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8月

2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)」

2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)」

日時

2024年12月7日

会場

駒澤大学 駒沢キャンパス 3号館(東京都世田谷区駒沢1-23-1)

全体会 13:30~17:30

<報告者>

長志珠絵(神戸大学)

「防空と銃後」(仮)

千地健太(東京大空襲・戦災資料センター学芸員)

「東京大空襲における朝鮮人の空襲被害ー実態、証言、展示ー」

<コメント>

田中利幸(歴史家)

伊香俊哉(都留文科大学)

趣旨文

空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)

空爆による無差別大量虐殺は、第一次世界大戦から本格的に始まり、第二次世界大戦を経て、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、シリア内戦、そして現在もなお続くロシアのウクライナ攻撃やイスラエルのガザ地区攻撃に至るまで、およそ100年以上にわたって連続している。

 第一次世界大戦後に戦略爆撃を体系化したイタリアの将軍ジュリオ・ドゥーエは、空爆は「残虐な特性にもかかわらず流血が少ないので、高い立場から見れば従来の戦闘よりも人道的である」と述べて、無差別爆撃を正当化した。加害者研究においても、被害者との物理的・心理的距離は罪責感を麻痺させ、加害行為を容易にすることが指摘されているが、「高い立場」から爆撃を命令し、爆弾投下を可能にした20世紀以降の「空の戦争」は、爆撃の下で苦しむ無数の人々の視点を完全に欠落させることで行われてきた。1970年代以降の空襲記録運動とその継承活動は、爆撃を受ける側の「空襲」の視点に立ち、こうした「高い立場」から攻撃を加える「空爆」を批判的に捉え返す営為であり、現在進行中の空爆の下で起きている現実と、今後長期にわたって続く破壊的な影響を人類につきつけている。

 一方、これまでも度々指摘されてきたように、帝国主義の時代に誕生した飛行機が初めて戦争の兵器として利用されたのは、バルカン半島と北アフリカでの植民地戦争からであり、日本も1930年に植民地統治下の台湾で起きた霧社事件の際に、空爆による大規模な「鎮圧」作戦を行った。また、十五年戦争において日本は、アメリカによる無差別爆撃の被害を受ける前に、錦州や南京、重慶に無差別爆撃を行う加害国でもあった。さらに、連合国軍側の攻撃対象は、大日本帝国の植民地や東南アジア各地の日本軍の拠点、「満洲」の満鉄沿線の工場地帯に及んだ。それだけではなく、原爆が投下された広島・長崎と同様に、東京や大阪などの大都市には、戦時労働力として動員された植民地出身の人々が居住しており、多くの人々が空襲の被害を受けた。彼らの被害はこれまであまり語られてこなかったが、被害の実態調査や、「創氏改名」後の日本人名で慰霊碑に記録されてきた名前を本名に変更する取り組みなどが近年市民活動によって進められている。彼らがなぜそこにいたのかをふまえれば、「日本国民の被害」として均質化されがちな空襲経験を、植民地支配責任の観点から再度捉え直す必要があるだろう。

 以上をふまえて、一人目の報告者である長志珠絵氏には、戦時下の「防空」の動員・管理の対象であった女性や植民地出身者について報告していただく。また二人目の千地健太氏には、東京大空襲戦災資料センターにおける朝鮮人被害者に関する展示の経緯について報告していただく。両報告を通じて、空爆/空襲論においては、顔も名前もない集合的な死者として、あるいは「庶民」「民衆」「日本人」として括られがちであった空襲言説をジェンダーと植民地主義の観点から再考する場となるであろう。また、コメンテーターは伊香俊哉氏と田中利幸氏に依頼した。

空襲/空爆の問題は、現在の日本社会とも無縁ではない。日本政府は植民地戦争や植民地支配に起因する空襲の被害者、中国への侵略戦争の際に行った爆撃の被害者に対する謝罪や賠償を行っておらず、国内の空襲被害者についても、「戦争被害受忍論」を理由に補償を拒み続けている。また、朝鮮戦争・ベトナム戦争の際には、在日米軍基地は米軍機の出撃・補給基地として無差別爆撃に関わった。そして、現在進行中の空爆による無差別大量虐殺を止めることができていない。本シンポジウムが、20世紀初頭から現在まで続く、無差別大量虐殺とその不処罰の歴史に抗するための議論の場となることを期待したい。

<主要参考文献>

荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波書店、2008年。

伊香俊哉『戦争はどう記憶されるのか 日中両国の共鳴と相剋』柏書房、2014年。

栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』岩波書店、2022年。

長志珠絵「『防空』のジェンダー ―戦前戦後における日本の空襲言説の変容と布置」『ジェンダー史学』11号、2005年。

長志珠絵「交差する植民地主義とジェンダー ―歴史認識としての空襲」『日本思想史研究会会報』39号、2009年。

田中利幸『空の戦争史』講談社、2008年。

塚崎昌之『大阪空襲と朝鮮人そして強制連行』大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会、2022年。

林博史『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』高文研、2023年。

前田哲男『戦略爆撃の思想 ―ゲルニカ、重慶、広島』凱風社、2006年。

2
8月

同時代史学会2024年度大会 自由論題報告者の募集

 同時代史学会2024年度大会 自由論題報告者の募集

今年度の同時代史学会年次大会は、本年12月7日(土)、駒澤大学(東京都世田谷区)にて開催の予定です。つきましては、当日午前中に実施される自由論題報告の報告者を募集します。日頃の研鑽を発表し合い、議論を交わせる貴重な機会です。会員の皆様には、ぜひ奮ってご応募くださいますよう、お願い申し上げます。

なお、機材や運営上の観点から、本年度の自由論題については原則、対面開催となります。この点、ご承知おきください。

1.日時:2024年12月7日(土) 午前10時開始(最大13時20分終了予定)

  *御一人の持ち時間は報告40分+討論20分=計1時間を想定してください。

2.場所:駒澤大学 駒沢キャンパス 3号館

*アクセス:https://www.komazawa-u.ac.jp/access/

*キャンパスマップ: https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/campus/komazawa.html

3.開催形態:対面開催

4.論題:日本を中心とする第二次世界大戦期以降の歴史を主な対象とする歴史的研究全般

5.エントリー資格:同時代史学会会員であること

  *非会員で応募される方は、エントリーと同時に入会手続きをお済ませください。

   参照・本会HP「入会のご案内」: http://www.doujidaishi.org/about/admission.html

  *当日、PCを利用される方は、御自身で持ち込みを御願いします(Mac使用の場合はアダプタも含む)。

6.エントリー方法:以下の項目を、電子メールか郵送で、下記9までお知らせください。

① 報告者氏名、及び現在の所属

② 報告タイトル

③ 報告要旨(400字以内)

7.採否:理事会で審査の上、9月末日までに応募者本人に直接採否を通知します。

8.締切:2024年8月31日(土)必着

9.応募及び問い合わせ先:戸邉秀明(自由論題担当理事・東京経済大学教員)

E-mail:tobe ★ tku.ac.jp

  〒185-8502 東京都国分寺市南町1-7-34 東京経済大学 戸邉秀明 宛

*郵送の場合、封筒に「同時代史学会自由論題応募」と書き添えてください。

以上

2
12月

同時代史学会2023年度大会 オンライン参加登録について(12月7日締切)

今年度の同時代史学会大会は、午後の全体会、および総会のみ、ハイブリッド開催します。

自由論題報告については、オンライン配信は行いませんのでご了承下さい。

オンラインから参加される方は、12月7日(木)までに、下記のフォームから登録して下さい。(メールニュースでご案内した申込締切を延長します)

※会場においでになる方は、登録は不要です。

 ZOOMのIDは、大会・総会の当日までに、【同時代史学会2023年大会(gakkaitaikai+2023doujidaishi ★ gmail.com)】よりお送りします。

※オンラインでの大会への参加は、同時代史学会会員、および会員の紹介がある方に限定します。

※オンラインでの総会への参加は、同時代史学会会員に限定します。

【大会参加登録フォーム】

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf2BCI67WAEZpObHdLvaOOs8G2oQ3K109tqzOfv5b6tlCMegA/viewform?usp=sf_link

28
11月

2023年度大会「安定化させる力学とかき消されていく声――1973年以降の水俣から考える」

同時代史学会2023年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

日時 2023年12月9日(土)
会場 東京経済大学国分寺キャンパス2号館(東京都国分寺市南町1-7-34)
(総会と全体会はハイブリッド開催、オンライン参加の場合は事前申し込みが必要です)

会場校へのアクセスの基本は国分寺駅南口より徒歩(所要12分)となります。
徒歩の道順、並びにバスのご利用の仕方については、以下の東京経済大学のHPを参照してください。
アクセス https://www.tku.ac.jp/access/kokubunji/
キャンパスマップ:https://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/

タクシーをご利用の場合は、東京経済大学の「東北門」へお回りください。なお、タクシーの構内(会場建物まで)への乗り入れはできません。

参加費 無料
日程
10:00~12:00 自由論題報告(対面のみ)
12:40~13:10 総会 (オンラインによる中継を予定)
13:30~17:40 全体会(オンラインによる中継を予定)
「安定化させる力学とかき消されていく声―1973年以降の水俣から考える―」
井上ゆかり( 熊本学園大学水俣学研究センター 研究員 )
原子栄一郎( 東京学芸大学環境教育研究センター 教員 )
遠藤邦夫 ( 水俣病センター相思社 元職員 )
18:00~   懇親会

※昼食をご持参ください。
当日は土曜日のため学内食堂(生協)は閉まっており、また大学の周囲には食堂がありません。昼食については、少し歩いたところにあるコンビニでご購入いただくか、事前にご用意いただくように御願いします。もちろん、国分寺の駅前まで戻られると、食べる場所には困りません。

25
10月

同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

*以下、会場ごとに、報告の①タイトル、②報告者(名前のよみ/所属等)、③要旨、の順で掲載しています。

*A~Eの全5会場は、すべて東京経済大学2号館の2階教室となります。

*開催形態は、全5会場とも、対面のみとなります。

A会場[B202[小教室]]

報告A-1

① 馬の食料化から考察する沖縄戦飢餓:沖縄島北部と宮古島の事例から

② 謝花直美(じゃはな・なおみ/同志社大学〈奄美₋沖縄₋琉球〉研究センター嘱託研究員)

③ 沖縄戦で飢餓をしのぐために馬を食べたという住民証言は多い。戦前には馬は沖縄各地の日本軍飛行場建設のための徴発、食糧増産の農耕、戦闘直前には住民立退き・避難の荷物車運搬に活用された。住民は所有する家畜の扱いにも制限を受けた。食糧確保が課題となった持久戦準備のために、沖縄県は家畜数を把握し所有者の自由屠畜を禁止した。管理が強化された家畜は豚の場合、連合軍侵攻前に多くが保存食糧にされたと考えられる。一方の馬については、日本軍徴発後からすでに食糧化が始まっており、戦争進行により統制・秩序も崩壊し 、飢餓拡大とともに住民もまた役畜であった馬を食糧としたと考えられる。本報告では、沖縄戦の飢餓拡大と深刻化を「馬を食べる」ことから明らかにしつつ、日本軍と住民、住民同士の対抗的関係について、立退き・避難地となった沖縄島北部と馬産地宮古島の例を通して考察する。

報告A-2

① 「戦後」台湾の経験と日本の社会運動:ライフヒストリーからの考察

② 松田京子(まつだ・きょうこ/南山大学人文学部教員)

③ 日本による植民地統治下の台湾で、植民地政府による学校教育を受けた台湾の人々のなかには、「戦後」の台湾で起こった二二八事件、その後の50年代白色テロルによって、大きな被害を被った人々がいる。「政治受難者」である彼ら彼女らは、例えば釈放後も日常生活の中で様々な困難を経験し、さらなる政治的な「受難」に直面する場合もあった。そのような中で、彼ら彼女らにとって日本語は「思考し表現するための主要言語」(洪郁如『誰の日本時代』法政大学出版局、2021年、p.6)であったといえる。日本統治期の経験は、ポストコロニアル状況の中で、彼ら彼女らにどのような影響を与えたのか。また彼ら彼女らにとって、「日本」とはどのような存在であったのか。また彼ら彼女らの「受難」に対して、「戦後」日本の社会運動はどのように向き合い、どのように関わったのだろうか。これらの問題を、ある夫妻のライフヒストリーにそって、具体的に考察してみたい。

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B会場[B203[小教室]]

報告B-1

① 占領期検閲と高群逸枝の女性史学

② 蔭木達也(かげき・たつや)

③ 近年、連合軍占領期検閲に関する研究が進展している。しかし、歴史学系の著作における占領期検閲の影響についての研究は、戦中と戦後の断絶に鑑みて、検閲の研究を分析する作業が困難な部分がある。戦中期に皇国史観を掲げた研究者は戦後、著作を発表する間も無く追放され、占領期検閲の影響を辿ることは難しい。逆に、津田左右吉など戦中期は弾圧されていて戦後すぐに活躍した歴史学者は、占領期検閲で大きな問題となるような論述をする必要がなかったため影響がわからない。占領期検閲の影響が最も強く現れるのは、戦前に皇国史観に近い立場から天皇に関する研究を行い、しかし戦後占領期検閲の影響を受け、自説に修正を加えて歴史研究を続けた歴史研究者に限られる。そこで本報告では、一九三一年から歴史研究の道に没頭し、戦中期も研究成果を書籍や論文で発表し、戦後まで継続的に日本女性史の研究に取り組んだ高群逸枝を取り上げ、GHQとの関わり、著作出版の経緯などを分析し、占領期検閲の歴史学への影響の一端を明らかにすることを試みたい。

報告B-2

① 毛呂清輝の戦後における言説

② 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)

③ 毛呂清輝(1913~78年)は、戦前から戦後にわたる昭和期に活動した「右翼」または「昭和維新」運動家である。國學院大學に在学中、神兵隊事件に参加した彼は、戦前期には大日本生産党や維新公論社等の組織に関与し、戦後には、機関誌『新勢力』の主幹を務め、同誌において影山正治や葦津珍彦、または鈴木邦男等、広く昭和期の右翼・愛国・保守運動を牽引した人物を、論客として多く呼び寄せた。

 毛呂が積極的に自らの思想を発信・展開するのは、戦後(公職追放の解除)を迎えてからである。自らが携わる『新勢力』をはじめとするメディアにおいて毛呂は、戦後日本における「国民運動」としての「昭和維新」を模索・提起したが、これまでその思想・活動について殆ど顧みられることがなかった。本発表では『新勢力』の他、『共通の広場』等のメディアにおける毛呂の言説を取り上げるとともに、「昭和維新」運動史上での毛呂の位置を明らかにする。

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C会場[B206[中教室]]

報告C-1

① 知識人たちの内灘闘争と内灘試射場返還

② 宮下祥子(みやした・しょうこ/立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)

③ 全国初の本格的な反米軍基地闘争として知られる内灘闘争(1952~53年)は、戦後日本の通史では必ず言及されるものの、本格的な歴史研究の対象とされる機会は稀であった。本報告は、清水幾太郎を中心とする論壇知識人と金沢在住知識人たちの議論を手がかりとして、内灘闘争および内灘試射場返還(1957年)の内実に、従来の歴史叙述とは別の角度から光を当てるものである。

 闘争時、外部の知識人・革新政党・労組・婦人団体等が盛んに内灘を訪れて重要なアクターとなったが、彼らの多くは、米軍基地問題の根本要因をなす日米安全保障条約の破棄を究極の目標としていた。他方で、内灘砂丘・海面の接収「絶対反対」を叫んだ内灘村民のほとんどは零細な農漁民であり、彼らにとっては生活権の擁護こそが差し迫った問題であった。両者の異質性は闘争の結末に決定的な影響を及ぼしたが、そこに向き合った知識人の議論と関与を明らかにすることで、闘争の再考を試みたい。

報告C-2

① 反戦・反軍運動と女性解放運動が交わる時:1970年代初頭の沖縄におけるウィメンズハウス

② 大野光明(おおの・みつあき/滋賀県立大学人間文化学部准教授)

③ 1972年秋、沖縄県コザ市にウィメンズハウスというスペースが米国のベトナム反戦運動団体パシフィック・カウンセリング・サーヴィス(PCS)によって開設された。PCSは1969年にカリフォルニア州で活動を始め、反戦意識をもつ兵士の抵抗をさまざまなかたちで支援していた。その後、PCSは米国西海岸の諸都市へ、そして1970年春以降には東京、沖縄、岩国、フィリピンなどへと活動拠点を広げた。ウィメンズハウスは沖縄駐留部隊に所属する女性、男性兵士の妻子、日本のウーマンリブ活動家、沖縄の女性などが、女性としての抑圧について自らの経験に即して話し、考え、解放を求めるスペースとして運営された。本報告では、ウィメンズハウスがなぜ、どのようにつくられたのか、また、どのような活動が行われたのか、文書資料とオーラルヒストリーから明らかにする。越境する女性運動と反戦運動の歴史を交差させ、70年代初頭の沖縄での取り組みの歴史、内容、意味を検討する。

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D会場[B204[演習室]]

報告D-1

① 1960年の日玖通商協定の締結と池田政権の対キューバ「独自路線」

② ロメロ・イサミ(ろめろ・いさみ/帯広畜産大学准教授)

③ 1959年の革命の勝利後、池田政権 (1960〜64年) は、米国の敵国であったにもかかわらず、日本はキューバに対して「独自路線」を展開した。なぜ日本はこのような外交を打ち上げたのか。先行研究では、日本のキューバ糖依存が強調されている。当時、キューバは日本の砂糖輸入先国の1つであった。そして1960年に締結した日玖通商協定によって日本政府は、キューバが価格競争力を維持する限り、年間45万トンの砂糖輸入をコミットメントしたのだ。したがって、1961年に米国政府が池田政権に対キューバ「封じ込め」政策への協力を求めたとき、日本は協力できなかった。国交を断絶すれば、国内砂糖が減少する可能性があったのである。

 しかし、田中高が2012年に『ラテンアメリカ・レポート』誌で掲載した論文「日本キューバ貿易小史-通商協定締結の軌跡」を除いて、日玖通商協定を1次史料で検証した研究は存在しない。本報告では、日・米・キューバの外交史料を軸に、池田政権の対キューバ「独自路線」に影響を及ぼした日玖通商協定の締結過程について論じる。

報告D-2

① 1982年歴史教科書問題発生時の日韓の反応と共同研究の流れ

② 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科国際地域文化専攻博士後期課程)

③ 本研究では、1982年に起こった歴史教科書問題について取り上げる。日韓の両国政府と政治家の動きは、先行研究を参照しながら、国会議事録、新聞記事を資料として分析した。世論の動向を知るための手段としては新聞記事を資料とし、それぞれ発行部数が第一・二位を占めている、日本の「読売新聞」「朝日新聞」、韓国の「朝鮮日報」「東亜日報」を分析対象とした。研究者の動きについては、先行研究の読み取りに加え、両国の関連学会の機関誌に掲載された声明等の分析を行った。

 また、このような摩擦を乗り越えるため、歴史共同研究の動きが活性化する傾向が見られた。これについては、先行研究や共同研究に参加した研究者が書いた文章に加え、共同研究の成果物として出版されている教材等を資料として調査を行った。対立と、乗り越えようとする動きの両面を見ることで、今後の日韓間における歴史・教育研究の道標を作るための一つの材料となることを目指したい。

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E会場[B205[演習室]]

報告E-1

① 江藤淳と1980年代初頭の憲法論争

② 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)

③ 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932~99年)が、自身のGHQ占領期の研究と関連する形で行った日本国憲法をめぐる主張と、それに対するメディア上での知識人の反応に焦点を合わせ、1980年代初頭における憲法論争を再検討する。

 1978年、文芸評論家・本多秋五らと第2次世界大戦における日本の降伏形態をめぐって、「無条件降伏」論争と呼ばれる論戦を繰り広げた江藤は、翌1979年10月から、米国ワシントンDCのウィルソン研究所を拠点に、占領期の言論検閲に関する資料の検索と検討を精力的に行っていく。また、江藤は言論検閲の研究と並行して、日本国憲法に関しても主張を行い、この点においてもメディア上で論戦が展開されていくこととなった。

 本報告では、江藤の日本国憲法をめぐる主張を整理するとともに、当時の知識人たちが江藤の議論にどのような反応を行ったのかを確認することで、1980年代初頭における憲法論争がいかなる意義を持つものであったのかを考察したい。

報告E-2

① ポスト冷戦移行期「日本」の自画像:「湾岸戦争に反対する文学者声明」をめぐる議論を中心に

② 名合史子(なごう・ふみこ/東京外国語大学大学院博士前期課程)

③ 1991年湾岸戦争のさなか、柄谷行人をはじめとした日本の一部の知識人が「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表した。この声明は、反戦という立場を表しただけでなく、ポスト冷戦世界における日本を再考するような意味合いを持つものだった。本報告では、「声明」とその批判を含めた同時代の議論の分析を通して、「声明」が「日本」をめぐるナショナル・トランスナショナルな問題にどのように応えていたかを検討する。「声明」とその議論の大部分は、日本国憲法と天皇制をめぐるネーションとしての「日本」の問題を引き受け、戦後の歴史化を迫った。一方で、アメリカや東アジアという「他者」を部分的に認識し、トランスナショナルな歴史観の中から暫定的な「日本」の理念を見出す可能性と限界を露わにした。これらの議論は、ポスト冷戦移行の中で一部の知識人が共有した、過去を歴史化することと、過去を超越して未来を創ることの葛藤と切迫感を表すものだった。

以上

16
10月

同時代史学会2023年度大会 趣旨文・報告要旨

【趣旨文】

 本年度は1973年に水俣病第1次訴訟の熊本地裁判決が出て50年の節目にあたる。そこで、同時代史学会では、「安定化させる力学とかき消されていく声ー1973年以降の水俣から考えるー」と題して大会企画を組んだ。

 2002年に設立された同時代史学会では、すでに2008年に「消費からみる同時代史」と題して、高度経済成長期の消費生活と公害問題のあり方について論じた。また、本年度5月に開催された歴史学研究会の現代史部会では、「社会運動と環境・民主主義― 新自由主義時代の民衆像を求めて―」と題する企画が組まれている。他方、1990年代から活動を続けている水俣フォーラムがこの秋「水俣・福岡展2023」を開催したほか、今月は2013年に発足した「公害資料館ネットワーク」のシンポジウムも予定されている。

 これらをふまえ、本企画では熊本地裁判決後の「水俣」について、被害者やその家族のその後の「生」のリアルや地域社会の実像をていねいに拾いながら、「かき消されていく声」を考察したいと考えた。その含意は以下の通りである。

 ある段階で社会的に喚起されたり再喚起されたりする問題は、そのつど「安定化」させる力学にさらされ、さまざまな現場の「声」がかき消されていく。今日の原発問題をはじめ、戦争や震災からの「復興」といった過程にも、同様の現象が見られるだろう。この「安定化」に関わる動きは多元的で複合的である。加害企業や行政による動きもあれば、メディアや一般的な世論の動きもある。地域社会内部でのさまざまな人間関係によってもそれはもたらされるだろう。大量消費社会や新自由主義によって痩せ細っていく公共圏の問題もある。アカデミズムや教育現場の関与も否定できない。

 1950年代に「奇病」として顕在化した水俣病は、1959年に新日本窒素肥料株式会社(以下チッソ)の工場排水による有機水銀中毒であることが熊本大学医学部の研究班によって特定されたが、行政やチッソの妨害などから被害者の訴えは封印された。1960年代後半に全国的に反公害の機運が高まるなか、1973年の熊本地裁判決によりチッソの加害責任が確定するが、それ以後も、補償協定をめぐる直接交渉が行われたほか、環境庁(当時)の定めた認定基準をめぐる未認定患者の問題は現在も係争中である(9月27日 大阪地裁判決)。その間、「水俣病関西訴訟」で国や県の行政責任が問われるなか(2004年10月15日最高裁判決)、国家による「和解」や「救済」にむけた取り組みがある一方で、水俣では市民同士の分断を修復する「もやい直し」の試みが1990年代以降取り組まれてきた。

 そうしたなかで水俣のローカルな現状は、ともすると美化され神話化される。その傾向は、アカデミズムの良心的な研究活動にも内在しうるし、「水俣を教える」という場面においても、無視できない傾向としてあるだろう。過去の問題を現在の問題に直結させて考える「非歴史的思考」の陥穽もある。リアルな(そして歴史的な)「人間」の存在がともすれば軽視されるこれらの傾向に対して、私たちはまず、生身で等身大の「水俣」が1973年以降も存在するという当たり前の事実を再確認したいと思う。そこには、被害者同士の軋轢や葛藤も当然含まれよう。そうしたローカルな視点を見失うことで、「安定化」させる力学に対して私たちは無防備となる。今回の大会では、被害者や地域社会の実像を美化することなく提示し、「かき消される声」や「安定化する力学」の具体像を1973~1990年代を軸に検討したいと思う。

 そこでまず井上ゆかり氏には、「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」と題して、1973年以降の「かき消されていく声」の実状を、女島の漁民やチッソ労働者の視点、また現在の胎児性世代の訴訟や認定されない被害当事者の状況などを中心に紹介していただく。これまで多くの患者さんに接してこられ、「人間の営みを中心とした理論形成」を志してこられた井上氏に、さまざまな立場をふまえた生のリアルを見据え、「安定化」させる力学にさらされた現場の視点から問題提起していただく。

 また、原子栄一郎氏には、「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」と題して、ご自身が経験された研究上の転回をふまえ、「チッソは私だ」という緒方正人さんの「魂」の視点から論じてもらう。緒方さんの視点は、加害企業や行政を免罪しかねない危険性があるものの、その視点を抜きにした社会批判もまた表面的なものになりかねない。水俣病事件を環境教育として取り上げるさい、その視点をいかに活かしたらよいか。ご提案いただければと思う。

 これら2つの報告をふまえ、患者支援団体である水俣病センター相思社の元職員・遠藤邦夫氏には、本企画担当者である及川英二郎との「対談」を通して、主に「もやい直し」に至る経緯やその歴史的意義について、「集合的トラウマ」の両義的側面などに着目しながら論じていただく。活動家として、また支援者として関わってこられたご経験をふまえ、社会運動のあり方やその限界について論点を提示していただければと思う。

 「安定化」させる力学がいまもなお作動ししつづけるなか、水俣が発信する問いは何か、それはどのようにして受け止められるべきか。「水俣」を論ずるさい、「公害」一般のなかでそれを普遍的に思考する視点とともに、その固有性を注視し、個々の「人間」に立脚点を見出しながら、「公害」だけではない他の諸問題とリンクさせて思考する視点が同時に求められよう。これら2つの視点は、せめぎ合い、かつ共存することで、より生産的な知見が得られるはずである。フロアからの積極的な参加を期待したい。

報告1:井上ゆかり(熊本学園大学水俣学研究センター)

「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」

 1973年の水俣病第一次訴訟判決から今年50年を迎えた。この判決では加害責任と一時金の賠償命令のみであったため、患者がチッソと直接交渉し現在の補償協定内容になった。翌年には認定申請患者協議会が結成され、いわゆる未認定患者総申請運動が始まり、係争課題は加害責任追及から水俣病かどうかに変わっていった。こうしたなかで幾度も被害当事者は声を上げ続け勝訴し、結果として国は1996年の水俣病総合対策医療事業から2005年、2009年と3度「チッソとの紛争状態の終結」として「行政責任は今後追及しない」ことを条件に和解施策をとってきた。しかし、この和解は必ずしも被害当事者側が望んだ形ではなかった。

 2023年9月27日に水俣病不知火患者会近畿訴訟大阪地裁判決で原告全員を水俣病と認める司法判断が下された。同訴訟の熊本や東京での判決も控え、さらには第二世代訴訟、また新潟の二次訴訟も続いている。事態が長期化するのは、 訴訟で原告が勝訴すれば潜在していた被害当事者が新たな認定申請者として増加するという状況が50年も続き、その反面、地元ではこれまでの和解が「水俣病ではないのに一時金を貰っている」という地域内での差別を生み出し、申請が抑制されていたからにほかならない。

 一方、水俣市議会の議会運営委員会は2019年に水俣病問題を審議する「公害環境対策特別委員会」の名称から「公害」を外す議案を可決し、2023年百間排水口の樋門撤去工事が突如発覚し被害者団体の抗議行動が起こった。水俣市長は「ここまで注目されるという認識はなかった。」と地元新聞の取材に答えている。 権力が公害への強い圧力を示す水俣において、被害当事者が声を上げ続けることは、その声をかき消そうとする圧力との闘いでもあった。一次訴訟原告は「人間としての復権」、いまの第二世代訴訟原告は「胎児性世代、不知火海沿岸住民を代表する闘い」だと表現する。

 この報告では、故原田正純らと地域に入り調査研究をすすめてきた経験を踏まえ、漁民やチッソ労働者らの現状と「かき消す」力とは何か、さらに研究者としての中立とは何か考えてみたい。

参考:井上ゆかり『生き続ける水俣病:漁村の社会学・医学的実証研究』(藤原書店、2020年)

報告2 原子栄一郎(東京学芸大学環境教育研究センター)

「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」

 現代環境教育の世界標準は、ESD(持続可能な開発のための教育)である。その根本課題は、「持続不可能な社会を支えている教育を考え直し、その向きを変えること」である。環境教育を担う者にとって、これは避けて通ることができない課題である。

 報告では、私の大学環境教育実践の試みを紹介する。実践では、教育にかかわる一人ひとりが自分を棚上げにしないで、自分のこととして根本課題を受け止め、<この私>はどこから来たのか、<この私>は何者か、<この私>はどこへ行くのかを、自分を振り返り、よく吟味し考えてみることを基本方針としている。このもとに、持続不可能な社会を象徴する水俣病を取り上げて、「一人の人間」として、いろいろな立場から水俣病に深く長くかかわった人(たち)に着目し、その人(たち)に関する文字資料を読み、映像資料がある場合には視聴して、その過程で<この私>は何をどのように感じたり、思ったり、考えたりしたか、自分の心の消息を綴り、クラスメートと共有し議論するワークを行っている。

 緒方正人さんは、このシリーズ「水俣病から考える」ワークの中で扱う「一人の人間」である。

 報告では、大学環境教育実践の概要を紹介した後、緒方さんの「魂のゆくえ」(栗原彬編『証言 水俣病』岩波書店、2000年)をテキストにして彼の来歴をたどる。その際、来歴の中に見て取ることができる「転生」と呼びうるような生の質的転換、特に「魂」の境地への到達と、それを引き起こした出来事や事情に注目する。その上で、2000年代半ばに研究上の「自己分裂」を引き起こしていた私に与えたインパクトを含め、水俣病を手掛かりにして現代環境教育の根本課題に取り組むことにおいて、緒方さんを考材とすることによって何がもたらされるか、現代環境教育の根本課題、人間として生きる、水俣病のとらえ方、環境教育のパラダイムなどとのかかわりでお話ししたいと思う。

1
10月

同時代史学会2023年度大会(第一報)

同時代史学会2023年度大会(第一報)

 同時代史学会2023年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

 詳報は改めてお知らせします。

12月9日(土) 

会場:東京経済大学

10:00〜12:00 自由論題報告(対面のみ)

12:40〜13:10 総会 (オンラインによる中継を予定)

13:30〜17:40 全体会(オンラインによる中継を予定)

「安定化させる力学とかき消されていく声―1973年以降の水俣から考える―」

井上ゆかり( 熊本学園大学水俣学研究センター 研究員 )

原子栄一郎( 東京学芸大学環境教育研究センター 教員 )

遠藤邦夫 ( 水俣病センター相思社 元職員 )

18:00〜   懇親会

10
7月

同時代史学会2023年度大会 自由論題報告者の募集

 同時代史学会2023年度大会 自由論題報告者の募集

今年度の同時代史学会年次大会は、本年12月9日(土)、東京経済大学(東京都国分寺市)にて開催の予定です。つきましては、当日午前中に実施される自由論題報告の報告者を募集します。日頃の研鑽を発表し合い、議論を交わせる貴重な機会です。会員の皆様には、ぜひ奮ってご応募くださいますよう、お願い申し上げます。

なお、機材や運営上の観点から、本年度の自由論題については原則、対面開催となります。この点、ご承知おきください。

1.日時:2023年12月9日(土) 午前10時開始(最大13時20分終了予定)

  *御一人の持ち時間は報告40分+討論20分=計1時間を想定してください。

2.場所:東京経済大学 国分寺キャンパス 2号館

*アクセス:https://www.tku.ac.jp/access/kokubunji/index.html

*キャンパスマップ: https://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/

3.開催形態:対面開催

4.論題:第二次世界大戦以後を主な対象とする歴史的研究全般

5.エントリー資格:同時代史学会会員であること

  *非会員で応募される方は、エントリーと同時に入会手続きをお済ませください。

   参照・本会HP「入会のご案内」: http://www.doujidaishi.org/about/admission.html

6.エントリー方法:以下の項目を、電子メールか郵送で、下記9までお知らせください。

① 報告者氏名、及び現在の所属

② 報告タイトル

③ 報告要旨(400字以内)

7.採否:理事会で審査の上、9月末日までに応募者本人に直接採否を通知します。

8.締切:2023年8月31日(木)必着

9.応募及び問い合わせ先:戸邉秀明(自由論題担当理事・東京経済大学教員)

E-mail:tobe ★ tku.ac.jp

  〒185-8502 東京都国分寺市南町1-7-34 東京経済大学 戸邉秀明 宛

*郵送の場合、封筒に「同時代史学会自由論題応募」と書き添えてください。

以上

11
11月

同時代史学会・2022年度大会 全体会報告要旨

全体会 「70年代の国際関係の変動の歴史的意義を考える」

【趣旨文】

 今年は沖縄返還、日中国交回復から50年という節目の年である。だがこれは独り日本という国に生じた特殊なエピソードというわけではない。そこには、1960年代半ばから米国が本格的に介入した冷戦の熱戦化の典型であるベトナム戦争や、それに端を発した反戦運動の興隆の影響があったことは明らかである。さらに、その背景には、いわゆる「1968」に象徴されるフェミニズムや労働疎外などに取り組む若者中心の広範な社会運動と、それを受けた各国の政治的動揺があった。

 同時に、国際関係そのものにも地殻変動が起き始めていた。西側諸国との経済・軍拡競争に疲弊したソ連・東欧圏の西側への接近と、それに端を発した中華人民共和国の立場の変化、「第三世界」勢力の登場と異議申し立てのインパクト等。新たな状況によって、第二次世界大戦の勝者たちが形成した戦後秩序にそもそも伴っていた妥協的側面の限界が露呈したことも、1970年代の変動の、より大きな背景を形成していた。1972年の2つの出来事は、その日本的な現れに他ならなかった。

 1970年代を1つの大きな時代の転換点とみる試みは、当然のことながらこれまでにも多数試みられている。同時代史学会でも、すでに2010年度大会「転形期―1968年以後」において、1960年代から80年代を1つの長い転換期と見立て、諸運動の転換とその意味を検討した。2017年度大会では歴史民俗博物館の企画展示と合わせ、「「1968年」を測り直す―運動と社会の連関、その歴史的射程」と題して、地球規模の共時性を持つ1968~69年の若者たちの運動の歴史的意義をあらためて掘り下げた。また2014年度の「『復帰』後の沖縄を歴史化する」では、沖縄に焦点を絞る形で、1972年以後の変動が持つ意味を再検討した。

 このような検討が進めば進むほど、1970年代の転換は、その後にどう活かされたのかという問いが浮上してくる。冷戦終焉直後の1990年代初頭には、それまでの運動の蓄積が戦争責任・植民地支配責任の問題などで多大な成果をもたらしたにも関わらず、その後、歴史修正主義と新自由主義に席巻されてしまったのはなぜか。この点についても、当会では2018年度大会で「転換期としての1990年代」と題して1990年代の歴史化を始め、2019年度大会「〈戦争の記憶〉をめぐる同時代史―歴史表現はどう向きあってきたか」では、90年代の遺産の前提にある、1970~80年代のさまざまな試みについて、表現方法の観点から検討を加えた。

 今年度はこれらの成果をふまえつつ、次のような視点で、議論をさらに展開していきたい。先に述べた、60年代後半に始まる国際的な文脈を、日本はどのように受けとめたのか。この点を、従来のように日米・日中といった大国間関係のなかだけで捉えるのではなく、新たな「国際関係」の視点を探ることで、重層的に理解する道を拓きたい。1970年代の日本において、その焦点のひとつはアジアといかに向き合ったかに絞られるが、それを今日、どの側面で捉え究明するのかが、同時代史の研究では試されるだろう。

 そこで本年度の大会では、以下の構成によって、1970年代の国際関係の変動が持つ歴史的意義を再考する。

 まず東アジア国際関係史を専門とする成田千尋氏に報告をお願いする。成田氏は、1972年の沖縄返還を、日米関係だけでなく、大韓民国や中華民国の側からも捉え直し、そこに関わる複数のアクターからポストコロニアルの課題を浮かびあがらせた。その成果をふまえ、1970年代の日本が、東アジアにおいて何を問われていたのかを浮き彫りにしていただく。

 次に、社会学を専門とする木下直子氏に報告をお願いする。「慰安婦」問題は1990年代になぜあのような形で注目されたのか、そしてそこで語られないものはなんだったのか。その究明には、60年代以来のフェミニズム言説を中心として、日本社会の「慰安婦」をめぐる言説史と、語る主体の歴史的検討が必要になる。この点を深めてこられた木下氏に、60~70年代のアジアとの直面がもたらしたインパクトと困難性を考察していただく。

 この2報告に対して、アメリカの国際関係思想史を起点として、国際関係における正義や記憶の問題を幅広く論じられている三牧聖子氏、沖縄における「慰安所」と地域住民との関係を拠点として、東アジアの戦争や植民地の記憶を捉え直されている洪玧伸(玧は王ヘンに「允」)氏のお二方にコメンテーターをお願いした。今回の主題に連なる多様な文脈を明らかにしていくことで、議論の豊富化を図りたい。

 以上の構成と当日の議論によって、1970年代像の更新や、1990年代半ば以降の大転換に至る歴史像の構築の一助となれば幸いである。

 参加者諸氏の活発なご議論を期待する。

【タイム・スケジュール】

 趣旨説明:13:30~13:40

<報告>

 成田千尋(立命館大学衣笠総合研究機構):13:40~14:30

  沖縄返還をめぐる東アジア諸国の歴史・安全保障認識

 木下直子(特定非営利活動法人社会理論・動態研究所):14:40~15:30

  70年代フェミニズムの感性を辿る――「慰安婦」とアジアをめぐって

<コメント>

 三牧聖子(同志社大学 大学院グローバル・スタディーズ研究科):15:40~16:00

 洪玧伸(玧は王ヘンに「允」)(一橋大学):16:00~16:20

 全体討論:16:30~17:30

【報告要旨】

沖縄返還をめぐる東アジア諸国の歴史・安全保障認識

成田千尋(立命館大学)

 第二次世界大戦後の日本において、米国の施政権下に置かれた沖縄の返還問題は、一義的に日米間の領土問題として捉えられていた。しかし、1960年代後半に日米間の沖縄返還交渉が本格化すると、沖縄米軍基地が自国の安全保障に不可欠な役割を果たしていると捉えていた大韓民国政府及び中華民国政府は、沖縄が日本に返還されると米軍基地の自由使用が不可能になり、基地機能が低下すると捉え、日米両政府に対して基地機能の維持を求めるようになった。他方で、大韓民国と敵対していた朝鮮民主主義人民共和国政府や、中華民国と敵対していた中華人民共和国政府は、沖縄基地の安全保障上の重要性を強調する日米両政府の沖縄返還に対する姿勢を批判する一方、沖縄は日本の一部だとして、沖縄及び日本で展開されていた日本復帰/沖縄返還運動に連帯しようとする意志を表明した。

 このような東アジア諸国の沖縄をめぐる意思の表明は、1972年に沖縄の施政権返還が実現するとともに見られなくなっていくが、沖縄の日本への返還問題は、米軍基地が置かれた沖縄の安全保障上の役割が変化する可能性とともに、かつては琉球王国という独立王国であった沖縄の地位の変遷を、周辺の東アジア諸国にも想起させることとなった。このため、東アジア諸国の沖縄返還をめぐる動向には、沖縄に対する認識とともに、当時の日本に対する認識も反映されていると考えられる。

 報告者はこれまで第二次世界大戦後から70年代にかけての沖縄返還をめぐる大韓民国政府及び中華民国政府の動向・認識の変化に注目して研究を行ってきた(『沖縄返還と東アジア冷戦体制:琉球/沖縄の帰属・基地問題の変容』人文書院、2020年)。だが、当時の東アジアの状況についてより深く理解するためには、両国と敵対していた朝鮮民主主義人民共和国政府及び中華人民共和国政府の動向や認識についても明らかにする必要があると考える。両国については入手できる史料の面で限界があるが、本報告では主に両国の新聞資料を活用し、沖縄返還をめぐる両国の動向・認識の変化を明らかにするとともに、これまでの大韓民国政府及び中華民国政府に関する研究の成果をあわせて検討することで、1970年代の日本が、東アジアにおいて何を問われていたのかを考えるための一助とすることを目指す。

70年代フェミニズムの感性を辿る――「慰安婦」とアジアをめぐって

木下直子(特定非営利活動法人社会理論・動態研究所)

 1970年代の日本では、後に第二波フェミニズムとして位置付けられるようになる「侵略=アジアと闘うアジア婦人会議」の運動やウーマン・リブ運動などが展開された。どちらも1970年より活動を始め、植民地支配以来の日本の加害が継続している状態を問題視し、日本の加害・女性の被害の象徴として「慰安婦」に言及するテクストを遺している。また、1976年には加納実紀代らにより銃後史研究が、1977年には松井やよりや富山妙子らにより「アジアの女たちの会」が立ち上げられた。これらの活動は、女性たちが具体的にアジアの諸外国と出会っていく経験となった。
 本報告では、こうした運動に携わったフェミニストたちの問題意識や活動を再評価し、彼女たちがどのように時代を捉えていたのか、日本とアジアとの関係性を軸に「慰安婦」に焦点を当て考察する。報告者は、自著『「慰安婦」問題の言説空間––日本人「慰安婦」の不可視化と現前』(2017年、勉誠出版)で「慰安婦」をめぐる言説史の一端に注目したが、本報告では個別の運動家の背景にも目を向け、アジアの国際関係の変化がいかに受け止められていたのかに注意を払いながら、当時の活動が後にどう生かされたか考察を試みる。世代により見えていたものが違うが、そこで切り拓かれたものを論じながら、1990年代以降の「慰安婦」運動に連なる系譜やその後の変化について検討する。

20
10月

同時代史学会2022年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

同時代史学会2022年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

*各報告については、①報告タイトル、②報告者(名前のよみ、所属等)、③報告要旨、の順で掲載しています。

*会場となる各教室の詳しい案内については、追って掲載いたします。

*すべての会場が対面報告となります。

A会場

報告A-1

① 財閥解体に伴う福利厚生組織の「解体」:三菱養和会の事例から

② 秦 文憲(はた・ふみのり、総合研究大学院大学大学院博士課程)

③ 本報告では、昭和15年に三菱財閥から分離して設立された財団法人である「三菱養和会」を取り上げ、戦中から敗戦直後の期間における当該団体の展開を追ってゆく。

 三菱養和会は、三菱財閥の、スポーツをはじめとする娯楽活動を行う福利厚生の組織であったが、戦時中には急速にその規模を拡大させ、敗戦直後には財閥解体の影響により、三菱との関係を断つことになった。

 本報告では、三菱養和会のこうした動向、特に敗戦直後の時期に注目して見ていくことを通じて、従来の研究では会社組織や会社重役の動向に注目が集まりがちであった財閥解体の、より広範な影響を、福利厚生という視点に着目して明らかにする。

 また、三菱財閥時代における本社と各分系会社、解体後はかつて三菱財閥を構成していた各社間の繋がりを、三菱養和会の活動と施設の設置・廃止・売却といった資産の動向から明らかにしていく。

報告A-2

① 帝国陸海軍軍人の東京裁判対策とその歴史認識

② 中立悠紀(なかだて・ゆうき、明治大学研究・知財戦略機構研究推進員)

③ 東京裁判に関する研究は、粟屋憲太郎、大沼保昭、日暮吉延、宇田川幸大などが重要な研究成果を提出してきた。しかしながら、裁判に関わった人々が、この裁判を通じてどのような歴史認識・思想を培ったのかという視点は看過されてきた傾向がある。本報告では、裁判を「新たな戦争記憶の生成の場」として捉え、日本側で弁護支援に関わった旧軍人官僚の歴史認識・思想の内実を一次史料から分析し、これを通じてその後の歴史問題の一背景も描写する。 

 本報告における旧軍人官僚とは、厚生省の復員官署法務調査部門(法調)という戦犯裁判事務を所管した組織に所属した者たちを指す。この組織に属した旧帝国陸海軍の佐官級官僚たちは、サンフランシスコ講和条約発効後に戦犯釈放運動と、靖国神社への戦犯合祀を推進した者たちでもある。

 報告では、a.彼らの裁判対策がどのような歴史認識のもとで形成され、b.彼らの歴史認識が裁判の過程でどのように変容したのか、という点を析出する。

報告A-3

① 占領期における日韓通商交渉の歴史的再検討

② 谷 京(たに・けい、一橋大学大学院法学研究科博士後期課程/学振DC2)

③ 本報告の目的は、敗戦後の日本経済再建構想における朝鮮半島の位置づけを確認したうえで、その延長線上にあった日韓通商交渉の展開過程と歴史的意義を再検討することである。具体的には、主として外務省外交史料館所蔵史料にもとづき、次のように論じる。

 日本政府は、敗戦直後から東アジアとの分業関係にもとづく経済再建構想を打ち出し、特に日朝間の経済再結合を展望した。米国/GHQもまた、東アジアへの冷戦の波及にともない、日本経済の早期再建と自立化を志向するようになった。そして、韓国が日本経済の後背地となることへの期待とともに、日韓通商交渉は開始された。ところが、交渉は双方の思惑の違いから難航し、実際の日韓貿易額も伸び悩んだ。この日韓通商交渉の「失敗」は、その後の日韓関係に影響を与えたのみならず、1950年代の日本が東南アジアおよび中国・北朝鮮に対する「経済外交」を展開していく一因ともなった。

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B会場

報告B-1

① 尾崎行雄はなぜ選挙に落ちたのか:戦前派代議士と1953年総選挙という転換点

② 髙島 笙(たかしま・しょう、東北大学大学院文学研究科博士後期課程)

③ 1953年、いわゆる「バカヤロー」解散によって、第26回衆議院議員総選挙が行われた。この総選挙は保守勢力の不調と左派社会党の躍進から、1955年体制への道程として理解されている。一方、この選挙では公職追放から復帰して前年1952年の第25回総選挙で当選した戦前派大物代議士が多く落選・引退しており、1955年体制と戦前派代議士の限界という二重の意味での転換点を形成している。

 先行研究では第26回総選挙において戦前派が苦戦する様子が指摘されるものの、なぜ彼らが落選したのかについては検討されて来なかった。そこで本報告では、従来の研究ではあまり重要視されて来なかった戦前派の限界という転換点を、落選組の中で最も象徴的な人物である尾崎行雄とその後援会を事例に考察することで、戦前と戦後の議会政治の連続性を明らかにしたい。

報告B-2

① 売春防止法前史としての反基地運動:奈良R・Rセンターに反対した大学生たちの活動に着目して

② 松永健聖(まつなが・たけまさ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程)

③ 本報告は、1956年制定の売春防止法の前史として、米軍への反基地運動が与えた影響を明らかにするものである。

 先行研究で、全国の「基地の街」での反基地運動が、米兵相手に性売買(セックスワーク)を行う「パンパン」の女性たちの追い出しを目的とし、各地で風紀取締条例を制定させたことが指摘されてきた。同条例は売春防止法の原案というべきものだが、運動内の対立を超え、多くの住民を巻き込んでの条例制定がどのように可能になったのかは明らかでない。

 本報告では、「パンパン」の追い出しに教育関係者らが果たした役割に着目する。具体的には、1952年から53年まで設置された米軍施設の奈良R・Rセンターをめぐり、大学教員らの後押しのもと、センター廃止・「パンパン」反対の立場から運動した教育大生作成の史料や彼らへの聞き取りをもとに、子どもへの風紀問題を懸念する声が、地域での条例制定や「パンパン」の追い出しを強く推進した過程を描き出す。

報告B-3

① 高度成長期日本警察の「暴力犯罪」対策における「防犯」の上昇:東京・警視庁を中心に

② 渡邉啓太(わたなべ・けいた、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)

③ 戦後日本警察に関する批判的研究は、戦後の警察制度も警備・公安等の「政治警察」優位の体制として形成・維持されているがゆえに、刑事・防犯・交通・少年等の「市民警察」的活動においてその本来の任務からの逸脱が生じているということを、「政治警察」に従属し変容を被った「市民警察」的活動の事例を中心的に取り上げ論じる傾向にある。これに対し本報告では、警視庁を中心に、1950年代後半から1960年代前半における警察の「暴力犯罪」対策の変容の分析を通じて、「市民警察」的活動に付随する、「政治警察」優位の体制に還元しきることのできない統治と暴力の一断面を描くことを試みる。具体的には、1956年の「ぐれん隊」の大々的な問題化を契機に本格化する警察の「暴力犯罪」対策において、「市民警察」的活動としての防犯活動の重要性が年々増大していくことと、人びとの社会生活において警察のヘゲモニーの及ぶ領域が拡大していくこととの関係を考察する。

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C会場

報告C-1

① “生きた歴史”への模索:1970年代日本と雑誌『日本のなかの朝鮮文化』の実践

② 山口祐香(やまぐち・ゆうか、学振PD/神戸大学大学院国際協力研究科)

③ 本報告は、1969年に京都で創刊された歴史雑誌『日本のなかの朝鮮文化』(1969~81年)を手がかりに、1970年代における歴史実践の事例について跡付ける。同誌は、日本人の朝鮮観の変革を目指し、在日朝鮮人作家の金達寿や実業家の鄭詔文らを中心に、作家の司馬遼太郎や古代史研究者の上田正昭など、関西の知識人が協力して刊行された。日本と朝鮮半島に関わる歴史・文学・芸術などのテーマを取り上げる先駆的な雑誌として好評を博した。また、70年代における日韓連帯運動や関西の在日朝鮮人運動、歴史学界の変遷、メディアによって後押しされた「古代史ブーム」などの影響も受けながら、様々な背景をもつ日本人市民が熱心な読者となっている。報告では、70年代日本の社会的文化的背景を踏まえつつ、同誌の刊行に携わった在日朝鮮人・日本人たちの言説や活動の分析を行い、同誌の戦後市民運動史および在日朝鮮人運動史上における位置づけを検討する。

報告C-2

① 地域のなかのアジアと歴史問題:1970年代以降の神奈川における市民運動を中心に

② 櫻井すみれ(さくらい・すみれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

③ 本報告では、1970年以降の戦争や植民地支配に起因する歴史問題に取り組んだ市民運動を対象に、ローカルコミュニティのなかでいかにアジアと向き合ったのか、地域での活動に即して明らかにすることを課題とする。

 具体的な考察対象として、1970年以降の神奈川における2つの事例を取り上げる。一つは、1976年から相模ダム建設における強制連行の史実解明と追悼行事を行ってきた市民団体、もう一つは80年代の神奈川における指紋押捺拒否運動の拒否者と日本の市民による活動である。市民グループが残した会のしおりやニューズレターの分析を通じて、地域における取り組みのなかで志向されたアジアとの共存について考える。

 地域レベルからアジアへと繋がるこれらの事例は、当時の長洲一二県知事が提唱した「民際外交」とも共鳴しており、70年代の国際変動がローカルな次元に如何なる影響を与えたのか、その一端を考察する。

報告C-3

① 江藤淳と「無条件降伏」論争

② 多谷洋平(たや・ようへい、立命館大学大学院博士課程)

③ 本報告では、1978年に江藤淳と本多秋五らとの間で起こった「無条件降伏」論争を取り上げる。

 「無条件降伏」論争は、江藤が第二次世界大戦での日本の無条件降伏を否定したことに対して、本多が反論したことで起こり、特に江藤の主張については様々な反応が示された。

 同論争を仔細に見ていくと、江藤とほかの論者との間には認識の相違が生じており、江藤の主張が必ずしも理解を得られなかった様子が窺える。従来の研究でも同論争についてはしばしば言及されてきたが、こうした認識の相違に関しては着目されて来なかった。

 本報告では、江藤とほかの論者の主張を対比して検討することで、いかなる認識の相違がなぜ生じたのかを考える。

 以上の問題意識から本報告では、江藤やほかの論者がどのような主張を展開したのか、双方の間にはいかなる認識の相違が生じたのか、そうした相違はなぜ生じたのかを検討し、1970年代後半における歴史認識の一端を明らかにする。

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D会場

報告D-1

① 「女・子ども」目線の「満洲体験」:北村栄美さん(大古洞下伊那郷開拓団)の語りから

② 平井和子(ひらい・かずこ、一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員)

③ 下伊那郷送出の第八次大古洞開拓団に一家6人(父母、兄妹弟)で参加した北村栄美さん(1934年生)の聞き取りから、「女・子ども」目線で敗戦時の「満洲体験」を報告する。特に、成人女性たちがさらされていた性暴力に対する子どもたちの視点と危機に際しての結束力、また、ソ連軍の命令に応じて「提供させられた」2人の女性に関しても、団の公的記憶とは異なる事実があったことを、オーラル・ヒストリーの方法論とジェンダーの視点で考察する。

 連日、「女狩り」に来るソ連兵から逃れるため、草原に身を隠す「おばさんたち」へ、兵士去来の合図を送るのは栄美さんたち子どもの役割であった。栄美さんはそのとき、子どもたちがつくった替え歌を今も口ずさむ。ソ連兵や「匪賊」の襲来は怖いけれども、帰ってしまえば不思議とあっけらかんとした明るさと、子どもだけの結束力に満ちた世界があった。敗戦、ソ連兵や「匪賊」の襲撃、飢えと寒さのなかの難民生活という悲惨さの極みのようにみえる状況も、「子ども」の目線でみると、また別の側面が浮かび上がってくる。

報告D-2

① 熊本県における戦争記憶の継承

② 江 山(ジャン・サン、鹿児島大学特任助教)

③ 本研究は熊本県の第二次世界大戦に関する戦争記憶がどのように継承されてきたのかを検討する。日本の戦争記憶の研究ではローカルレベル、地域社会レベルでの戦争記憶についての研究は十分ではないと指摘することができる。そしてローカルレベルとナショナルレベルの戦争記憶の関係性は解明されていない。ここで熊本県を取り上げるのは「軍都・熊本」として戦前までは陸軍第六師団が置かれ、また数多くの戦争遺跡が残っているからである。さらに戦後の熊本では空襲の語りも戦争遺跡の保存活用も活発である。これらの事例はローカルレベルの戦争記憶の形成の具体例として見ることができる。本研究では空襲に関する記録と継承活動、戦跡に関する記録と継承活動、熊本の地方メディアの役割を分析し、熊本県におけるローカルレベルの戦争記憶継承の進め方を概観する。そして戦後における熊本の戦争記憶の継承と地域性の関係に注目し、ローカルレベルとナショナルレベルの戦争記憶の関係性を考察する。

報告D-3

① 戦後補償問題史・再考

② 松田ヒロ子(まつだ・ひろこ、神戸学院大学現代社会学部教員)

③ 戦後補償問題については、これまで主に外交(国際政治)、裁判闘争、社会運動(市民運動)の三領域の動態に着目してその歴史が語られ、記述されてきた。本報告のねらいは、特に社会運動の動向を重視しながら、戦後補償問題の歴史を再考することにある。先行研究は、1990年代初頭をターニングポイントと捉える傾向にある。また、近隣東アジア諸国の市民からの戦後補償請求に対する日本の支援運動の展開を、日本の市民の「加害者意識」という側面から捉えようとする傾向もみられる。報告者は、1970年代半ばから1990年代前半まで展開した、台湾人元日本兵の戦後補償請求運動と、1990年代前半から2000年代前半までの「慰安婦」問題の解決に取り組んだ市民運動に着目し、運動を担った支援者に対するインタビューを含む調査を実施した。本報告はこれらの調査結果を提示しながら戦後補償問題の歴史を再考する。

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E会場

報告E-1

① 沖縄県祖国復帰運動における日の丸・君が代:沖縄教職員会と日教組の交流を通じて

② 冨永 望(とみなが・のぞむ、政治経済研究所研究員)

③ 戦後四半世紀にわたってアメリカの施政権下に置かれた沖縄では、沖縄県祖国復帰運動が展開されたが、その象徴となったのが日の丸掲揚運動であり、沖縄教職員会が呼びかけていたことはよく知られている。一方で、沖縄教職員会は、日の丸君が代に否定的見解を取った日教組との交流を進めていた。復帰運動にとってアメリカに対する抵抗の象徴であった日の丸は、アメリカが琉球諸島の日本復帰へ方針転換し、そして沖縄返還が軍事基地の継続を意味するものであることが明らかになるにつれて、日米軍事協力の象徴に読みかえられていく。しかし、沖縄県祖国復帰協議会と比較すると、沖縄教職員会が日の丸君が代の否定に踏み切るまでには時間がかかった。本報告の目的は、読谷村史編集室所蔵沖縄戦後教育史・復帰関連資料および日教組史料を用いて、日の丸君が代をめぐる沖縄教職員会の葛藤と、決別に至る過程を検証することにある。

報告E-2

① 1960年代前半の沖縄における革新批判の論理:宮城聰に即して

② 須田佳実(すだ・よしみ、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)

③ 本報告は、1960年代前半の沖縄における革新批判という言説が、どのような歴史的・社会的条件の下で形成されたのかを宮城聰(1895~1991年)に即して検討する。

 宮城は、昭和初期の沖縄文学を代表する一人で、1920〜50年代を東京で過ごし、50年代末に沖縄に帰郷した人物である。帰郷後は、在京時代の「故郷」像に米軍占領下にある沖縄の現実を重ねあわせ、また復帰運動においては「革新」を批判した。

 従来の研究では、『沖縄県史 第9巻』(琉球政府、1971年)において、住民の沖縄戦の体験を、聞き書きによって記録したことが高く評価されてきたが、聞き書きを始める以前の言論や沖縄をめぐる政治状況への認識については議論されていない。

 報告では、1950年代末~60年代前半に、沖縄の新聞や雑誌に発表した文章や未発表原稿を史料として、在京時代の経験と60年代前半の同時代認識との連関に着目し、同時代における宮城の位置付けを分析する。

報告E-3

① 連邦裁判所の沖縄関係判決をめぐって:米国植民地主義史からの視点

② 土井智義(どい・ともよし、明治学院大学国際平和研究所助手)

③ 米国の沖縄統治は、主に軍事政策や日米関係、住民の政治/運動史の観点から分析されてきた。そのため、米国の法的・政治的な体制内部での沖縄の位置づけは十分に検討がなされていない。だが、当該期の米国の司法や法学は、沖縄関連の事件を扱うなかで、植民地支配で構築した資源(島嶼判決等)を通して沖縄を自国の法的・政治的な枠組みに位置づけた。

 本報告では、米国統治下の沖縄に関する連邦裁判所判決、即ち沖縄が特定の連邦法にいう「外国」か否かを問うた判決や沖縄司法の米国市民に対する裁判権の合憲性を問うた判決を分析する。そして諸判決を、a.講和条約発効(1952年)まで、b.講和条約発効から大統領行政命令(1957年)まで、c.大統領行政命令以降の3つの時期に分け、それらが米国の法的・政治的な枠組みに沖縄をどう定位し、その地位がどう変遷した/しなかったかを検証し、沖縄統治が同国の植民地主義(プエルトリコ等)の延長線上にあったと論じる。

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F会場(9:30〜11:30)

報告F-1

① 両義的な願望:沖縄における「大東亜共栄圏」への協力

② 大久保由理(おおくぼ・ゆり、早稲田大学客員研究員)

③ 本報告では、「大東亜共栄圏」建設のため、帝国が実施した南方移民政策への沖縄の協力に焦点を当て、沖縄の人々の帝国への憧れと抵抗の間の緊張を探る。帝国の南進政策が推進された1940年代、沖縄の知識人は、県の豊富な南方移民実績に基づき、沖縄を「南進の先駆け」としてアピールした。日本帝国の一員として「他府県並」に認められることを望んだからである。沖縄県庁は、拓務省の要請を受けて南方移民のための訓練所、沖縄拓南訓練所と糸満拓南訓練所を設置し、映画制作に協力した。しかし、こうした協力体制は、時に沖縄のアイデンティティと対立するものであった。崩壊期の日本帝国は、共栄圏建設のために、沖縄に何を求め、沖縄の人びとは何を提供したのだろうか。その矛盾や両義性はどのように現れたのだろうか。本報告では、沖縄の知識人が『月刊文化沖縄』で論じた南進論を検証し、新聞、文化映画、公文書などから上記2つの訓練所の意味を追究する。

報告F-2

① 戦後の地方自治体における「国際交流」事業の源流:高知県南米移住家族会を中心に

② 村中大樹(むらなか・だいじゅ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程/学振DC2)

③ 本報告の目的は、戦後高知県における南米移住家族会の展開から、地方自治体における「国際交流」事業の源流を明らかにすることにある。まず、日本各地の移住者(留守)家族会及び海外移住家族会連合会の設立過程を整理し、民間で始まった家族会の動きが県下体制として戦後移住政策の一端に組み込まれていった経緯を示す。つぎに、移住家族会連合会会長がブラジル側の県人会統合組織の必要性を訴え、ブラジル日本都道府県連合会が設立され、家族会―県―県人会が密接な関係を築いたことを示す。さらに、高知県の家族会、県、県人会の具体的な活動実態から、いかにして県と移住地との関係が維持されたのかを明らかにする。以上の事例をもとに、移民と日本に残された家族とを結び付けようとする動きから始まった活動が、視察団の派遣や移住者子弟の研修制度といった「国際交流」事業として継続されたことの同時代史的な意味について考察したい。

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G会場 (11:30〜12:30)

① ポスト冷戦期における非核条例の歴史的一考察:非核自治体宣言の具現化として

② 浜 恵介(はま・けいすけ、大阪大学大学院人文学研究科博士後期課程)

③ 本報告の課題は、1980年代に出現した非核自治体宣言が、遅ればせながらポスト冷戦期に、日本で初めて非核条例として域内からの核兵器の排除を具現化した事例に着目し、歴史的意味を解明することである。先行研究では1999年の高知県の失敗事例が着目されるが、成功事例について実証的な研究は行われていない。

 非核条例は、藤沢市(1995年)・苫小牧市(2002年)・長崎県時津町(2008年)で制定された。これらは全て革新自治体であり、自治体側からの提起であった。藤沢市と苫小牧市では超党派の市民運動、時津町は被爆地という住民のコンセンサスが存在した。また藤沢市は中央政府が村山内閣という背景に対し、苫小牧市は日米安保の再定義のせめぎあいの中で制定されている。非核条例は後景に退いていくが、自治権をもとにした模索が求められている。

以上