第2号 (2003年3月) ISSN 1347-7587
議事録にもあると思いますが、選挙の結果、同時代史学会代表に選ばれてしまいました。個人的にはお許しいただきたいと思っているのですが、多くの方々のご意向ですので、お引き受けさせていただくことになりました。
この同時代史学会は昨年12月、第1回総会を行って船出したばかりで、まだ全体像はよく見えていません。現在は、まず年数回の研究会を持続的に実施しながら、そのテーマの広がりとコメントの多角性を通して、この学会のイメージを作り上げていくこと、これが現状では大きな牽引力になっていると思います。またニューズレターを通して、その研究会の成果を広く知ってもらい、そこでは会員相互の交流の広場を作りたいと考えています。そして年一回の総会にはいわば総力を結集したアイディアとテーマで、この学会の特徴をアピールし、また当面、経済的な理由で年報発刊はむずかしいのですが、できれば単発の単行本の刊行を積み重ねていきたいと計画しています(目下、第1回総会の記録集の編集が進行中)。こうした幾層にわたる活動を通して、会員を拡大し、しっかりした年報をもった一人前の学会に成長することを展望する、これが掛け値なしの現状といえるでしょう。
そしてこうした道筋を一歩づつ確かめながら、従来の学会とはちがう「市民に開かれた集団」(私の個人的で究極のイメージでいえば、市民を主体として研究者がそこから学ぶ相互交流)の実質が形づくられていくことを、遠い夢のように描いていたいと思っています。またなるべく早い時期での若い世代へのバトンタッチが必要でしょうね。こうした軌道に一日も早く乗せるため、そんな過渡期を埋める役割と自覚し、微力を尽くしたいと思っております。あわせて、何よりも会員の皆さまの積極的参加とご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。
同時代史学会の第2回の研究会が、2002年10月14日(土)に立教大学で開かれました。その時の報告要旨と参加記を掲載します。
本報告は、「企業社会」すなわち、企業を中心とした国家、社会構造が確立されたとされる1960年代を、これまであまり触れられてこなかった財界の動向から跡づけるものである。
この60年代が大きな画期だったとする説については、例えば労働運動については、大企業労組を組織した64年のIMF‐JC(金属労協)の成立などを背景に、下山房雄が65年転機説を唱えているのが代表的である。また、経済史的に見れば、65年は鉄鋼産業が輸出産業として軌道に乗った年でもあった。
さらに、政治史的に見れば、渡辺治が指摘する、「戦後型政治」が確立するのも、60年代の池田内閣、佐藤内閣下であり、タカ派的な人物と目されていた両者が、自身の政権の最中には憲法改正は行わないと宣言したことこそそのメルクマールであった。
しかしながら、50年代の半ばから高度経済成長が始まり、60年の貿易自由化、65年の証券不況といった問題をはらみながらも、それが一貫した成長過程であると捉えられることが多かったためか、その経済成長の源泉である企業、そして企業政治的意志をまとめ上げ、政治に反映させる機構としての「財界」についてはあまり注意が払われてこなかったように思われる。
実は60年代こそ90年代と並んで日本の財界が最も意見対立を極めた時代であり、それは国民所得倍増計画に則った高度成長を企図するグループと、それを否定する安定成長を企図するグループとの対立であった。後の経過からは高度成長派に安定成長派が道を譲ったことが明らかだが、池田や佐藤の政策はそうした財界内の合意形成が大きな機動力になっていたことは疑いない。
以下、このような問題関心を起点として、第一点として、国民所得倍増計画をめぐる財界内の対立、第二点として、証券不況を契機とした安定成長派と高度成長派の妥協の過程、そして第三点として、高度成長路線に統一された財界が、70年の新日鉄の誕生を境に、今度は国民からの広範な批判によって再び分裂するまでを報告する。
「国民所得倍増計画」は、財界側の観点からみると、次の三つの特徴がある。第一に、決して官僚統制的な経済計画ではなく、あくまで企業を「誘導」するものにとどまったことである。これは経団連によれば、57年の「新長期経済計画」の段階で確立された、官僚機構との関係、すなわち非統制的な経済成長支援政策という枠組みの現れであった。
第二に、「国民所得倍増計画」には少なくとも二つ、経企庁が作った案と、財界主流が多数関与して作成した、「日本経済の長期展望」とがあった。これに池田勇人のブレイン、宏池会が下村治の影響下で作成した「自民新政策」、これを入れると実に三つの潮流があった。池田側近の財界人、「財界四天王」、すなわち小林中、永野重雄、水野成夫、桜田武といった面々は、この「自民新政策」の側に関与していた。
第三に、「所得倍増計画」は、太平洋ベルト地帯への資源の集中を優先させ、社会保障よりもまず経済成長を優先する、という路線を採っていた。「財界四天王」が働きかけた、「日本のニューディール」という路線や、賀屋興宣の「共産革命を防ぐために社会保障を」という路線は後景に退いていた。
これらの特徴は、周知の通り、安保闘争の直後、池田がチェンジ・オブ・ペースを印象づけるために閣議決定を急いだため、成長率は最も高い下村案である9%へ収斂し、全体としては財界案である長期計画案に極めて近いものとなったことからもたらされたものであった。
総じて見れば、初期の池田政権は、さしあたり国民に「低姿勢」で「経済の季節」を演出し、高度成長政策を推し進めるために石炭産業に「高姿勢」で臨んだというものであった。その意味では一時的に財界内の合意が確立していたといっていい。
しかしながら、その結果としての高度成長の矛盾が、財界内の対立を呼び起こした。
高度成長の矛盾を批判する勢力は財界の内部にも生まれた。経済同友会である。同友会は60年の貿易・為替自由化の際にも、自由化という外圧で国内構造を改善すべきだとする経団連、特に東芝会長だった石坂泰三会長の主張に対し、なんらかの公的枠組みで投資調整を行い、自己資本比率の向上や過剰設備をなくしてから自由化すべきだと唱えていた。
同友会はいわば「安定成長」路線であり、所得倍増路線には反対であった。代表幹事の木川田一隆を経済審議会会長に送り込み、64年の5カ年計画「中期経済計画」では、高度成長の矛盾に取り組む姿勢を見せた。同計画は公債政策を真っ向から否定していたことが特筆される。
さて、池田が自民党総裁四期目を迎える頃になると、高度成長の矛盾は深刻な企業の利益率の低下となって現れた。「過当競争」と呼ばれた企業の設備投資合戦は、マクロで見れば輸出主導型の経済成長を続けていたものの、ミクロの企業経営を脆弱なものとしていたのである。65年に顕現する「証券不況」は、証券業界自体にも責任があったとはいえ、個別企業の過剰投資にも原因があった。
これに対し、通産省は近く予想される資本自由化に備える意味合いもあり、産業界を秩序づけるための官制合併策を強行できる、「特定産業振興臨時措置法」の成立を企図した。しかしながら、かつて通産省の産業政策を必要とした時代とは異なり、財界は官僚統制的な側面を嫌い、ついにはこの法案を廃案に追い込んだ。高度成長の矛盾は、市場による解決に委ねられ、当然事態は深刻化の一途を辿った。
そして、このような高度成長の矛盾を解決する政権として池田の病気辞任の後を襲ったのが佐藤栄作であった。佐藤は同友会系の財界人をブレインに要し、「社会開発」を提唱し、高度成長の矛盾を解決する姿勢を打ち出した。
しかしながら、「証券不況」は、こうした佐藤の政治構想や、同友会の安定成長路線に根本的な転換を強いることとなった。
65年に入り、中小企業に続いて山陽特殊鋼などの中堅企業が倒産、さらに山一証券の経営不安が明らかになってくると、当然財界は対応に追われることとなった。だが、経団連の石坂会長は市場原理を主張し、株式買い上げ機関であった「日本共同証券」についても否定的であった。このため結局事態の収拾に乗り出したのは、同友会の幹部達であった。これには同友会幹部に、日興証券の湊守篤や金融債を資金調達源としていた興銀の中山素平といった金融関係者が多かったということも与っていたと思われる。経団連の側でも、副会長で山一証券のメインバンクの一つ、三菱銀行の宇佐美洵が、この佐藤政権下で日銀総裁に就任、この山一救済策に手を貸すこととなった。
さらに、この山一救済だけでは容易に株価が回復しなかったことから、赤字国債発行という戦後財政史の一大転換が、これまた同友会の湊の提案をきっかけとして実現に移されたのであった。
その意味では、65年の証券不況の解決は、第一に、安定成長派が、結局のところ赤字国債すら用いた高度成長政策の一層の進展を促す皮肉な立場を担ったこと、換言すれば同友会が高度成長派に「転向」したことを意味した。第二に、財界内の金融業界と産業界との関係が対立的なものに転じてきたことを示した。第三に、中央銀行がその独立性を犠牲にして財界の救済にあたり、また大蔵省も自身の管轄である金融業界の危機を未然に防げなかったという点で、官界に高度成長路線を規制する権威を失っていったことを意味した。
以上のように、政・財・官ともに高度成長路線で統一されたことこそ、68年から始まる「いざなぎ景気」を実現した最大の要因だったと思われる。同時期、諸先進国が例外なくインフレに苦しみ、英国で所得政策が試みられ、西ドイツで経済安定成長法が成立するなど、国家による産業界への広範な介入が試みられたことから考えれば、日本は極めて自由主義的であり、許された国家介入は経済成長政策の一層の進展策だけであった。
しかしながら、そうした体制は日本の輸出競争力を徒に強め、貿易摩擦という新たな難題をもたらすこととなった。その結果、日本は資本自由化を迫られた。こうした中、財界内には大企業の独占を強めて自由化に対処しようとする勢力があらわれた。それがかつて安定成長を唱えていた同友会の木川田代表幹事が組織した「産業問題研究会」だったことは、65年の同友会の転換の性質を明らかにしていた。
新日本製鉄や三菱重工の復活はこの局面で試みられ、特振法で袖にされた通産省は、この合併を公正取引委員会に飲ませるために財界に再び重宝されることとなった。
しかし独占の強化は、60年代後半から活発化した、市民運動などの新たな運動に攻撃されることとなった。特にニクソン・ショック、オイル・ショック後のインフレで財界批判は先鋭化した。
この局面では同友会が再び高度成長路線から安定成長路線に転ずるなど、財界はいわば初めて直面する国民との直接の対決で正体を失い、72年に政権につく田中角栄という「鬼子」が本来財界が望まない、中小企業政策の拡充や地方への公共投資を通じた所得再配分といった政策に邁進するのを止めることができなかった。
こうした財界の危機の克服は、75春闘を待たなければならなかったのである。
本報告ではコメンテーターを務めていただいた武田晴人先生、会場の五十嵐仁先生、浅井良夫先生から貴重なアドバイスを頂戴した。この場を借りてお礼を申し上げたい。また、経済学者と政治学者から同時にコメントをいただけることこそ同時代史学会のおもしろさであると思われ、報告の仕方としては難しい面もあるが、今後とも参加の機会を得られればと思う。
日本社会党(社会党)は1955年体制下において、常に野党第一党だった政党である。1950年代から60年代にかけて、一時、社会党は自由民主党(自民党)に代わって政権を奪うのではないかと噂されたこともある。たとえば、『中央公論』(1963年1月号)に掲載された石田博英の論文「保守政党のビジョン」では、1968年に社会党の得票率が自民党のそれを追い抜き、社会党政権が樹立されるであろうと予言した。
しかし、1960年代後半、社会党の党勢は石田の予言とは正反対に衰退した。1968年の参議院選挙では社会党は前回比8議席減の28議席しか獲得出来ず、1955年の再統一以来、初めて参議院選挙での獲得議席が30議席を割り込んだことに党内は衝撃をうけた。さらに1969年総選挙では、社会党は前回比50議席減の90議席しか獲得出来なかった。この選挙後、衆議院における社会党の議席は100議席前後に終始し、とても単独では政権を担うのは不可能となった。1993年総選挙では社会党の獲得議席はわずか70議席となり、さらに1996年に社会民主党(社民党)と党名変更した後、党員や国会議員・地方議員の多くが新たに結成された民主党に移動し、社民党自体は少数政党へと転落した。
このような社会党の衰退がなぜ起こったのか。これまで最も一般的に流布されてきた考えは、1960年代に社会党が導入を試みた構造改革論を放棄し、マルクス・レーニン主義に拘泥したため、高度成長によって誕生した新中間層の支持を失ったという考えである。このような考えは五十嵐仁によって、歴史的転換失敗説と名づけられている。この考えの問題点は、社会党が現実主義的な考えを導入さえしていれば、社会党の党勢は上向いたはずだと単純に考えていることである。しかし、ならば、なぜ1986年の新宣言によってマルクス・レーニン主義を放棄した後や1994年の村山富市内閣の成立による基本路線の転換の後に、社会党の党勢は上向かなかったのかという疑問が残る。さらに後述するが、1960年代における、構造改革論導入の過程では、イデオロギー的な問題だけでなく、党組織強化の問題も重要視された。歴史的転換失敗説には、構造改革論争のそのような側面を見落としているという問題も存在する。
五十嵐はほかに社会党衰退要因に関する議論として、社会的基盤不在説と組織・活動説の存在をあげる。社会的基盤不在説は、本来、社会民主主義政党の支持基盤となるべき労働者階級が、1960年代に企業によって統合され、日本型の企業社会が形成されたために、社会党の党勢が上向く余地が失われたというものである。しかし、この考えは日本では社会民主主義が成長するのは不可能であるという運命論的な結論に陥りやすいという欠点がある。
組織・活動説は政党としての社会党の組織に注目したもので、労組に完全に依存し、社会党が近代政党として体をなしていない党組織を放置し、政党としての活動を満足に行い得なかったことに衰退の要因を求めるものである。組織・活動説はもっとも説得力のある説明であり、本稿も組織・活動説の立場をとるものである。
本報告の目的は、この組織・活動説の立場にたちながら、これまでイデオロギー的要因に求められることが多かった社会党の衰退要因を、社会党の組織や活動のあり方や派閥抗争に要因を求め、その変遷を追いながら、社会党の組織・活動のどのような点に問題があったのかを考察することである。
社会党は戦前の合法無産政党を糾合する形で、1945年に創設されたが、当初、社会党に対する支持は浮動的なものであった。1947年総選挙では社会党は第一党になったものの、1949年総選挙では改選前の111議席から48議席へと大幅に減らす大惨敗を喫した。社会党に対する労組の支援は、このように社会党の支持がどん底に落ちた状況のなかで始まった。具体的には1950年参議院選挙を期に労組による候補者・資金・人員の提供が本格化した。その後、日本労働組合総評議会(総評)が結成されると、総評が社会党(特に左派)を全面的に支援することとなった。左派を中心とする社会党は1950年代に躍進を遂げる。
しかし、政権獲得が視野に入ってくると、社会党は次第に労組のみに依存したままではこれ以上の支持の拡大が困難ではないかと悟るようになる。1958年度運動方針では、「地域的大衆闘争」のスローガンが掲げられ、組織化の重点が労組から地域社会へと移された。
1958年総選挙で、政権交代を狙ったにもかかわらず、7議席増に終わったこと、さらに1959年参議院選挙で前回比11議席減の惨敗を喫したことで、社会党の脱労組依存の動きは本格化する。第16回続開大会(1959年10月16~17日)では「機構改革に関する報告」が可決され、書記・活動家の身分保障、国会議員が自動的に党大会の代議員になれる特権の廃止、機関紙の有料化などが決められた。この組織改革は江田三郎を中心に、待遇の改善を求める活動家層の支持をうけておこなわれたものであった。
第17回臨時大会で、江田は書記長に選出された。江田は理念的には構造改革論の導入に努力するが、組織的には1961年度運動方針で「自治体改革」をスローガンに掲げて、地域重視の姿勢を示し、党員倍加・『社会新報』購読者3倍化を目標に掲げた。党員倍加はならなかったものの1年で入党者1万人を実現し、『社会新報』購読者3倍化を実現した。このように江田による党組織改革はある程度の実績を残したが、江田の改革はこの時点で頓挫することになる。なぜなら、江田の書記長留任に不満を抱いていた佐々木更三が1961年3月に鈴木派の書記に対して構造改革論の研究中止を命じ、同年夏には、向坂逸郎との関係を修復して、江田に対して反旗を翻したからである。
以後、江田派をはじめとする構造改革派は、佐々木派との派閥抗争にその力を振り向けざるを得ず、党組織改革はなおざりとなった。執行部は、たびたび労組依存体質からの脱却を訴える文書を発表したが、党中央は派閥抗争にかまけるあまり、具体的な施策を怠り、数々の文書も単なるお題目と化した。実際には、社会党選出の代議士の4~5割が労組出身者で占められるなど、社会党の労組依存はさらに進行した。これは、党組織自体に独自の財源がなく、選挙の際には、金も人員もある労組出身の候補者に頼らざるを得なかったためである。
1950年代後半から始まっていた党組織改革が頓挫したことは、活動家の不満を高めることとなった。党組織改革の主要な目的の一つが、活動家層の待遇改善にあったからである。党の書記や末端の活動家たちは、1960年代中ごろから党の機関誌である『月刊社会党』に意見を寄せ始め、執行部が日常活動の指針を示してくれないことや、賃金がかなり低く抑えられていること、労組以外の候補者の擁立に関して援助してくれないことなどに対する不満をぶつけるようになった。
だが、そのような活動家層の悲痛な訴えはほとんど執行部に届くことはなかった。活動家層に対する施策は不十分なままに終わり、その不満が解消されることはなかった。そして、解消されることのない不満を抱えた活動家たちの支持を集めたのが社会主義協会であった。
社会主義協会は、もともと社会党左派の理論である労農派マルクス主義の研究集団である。1950年代後半には左派の若手活動家を中心に、労農派マルクス主義が国内・国際情勢をうまく説明出来ていないのかではないかという疑問が広がり、構造改革論の導入によって、1960年代初頭にはその勢力はかなり衰えていた。しかし、佐々木派が江田派攻撃のために社会主義協会を利用するようになると、社会主義協会は勢いを盛り返した。1960年代には、代表である向坂自ら自宅を開放して、『資本論』を講ずるなど熱心な教育活動や積極的な日常活動で活動家層の心をつかみ、末端の活動家の間に支持を広げていったのである。1970年代になると、活動家の支持を集めて社会主義協会は党内第一派閥へと成長していく。マルクス・レーニン主義の純化を目指す社会主義協会の成長は他の派閥との摩擦を拡大し、社会党内の派閥抗争は協会派対反協会派へと構図を変えながら持続し、社会党の体力を奪っていったのである。
2002年10月14日(月・祝日)、立教大学12号館第1・2会議室において、第1回定例研究会(第2回研究会)が行われた。今回は、「1960年代の政治と経済」という共通テーマのもと、菊池信輝氏(一橋大学大学院)と岡田一郎氏(筑波大学大学院)が報告され、コメンテーターとして、前者については武田晴人氏(東京大学)が、後者については空井護氏(東北大学)が、それぞれコメントされた。
私は、1960年代の政治や経済といったことについては詳しくなく、逆にだからこそ、いろいろ勉強させてもらおうと思って今回の研究会に参加した者なので、両報告の内容に深く立ち入って意見させていただくようなことはできないが、以下に研究会を振り返りつつ、思ったことを率直に述べさせてもらいたいと思う。
はじめに、菊池氏の報告(「1960年代の財界と政治」)について。菊池報告は、財界を「企業の政治的意思をまとめ上げ、政治に反映させる機関」と位置づけ、1960年の国民所得倍増計画や1965年の証券不況をめぐる財界と政治との関わりを再評価しようとしたものであった。
この報告を通じて、私自身は、高度経済成長の前段階における安定成長路線からの転換過程を知ることができ、いろいろと勉強になる点が多かったが、コメンテーターの武田氏からは、かなり厳しい批判ともいえるであろうコメントが5点にわたってなされた。菊池氏にとっては研究の根本的なところを考えさせられる指摘だったのではないだろうか。また菊池氏だけでなく、私も含めた院生・学生の多くが、研究するということの厳しさ、奥深さといったことを改めて痛感したのではないかと思う。
質疑応答では、財界を取り上げる際には、個人について注目されることが多いが、その点はどうか、個人の個性と機関としての財界をどう捉えるか、議論の中心は経済同友会であったが、それを「経済同友会」論としてではなく、財界論としたのはなぜか、などといった質問がなされた。また私が感じた疑問でもあったが、議論の中心が財界であって、タイトルにある「政治」についてあまりふれられていないが、政治との関連はどうかといった質問もなされた。当然といえば当然のことなのかもしれないが、全体的に経済(史・学)的観点からの質問が多く、他分野からの質問というのはほとんどなかった。この点、「専門分野を横断する総合的な同時代史の創造を目指す」同時代史学会における研究会としては、ちょっと物足りないような気がした。特に、共通テーマとの関係性(後述)、あるいは「専門分野を横断する総合的な同時代史の創造を目指す」という同時代史学会の設立趣旨を考慮するならば、少なくとも政治との関連といったことについては、報告者の方からももっと積極的にアプローチしていただけたらよかったように思われる。
次に、岡田氏の報告(「日本社会党の組織問題―1960年代を中心に―」)について。岡田報告は、社会党の長期低落の引き金となった1968年参議院選挙・1969年総選挙における大敗について、従来はその原因がイデオロギー的要因に求められることが多かったことに対して、「社会の組織や日常活動のあり方や派閥抗争に要因を求め、その変遷を追いながら、社会党の組織・日常活動のどのような点に問題があったのかを考察」したものであった。
その報告のなかでは、岡田氏から、コメンテーターの空井氏の見解に対して、4点にわたって疑問点があげられた。このため、空井氏のコメントでは、空井氏と岡田氏との活発な議論が展開されるのではないかと期待したのであるが、時間の制約もあって、後で個人的に話し合うということで深くふれられることはなかった。この点は非常に残念であった。
しかし質疑応答では、かつて1960-70年代に、新潟県議会選挙に社会党からの出馬要請を受けて出馬された経験のある弁護士の方から、当時の状況についての話がなされ、とても興味深く聞かせてもらった。特に、依頼されて出馬した選挙なのに社会党から出た選挙資金は3万円だけで、残りは自費であったことなど、当時の内部事情についての話はなかなか聞けるものではなく、とても貴重な証言であった。また岡田氏が、当時の社会党はヨーロッパの社民党型の政党を目指したのではないかと指摘されたことに対して、そうではないと思うといった意見や、当時の内部対立(江田派vs佐々木派)について、戦前からの対立構造(右派vs左派)を引きずっているのではないか、その点をみていく必要性があるのではないかといった意見、あるいは、日本人は西洋人とは違って、一つの政党に入って活動する気質ではなく、逆にそういう人は周囲から奇異の目で見られるといった意見のように、当事者の一人だったからこその指摘もなされた。このように、研究者や院生・学生以外の人々も参加され、そういった方々から話を聞くことができるということは、市民に向けて開かれた学会を目指す同時代史学会の醍醐味の一つといえよう。
その他の方からは、同時代史学会として、社会党はどういう意味があるのか、問題関心が特化しすぎているのではないかといったような質問がなされたが、この点は、共通テーマ、あるいは研究会のあり方とも関わる重要な指摘といえるであろう。この他にも、社会党衰退の失敗ひいては日本の政治の失敗は、知的な人間(つまりは我々)の失敗でもあり、大きな課題であるといった指摘や、過去に対する分析だけでなく、未来への指針としての観点も我々の課題として重要であるといった指摘があったが、この点も、報告者だけにとどまらず、同時代史学会全体あるいは研究に携わるすべての者の課題として常に意識していくべき重要なことのように思われる。また菊池・岡田両報告にいえることとして、内部だけを分析するのではなく、国際関係の要因にもみていく必要性が指摘されたことも忘れてはならないであろう。問題関心が特化している場合、特にこの点に留意する必要があると思われる。
さらに両報告における質疑応答に共通していえることは、それぞれ問題関心が特化している分、質疑もそれぞれ経済(史・学)的観点あるいは政治(史・学)的観点に基づく傾向にあったということであるが、この点は、「専門分野を横断する総合的な同時代史の創造を目指す」同時代史学会として克服すべき課題といえるのではないだろうか。
さて続けて、両報告と共通テーマについて思ったことについて述べてみたい。今回の2本の報告は、「1960年代の政治と経済」という共通テーマのもとに行われたのであるが、それぞれの報告がどうつながるのか、共通テーマとの関係性が不鮮明であったように思われる。すなわち、お二人の報告が行われることになった内部事情はわからないが、印象としては、たまたま1960年代に関する報告が2本行われることになり、それに合わせて共通テーマが設定されたというような感じを受け、共通テーマの設定に対して消極的意義しか見出せなかったのである。共通テーマを設定しての2本の報告なのであるから、菊池報告と岡田報告と共通テーマとの関係性への言及、換言するなら1960年代がどういう時代であったのかを総括するようなことを試みてもよかったのではないだろうか。そこにこそ、共通テーマを設定することの積極的意義が見出されるように思われる。今回の報告は、大会報告といったものではなく、いわば勉強会のようなものであるから、そこまで考える必要はないのかもしれないが、せっかく共通テーマというものを設定されるのであれば、もっとそこに意義を見出していく工夫があってもよかったのではないだろうか。
最後に、同時代史学会の新鮮さや、新たな学会としての可能性についてふれておきたいと思う。私は、研究会が始まる直前に会場に着いたのであるが、会場である大会議室に入るなり驚きを感じた。なぜならば、今回の研究会は、同時代史学会自体が正式には創立されていない時点での開催であったのにもかかわらず、50名は入るであろう大会議室が参加者でいっぱいだったからである。さらには、その参加者の自己紹介(後述)で、北は宮城から南は鹿児島まで全国各地から、しかも研究者や院生・学生以外の人々までもが参加されていることがわかり、二重三重にも驚いた。また同時に、同時代史学会への関心の高さや、同時代史学会の市民に向けて開かれた学会への指向性が浸透しつつあることがうかがわれ、私自身の同時代史学会への期待度もより一層高まった。
また、菊池報告と岡田報告との間の休憩時間を使って、参加者全員が自己紹介を行ったことも新鮮であった。このような研究会の場合、自己紹介をする時間が取られるといったようなことはあまりなく、顔見知り以外の参加者についてはほとんど知ることがないのであるが、今回はそういった人たちのことも知ることができた。このようなこともこれから新たな歩みを始めていく学会の醍醐味といえるのかもしれない。
いずれにしても、今回の研究会では、今後克服すべきいくつかの課題と同時に、同時代史学会の従来の学会とは一味違った新たな可能性を垣間見ることができた。同時代史学会の今後の発展が大いに期待される。
2002年12月8日に嘉悦学園本部でおこなわれた学会創立大会に参加しました。総会と午後の特別企画「澤地久枝と同時代を語る」は所用で中座し、午前のシンポジウム「同時代の中の戦争」と懇親会にのみ参加しました。
第一部のシンポジウム「同時代の中の戦争」は午前9時からでした。飛行機の関係で到着した時には、残念ながら油井大三郎氏の報告が終わろうとしているところでした。
油井大三郎氏の報告「覇権国アメリカの戦争観と日米関係」に続いて、姜尚中氏の報告「アジアにとっての戦後と戦後日本」と雨宮昭一氏の報告「戦後日本の形成・変容と戦争-脱戦後体制の構想のために」がおこなわれました。その後、和田春樹氏、多木浩二氏、吉見俊哉氏がコメントを加え、討論がおこなわれました(和田氏はコメントのみで退席)。
報告者および討論者は専門分野も世代も異なる研究者でした。が、それが興味深い論点を導き出す結果となったように感じました。結果として「同時代史」という「大括り」の下ならではの好企画であったと言えるのではないでしょうか。ここでは報告および討論において、興味深かった論点を三つ紹介したいと思います。
まず第一に「同時代」とは何かという点です。この点は本学会が「同時代」を名称に冠しているということからも、かなり根本的な論点だと言えるでしょう。質疑を受けての討論の中で、提起されたように記憶しています。
「現代史」ではなく「同時代史」と言う場合、そこには歴史区分以上の含意があるでしょう。報告者の中では姜尚中氏が、とりわけその点に関心を寄せていたように感じました。報告において姜尚中氏は、「歴史の共有」の問題を提起し、「共有」しうる射程としての「同時代(史)」を示唆しました。その上でアジアにおけるその「断絶」、あるいは「不在」を指摘したわけです。
この「同時代」とは何かという観点からすると、油井大三郎氏の報告も、アメリカの戦争観の変化を対象に「同時代」の射程を問題にしていたと見ることできるかもしれません。氏は9・11以後の「転換期としての“現在”」の背景として、共有している戦争体験の変化を指摘しました。それはヴェトナム戦の記憶の共有から脱却するというかたちで「同時代」が変容したというふうに捉えることができるのではないかと思います。
また雨宮昭一氏は討論において「実践的課題」の共有という観点から「同時代」を規定するという視点を提起していました。それは時間軸の幅の観点のみではない「歴史の共有」の意味を問う提起だと思われます。前述したように「現代史」ではなく「同時代史」と言う場合、そこには歴史区分以上の含意があるはずであり、その点と関連しての提起だと感じられました。その脈絡からすると、討論者の和田春樹氏が言及した歴史の「選択的継承」も、雨宮昭一氏の提起と重なるように思われます。いずれにしても、この論点は、今後の学会全体の活動の中で、引き続き深められていくべき重要な論点であると思います。
この「同時代」とは何かという論点と関連しますが、第二の論点として「眺めの位置」の自覚の問題があります。歴史研究にとって基本的なことですが、あらためて考えさせられた感がしました。
この論点についても、きっかけは姜尚中氏の報告でした。氏は報告の冒頭で南米に出張に言っている間のニュースの見え方から「眺めの位置」の問題を提起し、第一の論点と重なる「歴史の共有」の問題へと報告を進めたのでした。そこでは「米国を経由したアジア」という日本の「眺めの位置」が指摘されました。さらにそれがアジアと「歴史の共有」をおこなえない日本の条件として言及されたのでした。
この「眺めの位置」の問題は、討論者の多木浩二氏と吉見俊哉氏からは、やや位相の異なる「世代」という観点から取り上げられました。そこではシンポジウムのテーマである「戦争」を「眺める位置」としての世代の相違の影響が指摘されました。
いずれにしても第一の論点と密接にかかわる、あるいは重なるところでしょうが、「歴史の共有」の前提として、「眺めの位置」の相違が自覚されなければならないということでしょう。「眺めの位置」が異なれば「歴史の共有」ができないわけではないでしょうが、どのように異なる立脚点にあるのかとういう自覚がなければ、当然「共有」はありえないでしょう。前述の雨宮昭一氏の提起した「実践的課題」の共有という観点からは、この点はさらに重要な問題となるはずです。かなり難しい論点ですが、この点もまた本学会の活動の中で深められていかなければならないと感じました。
最後に「語り口」のあり様という論点です。「同時代史」というものが、独自のあらたな「語り口」(あるいは方法)を必要とするのではないかという点です。
この点については、多木浩二氏がコメントで、かなり力点を置いていました。すなわち「同時代史」は、「日本史」や「アメリカ史」、「政治史」や「文化史」などのような既存の分節の仕方や、そこでの「語り口」とは異なる「方法」をもつ必要があるのではないかという提起です。吉見俊哉氏も、自身の「文化」への関心から出発した研究のあり方を踏まえて、既存の「語り口」を超える必要性を指摘しました。
前述の二つの論点を踏まえれば、異なる「眺めの位置」を前提に歴史を「同時代」として共有しようとするのであれば、「語り口」の議論は欠くことができないということでしょう。それは既存の「語り口」の折衷というような次元で事足りるとは思われません。
討論の中では、その点を自覚し、それぞれの馴染みの「語り口(方法)」と他のものをつき合わせる中で、徐々にそのような試みが進められるのではないかということになりました。おそらく今回のシンポジウムのように、異なる分野の研究者が共通の論題をめぐって議論を交わす場を、本学会が着実に積み重ねられれば、そこから新たな「語り口」の突破口も開かれていくのではないでしょうか。
かなり雑駁な整理ではありますが、シンポジウムに参加した私にとって、興味深かった論点は以上です。くりかえしになりますが、世代や分野の異なる第一級の研究者による今回のシンポジウムは、私にとって、かなり刺激となりました。企画と運営にあたった学会の事務局のみなさんに、あらためて感謝したいと思います。
ただ今回の大会は、創立大会であるがゆえに、きわめて「欲張り」だったように思います。朝の9時から開始して、懇親会が19時に終わるという日程は、やや「詰め込みすぎ」だったのではないでしょうか。私もそうですが、遠方の会員としては、かなり早朝に出発する便で上京し、帰りは深夜になります。おそらく北海道や九州の参加者は一泊せざるをえません。それならば会場の都合はあったかもしれませんが、むしろ二日に分け、初日の午後と夜(懇親会)、そして二日目の午前というふうにプログラムを分散していただいた方が、ありがたかった。
最後に苦言を呈するかたちになりましたが、それも次年度以降の本学会の活発な活動を期待してのものであると理解していただければ幸いです。
2002年12月8日に開催された同時代史学会創立大会において、特別企画として、「澤地久枝と同時代史を語る」が行われた。当日は、澤地久枝氏の講演を中心として、コーディネーター・進藤栄一氏の司会のもと、パネリストの今泉裕美子氏・我部政男氏を交えた討論や、会場との質疑応答などが行われた。本欄では、一参加者としての若干の感想を述べさせていただきたい。なお、当日は、「同時代史」とは何か、あるいは「戦後歴史学」とは何かなどの重要な問題も議論されたが、字数の都合もあり、最も大きな柱であったオーラル・ヒストリーをめぐる議論についてのみの記述となったことを、あらかじめお詫びしておく。
澤地氏の講演の中で最も印象に残ったのは、氏が繰り返し表明していた既存の社会科学ないしは「戦後歴史学」に対する違和感である。話題が具体的・技術的なところに移り、オーラル・ドキュメントの史料としての重要性や、その取り扱いの難しさや、聞き取り対象との向き合い方などにおよんだ際には、会場からも賛同を示す発言が多くなされ、大きな見解の相違はないと感じられただけに、氏の違和感は特に気にかかった。果たして、氏の違和感は何処から生じていたのであろうか。この点は当日の議論では必ずしも深められなかったが、重要と思われるので、いまシンポジウムを聞き終えて思うところを二点ほど述べてみたい。
第一に指摘しうるのは、マルクス主義史学の方法論に対する違和感であろう。これは、澤地氏が何度か「一人一人の顔の見える、暖かみのある歴史を描きたい」という趣旨のことを述べていたことにかかわる問題である。15年ほど前に雑誌『歴史学研究』誌上で行われた座談会でも、氏は次のように述べている。
「私には、今まで書かれてきた歴史に対する不満があると思うんです。どういう不満かというと、それは、歴史はあまりにも大状況を書きすぎてきたということなんです。ディテールがないんですよね。歴史家にとって大切なのは、いかなる歴史観のもとに歴史記述をするかということであったような気がするわけです。つまり、血や肉がない歴史です。」(座談会「『妻たちの二・二六事件』から『記録 ミッドウェー海戦』まで -澤地久枝氏をかこんで-」『歴史学研究』568号、1987年6月、42頁。後に、歴史学研究会編『事実の検証とオーラル・ヒストリー 澤地久枝の仕事をめぐって』青木書店、1988年に収録)
このマルクス主義史学批判には、二つの内容が含まれている。ひとつめは、社会を構造的に把握することに関心を集中させてきた結果、民衆意識や生活実感といったものがつかまえられてこなかったのではないかという批判である。この点にかかわってオーラル・ヒストリーの意義が語られる場合には、文献史料に頼ってきた従来の歴史学が十分に取り上げきれなかった民衆の実態を、オーラル・ヒストリーは描くことができるのだということが強調される。
この批判は重要であり、オーラル・ヒストリーが歴史学の刷新に大きく寄与してきたことは疑いない。しかしながらこの批判の仕方が余りクローズアップされすぎると、ともすれば、オーラル・ヒストリーを既存の歴史学のすき間を埋める補完物に矮小化してしまう恐れがあるのではないだろうか。既存の歴史学はなぜ民衆の実態と離れたところで議論を展開してきたのか、いかなる問題意識がそうさせたのか、それに対してオーラル・ヒストリーはいかなる問題意識のもとでいかなる歴史像を対置しようとするのか。このあたりのことがつめられないと、オーラル・ヒストリーの意義が、マルクス主義批判をまくらにしないと語りえないということになりかねない。
澤地氏のマルクス主義史学批判の二つ目は、階級闘争史観批判であり、「闘う民衆像」に対するよそよそしさの感覚とでもいうべきものである。それは、以下の発言にも現れている。
「ディテールの中でもっとも落ちてしまっているのは生活感覚ですね。実生活という要素は、歴史からほとんど落ちています。その時に一体どういうものをいくらで買って食べていたかというようなことを大事に考えた歴史の本には、めったに出会うことができないんですよね。生活者であった女はつぶさに知っていることです。」(前掲座談会、42~43頁)
もし、我々が新しい歴史像の提起という課題を引き受けるとすれば、この批判にかかわって議論すべきなのは、秩序ないし社会を形成する力として、民衆の主体的な力量が果たした役割をどこまで重視するのかという論点であろう。というのも、階級闘争史観は、構造的な把握のみで歴史を説明することを批判し、民衆がみずからの手で歴史を作っていく局面を重視したが、オーラル・ヒストリーは、民衆を重視しつつもこの階級闘争史観をも批判しているからである。
澤地氏の言う「実生活という要素」を、歴史を構成する重要な要素として考えるということについては、現時点においてほぼコンセンサスのとれていることではないかと思う。だとすれば次には、「実生活という要素」を組み込み人間をありのままの姿で描き出すことから出発して、社会の全体像やその変遷を把握するにはどうしたらよいかという論点に進むべきであろう。階級闘争史観は、民衆が社会の矛盾を乗り越えようとする局面を重視し、その矛盾が民衆の力で克服しうるのだという立場に立ったために、民衆自身が社会のありようを決めるのだという点を強調し、「闘う民衆像」を提示した。では、オーラル・ヒストリーはどうするのか(これらの点につき、さしあたり、歴史学研究会編『戦後歴史学を検証する 歴研創立70周年記念』青木書店、2002年を参照)。
次に、澤地氏の違和感の第二の内容に進む。それは、マルクス主義史学ないしアカデミズム一般がもつ権威性に対する批判である。違和感の第一がマルクス主義史学の方法論に向けられたものであるのに対し、こちらの方はマルクス主義史学が現実の社会の中で果たしているある役割への批判といってもいいだろう。先の座談会からもう一度引用するが、ここには、澤地氏の権威的なものへの嫌悪感がよく現れていると思う。
「私は底辺で生まれて、昭和の貧しさというものを肌身で知っていて、おまけに植民地の生活というものも知っている。戦後の政治的な高揚期も敗退期も若い時代に通っていて、まさに昭和を生きてしまった人間です。権力者によっていつもみごとにだまされて、だまされながら、だまされた側はお人良しで、全然その事について自覚がなく、何度でも同じ歴史がくり返されてゆくことに、非常な憤りを持っている、という歴史観があるんです。だから、私が物事を判断したり、資料を読んでいく時に、何が自分の背骨としてあるかと言えば、自分がどういう人間の子として、どういう人生を生きてきたか、ということです。他に頼るものはないですから。私は学歴とか思想で判断できない人間ですから。それはある意味で、全く動物的な勘みたいなものですね。ここにおかしいことがある、これはうそではないだろうか、と直感的に思う。それを解明するとき、私の全人生がかかって判断しているようなところがあると思います。だから私は、その自分を捨てることはできないですね。」(前掲座談会、43頁)
澤地氏が、この第二の意味でのマルクス主義史学批判していることは、氏の諸作品を広く社会全体の動向とかかわらせて位置づける必要のあることを示唆している。というのも、澤地氏の最初の作品は1972年の『妻たちの二・二六事件』だが、日本でオーラル・ヒストリーの手法が大きく注目され出すのが70年代であり、この時期にとりわけ女性史にかかわる作品が多く生み出されているのである(山崎朋子『サンダカン八番娼婦』1972、山本茂美『新版 あゝ野麦峠』1972、金賛汀・万鮮姫『風の慟哭-在日朝鮮人女工の生活と歴史』1977など)。またこれもすでによく指摘されていることだが、日本におけるオーラル・ヒストリーないし社会史の作品は、イギリスなどでのそれと異なり、アンチ・マルキシズムを特徴としている。この点も、澤地氏と共通しているように思われる(これらの点につき、シンポジウム「オーラル・ヒストリー その意味と方法と現在」『歴史学研究』568号、1987年6月参照)。
また周知のように、反権威主義を不可欠の柱とする社会運動が、60年代後半に先進諸国を中心に各国で盛んになった。その運動は日本においては、ヨーロッパ諸国よりは弱かったとされるが、その問題関心は、澤地氏あるいは日本のオーラル・ヒストリー全般の問題関心と重なるところ多いように思われる。澤地氏がなぜこれまで述べてきたような既存の歴史学への違和感を抱いたのか、そしてその問題関心のもとに描かれた作品がなぜ広く読まれたのか、等の問題を検討するためにも、氏の作品を歴史学の流れの中に位置づけるだけでなく、広く社会の動向とかかわらせて論ずる必要があるのではないだろうか。
ところで、氏の反権威主義は、その作品に一つの刻印を与えているように思われる。それは、「私」ないし「女性」であることへのこだわりである。むろん澤地氏の方法の最も重要な柱は徹底した実証主義、歴史のディテールへのこだわり、現場主義などであり、これらが目指すのは、確かな事実に基づく「客観的な」歴史叙述であろう。しかし他方で、そうした「客観性」に解消さすことを許さない「私」に対するこだわりもまた、強烈に現れているのである。
このことはある意味では矛盾である。ところがこの両面があることで、澤地氏の作品はよりおもしろくなっているようにも思える。
しかしさらに言えば、この「私」へのこだわりは、澤地氏を別として一般的に考えるならば、一つの危惧を抱かせずにはおかない。というのも、その起源に反権威主義があり、権威の揺らぎがもたらしたアイデンティティの不安定化があるとするならば、その不安定性に耐えかねて別の権威に自己を委ねる危険性もまたつきまとうと思われるからである。そして、昨今の歴史修正主義に対する大衆的支持の背景にはこうした構図が少なからず見られるのであり、ここには考えてみるべき問題があるように思う。
だが澤地氏自身に即して言えば、氏がそうした方向に進んでいくことはまずあり得ないであろう。もちろん、「私」にこだわること、既存の権威によらない自分自身を探し求めること自体には積極的な契機があり、そしてそれが歴史修正主義へと陥らない実例を、澤地氏は提供している。それを可能とする条件は何なのか。いま私にそれに答える用意はないが、その答えを探しつつ、今後とも澤地氏の作品に注目していきたいと思う。
会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。少数ですが2002年度会費が未納の方がいらっしゃいます。念のため、その方にはその旨をお知らせする印刷物を同封してあります。注意はいたしたつもりですが、もしも会費をお支払い済みの方にこの印刷物が入っていた場合は、失礼の点をお許しいただいた上、事務局までご一報ください。未納の方は2年分、またそれ以外の大多数の方は2003年度会費を同封の振替用紙にてお支払いくださいますようお願いいたします。
会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。
郵便振替 | 口座番号00120-8-169850 |
加入者名 | 同時代史学会 |
なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。
また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。
3月15日、立教大学において第3回定例研究会が行われた。小林知子氏、戸邉秀明氏の報告は、それぞれ従来の研究における「在日」朝鮮人概念、「沖縄」概念のもつ視角の狭さを指摘し、それらを乗り越える方法を模索するものであった。両報告とも歴史認識の方法にまで踏み込んだ意欲的なものであり、専門領域の異なる私にとっても大変刺激的な内容であった。やや残念に思ったのは、時間的な制約もあって、一般会員の方々からのコメントが前回の研究会より少なかった点である。専門研究者、一般会員の区別なく、個々の専門領域を越えて、それぞれの立場、関心、視点から自由に議論を交わすことのできる場であること、そこに同時代史学会及び定例研究会の新しさ、そして社会的存在意義があろう。駆け出しの研究者として、同時代史学会と定例研究会が、今後もそうした場であり続けることを願ってやまない。
卒論では藤田省三の「経験」論に高度成長の時代を、修論では松田道雄の育児思想に松田の生きられた戦時・戦後経験を読み解く作業を行いました。現代日本社会における広い意味での文化運動の可能性を、歴史性を手離さない社会学の立場から考察することを最終的な課題としています。学部時代は慶應義塾大学の政治学科に在籍していましたが、向き不向きがあるのでしょうが、狭義の政治思想史には物足りなさを感じていました。そこには、同時代に生きた人びとの経験や感受性が抜け落ち、大文字の思想家による狭義の政治に関する論理の展開だけがあるように思われました。他方で、最近では歴史研究の対象として「戦後民衆思想」が取りあげられていますが、自戒をこめつつ、その叙述がノスタルジックで、ドメスティックに流される傾向もあるように思います。そうした傾向への〈歯止め〉に、同時代史学会の総合性と戦略的な「鳥の目」的な視点はなるのではないでしょうか。同時代史学会のなかで学びつつ、開かれた民衆思想史を世代、専攻を超えた「仲間」とともに構想していけたらと思っています。
「学会嫌いが学会づくりに関わる」―その皮肉をどう解すべきか。そんな自問を繰り返しながらも、私自身、いくつかの知的共同体の創設に関与し、現実にその設立準備事務局を担った経験すら、直近にある。たとえば、先頃懸案の学会誌発刊にこぎつけ、一五〇名しかいなかった会員が六年後一〇〇〇名に達する勢いを見せる、日本公共政策学会がそれだ。
その先例を回顧しながら、つくづくすべての組織体は、時代の要請がもたらす果実であると思う。
実際、二〇〇二年四月二八日、サンフランシスコ講和発効五〇年を期して開催した同時代史学会の設立準備記念大会は、立ち見の椅子を用意する盛況ぶりで、メディアからも過分な注目を浴びた。
苦境にあって人間は、本能的に過去をとらえ直し、「歴史の教訓」を求めてそれを未来の指針に据えようとする。「第二の敗戦」下の今日の日本の窮状が、新しい知の共同体の登場を促し、戦後史のとらえ直しを求めている。
もちろんそのとらえ直しが「新しい歴史教科書をつくる会」のような偏狭な、閉ざされた歴史優にあるのではない。むしろその逆だ。
そもそも「第二の敗戦」の原因は、私たちが戦後五〇年の「平和と民主主義」を生んだ根幹を等閑視し、アジアとの共生を拒んできたところにあるはずだ。同時代へのその憂慮が、私たちに共通している。であるなら歴史家がいまなすべきは、失われた知の復権のために戦後史を再検証し、新しい時代を拓く知の拠点につなげることではあるまいか。
この会の立ち上げは、一年半以上前の『講座 日本歴史』〔第三版〕の最初の執筆者会議をきっかけとしている。その後、志を同じくする各地の専門家諸氏に声をかけ、輪を広げてきた。幸い近隣分野に、二十数年の歴史を持つ占領史研究会(現・占領戦後史研究会)があり、同会の会員諸兄にも教示された。そしてその過程で、私たちの志を具現化するため、次の諸点を確認し会った。
第一に、グローバルな視座の中で、個々の専門領域を越え、国境の壁を払って戦後史を位置づけ直すこと。
第二に、権力や大国の高みからでなく、同時代に生を書け共に生きた市井の目線に立って時代を読み解くこと。
第三に、従来の、左右を問わぬ学会ギルド集団の弊から脱し、同時代の志を同じくする市民にも開かれた知的共同体を作ること。
戦後史という言葉の中に、日本人固有の歴史体験を措定する閉ざされた危うさを、中東研究の碩学板垣雄三氏はつとに指摘していた。私たちが、一国歴史主義を彷彿させる“戦後史”でなく“同時代史”を冠称したゆえんである。思想的位相でナショナリストとされながら、「知の権力」(フーコー)への道を拒み、市井の目線にこだわり続け『同時代史』全六巻を遺した三宅雪嶺を、想起することもできる。
前記の設立準備記念大会のあと、七月に「情報公開について」現場の記者による第一回研究会を、一〇月には院生二人による第二回研究会を開いた。参知者はのべ一〇〇名を越えた。今後、実務家や市民を交え、碩学たちも加えて、真に領域横断的な研究会活動を重ねていくだろう。また、この会の学会誌の先駆として、豊下楢彦・浅井良夫両氏の重厚な大会報告論文を紬に「ニューズ・レター」も発刊した。
二〇〇二年末の一二月八日、「同時代史の中の戦争」をテーマに、沢地久枝氏の特別講演を含め、多木浩二・姜尚中・雨宮昭一・我部政夫氏らを加え、嘉悦学園で創立大会を開催した。戦後史の失われた原点を、戦争体験に求めながら、「戦争の時代」をどうとらえ返して平和をつくり上げていくのかを主題として。
だがそれにしても、新しい知の共同体の離陸への荷は重い。学際性はともかく市民性や国際性を掲げたものの、それらをどう実現するか。いやそれ以前、ほとんどが首都圏の研究者からなる現・運営委員会を、どう首都圏外に広げていくのか。それなくして列島各地で“戦後五〇年”を支え作った歴史の生き証人らとの“知の交歓”もできまい。同じことは、単に比較の視座に止まらない、国際関係への射程についてもいえる。もうひとつの学会ギルド組織に堕する危うさを、どう克服するのか、その課題は小さくない。
ハーバードのゴードン教授が熱心な支援者であるのは得難いことだが、それにしても私たちの間には、かつて米国から「戦後を与えられた」だけでなく、いまや「戦後史まで与えられ始めている」知の発信の不在への想いもある。それが、自前の歴史像をつくり上げる困難さと重なり合う。時代の要請に応えて時代を拓く必要を、改めて痛感する次第である。
〔設立年月日〕二〇〇二年一二月八日
〔会員数〕一六〇名
〔入会手続〕会の目的に賛同し、会員一名の推薦を添えて申し込む。その後の運営委員会の承認を要する。
〔連絡先〕千葉大学文学部 三宅明正研究室。
Tel & Fax: 〇四三―二九〇―三六三八
E-mail: akimasa@bun.L.chiba-u.ac.jp
同時代史学会 News Letter 創刊号(2002年9月30日)で、2001年3月末から2002年9月末までの本学会のあゆみを紹介した。本学会は、2002年12月8日、嘉悦学園本部において創立大会をもち、同日をもって正式に学会としてのスタートを切った。本号では、創刊号で紹介した時点以降、すなわち2002年10月から2003年3月までのあゆみを、創立大会までと、創立大会以降の2つに分けて概観する。
2002年4月27日の創立準備大会以後、12月の創立大会に向けての準備がただちに開始された。準備は、学会の基本理念、組織体制、会員の拡大、創立大会企画など多面にわたり、ほぼ月一回のペースで運営委員会が開催された。学会の基本理念については、準備大会での会員の意見などを取り入れた創立趣意書、学会会則の見直しなどが早期に進められた。大会の企画がほぼ固まったのは、2002年9月末頃であった。9月28日の運営委員会において、シンポジウム「同時代史の中の戦争」と、特別企画「澤地久枝と同時代史を語る」をもつことが、まず確定した。組織体制については、学会の基本理念とも関連して種々の意見があり、10月14日、11月29日の運営委員会と、引き続き議論された。学会の運営を、徹底して民主的に行うとともに、できる限り公開すること、学会役員を学会の理念と見合う形で選出すること、などがかなりの議論末確認され、11月29日の運営委員会において、組織体制についての基本方針がようやく固まった。
こうして12月8日の創立大会を迎えた。大会参加者は、午前中のシンポジウム、午後の特別講演、約120名をかぞえ、盛会のうちに大会を持つことができた。シンポジウムと特別講演の間に開催された創立総会では、(1)大会までの経過報告[ 1] 運営委員会の開催状況、2] 研究会の開催状況、3] ニューズレター第1号の発刊、4] 12月8日現在の会員数(165名)]、(2)設立趣意書と会則の確定、(3)役員候補の提案と決定(任期2年)、(4)会計中間報告、(5)事務局の移管報告、(6)今年度活動案、の提案がなされ、討議の末、いずれも拍手で承認された。また、大会終了後、同じ嘉悦学園食堂において懇親会が開催された。創立大会の内容については、4月の創立準備大会とあわせ、日本経済評論社より『戦争と平和の同時代史』として出版の予定であるが、本ニューズレターにも2本の創立大会参加記を掲載しているので、これも参照されたい。
なお、選出役員および新事務局は以下の通りである。
理事
浅井良夫(成城大)、天川晃(放送大)、雨宮昭一(茨城大)、池田慎太郎(広島市立大)、伊藤正直(東京大)、今泉裕美子(法政大)、岡田彰(拓殖大)、黒川みどり(静岡大)、Andrew Gordon(Harvard)、小林知子(福岡教育大)、進藤栄一(筑波大)、豊下楢彦(関西学院大)、永江雅和(専修大)、中北浩爾(立教大)、中野聡(一橋大)、兵頭淳史(専修大)、福永文夫(獨協大)、三宅明正(千葉大)、宮崎章(筑波大附属駒場中高校)、森武麿(一橋大)、安田常雄(電気通信大)、渡辺治(一橋大) 以上22名
会計監査
疋田康行(立教大)
事務局
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学大学院経済学研究科 伊藤正直研究室
tel/fax:03-5841-5602 e-mail:masaitoh@e.u-tokyo.ac.jp
大会で選出された新体制の下、2002年12月20日(東京大学)、2003年1月24日(東京大学)、2月21日(東京大学)、3月15日(立教大学)と4回の理事会が開催された。この間、理事代表の選考方法、今後の体制などが審議され、2月21日の第3回理事会において、理事互選(無記名郵送投票方式)の結果、安田常雄理事が理事代表に選出された。3月15日の第4回理事会においては、理事会の下に、大会委員会、ニューズレター委員会、研究会委員会、会員拡大委員会、企画・会誌委員会、事務局を置き、この5委員会・1事務局体制で学会を運営していくことが決定された。大会委員会は年1回開催される年次大会の企画や準備にあたり、ニューズレター委員会は年2回刊行のニューズレターの編集にあたり、研究会委員会は年3回程度の開催を予定している研究会の企画・運営にあたる。この間2回開催された定例研究会については、本ニューズレターに報告と参加記を掲載しているので、そちらを参照して欲しい。新たに会員拡大委員会、企画・会誌委員会を設置したのは、早期に学会誌の発行を目指すこと、そのためには会員の拡大が急務であること、多様な企画により本学会の魅力を高めて行く必要があることが確認されたためである。
なお、次回の年次大会は、2003年12月7日(日)、法政大学市ヶ谷校舎ボアソナード・タワー26階スカイホールで開催することとなった。企画については、大会委員会での検討が始まっており、具体化した時点で、会員への連絡を行う予定である。皆さんの積極的参加を期待する。
第二次世界大戦が終結し、まがりなりにも主権を回復してから50年目の今日、平和への疑念と民主主義への懐疑が広がりをみせている。私たちは、戦後改革の遺産を忘れて時代の方向性を見失い、知の根拠地すら喪失し始めている。いったい「同時代としての歴史」から何を学び、何を継承すべきなのか。もう一度、その原点にまで立ち返り、様々な角度から検討を加え、ともに語り合う意義は決して小さくない。
冷戦後の混沌やむことない21世紀の門出にあたって私たちは、戦後日本の歴史的研究を共通の基盤とする新たな知の集団を、ここに設立する。占領史研究の豊穣な成果を継承し、史資料に基づく実証性に執着しながら、世界史の文脈と比較の視座を重視して、専門分野を横断する総合的な同時代史の創造を目指す。また、国境の壁を越えて海外の研究者と手を携え、狭いアカデミズムの壁を取り払い、世代の壁を克服して、幅広く同時代史の構築に努める。
同時代史学会は、その志において、日本を主たる対象としつつも世界に向けて開かれ、専門性を尊重しつつも市民に向けて開かれ、過去を見据えつつも未来に向けて開かれていなければならない。むろん、それは容易なことではない。しかし、そうした絶え間ない試みのなかから、私たちは初めて、同時代史をともに学ぶ“知の交歓の場”を創出することができるであろう。
(付則)
日時: | 2003年6月7日(土) 14時~17時 |
---|---|
場所: | 立教大学 太刀川記念館3階 多目的ホール |
テーマ: | 情報と核をめぐる日米関係 |
報告1 | 井川充雄(静岡大学情報学部) |
「占領期におけるアメリカニゼーション -『アメリカ博覧会』の効果をめぐって-」(仮題) | |
報告2 | 黒崎 輝(明治学院大学国際平和研究所) |
「核兵器との共存への道: 日本の原水爆禁止運動と日米関係、1954-1963」 | |
コメンテーター: | 有山輝雄(東京経済大学)他 |
項目 | 予算額 | 備考 | 02年11月末時点 | 03年2月末時点 | |
---|---|---|---|---|---|
(収入) | |||||
会費収入 | 650,000 | 一般100名、院生50名 | 620,000 | 678,000 | 一般122名、院生26名 |
拠出金 | 112,840 | 112,840 | |||
寄付 | 10,000 | 75,000 | 今井敬爾、澤地久枝、進藤栄一 | ||
雑収入 | 5,000 | 5,000 | 創立準備大会で発生 | ||
収入計 | 650,000 | 747,840 | 870,840 | ||
(支出) | |||||
ニューズ・レター編集費 | 100,000 | (2回発行) | |||
通信費 | 54,000 | 68,308 | 129,351 | ||
大会費用 | 50,000 | 68,620 | |||
アルバイト料 | 90,000 | 20,000 | 30,000 | ||
年報発行準備費 | 100,000 | ||||
雑費 | 20,206 | 22,521 | |||
支出計 | 394,000 | 108,514 | 250,492 | ||
来期繰越金 | 256,000 | 639,326 | 620,348 |
同時代史学会は年次大会を12月に開きます。企画や内容は、今後、大会委員会で検討しますが、とりあえず日時と場所だけを連絡しておきます。日程を空けておいてください。
日時: | 2003年12月7日(日) 午前・午後 |
場所: | 法政大学 市ヶ谷校舎 ボアソナード・タワー |
〔※「会員一覧」は省略しました。〕
同時代史学会創立大会のシンポジウムテーマは「同時代の中の戦争」でしたが、本News Letter編集作業の最中に、イラクでの戦端が開かれてしまいました。開戦前の世界的な反戦運動の高まりと、それをも受けて、国連の中でも武力行使に否定的な態度が多数を占めつつあったという流れは、もしかしたら「反戦運動が戦争を未然に止めた」史上空前の事例となるかもしれないという見通しを抱かせるものでしたが、結局そのような歴史的な事態の現出には至らなかったわけです。同時代のものとして戦争を語る必要のない世界は永遠のそのまた先のことでしょうか。それとも、かつてなく高まりつつあるように見える反戦の声は、この戦争を最後に、そうした時代を生み出すことにつながるのでしょうか。ともあれ、「同時代の中の戦争」という創立大会のテーマは結果として実にタイムリーだったことになりますが、まさにそのことゆえに、複雑な心境にさせられます。(兵頭 淳史)
ニューズレター担当を仰せつかったものの、経験豊富な諸先輩方に任せっきりで、これといった貢献もできないまま、はや1年が過ぎてしまいました。2003年3月をもって関東地方を離れることになり、今後は日常的なお手伝いもできそうになく、心苦しい限りです。IT関係にはめっぽう弱い私ですが、首都圏中心になりがちな学会運営に地方からどう貢献できるのか、これから模索していきたいと思っております。(池田 慎太郎)
同時代史学会News Letter 第2号 |
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発行日 2003年3月31日 |
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