憶とは異なる事実があったことを、オーラル・ヒストリーの方法論とジェンダーの視点で考察する。
連日、「女狩り」に来るソ連兵から逃れるため、草原に身を隠す「おばさんたち」へ、兵士去来の合図を送るのは栄美さんたち子どもの役割であった。栄美さんはそのとき、子どもたちがつくった替え歌を今も口ずさむ。ソ連兵や「匪賊」の襲来は怖いけれども、帰ってしまえば不思議とあっけらかんとした明るさと、子どもだけの結束力に満ちた世界があった。敗戦、ソ連兵や「匪賊」の襲撃、飢えと寒さのなかの難民生活という悲惨さの極みのようにみえる状況も、「子ども」の目線でみると、また別の側面が浮かび上がってくる。
報告D-2
① 熊本県における戦争記憶の継承
② 江 山(ジャン・サン、鹿児島大学特任助教)
③ 本研究は熊本県の第二次世界大戦に関する戦争記憶がどのように継承されてきたのかを検討する。日本の戦争記憶の研究ではローカルレベル、地域社会レベルでの戦争記憶についての研究は十分ではないと指摘することができる。そしてローカルレベルとナショナルレベルの戦争記憶の関係性は解明されていない。ここで熊本県を取り上げるのは「軍都・熊本」として戦前までは陸軍第六師団が置かれ、また数多くの戦争遺跡が残っているからである。さらに戦後の熊本では空襲の語りも戦争遺跡の保存活用も活発である。これらの事例はローカルレベルの戦争記憶の形成の具体例として見ることができる。本研究では空襲に関する記録と継承活動、戦跡に関する記録と継承活動、熊本の地方メディアの役割を分析し、熊本県におけるローカルレベルの戦争記憶継承の進め方を概観する。そして戦後における熊本の戦争記憶の継承と地域性の関係に注目し、ローカルレベルとナショナルレベルの戦争記憶の関係性を考察する。
報告D-3
① 戦後補償問題史・再考
② 松田ヒロ子(まつだ・ひろこ、神戸学院大学現代社会学部教員)
③ 戦後補償問題については、これまで主に外交(国際政治)、裁判闘争、社会運動(市民運動)の三領域の動態に着目してその歴史が語られ、記述されてきた。本報告のねらいは、特に社会運動の動向を重視しながら、戦後補償問題の歴史を再考することにある。先行研究は、1990年代初頭をターニングポイントと捉える傾向にある。また、近隣東アジア諸国の市民からの戦後補償請求に対する日本の支援運動の展開を、日本の市民の「加害者意識」という側面から捉えようとする傾向もみられる。報告者は、1970年代半ばから1990年代前半まで展開した、台湾人元日本兵の戦後補償請求運動と、1990年代前半から2000年代前半までの「慰安婦」問題の解決に取り組んだ市民運動に着目し、運動を担った支援者に対するインタビューを含む調査を実施した。本報告はこれらの調査結果を提示しながら戦後補償問題の歴史を再考する。
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E会場
報告E-1
① 沖縄県祖国復帰運動における日の丸・君が代:沖縄教職員会と日教組の交流を通じて
② 冨永 望(とみなが・のぞむ、政治経済研究所研究員)
③ 戦後四半世紀にわたってアメリカの施政権下に置かれた沖縄では、沖縄県祖国復帰運動が展開されたが、その象徴となったのが日の丸掲揚運動であり、沖縄教職員会が呼びかけていたことはよく知られている。一方で、沖縄教職員会は、日の丸君が代に否定的見解を取った日教組との交流を進めていた。復帰運動にとってアメリカに対する抵抗の象徴であった日の丸は、アメリカが琉球諸島の日本復帰へ方針転換し、そして沖縄返還が軍事基地の継続を意味するものであることが明らかになるにつれて、日米軍事協力の象徴に読みかえられていく。しかし、沖縄県祖国復帰協議会と比較すると、沖縄教職員会が日の丸君が代の否定に踏み切るまでには時間がかかった。本報告の目的は、読谷村史編集室所蔵沖縄戦後教育史・復帰関連資料および日教組史料を用いて、日の丸君が代をめぐる沖縄教職員会の葛藤と、決別に至る過程を検証することにある。
報告E-2
① 1960年代前半の沖縄における革新批判の論理:宮城聰に即して
② 須田佳実(すだ・よしみ、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)
③ 本報告は、1960年代前半の沖縄における革新批判という言説が、どのような歴史的・社会的条件の下で形成されたのかを宮城聰(1895~1991年)に即して検討する。
宮城は、昭和初期の沖縄文学を代表する一人で、1920〜50年代を東京で過ごし、50年代末に沖縄に帰郷した人物である。帰郷後は、在京時代の「故郷」像に米軍占領下にある沖縄の現実を重ねあわせ、また復帰運動においては「革新」を批判した。
従来の研究では、『沖縄県史 第9巻』(琉球政府、1971年)において、住民の沖縄戦の体験を、聞き書きによって記録したことが高く評価されてきたが、聞き書きを始める以前の言論や沖縄をめぐる政治状況への認識については議論されていない。
報告では、1950年代末~60年代前半に、沖縄の新聞や雑誌に発表した文章や未発表原稿を史料として、在京時代の経験と60年代前半の同時代認識との連関に着目し、同時代における宮城の位置付けを分析する。
報告E-3
① 連邦裁判所の沖縄関係判決をめぐって:米国植民地主義史からの視点
② 土井智義(どい・ともよし、明治学院大学国際平和研究所助手)
③ 米国の沖縄統治は、主に軍事政策や日米関係、住民の政治/運動史の観点から分析されてきた。そのため、米国の法的・政治的な体制内部での沖縄の位置づけは十分に検討がなされていない。だが、当該期の米国の司法や法学は、沖縄関連の事件を扱うなかで、植民地支配で構築した資源(島嶼判決等)を通して沖縄を自国の法的・政治的な枠組みに位置づけた。
本報告では、米国統治下の沖縄に関する連邦裁判所判決、即ち沖縄が特定の連邦法にいう「外国」か否かを問うた判決や沖縄司法の米国市民に対する裁判権の合憲性を問うた判決を分析する。そして諸判決を、a.講和条約発効(1952年)まで、b.講和条約発効から大統領行政命令(1957年)まで、c.大統領行政命令以降の3つの時期に分け、それらが米国の法的・政治的な枠組みに沖縄をどう定位し、その地位がどう変遷した/しなかったかを検証し、沖縄統治が同国の植民地主義(プエルトリコ等)の延長線上にあったと論じる。
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F会場(9:30〜11:30)
報告F-1
① 両義的な願望:沖縄における「大東亜共栄圏」への協力
② 大久保由理(おおくぼ・ゆり、早稲田大学客員研究員)
③ 本報告では、「大東亜共栄圏」建設のため、帝国が実施した南方移民政策への沖縄の協力に焦点を当て、沖縄の人々の帝国への憧れと抵抗の間の緊張を探る。帝国の南進政策が推進された1940年代、沖縄の知識人は、県の豊富な南方移民実績に基づき、沖縄を「南進の先駆け」としてアピールした。日本帝国の一員として「他府県並」に認められることを望んだからである。沖縄県庁は、拓務省の要請を受けて南方移民のための訓練所、沖縄拓南訓練所と糸満拓南訓練所を設置し、映画制作に協力した。しかし、こうした協力体制は、時に沖縄のアイデンティティと対立するものであった。崩壊期の日本帝国は、共栄圏建設のために、沖縄に何を求め、沖縄の人びとは何を提供したのだろうか。その矛盾や両義性はどのように現れたのだろうか。本報告では、沖縄の知識人が『月刊文化沖縄』で論じた南進論を検証し、新聞、文化映画、公文書などから上記2つの訓練所の意味を追究する。
報告F-2
① 戦後の地方自治体における「国際交流」事業の源流:高知県南米移住家族会を中心に
② 村中大樹(むらなか・だいじゅ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程/学振DC2)
③ 本報告の目的は、戦後高知県における南米移住家族会の展開から、地方自治体における「国際交流」事業の源流を明らかにすることにある。まず、日本各地の移住者(留守)家族会及び海外移住家族会連合会の設立過程を整理し、民間で始まった家族会の動きが県下体制として戦後移住政策の一端に組み込まれていった経緯を示す。つぎに、移住家族会連合会会長がブラジル側の県人会統合組織の必要性を訴え、ブラジル日本都道府県連合会が設立され、家族会―県―県人会が密接な関係を築いたことを示す。さらに、高知県の家族会、県、県人会の具体的な活動実態から、いかにして県と移住地との関係が維持されたのかを明らかにする。以上の事例をもとに、移民と日本に残された家族とを結び付けようとする動きから始まった活動が、視察団の派遣や移住者子弟の研修制度といった「国際交流」事業として継続されたことの同時代史的な意味について考察したい。
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G会場 (11:30〜12:30)
① ポスト冷戦期における非核条例の歴史的一考察:非核自治体宣言の具現化として
② 浜 恵介(はま・けいすけ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程)
③ 本報告の課題は、1980年代に出現した非核自治体宣言が、遅ればせながらポスト冷戦期に、日本で初めて非核条例として域内からの核兵器の排除を具現化した事例に着目し、歴史的意味を解明することである。先行研究では1999年の高知県の失敗事例が着目されるが、成功事例について実証的な研究は行われていない。
非核条例は、藤沢市(1995年)・苫小牧市(2002年)・長崎県時津町(2008年)で制定された。これらは全て革新自治体であり、自治体側からの提起であった。藤沢市と苫小牧市では超党派の市民運動、時津町は被爆地という住民のコンセンサスが存在した。また藤沢市は中央政府が村山内閣という背景に対し、苫小牧市は日米安保の再定義のせめぎあいの中で制定されている。非核条例は後景に退いていくが、自治権をもとにした模索が求められている。
以上