第4号 (2004年5月) ISSN 1347-7587
「同時代史」学会創立に際しては、「戦後史」という一国主義的視野を超えて、グローバルな視野に立って戦後日本史を見直すというのがひとつの趣旨でした。また、国際関係史、政治史、経済史、文化思想史という縦割りの学問の割拠主義を克服することも目標でした。さらに、大事なことは市民の目線に立って、市民に開かれた学問をめざす構えでした。
このなかで、私は市民に開かれた同時代史をどう構築していくかという点で、あらためて地域史の位置づけの必要性を訴えたいと思います。
網野善彦氏が亡くなり、さまざまな批判はありますが、民衆の目線に立って天皇制・国家権力を相対化し、農民から漁民、商人、被差別部落民、女性などに視点を移動し、さらに、日本史を海を通して一国史から東アジア史に広げ、また中央史観から解き放ち、地方、辺境、地域の独自性、自立性からとらえ直す、網野史学の「反逆」の視点は、学ぶべきものがあります。また安丸良夫氏の近著『現代日本思想史-歴史意識とイデオロギー』に見るように「世界の全体性を民衆の生活を介して表象」しようとする年来の姿勢とその努力に共感します。
すなわち、中央に対して地域の自立性、世界の全体性把握を民衆の生活世界のなかから見直していくのは、現代の歴史学の中心課題であるとともに、これからの同時代史研究の大切な課題でもあると思います。また、歴史を市民の目線に立って、政治、経済、社会、文化の全体性においてとらえることは、同時代史学会の課題でもあり、地域史研究がもっとも有効で、可能な領域でもあるということです。
現在のグローバリゼーションのなかで、ローカリズムに根を下ろし、東アジアのリ-ジョナリズムに視野を広げるなかで、日本ナショナリズムを相対化する視点が、いま地域史に求められているように思います(拙稿「地域史をひらく」『飯田市歴史研究所年報』創刊号、2003年参照)。現在あらためて同時代史を地域史からとらえ直すことの意義を強調しておきたいと思います。
私は自他ともに認めるまぎれのない肥満である。身長179センチ、体重88キロ。しかし、ここで私の肥満の個人的事情を述べるつもりはない。現代の資本主義と肥満との関係について、一見瑣末のようであるが、しかし重要なことを、ここでは述べることとしたい。
従来のマルクス経済学(マル経)では、資本主義は貧困との関係で論じられてきた。しかし、馬場宏二東京大学名誉教授は、現代の資本主義は過剰富裕化との関係でとられなければならないと、主張している(東京大学社会科学研究所編『現代社会I』、1991年)。現代の資本主義は大衆を豊かにし過ぎたというのである。(深刻な平成大不況に直面しているいま、私たちが真に豊かであるかどうかは、さしあたり問わない)。馬場教授はマルクス経済学者であるから、マル経理論の180度の転換である。もっとも、「貧困」派と「過剰富裕化」派とでは、マルクス『資本論』の理論的位置づけがまったく異なっているので、正確には「転換」とは言えないであろう(「貧困」派は『資本論』は現状分析にストレートに結びつくととらえ、「過剰富裕化」派は、『資本論』は「段階論」というもうひとつの中間理論をふまえなければ現状分析とは結びつかないととらえる)。
過剰富裕化の例として馬場教授は、過剰富裕化によってもたらされた肥満をそぎおとすためのジョギングの流行をそのひとつにあげている。「貧困化」論よりも馬場教授の「過剰富裕化」論に私はくみするが、その例示としてのジョギングの流行については、私は少々異論がある。私は現在より数キロ痩せていた数年前まで、20年間近く週2回から3回のペースで4キロメートル前後の距離を走っていた。そして実に多くのジョッガー(ジョギングをしている人)と遭遇した。これらのジョッガーの多くは、痩せているか、中肉中背か、がっちりした体格で、いまにもマラソンに出場できるような体形をした人たちであった。明らかに肥満と思われるジョッガーに遭遇したのは、ほんの1、2回だけである。実際、馬場教授の同僚であった宇沢弘文東大名誉教授は、知る人ぞ知る、その方面では有名なマニア的なジョッガーであるが、宇沢教授もまたけっして肥満ではない。宇沢教授は近代経済学者であるからといって、馬場教授は宇沢教授を無視したわけではあるまい。
過剰富裕化の例としてジョギングの流行をあげるのは適切ではなく、もしあげるとすれば、ダイエットマシン、フィットネスクラブ、スイミングスクール、エステなどの隆盛をあげる方が適切であろう。しかも、これらとて、精神の内面的美よりも外見的体形美をよしとする人間に対する社会的美意識の転換や、社会保障の貧困による医療費の負担増や老人医療・福祉・介護など老後への漠然たる不安への個人的対応といった側面がつよい。病気にならない強い体をつくろうというわけである。総じて言えば、運動の流行は、過剰富裕化よりも人間に対する美意識の転換や社会保障のありようとの関連でとらえた方が良いように思われる。
しかも、馬場教授の指摘する肥満は、過剰富裕化の理論だけでは解けない。1980年代から21世紀にかけて企業を中心に急速に進展してきた過剰効率性、過剰競争の追求もまた肥満の有力な要因のように私には思われる。ビジネスマンのサービス残業、業績主義、平日の自由時間わずか2.6時間という状況(『日本経済新聞』1998年6月9日付)のもとでは、不規則な生活、過剰なストレス、運動する時間の不足などを強いられ、「これだけの仕事の量、せめてうまいものでも食うか、酒でも飲む楽しみがなければ、やっていられないよ」という思いを多くの人に生み出したのではないだろうか。げんに、私のゼミ生で卒業後入社したものの多くは、5、6年過ぎると、体形が「見事に」丸くなっている。マックス・ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」が通用しないほど、現代の資本主義は過剰効率性、過剰競争を内に含みつつ肥大化したのである。
逆説的な言い方になるが、「肥満」は資本主義の方から始まったと言ってよいであろう。
<追記>
欧米の肥満者の肥満度は日本の肥満者の比ではない。この点で、日本は欧米にいまだ「キャッチ・アップ」していない。小泉政権の「構造改革」路線は欧米に「キャッチ・アップ」しないまま、過剰競争・過剰効率性だけは堅持しつつ、急激なダイエットによって時には死にいたる「超」痩身型資本主義をめざしているように思われる。
高度経済成長の後半期に歴史の舞台に登場し、またたくまに全国民の4割が住む都市に広がり、そして70年代末には歴史の舞台から一斉に退場した革新自治体とはいかなる歴史的な存在であろうか。その代表的な存在である美濃部都政を素材に考えてみるというのが本報告の中心テーマであった。
また、現在地方分権改革が進められているがいっこうに地方自治が拡大・強化されているとは思われない。地方分権とはそもそも何なのかが根本から問われる中で、革新自治体は、当時の中央政府に対抗しながら、日本における地方分権と何か、地方自治とは何かを根本から問うたのではないか。美濃部都政は、「財政戦争」「ごみ戦争」などというシビアな表現で、わが国の歴史において初めて本格的に地方分権の必要性を問うたのではないだろうか。地方税財政の抜本的な改革を提起したのも美濃部都政の新財源構想研究会であった。
さらに、21世紀の日本のあり方を考えるうえで、新しい福祉国家の可能性を論じる有力な研究者のグループが現れている。見解は異なるが渡辺治をはじめとした新福祉国家グループ[1]、武川正吾などのグループの研究[2]の焦点が期せずして「地域」「自治体」に当っている。改革の方向を地方自治体改革におくにせよ、地域における福祉社会の実現におくにせよ、日本において未確立だった福祉国家機能を地域で代替し、乗り越えようとした革新自治体の経験を総括することは、それらの問題を検討する際、避けては通ることのできない課題である。
こうした重要なテーマであるにもかかわらず、実証的な研究が十分行われているとは思われない。本報告は、そうした問題関心からおこなわれた。
まず、研究史の総括から行いたい。紙幅の関係で全ての見解を検討することはできないが、宮本憲一が代表的な見解[3]であり、それを革新自治体の崩壊要因に限定してみると、(1)オイルショックによる不況、(2)都市の改革要求が農村を巻き込めなかった、(3)社共の対立、公明党の統一からの離脱、(5)住民運動の弱さ、草の根民主主義の弱さ、(5)政策転換の欠如、すなわち福祉・環境から財政・産業政策への転換がなかったとし、美濃部都政のような革新自治体は、「上からの改革」であり「二度と生まれない」としている。
宮本の見解は、革新自治体の歴史的役割は認めつつも、歴史的役割は終わったというものである。宮本見解の問題点を1点だけあげれば、「(2)都市の改革要求が農村を巻き込めなかった」のは、都市問題を解決するために登場した革新自治体が、農村を巻き込めなかったのは形成過程からみて当然であり、歴史的内在的な分析とはいえない。しかし、宮本の見解は通説的な位置を獲得している。
一方、80年代半ばに、革新自治体研究を飛躍させ、その後の研究に礎石をおいたのが、渡辺治の企業社会論からの研究である[4]。氏は崩壊要因に関して、オイルショック後に国民意識の変化が生じ、「高度経済成長の破綻は、それまで経済成長=企業の発展の中に自己の経済生活の向上を託してきた労働者の中に、日本経済=企業の危機克服のための耐乏イデオロギーを浸透させ」る一方、70年に入り、企業が新たな規模で労働者の掌握にのりだし、さらにそれにとどまらず直接、地域社会の掌握に手をつけたこと、その結果、それまで革新自治体を支えてきた青年や主婦層が社会的支配構造の内に抑えこまれていったとしている。企業社会の確立と革新自治体の崩壊の関係を鋭く論じている。こうして「革新自治体の経験を経ることによって、地方政治での戦後型支配構造が成立した」としている。
しかし、この渡辺論文は、戦後の支配構造が地方政治においてどのように成立したかに力点がおかれ、革新自治体の全面的な総括を意図したものではなく、今日的にみれば革新自治体の意義について過小評価がみられる。
こうした宮本、渡辺の研究を踏まえつつ、革新自治体の全面的な総括を試みたのが進藤兵である[5]。氏は、革新自治体の崩壊要因としては、第1に、客観的条件として、(1)オイルショック以降の長期不況による税収不足、(2)不況のなかで労働者・住民が「現在の生活水準でガマンする」傾向を強める一方、革新自治体の諸政策(とこれによって影響された中央政府社会保障政策の拡充)によってある程度の生活水準が国民に確保され、いわゆる「豊かな社会」現象が現われたこと、(3)社会的支配構造が地域政治とは別の領域で確立しており、福祉国家が困難に陥ると労働者・新中間層の多数は、自治体による公的福祉よりも企業福祉に依存し、政治的には保守政党に改めて期待したこと。この点にかかわって、中央レベルでの福祉国家の未実現が、敗退の最大の要因であったことなどをあげている。
第2に、主体的要因としては、(1)革新統一が、公明党の保守との連合、社党の離脱がおこり、困難に陥ったこと、また、これに替わる政治的基盤、運動、政党の未形成、(2)思想レベルでは社会主義と市民主義の新しい共同がつくれなかったこと、(3)福祉国家の困難を主体的に克服できる力量に乏しかったこと、住民が「豊な社会」にある程度満足したとき、住民を結集する新しい争点を構築できなかった。第3に、福祉国家の財政膨張を予測して、効率的な都市経営を打ち出したり、地域産業政策を行なうなどによる税収増加政策を打ち出すという視点が弱かったこと、(4)首長が交代したとしても住民要求が政策に反映されるような住民参加メカニズムを制度化するという点での弱さがあったこと、(5)農村部自治体との提携の弱さを指摘している。
進藤の見解が、現時地点の革新自治体研究の到達点であり、多くの点で筆者も学んだが、崩壊要因を中心に解明すべき重要な論点も残されている。
第1に、革新自治体の崩壊の客観的要因である財政危機とはいったいなんだったのかという問題である。財政危機が革新自治体崩壊の自明の前提となっているが、財政危機とはどのような内容であり、何により生じたのか、十分な検証がおこなわれていない。第2に、崩壊の主体的条件にかかわって、革新政党内部の対立がなぜ生じたのかという問題である。社共の対立は事実だが、対立が何を背景に生まれ、何をめぐって生じたのかを解明することである。第3に、美濃部都政や革新自治体は財政政策、都市経営論、産業政策という点が本当に希薄だったのかという問題である。第4に、革新自治体が崩壊するうえで、外部からの支配層の系統的な革新自治体攻撃はどの程度有効であり、内部要因とどのような関係にあるのか。第5に、革新自治体は、わが国おける中央・地方関係にどのようなインパクトを与えたのか。
これまでの見解は仮説として優れたものではあるにしても、個別の革新自治体の実証的な研究を経なくては、仮説の領域にとどまり、実証されたとはいえない。
ここでは紙幅の関係からこの論点のうち、第1から第3の論点に限定して、美濃部都政を事例に検討をおこないたい。
第1の論点にかかわって、美濃部都政の崩壊の客観的要因である財政危機とはどのような性質の危機だったのかという問題である。
美濃部都政の歳入不足は74年から表面化する。それは、74年の春闘で大幅賃上げが行われ、それに連動するかたちで都人事委員会が大幅賃上げの勧告をおこない、その財源をめぐってである。ここで注意しなければならないのは、オイルショック以降も一貫して地方税は伸びていることである。税収が減少して都財政危機が生じたのではなく、増大する歳出に対応する歳入の伸びが不足したことによって都財政危機が生じたということである。その点では、前述の見解には美濃部都政に関しては事実誤認がある。したがって、問題は歳出削減であり、具体的には、経常経費、人件費が歳出削減の焦点となっていった。
第3の論点にかかわって、美濃部都政が宮本憲一の述べるように財政政策や都市経営の視点が欠如していたかといえばそうとはいえない。
美濃部都政は、1972年には新財源構想研究会を発足させ、新たな財源を求めて政策的な検討を開始しており、現に法人二税の不均一超過課税を実施している。美濃部都政の採用した財政政策の戦略的方向は、歳出の削減による内部努力ではなく、地方税財政制度の改革(歳入の自治の拡大)による財源の確保=歳入の拡大にあったのである。その点では、美濃部都政は、地方財政制度を含め地方分権改革の先駆的業績を残したのである。
戦略的に美濃部都政が歳入の拡大におかれたため、当面の対策として歳出の削減に十分に踏み込めなかった。しかし手をこまねいていたわけではなく、美濃部都政も歳出削減に取り組み、1976年には行財政改革をすすめるため「行財政改革三ヵ年計画」を立案し、行政組織の合理化、使用料・手数料の引き上げなどをおこなっている。都市経営論の視点がないという訳ではないのである。
問題は、なぜ十分歳出な削減に踏み込めなかったのかという点である。そこには歳入の拡大という戦略のとともに、歳出削減を阻む構造が存在したのである。その点を筆者は、美濃部都政を支える諸主体ととり結んだ福祉国家的合意に求めている。都民との福祉、医療、教育などの分野での政策的合意、結果の平等を求める都労連との間に取り結ばれた労働条件改善の合意、特別区との間で取り結ばれた都区財政調整交付金(都財政危機下でも一貫して増加)を通じた財政面での合意を容易に崩すことができなかったのである。こうした福祉国家的合意を見直すことは、自らの支持基盤を掘り崩すことにつながるからであった。
第2の論点だが、崩壊の主体的条件にかかわって、革新政党内部の対立がなぜ生じたのかという問題である。既にこの点は渡辺治により論じられているが、なお十分に実証されているとはいえない。
都民の支持という点から美濃部都政をみると、二期目選挙(1971年)の得票は史上空前の362万票であった。社会党と共産党の国政選挙、都議会議員選挙の合計得票数は、70年代を通じてほぼ150万票前後であり、したがって200万票前後は、美濃部都政を支持しながら、党派別選挙では社共以外の政党に投票していたと考えられる。革新政党支持票ではなかったのである。このコアの部分は大企業労働者であり、73年オイルショック以降の減量経営や不況のなかで美濃部支持から離反し、美濃部都政の支持基盤の崩壊が開始されたのである。
1979年の都知事選挙で美濃部都政を継承する立場にあった太田薫が獲得した得票数は約154万票であり、ほぼ社共支持層にとどまった。
社共の対立は、現象的には同和問題などに現れているが、より根本的にはこのような状況の変化にあって、従来の美濃部都政の政策的・組織的枠組みを重視する共産党と、企業主義的労働運動のヘゲモニーの拡大の下でそれを強力な支持基盤とし美濃部都政の政策的・組織的な枠組みを右からの再編を意図する社会党との対立だったのではないだろうか。
既に紙幅をオーバーした。戦後史における革新自治体の歴史的位置について総括的に論じることができなかったが、それは筆者の論文[6]や学会での報告レジメを参照していただきたい。革新自治体は、住民との対話や住民の行政への参加を通じて、地方行政の公共領域を飛躍的に拡大し、日本国憲法の理念を地方自治に本格的に具体化した初めての本格的な実験であった。同時に、革新自治体は、日本における福祉国家的地方政府であり、地方分権改革の先駆的形態でもある。さらに、美濃部都政に代表される革新自治体は、アメリカのベトナム侵略を厳しく批判するなどの平和志向や環境保護など、私たちが旧来の福祉国家の限界を乗り越えるうえで様々な教訓を残している。
かつての国家総動員体制のもとで遂行された戦争がもたらした損害に対して、戦後どのような後始末がなされたのかを考える上で重要となるのは、人的被害に対する日本の国家補償施策の基本法である戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年4月30日公布、同年4月1日に遡って施行。以下「援護法」と略)である。本報告ではこの法案の国会審議を素材に、本法の「援護」なる概念が生まれた歴史的背景とその意味について考察を試みた。援護法制定の翌年には軍人恩給が復活したため、これらの戦争犠牲者援護施策は当時の世間の目には援護法と並ぶ政府の旧軍人優遇策と映った。また、日本の再軍備論が高まる時代を背景に成立したため、従来、援護法から軍人恩給復活に至る歴史は一連の「逆コース」の時代の出来事の一つとして理解されてきた。しかし本報告では、敗戦以来の懸案事項であった戦争犠牲者援護問題が当時の援護法案審議の中でどのように議論されていたのか、とりわけ「戦争犠牲者」に対する「援護」認識ないし「国家補償」認識とその認識者それぞれの戦争体験の位置づけとはどのような関係にあったのか、という「援護」や「国家補償」を求める論理と戦争体験の位置づけの関係に着目して、傷痍軍人を軸に検討を試みた。
敗戦後、占領軍の非軍事化政策の下で軍人恩給は停止され、無差別平等の社会保障政策の中で戦争犠牲者を特別の対象とした施策は廃止、全て生活保護法によるものとされた。とはいえ占領初期の日本国内では政府による引揚者の援護施策があり、戦争犠牲者の中でも戦災者の生活擁護を求める組織的な運動が起こっていた。引揚問題が一旦落ち着くと、国内ではソ連や中国に抑留されている旧軍人や民間人に関心がうつり、未復員、未帰還者の家族援護を目的とした法律が制定され、また児童福祉や身体障害者福祉といった社会保障一般施策では解決困難な社会的弱者に対する社会福祉の法が制定された。その間、戦争未亡人や戦死者遺族の生活問題への解決に向け未亡人や遺族の組織化が進み、未亡人や遺族は「戦歿者の多くは好んで戦場に出たものではなく」「総動員されてその犠牲になったもの」として政府の戦争犠牲者への対応を求める国会決議が出された。
1951年5月には、参議院提出の戦傷病者等対策審議会を設置する法案が国会審議にかけられ、審議会の設置自体はGHQの了承を得ていたものの、おりしも起こっていた日本の講和問題との兼ね合いで「過去の戦争によっていろいろ犠牲を受けた人たちの処遇を改善すること」は「不当に各国の疑惑を招くおそれはないかということを懸念」した政府や衆議院の反対により法案は見送られた。しかし同年9月に対日講和条約と日米安保条約の調印が済み、日本の講和独立を見込んだ戦争犠牲者の対策の模索が始められた。
そうした中で起こったのが白衣の傷痍軍人による断食スト事件であった。1951年10月に政府や国会に傷痍軍人の処遇改善や「全戦争犠牲者の保護対策」を求めた傷痍者中央連合会のメンバー数十名が陳情活動をした後、その対応を不満として数名が銀座数奇屋橋で断食ストを始めた。この事件は警察やMPも出動する事態となったため、世間の注目をあびることになった。政府の施策が確立するまで傷痍軍人の募金を公認することを求めていた同団体は患者団体とも旧軍人団体とも異なる傷痍軍人独自の生活保障の要求を掲げていた団体であったが、次年度の国家予算に戦争犠牲者援護関連費が計上されるとの政府の回答を得て8日間にわたる断食を中止した。政府はこの事件発生直後に「戦傷病者及び戦没者遺族等の処遇に関する打合会」を設置し、以後、具体的な施策の検討に入った。
しかし施策の方針と予算額とをめぐって政府内でも対立が見られ、財政上の問題や賠償問題との兼ね合いから援護費を抑えようとする池田勇人蔵相や恩給方式をとる恩給局と、戦争犠牲者の生活保障と謝意を含んだ国家補償策を求める橋本龍伍厚相が閣議で対立、その結果、厚相の反対を除き閣議決定した予算額を不満として厚相が辞任する事態となった。この出来事は遺族会や傷痍軍人団体、留守家族団体から政府の戦争犠牲者に対する「誠意」を問う事件として受けとめられた。とはいえこの「国家補償」観やその中身は必ずしも一様ではなく、靖国神社に天皇の行幸を求めるといった遺族会の心情と、そうした遺族会の陛下万歳三唱に対して「そんな馬鹿なことがあるか」と怒りに行った傷痍軍人団体との天皇観の相違にその一つが見出せる。また、留守家族団体の要求はこの援護費論議においては未帰還者の引揚促進については全く忘れられている、という批判であった。1952年3月に政府の援護法原案が国会に提出され、その中身が明らかになると、これらの団体を含め様々な戦争犠牲者団体が国会に陳情、請願に乗り出した。
同法の目的は「年金又は一時金を支給すること等により、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする」というのが当初の政府原案であった。「援護」とした理由として政府は「金額といたしましては国家補償というほどの実は予算でもございません」「差当り援護ということで出したわけ」と説明している。軍人恩給を近いうちに復活することを念頭において、それまでの暫定的な措置として打ち出されたのがこの「差当り援護」であったため、この方針をめぐって議論が展開されることになった。
恩給法によらない戦争犠牲者に対する国家補償のあり方を求める意見や恩給復活の後にそれを補う形で「援護」すべきだという意見など援護の方式に対する批判、遺族の範囲を「公務の強制」に対する国家補償として徴用工や勤労報国隊員、学徒報国隊員にまで広げるべきだという援護の対象範囲に対する批判、船員保険などの戦時の社会保険制度とは別個に戦争犠牲者として国家補償を求める意見、文官恩給との兼ね合いから軍人恩給復活を求める意見、沖縄や小笠原諸島在住あるいは内地在住者の援護法適用や朝鮮人台湾人の援護法適用にまつわる国籍・戸籍による対象規定の問題などが論議の的となった。審議の結果、衆議院では法の目的に「国家補償の精神に基づき」との文言を加え、参議院では「遺族一時金」の名称を「弔慰金」に変更、弔慰金の受給対象を「法令に基いて強制動員を受けた者(徴用工、徴用船員、勤労報国隊員、女子挺身隊員、学徒報国隊員)」「もとの陸海軍の要請に基いて戦闘に参加した者(国民義勇隊を含む)」「特別未帰還者」のいわゆる<みなし軍属>条項を加える修正を施し、法案が成立した。
本報告での考察をまとめると、第一に、講和関係費を第一義とした政府の予算案の組み方が政府原案の立法理念に大きく影響し、その結果「援護」法となった。第二に、そのような政府の立場に対して、国会の審議の場や戦争犠牲者団体、世論の意見の大半は「援護」ではなく「国家補償」を求めるものであったが、その「国家補償」の中身は必ずしも一様ではなく、そのことが援護法案の修正に反映し、妥協点が模索された。その結果、「国家補償」の文言が加えられ、「弔慰金」に名称変更を加えるなど国家補償としての援護法に近づける修正が加えられた。修正にあたっては橋本龍伍や青柳一郎などの旧軍事保護院関係者、動員学徒の援護問題に取組んだ山下義信(右社・広島)、未亡人運動に関わった女性議員の取り組みがあった。第三に、本報告では検討できなかったが援護法施行後の問題を考えるにあたって大きな修正であったとみられる「弔慰金」制度の盛り込みは、当初の法案審議の段階では<国家の強制>により受けた損害に対する国家補償にあったはずが、その後次第に<国に殉じた>結果生じた損害に対する国家補償の意味あいへと変化していく契機に、さらにいえば「援護」理念を変容させる契機となったという意味でこの「弔慰金」制度の盛り込みは重要な修正であったのではないか、と位置づけた。しかしこの点は本報告の論証から得られたものではなく未だ論者の仮説の域にとどまるものであったため、今後検討した上で改めて問題を提起したい。第四に、法の制定に際しては遺族会や留守家族団体が国会工作を大規模に展開し、船員組合や学徒動員など戦時中の組織のつながりがある諸団体が組織的な要求活動を展開し、公聴会での意見表明などの機会も得て、法案に要求がある程度反映されることになった。しかしそれは一方で、組織化しにくい戦争犠牲者の声が明確に表面化しなかった事実を示していた。その一つの例として白衣の傷痍軍人団体を本報告で扱ったが、若干の指摘にとどまった。この問題が表面化した軍人恩給復活後の傷痍軍人諸団体の動向については、拙稿「白衣募金者一掃運動に見る傷痍軍人の戦後」(『日本学報』22、大阪大学大学院文学研究科日本学研究室、2003年3月)を参照して頂きたい。
また、この「傷痍軍人」なる人々にどのような人々が含まれていたのか、何を想定しているのかという点について本報告では史料上の制約もあり全く触れることができなかった。しかし、後に大島渚が撮った「忘れられた皇軍」で在日朝鮮人の傷痍軍人の実情がとりあげたことからもわかるように、ここでは総力戦体制で戦った人々の戦後の有り様を考えるにあたって「傷痍軍人」という視角、言葉を使用していることを一点補足しておきたい。
1980年代に臨教審が「第三の教育改革」を提唱して以降、戦後教育の再構築がその後の内閣の主要課題となっている。そしてその中心が、教育憲法と称され、戦後教育システムの頂点に位置する教育基本法の改正であることは周知のところである。また他方で、教育は行財政改革の流れのなかで、選択の自由やプライヴァタリゼーションといった新自由主義的な改革の対象にもなっている。だがこうした改革は、教育の機会不均等や公共性の侵食などを伴うという意味ではリスクも内在しているといえよう。いずれにせよ、このように戦後の教育政策は互いに対立する多様な理念が並存する場であり、教育制度の設計が争点となるときはいつも、これら背反する理念をいかに止揚するかが課題となってきた。そこで本報告では、現代教育の出発点である占領期の教育改革を、理念と制度の関係から論じることによって戦後教育システムの本質に迫ることを課題にした。
占領期に創出された制度は、端的にいえば、異なる理念を有する諸アクター間の対立と協調、すなわち政治過程の産物であった。これは、民主社会は多様性と相互性を許容する主体的な個人の実践を通して不断に発展するという民主主義観を基調にもつアメリカ側の占領方針により、日本側に改革に対する自律性が相当程度与えられたことで可能になった。ところが、日米双方の民主主義に対する理解には少なからぬ齟齬があった。そして、そのことから日本側政策担当者による新制度の導入は、幾度か困難に遭遇したのである。
民主主義の内的発展を重視するアメリカは、権利の主体である個人の自由を何よりも尊重し、個人の社会参加を通して「善い社会」を建設することを理想としていた。したがって、教育改革の主眼も、国民の教育権の確立とそれを保障する制度―分権的な教育行政制度や素人統制を前提とする教育委員会の導入など―の構築にあるとした。つまり、民主「社会」の構築を教育改革の主軸に据えたのである。他方、日本側では、国家を再建し講和独立を達成するための手段として、民主「国家」の建設が不可欠であると考えていた。そしてここで注目されるのは、日本側の政策担当者たちが想定する国家とは、具体的な統治機構をさすのではなく、「文化国家」という観念的な国家であったことである。
文化国家とは、大正デモクラシー期にさかんに用いられた国家観で、自然の真理である真善美、すなわち伝統的な価値観と西洋近代的な価値観を体現する理想国家のことであり、それは人格の陶冶の蓄積によって発展するとされた。このように大正期の観念が戦後教育改革の理念の中核に置かれたのは、大正期に自らの思想基盤を育んだ知識人たちがその改革の立役者となっていたからである。彼らは、教育とは文化国家の核となる共同の公的意思を知り、それを実践する過程であるとした。そしてそのことから、理を知り、人々を師導する教師の教育権、すなわち「教権」の確立が文化国家建設の条件であるとし、それを保障する制度の設計を目指したのである。その過程でとりわけ重視されたのは、教育の中立性の確保であった。これは戦前に総合行政というスローガンの下で、教育行政が一般行政から著しい介入を受け、結果的にファシズムの台頭を許したことへの反省が背景にあった。そこで彼らは、財政権を含む教育行政の独立を目指し、GHQも一端はこれを支持する。ところが、分権に関する日米の考え方には少なからぬ相違があった。
国民の教育権を尊重するアメリカは、教育行政の権限を極力地方に委譲し、文部省をサービスビューローとすることを望んでいた。ところが日本側では、文部省を頂点とする系統だった教育行政制度の確立を企図した。GHQは、教育の中立性の確保や民主主義に対する理解が不十分な地方行政が教権を侵害した場合、それを是正するためにも、教育行政機関に系統性をもたせる必要があるという日本側の主張に一定の理解を示したものの、譲歩はしなかった。というのも、彼らにとって教権とは、国民の教育権を保障するための一手段にすぎず、国民の教育権を保障する教育委員会制度の設立こそ、教育における分権化の眼目とされたからである、そのため、日本側の分権の主張は一顧だにされなかった。
しかし日本側には、制度を日本的に再解釈する余地が少なからず残されていた。というのも、あくまで日本側の自主改革を尊重したいGHQは、国会での再修正は許容したからである。そしてこの法案修正の過程で、教権という理念を共有する知識人や文部官僚を含む、教育関係者たちによる文化国家建設のための超党派的な合意が形成されていく。この合意は、人的つながりや思想的親近性、第二保守党による政策妥協点の提示などに媒介されながら、占領期全般にわたり遵守され、教権の日本的な制度化の原動力となるのである。このような展開は、教育問題における保革のイデオロギー対立を所与とみなす解釈からは捉えがたいものかもしれない。だが占領期の教育政策においては、そうした展開がみられたのである。もちろん、その間にもGHQによる介入はあったが、日本側政策担当者たちは再三にわたり法案の修正を試み、制度を日本型に再解釈する努力を続けた。そして、それのみにとどまらず、教権の制度化を目指す独自の改革もすすめていった。その最たる例が、教育基本法の制定である。
教育基本法は、教権の独立を持論とする田中耕太郎文相により起草された。この法案がGHQの関与なしに作成されたことは一見奇妙なようであるが、これは教育の基幹を国家が定めるという考えをアメリカ側が持ち合わせなかったためであった。法制化の最終局面でGHQの介入はなされたものの、文部省は条文に解釈の余地を残すなどして日本固有の理念の制度化を進めた。そしてさらに後続の個別法の課題を教権の確立に収斂させていくことにかなりの程度成功したのである。だがその際、新たな政治的争点となる問題が浮上する。それこそ、教権の権利主体である教師の身分保障のあり方である。
教育関係者たちは、戦前戦後を問わず不安定な地位におかれてきた教師の安定的な身分保障のため、教員身分法案や義務教育費国庫負担などの諸施策を企図した。これは教育予算を一義的に担うことになる地方がその負担に耐え切れず、俸給未払いという事態を惹き起こし、それが翻って教員組合による労働争議を頻発させるという悪循環を断ち切る意図から考案されたものであったが、そのために彼らは財源確保を目指す超党派決議を行い国庫負担の制度化を急いだ。しかしそれは他の政策分野の予算削減を意味したため大蔵省や地方自治庁の抵抗に遭遇した。このときの対立は、労働争議の沈静化と教育の民主化の双方を望むGHQの仲介によって一応の解決を見、結果的に最低限の教育予算は確保されることとなった。しかしこの経験は、財源を欠けば教員は自己を「教育労働者」と位置づけ労働運動に専念することになるという教育関係者たちの間にあった確信を、強めこそすれ弱めるものではなかった。彼らにとって、教育労働者という認識は国民を師導して文化国家を建設するという師表としての教師がもつ職責を放棄することを意味しており、それが教育改革を遅延させる原因になると判断した。そこで彼らは、教育公務員特例法を施行させたうえで、身分保障に必要な財源確保に向けた法案の作成を急いだ。
だが、そうした矢先に、GHQは経済的自立と地方の財政再建を最優先するという政策転換を行った。「均衡財政」を計りたい大蔵省と教育行政を含めた「総合行政」を実施したい地方自治庁や地方財政委員会は、これを逆手にとって教育行政への介入を強めていく。上程を予定されていた義務教育費国庫負担法案や教育委員会法修正法案などは財政問題と不可分であったため、それをめぐる政治過程は教権、均衡財政、総合行政という各種の理念の間の対立となった。このように占領後期の教育政策では、教権の確立という考えを必ずしも支持しない勢力との対立が避けられず、そうしたなかで超党派的合意の基盤を再構築していくためには、この対立を止揚する新たな理念が必要とされたのである。そこで教権の基礎となる経済的保障を確保したい教育関係者が案出したのが「国家の教育権」という理念であった。彼らはこの理念を援用し、まがりなりにも義務教育費国庫負担法を成立させる。しかしながら、教育委員会法修正法案については新たな均衡点を発見できず、教権の確立は不十分に終わった。そのため教育関係者はさらなる改正を目指して模索を始めることになる。このように占領期に続く1950年代の教育政策の過程もまた「教権」という理念、またさらには「国家の教育権」という理念を始点に展開していくことになる。
以上のように本報告では、教育基本法を頂点とする教育システムの理念が文化国家にあること、そしてそれを実現するために、教権を保障する諸法規が構築されたことを明らかにした。こうした理解は、もちろん戦後教育を論じる一つの仮説にすぎない。しかしながら、第三の教育改革が叫ばれる今日、こうした視座はある程度の意味をもつのではないかと考える。なぜなら制度の刷新をともなう抜本的な改革を望むのであれば、制度の基底にある理念の理解が不可欠であり、またその理解を通じてのみ、戦後教育の長所と短所を鮮明になし得ると考えるからである。改革を真に実りあるものにするためには、単に限られた時点からの「べき」論のみならず、実際の制度の背景に対する理解を深め、その可能性を探ることが重要であろう。なぜなら、戦後日本の教育制度は、民主主義を機能させるという目的で創出された事実は否めないのだから。
戦時中の日本の歴史学・歴史教育の状況については、従来、「神がかり的」な「皇国史観」が跋扈していた、といった漠然としたイメージで捉えられることが多かったように思われる。しかし従来の「皇国史観」の概念規定は必ずしも明確ではなく、史学史的には中世史家の平泉澄とその周辺の歴史観を、歴史教育史的には文部省『国体の本義』(1937)や『初等科国史』(1943)などの歴史観を指し、より広くはそれ以外の国体論者の歴史観も含めて曖昧に混同され、研究自体があまり進んでいないのが現状である。
本報告では、この「皇国史観」という語それ自体に着目し、この語がどのような過程を経て成立し、また、どのようにして批判的な形で用いられるようになったのか、その過程についての検討を試みる。その上で、戦後の歴史学が戦時中の歴史学をどのように批判してきたのか、あるいはその批判の中で何が見落とされてきたのか、という点についての考察を試みたい。
そもそも「皇国史観」という言葉は、文部省自身が戦時中、1942年6月頃より喧伝し始めたものである。例えば1942年9月26日、大政翼賛会第三回中央協力会議の場での演説で、橋田邦彦文相は、「大東亜戦争」の目的を達成するためには「国体の本義に徹し、皇国臣民としての生命の根源は我国歴史と伝統とにあることを体得して、確固たる皇国史観を、更に進んで国体の本義、肇国の精神に則る世界観、即ち日本世界観を把握体得することが必要なのであります」と語り、文部省ではこの趣旨に基づいて『国史概説』『大東亜史概説』の編纂に着手し、また「御歴代詔勅」及び「古事記、日本書記その他古典」の「衍義」(解説書)、さらに「大規模なる国史」の編纂を画策している、と述べている(『第三回中央協力会議録(全)』大政翼賛会、1942)。
このうち『国史概説』は、官吏任用資格試験である「高等試験」の科目に1942年度より「国史」が加わったのに応じ、その受験参考書として文部省教学局が編纂したもので、その上巻は1943年2月2日に公刊され(ただし奥付では1月20日発行、また下巻は3月31日発行)、「皇国史観に基く初の権威ある日本通史」(『朝日新聞』1943年2月4日附「国史概説上巻を刊行」)として喧伝された。
さらに1943年8月27日、「大規模なる国史」、すなわち古代律令国家の勅撰正史たる《六国史》を受け継いだ「正史」を編修するため、文相の諮問機関として「国史編修準備委員会」を設置することが閣議決定された。岡部長景文相はただちに天皇にこの件を奏上し、その後に発表された「文部大臣謹話」の中で、「政府ハ国家事業トシテ正史ヲ編修シ現代施策ノ鑑トナシ皇国史観ノ徹底ニ資スルト共ニ永ク後昆ニ伝ヘテ国運隆昌ノ基礎ニ培ハントスルモノデアリマス」(『文部時報』第798号、1943年9月)と語っている。この事業はその後、この岡部の「謹話」とともに、新聞・雑誌等を通じて大々的に喧伝されることになる。
すなわち、「皇国史観」とは文部省の提唱した一種の国策標語なのである。これ以前にも「皇国史観」という語を用いた例は散見される(管見の限りでは牧健二『日本国体の理論』(有斐閣、1940)が初出)ものの、この語が一般化し、ジャーナリズムによって広く用いられるきっかけを作ったのは、文部省のこの一連の修史事業であったと考えられる。これら一連の修史事業は基本的には文部省側の主導で行なわれ、多くの歴史学者が動員されていた。(なお『大東亜史概説』と詔勅・古典の「衍義」は、ともに教学局で編纂されたが、未刊に終わっている。)
この「皇国史観」を、文部省教学官で『国史概説』編纂会議員であった小沼洋夫は、「君臣一体の家族国家」が「顕現」し「八紘為宇の皇謨」が「実現」していく、という「皇国史」の「歴史的全体を貫流する皇国発展の生命原理」に「基づいて従来の我が国竝びに世界の歴史を断ずると共に、その歴史的創造に寄与せんとする思想信念」と定義している(小沼「皇国史観の確立と『国史概説』」『文部時報』第789号、1943年5月)。
なお、平泉澄の文部省に対する影響力はさほど強いものではなく、平泉ひとりをあたかも「皇国史観」の代表のようにみなすのは不適切である。
このような「皇国史観」に基づいて編纂された日本通史である『国史概説』の歴史観を、永原慶二は、日本史を「神性をもつ天皇の万世一系の統治、天皇の絶対的な君徳、人民の「承詔必謹」=絶対的服従」という「国体精神の顕現の軌跡としてとらえようという」ものだとしている(永原『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館、2003)。確かに、教学局は同書を『国体の本義』の歴史編というべき書物として位置づけており、同書の冒頭は『国体の本義』の冒頭と同一である。また同書では、各時代の叙述を必ず皇室史から始め、文化史の叙述を必ず神祇史からはじめるなどして、「国体」の絶対的優越性が「国史」を一貫していることを強調している。
しかしその一方で、「戦前昭和期において実証研究が大きく変容し、伝統的な政治史中心の傾向に対し、テーマが多面化するとともに内容も飛躍的に高度化した」(永原前掲書)という状況も、同書には色濃く反映されている。すなわち、同書には社会経済史や文化史などの成果がふんだんに取り込まれており、また社会経済的要因が歴史に与える影響などについても決して無視されてはいない。むしろ、「国体」に抵触しない限りにおいては高度な学術水準が維持されていると言える。このことは、当時の歴史学の高度かつ多様な発達と、にもかかわらずそれが「皇国史観」とさしたる矛盾もなく並存しえていた、という問題を示している。
また同書では、日本人・日本文化の純粋性よりも、むしろ異民族・異文化を「国体」に合致させる形で積極的に取り込んできた、という、いわば〈雑種〉性が強調され、それが日本国民・文化の優秀性の主張につながっている。
国史編修準備委員会(1943年10月設置、44年3月答申)では、「日本ノ正史ガ決リマスレバ、ソレニ基ヅイテ思想ノ指導ヲ致スニモ基準ガ出来ル」(唐澤俊樹内務次官)などといった露骨な期待が表明される一方で、辻善之助・中村孝也・平泉澄・西田直二郎・山田孝雄ら学識経験者委員の間では、この歴史書の性格などをめぐって議論が紛糾している。特に、この歴史書を「正史」とし、叙述対象期間を「肇国」以後とすると『日本書紀』の神聖性を損ねる恐れがあるのではないか、また《六国史》の後を承けてすでに編纂が進んでいる『大日本史料』との関係をどうするのか、といった点が問題とされた。同会はその後1944年12月に改組されて国史編修調査会となるが、結局、具体的な内容にまで踏み込んだ議論はほとんどなされぬまま終わっている。
にもかかわらず、1945年8月17日附で、この歴史書を編修するために「国史編修院」(山田孝雄院長)が設置された。これは明らかに、降伏による「国体」の危機に対処するため、「国体護持」の一手段として急遽設置されたものであった。もっとも、山田院長は11月7日附で辞任し、国史編修院自体も翌1946年1月31日附で廃止されている。戦後初期の文部省がほぼ一貫して「国体護持」の路線をとっていたことは早くより指摘されているが、これもそのひとつの現われといえる。
「皇国史観」は敗戦後、一転して批判の対象となった。例えば1945年12月23日、日本史研究会第1回例会の際に開かれた座談会で、藤谷俊雄は戦争中に「日本の歴史を非常に神秘的に考へるやうな」「所謂皇国史観」が喧伝され、「教科書に盛られた」ことを批判している(座談「民衆は歴史家に何を望むか」『日本史研究』第3号、1946年12月)。
この時期に戦時中の歴史教育についてある種の典型的な批判を展開したのが、労農派の経済史家・土屋喬雄である。土屋は、『初等科国史』や『国史概説』を「神話・伝承の無批判的信仰を以て始まり、神がゝり的・独善自大的・国粋主義的・排外主義的理念に貫かれてゐる」と批判している(土屋「神話的より科学的へ/封建的イデオロギーを脱却せよ」『日本読書新聞』1946年1月1日附)。この批判それ自体は誤りとはいえないが、ここでは「皇国史観」の問題は、神話教育やその非科学性の問題のみに矮小化されている。
また、『国史概説』の編纂嘱託の一人でもあった近世史家の板澤武雄は、『大学新聞』のインタビューに答えて「日本の歴史が聖徳太子以後に於て信憑すべきものであるといふことは、もうずつと前から講義しつゞけて来てゐる」「歴史学といふものはあくまでも実証的なもので観念論的な問題は吾々歴史学徒の任ではない」と述べている(『大学新聞』1945年12月1日附「国史学はどうなつてゐるか」)。ここでも問題は歴史教育、それも「皇紀」や神話教育の問題のみに矮小化されており、しかも「実証主義史学」自体はあたかも無傷であったかのように見なされている。
なお井上清は『歴史学研究』第122号(1946年6月)の「時評」で、このような矮小化を批判し、かつ、土屋や板澤らも含めた多くの歴史学者が、時局に対して抵抗せず、むしろ迎合していた状況を批判している。ただし、戦時下の歴史学研究会自体については批判的な言及は無い。戦時下の歴史学と戦争との関わりの問題については、その後も度々問題提起はなされているものの、議論としてはそれほど深まっていないのが実情である。
戦後、「皇国史観」という言葉が一般化したきっかけは、1959~60年の教科書検定が問題化した際、平泉門下の村尾次郎教科書調査官の存在がクローズアップされ、これに対して「主として出版労協や歴史教育者協議会(歴教協)のメンバーが“皇国史観”の問題を前面に出してキャンペーン」を張ったことであるといわれている(佐藤伸雄「皇国史観――その動向と役割り」『歴史学研究』第309号、1966年2月)。
平泉澄を「皇国史観」の代表と見なす認識は、この時期に一般化したものと思われる。例えば松島榮一はこの時期に、「皇国史観」とは「平泉澄氏とその学統の方々の史観」を含む「戦前・戦中の、右派的な、主情主義・主観主義的な史観」全体を指すと述べている(松島「「皇国史観」について」『朝日ジャーナル』1965年11月7日号)。このような捉え方は、確かに教科書検定の問題などを批判するにあたっては有効であったかもしれない。だが、戦時中の「皇国史観」の実態、ひいては戦時中の歴史学全体の状況を把握するにあたっては、必ずしも有効とはいえず、かえって、あたかも平泉澄のみが悪影響を及ぼしたかのような錯覚を引き起こすことにつながったのではないか。
われわれが研究エネルギーをそこに注ぎ込む対象とはいったいなんであろうか。こうした問いかけが発せられるゆえんは、研究対象を有機体Systemと見立てたとき、そこに意志が生成することを発見するから。有機体系Systemにそれが、本体みずからを循環・維持する生命Lebenと見立てるだけでなしに進んで、その自然体系Systemから自身を主導する意志ISIが発生する。このような生育を事例研究に位置づける。ふと、想うに、占領期こそがかかる配置に的を射ています。
社会構成体Systemはどのように変化してゆくのか、こうした歴史的着眼は構造体Systemを2分し、上部と下部に窓リする。こうして出来挙がった寸法はただちに、上部と下部の別けられた関係に、相互作用の面をみようと努力する。
地域経済社会System、そのものから内発的にそれ自身を支障なく維持してゆく然るべき本機能が生成してくるのか。それともSystemその凹みは、外的に訪れて来る救助機能によってほか救済されぬのか。問いはさらに、こうした外側経由、内発経由でかかる生成してくる救済機能生発のタイミングはどのような視角で、時期区分されえるのだろうか。
政治論の立場からは、歴史変化Systemへの観察は、その動因に理念(言葉)こそを主力に置くだろう。経済の立場からかかる歴史観にて労働運動こそをその主力に置くだろう。歴史家はこうした理論値の適度を対象時期に合わせて主動因に、言葉(メディア)を置いてみたり、労働運動を置いてみたりするだろう。源泉を、そしてその力の及ぶ波動域をさぐる。連続か、不連続かでなくここに、われわれ同時代史学会の新鮮さがある。
このように、第6回目研究会にて議論とコメントを簡素した一般見解を述べることが出来ます。この感想は、文面の底に波動して止まない異なる四つの論脈を、その燻る波動が奏でる音韻によって、異なれりをならす共通のタームに編み挙げる理知作業の果てです。実際、「援護」論と婦人運動論に、社会Systemそれ自身を支障なく健全に運営してゆく自発的な意志機能が生成してくるのかを、洞察する眼力が発揮されている。特に、「援護」論にて、法案の性質を、国家の補償ではなく「援護」であるとする視点に、凹んだSystemを救済するfunctionsがどこからくるのか、このような源泉をさぐる洞察が発揮されている。特記は、この視点に止まりません。同箇所(植野真澄報告「援護法案審議の中の傷痍軍人~「援護」認識と戦争体験~」,8頁)の引用にて、君のお父さんが悪いからだと言う、このインタビューに、涙腺情感作用を胎動せずにいない生活感覚を下地にしたある作品、『はだしのゲン』に頑くなに居るゲンの父親を、われわれの記憶された経験から呼び起こさずにいない。映画「フォレスト・ガンプ」もベトナムwarを背景にこうした救済の発生を、そうしてその後世代にわたった波及圏をみなおさずにおれない。山田洋次監督「虹を掴む男」の中で紹介されるアンリー・コルピ監督「かくも長き不在」(1960年,仏作)もそうでしょう。
身につまる心痛であるもそのことへの慣れ、それでいて何気なしにふと、起こる力、この反発力は、これをさらに婦人運動論にて次のように引用します。
下部組織よりの盛り上がりつつある熱情こそ事実を証明していると思ふ。理屈より現在尊ばれなくては第1実行ではないだろうか。
(入江健輔報告「地域における婦人会活動の戦時・戦後 ―長野県旧下伊那郡松尾村の婦人会史料にみる」13頁、参照)
この箇所です。ここはどのような運動か、そうしてそのような運動の実態をどのように解明してゆくのか、問いが立てられた。実際、1文目はまったくベーシカルです。続く2文目が1文目で記載されにくい実生活に抱く感情を漂白しています。理屈の文脈の中に卑屈へ決してへこたれまいとする気力が読取れるからです。うえからによって卑屈されるこうした打破すべき毎日の受動の雰囲気を前提にしている。そうであればこそ、熱情の出来(しゅつらい)だけでなしに、その出力の及ぶ波動域を全面的に期待する、協力同胞意識を目覚め注すのです。
池袋駅、山手線新宿、渋谷3大駅のうちひとつだと承知しつつも、記号の非対称性に注意しながら、東口西武方面でなしに西口東武方面を目指してものの3分程歩くも立教通りを辿って行く。記号、それはまた構内にて館号のみならず食堂の道標でもある。中華丼大盛りをたべました。記号、認識知覚のうち視覚に飛び込むこの表記(メディア)、アイディアと記入するよりは、その問題となった『教権』、とまた皇国史観(長谷川亮一報告「皇国史観」と国史編修事業―アジア・太平洋戦争下日本における「正史」の構想―)。ワープロ打ちしながら気付いたのですが広告とKouKoKuの音韻で連鎖反応するかかる歴史観。キレのいい報告であったとわれわれの記憶に新らしいです。予想される当然な糾弾に、どのように処置しようとまで熟慮せられていないように思え、それは、教育とはなんであるか、このテーゼに、技術とはなんであるか、この技術熟練論が含有せられてないから。そのようにみえました。同時代史学会NewsLetter2号6~7頁を省みると特に。皇国史観について、マテリアルの技術発達史はじゃぁどうなるのか(同時代史学会NewsLetter2号15頁)。研究のスタイルは技術練磨に没頭する工学型なのに、旧工部省に出掛けず、文部省にのみよったのだろうか。かくて、このように感想しました。つけ加えておかねばなりませんがList論(1841)19Kapitel風で、同時代史学会NewsLetter創刊号2頁のマトリックスとも照合し、徳久恭子報告「占領期の教育改革における『教権』-超党派合意の構図-」4-5頁の壮観な理念図は、『放送制度論のパラダイム』1994.6ベルギーにおけるメディア政策史に形質的な手懸かりがあります。
日時: | 2004年6月12日(土) 13時30分~ |
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場所: | 立教大学 12号館地下第1・第2会議室 |
テーマ: | 「冷戦下アジア諸国の『開発』を巡る構想」 |
報告1 | 斎藤 伸義(立教大学大学院) 「占領期の臨海工業地帯開発 -京浜工業地帯を事例に-」 |
報告2 | 河村 雅美(一橋大学大学院) 「タイにおける開発イメージの諸相 -『開発の時代(1958-1973年)を中心として-』」 |
報告3 | 高橋 和宏(外務省外交史料館) 「日本の東南アジア開発構想をめぐるアジアの国際関係(1965-1968)」 |
コメンテーター: | 西川 博史(北海学園大学) 中野 聡(一橋大学) |
2002年度第1回定例研究会の岡田一郎氏「日本社会党の組織活動―1960年代を中心として―」は、私にとって魅力的なテーマであった。時代的には少しずれるが、私は1971年から同党新潟県本部に所属する県議会議員として当選して活動しており、いわば私たちの活動そのものが研究の対象にされており、学者(の卵である院生も含む)が何を根拠にどのように論究されるのか興味深かったからである。
私自身、党員として活動中は、土曜も日曜もない日程であるため、月刊社会党や社会新報は読むものの、社会党に関する学者の著書があっても読むことはなかった。
岡田氏のテーマで唯一わからなかったのは、空井氏の「野党化の論理」であった。岩波書店から「思想」934号を取り寄せ、早速読んでみる。空井氏によれば、「政権の行方を直接左右する衆議院選挙において自らの手でその獲得可能性を完全に排除し続けようとすれば、当然ながら野党としての自己の存在を正当化する論理」を必要とし、これを野党化の論理と呼んでいる。
60年代当時の江田書記長によって提起された構造改革論は、「どのような道すじを経て絶対多数になるのか」を明らかにする「プログラム」であり、「保守党でもやりうるはずのよりましな政策」の提起であるが、「一定の情勢と力関係のもとに、この『反独占国民連合』を基礎に護憲・民主・中立の政府をうちたて、さらにこの政府を社会主義権力に転化して社会主義への途を切り開いていくことができる、という構想」である。空井氏は、少数党でも院外の大衆闘争と結合することにより、一定の部分的な反独占の構造改革を実現でき、逆に言えば衆議院選挙による一挙的な政権獲得を否定していた、と指摘し、ここに野党化の論理があるという。日常活動をしながら構革論争を展開した党員でも、考えもつかなかった“野党化の論理”が隠されていると指摘されれば、学者としては卓見といえるのであろうか。次に、空井氏は1966年1月の27回党大会で確定した「日本における社会主義への道」をとりあげ、ここにも野党化の論理があるという。「道」の政権獲得構想では「われわれは、大衆闘争のなかで広汎な勤労諸階層と結合し、信頼をかちとり、国会及び地方議会の多数を獲得して、社会党政権を樹立する。これは平和革命達成への不可欠の道程である」とする。空井氏によれば、院内での少数を補う院外大衆闘争を通じての部分的な構造的改革の蓄積という発想を「道」が完全に排除しているが、政権獲得の前提条件として極めて高いハードルを設定することで、構造改革論が内包していたであろう消極的・間接的な野党化の論理を必然的に「道」も備えているはずだ(傍点筆者)と言うのである。ここが問題であり、党員として果たしてそうなのかと疑問が湧く。一世を風靡した江田書記長の構造改革論は、その後左派の巻きかえしを受け、構革論を否定するものとして理論委員会の「道」が登場したのである。旧ソ連の消滅など予想もできなかった60年代において、共産党の理論・活動と対比しながら「社会主義」とか「過渡的政権」などマルクス主義的発想が出てくるのはやむを得ない。しかし社会党には、いかに綱領や道で立派な言説で飾られていても、それを実践する組織・党員が必ずしも満足すべきものはなかった。言ってみれば“言行不一致”が社会党の体質でもあったと思う。だから、左派も右派も党大会では立派な演説はすることはできたが、成田三原則の承認と克服に異論はなかったのである。野党化の論理で社会党が過半数以上の候補者を立てなかったのではなく、立てられなかったというのが正しい。選挙にはお金がかかる。労組出身者は官公労は特にその全額を負担した。労組依存は特定の県本部・支部の労組支配を伴うから、特に中選挙区の3名区では共倒れをおそれて1名限定である。私のささやかな経験では、県議選公認料は3万円、あとは全部よきにはからえという状況であった。国会議員候補の労組以外の人もおそらく50歩100歩と考えられる。文化人の立候補といっても、資金的に極めてきびしかったのである。だから、過半数の候補者擁立はできなかった。しかし、党員数は伸びなくても、反戦・護憲のスローガンで1000万人を超える有権者が支持してくれたこの歴史的現実は忘れるべきではない。
今次総選挙は政権選択の選挙といわれた。それは正しい。しかし60年代の総選挙は社会党が過半数の候補を擁立できないことからその論理にあてはまらない。当時の党員の実感からすれば、それは改憲阻止のための流れのなかで、そのような政党目標があってもよいのではないかと考える。何よりも、「道」への空井論文は党員としては承服しかねると附加しておきたい。
現代史でもなく戦後史でもなく、あえて同時代史と言うことの意味について考えています。研究主体と研究対象が単に同じ時代にあるというだけであれば、今現在は、従来の歴史の時代区分で言えば現代史(もちろん、「現代」という時代区分上の概念定義自体確定していないことについては、永井和氏等による指摘がありますが)でよく、また、研究対象が1945年8月15日から今現在までの間のものであるならば、戦後史(「戦後」がいつまでであるかについての問題は、同時代史学会News Letter第3号掲載福永文夫氏の「『戦後』再考」を初め、そもそも戦後とは何かという概念定義も含めて様々に問題提起されていますが)でよいはずです。それを敢えて同時代史という以上、そこには独自な意味があるはずです。おそらくそれは、研究主体が研究対象に含まれているということ、すなわち、研究主体も研究対象を形成し、また、研究対象によって形成されているということ。そしてもう一つ(実は表裏ですが)、忘れがちなことですが、研究書の読み手も、その研究対象を形成し、また、研究対象によって形成されているということ、すなわち、読み手が自分自身について振り返り、自分の考えやその底にある意識を変革する糧となるものであること、ここに、同時代と言う意味があるのだと思います。このことは、戦後日本思想史を研究対象としている私にとって、非常に切実なテーマです。そして、このことを考えていく上で、私の中で藤田省三氏はますます大きな存在となってきました。
それまでも、藤田氏の著作、とりわけ、『精神史的考察』、『全体主義の時代経験』、『戦後精神の経験II』は何度も何度も読み、それらの精神史研究から多くのことを学びましたが、氏の文章は私にとってあまりに具体的事例がそぎ落とされており、しかも、読み手(私)の力量=感受性を問いながら書き進められているので、どこから手をつければよいのやら、すなわち、私が社会・歴史・思想を研究する上でどのように活かしていくことができるのか、先行研究として検証することすら、なかなか手がかりをつかめずにいました。ですが、最近、藤田氏の「『実感』の意味」(『現代思想』2004年2月号所収)の中の、「作品そのものを生む知的活動力の形態や作品の生産・消費両過程が内的に探られ」、「われわれが自分の感覚構造をどの方向にどんな道筋を通って変えて行くか」、「『戦略戦術』なしには変革が不可能である」という文章に出会って、「はっ」とひらめきました(他に表現のしようがありません)。そして、そのひらめきを、逃さず、忘れないうちにじっと考えていると、思想研究においては、書かれた(または発言された)思想の内容をそれ自体として説明するだけでなく、思想に含まれているはずの「戦略戦術」(思想を提起した思想家が意識していたか無自覚的であったかを問わず、思想家が思想を練り上げるために行った分析-認識と関心の因果関係も含めて-と構想とその前提とするもの)を読みとり、そして、そのように読みとった思想が、実際どのように消費されていったかを明らかにしていくことが、実践性のある思想の研究であるということに思い至りました。
それは例えば、戦後日本の民主化の背骨として大きな意味を持つ「主体性論争」において提起されたところの、様々な「主体性」という思想について、その内容を説明すること、戦前の文脈、例えば党派性論争との関係から整理すること、戦後の文脈、例えば「政治と文学」や「民主統一戦線」などに即して整理することだけでなく、第一と第二の全体主義(藤田省三)が破綻した敗戦において、形骸化したイデオロギー(例えば、治安維持法に基づく取り締まりを行うに際して、「国体」の内容を積極的に定義し得なかったことから想起できるように)から解放された民衆が、どうすれば、一から、民主主義を形成していくための思想を生きる基準として獲得(血肉化)していくことができるのか(藤田氏があえて「戦後の思考の前提は経験であった」と書いたことの意味はここにあると思います)、つまり、思想は人間によって担われ・生きられることで初めて思想といえるものであり、その生産・消費も含めて、人間の精神的な営みの過程(しかも、原理的に考えて、民主化という目的を一人ひとりが実践する「主体性」という思想は、倫理性と社会性抜きにはあり得ない、つまり、そもそも思想自体にも戦略戦術という過程が想定されていますが)を読みとるということ、そうすることによって、単にジャーナリズムが取り上げなくなったから、あるいは、アメリカの占領政策の右旋回への対応に追われたので論争が廃れてしまったとか、深められなかったという結論ではなく、戦後の民主化は、思想において敗北を条件付けられていたのか、それとも、外的要因による敗北であったのか、成果があったとするならばそれはどの程度のものであるのか、次に繋げていくことのできる実質に踏み込むことができると思います。
さて、この文章の一番はじめに考えた同時代の持つ意味にもどって、以上のことを考えてみますと、思想研究について言えば、そこに人間の精神的な営みの過程/戦略戦術が含み込まれているならば、概念が上滑ることなく、読み手に(そして研究者自身にとっても)、同じ時代を生きる自分自身とは一体どのようなものであるのか、自己変革に向けての認識を深める手がかりとなりうるという意味で、同時代史研究といえるし、更には、研究の実践性回復への一つの試みにもなりうるのではないかと欲張って考えています。
しかし、「言うは易く行うは・・・」とはよく言ったもので、「前人未踏」の次元は、すでに藤田氏が道標を残してくれているにもかかわらず、後から入る私は相変わらず、暗中模索・試行錯誤ばかりしています。
私が同時代史学会を知り、会員にさせていただいたのは、2003年春のことです。教えて下さいましたのは、『戦争と平和の同時代史』(同時代史学会編)を発行している日本経済評論社の栗原哲也社長です。創立準備大会と創立大会に参加できなかったことは残念でしたが、第4回以後の研究会、年次大会「デモクラシーの戦後史」には時間の許すかぎり参加しています。研究会も毎回テーマが興味深く(研究会委員会の浅井良夫氏を中心に決めておられるそうですが)、これまで当然論じられるべきであったことで、欠落していたようなことにも目がゆきとどいていると思います。まだ論じられていないテーマも随分あるのではないでしょうか。研究者にチャンスを与え伸ばしていくこと、また未発掘の現代史史料を若手と共同研究していくことも学会の大きな役割のひとつになりえるでしょう。
私は「同時代」という言葉には特別な思いがあります。それは10代の頃から影響を受けた吉野源三郎『同時代のこと』(岩波新書)があるからです。「現在すでに重大化している事件でも、まだ学問的に扱う段階に達しないものとして専門の歴史家からは見離され、すべて政治的論争とジャーナリズムに任されているのである。戦時ではない平時においても、現に進行中の同時代のことを学問的正確さをもって認識するということは、厳密には不可能とされているのである」「歴史的現実に対する私たちの接近も、特に同時代の現実に関する場合、私たちの自身の行動や生き方を離れてはありえないだろう」「歴史が同時代のこととして、私たちの前に展開してゆく」などといった文に啓発されたひとりとして、『戦争と平和の同時代史』の第4部「同時代史の方法」を中心に、それぞれが「同時代史」に対する思いを綴った文章には大変学ぶことがありました。三宅雪嶺『同時代史』が学会の原点にありますことは、「学会設立にあたって」(進藤栄一氏)「同時代を語る」(澤地久枝氏)で共に言及されていますので相違ありません。「はしがき」で福永文夫氏が手際よくまとめておられますが、学会は(1)日本を主たる対象としつつも世界に向けて(2)専門性を尊重しつつも市民に向けて(3)過去を見すえつつも未来に向けてという3つの窓をもち、さらになぜ戦後史ではなく同時代史かについて(進藤栄一氏)、主体として歴史に向かう姿勢、共有されるべき同時代「像」の再構築のための準備作業、歴史の語り部として「同時代」をいかに語りうるか(澤地久枝氏)という4つめの窓を第4部で問うています。現代史が国家、社会、集団という視点から歴史をとらえるのに対し、同時代史研究は個人の視点から時代の空間を再構成していこうとするもの(我部政明氏)、通時的な意味での現代と、共時的意味での同時代とを重ね合わせて考えること(原朗氏)、戦後歴史学の見直しがいわれ、新たな方法の模策が行われてきた。すでにそれは、国民国家の枠組みを問い直し、ネイションを超えるべく、ポストコロニアル、ジェンダーなどの観点からのアプローチが試みられ、多くの成果が蓄積されつつある。むしろ重要なのはいかに同時代と向きあうかという主体のあり方(黒川みどり氏)。私が最も共感しましたのは五十嵐仁氏の文章です。「同時代史」とは過去になりきれない歴史、現在に投影されている歴史であり、「同時代史」研究における方法論への提言として(1)現状分析と歴史研究との結合(2)歴史の生理と歴史の論理の結合(3)科学的実証分析と哲学的規範理論との結合をあげています。そして自らの立場や立脚点を明らかにしつつ、明確な問題意識をもって鋭く現実に切り込む研究こそが求められているというのは全くその通りだと思います。
出版ジャーナリズムが本来なすべきことのひとつは、強い批判精神をもち、社会への問題提起をしていくことです。私は出版の世界に身をおいて20年以上たちますが、何程のことができたとは言えません。自らの歴史意識と歴史認識が問われる状況で、同時代の問題を理解できたかというと疑問です。また現実の底にある矛盾をとらえて、社会の歪みを正していく責任もジャーナリトにはあります。こうしたジャーナリストたちの果たしてきた役割、というよりマスコミという枠にとらわれず、戦後史の中で同時代の現実に対し行動してきた知識人たちを、多様にとらえ直すことは同時代史学会の問題意識と深く関わると思います。そういったことを考えていきたいと思っています。
2002年4月に開催された同時代史学会準備大会および同年12月の創立大会の報告等を中心に編集した『戦争と平和の同時代史』が2003年秋に日本経済評論社から刊行されました(定価2200円+税)。
目 次 | |
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序論 | 戦争と平和に関する断章 |
第I部 | 澤地久枝と同時代史を語る |
第II部 | 同時代史の中の戦争 |
第III部 | サンフランシスコ講和50周年を考える |
第IV部 | 同時代史の方法 |
本号では、前号で紹介した時点以降、すなわち2003年10月から2004年3月までの本学会のあゆみを、第2回大会の模様と学会理事会での検討事項を中心に紹介したい。
第2回大会は、2003年12月7日(日)、法政大学市ヶ谷校舎ボアソナードタワー26階スカイホールにおいて、「デモクラシーの同時代史」をテーマに、110名を超す参加者の下に開催された。まず、午前のセッション「地域における占領と民主化」では、冒頭、雨宮昭一氏による挨拶と大会趣旨説明がなされた後、大串潤児氏による「『逆コース』初期の村政と民主主義 長野県下伊那郡松尾村・1945-50」、荒木田岳氏「占領改革と『行政』の論理-茨城県における教職追放を例に-」の2報告が行われた。この報告に対し、深川美奈氏、荒敬氏によって、それぞれコメントがなされ、フロアからも含め活発な討論が進められた。続いて午後のセッション「占領とデモクラシー」では、安田常雄氏からの司会挨拶の後、古矢旬氏「アメリカの占領と他者像」、加藤典洋氏「占領される経験の可能性」の2報告があり、これも豊下楢彦氏、安田浩氏のコメント、フロアからの質問状による質疑を受けて、活発な討論が行われた。閉会後、カルメン市ヶ谷において、約50名の参加により懇親会がもたれ、大会での議論の延長や本学会への期待など、なごやかな時間を過ごした。
なお、この第2回大会についても、第1回大会と同様、単行本として刊行予定であり、現在編集中であるので、大会での報告、コメントその他について詳しくは、刊行予定の同書をごらんいただきたい。また、第2回大会参加記を都立大大学院大川啓氏に執筆していただいた。参加記は、日本経済評論社『評論』2004年1月号に掲載されているので、あわせ参照されたい。
また、午前セッションと午後セッションの間に、会員総会が開催され、第1回大会以降第2回大会までの理事会開催状況、研究会開催状況、第1回大会他報告集『戦争と平和の同時代史』の刊行、ニューズレター第2号、第3号の刊行、学会ウェブページの公開などが報告された。また、会計報告、同監査報告、時期役員選出方針についての説明が行われ、いずれも異議なく承認された。
理事会は、2003年10月27日、2004年1月10日、3月6日と、この間3回開催された。10月の理事会は、大会準備に充てられ、準備状況の報告とともに、当日の理事・委員の役割分担などが決められた。また、次年度大会が理事の改選期に当るため、次期理事の選出方法についても議論となったが、現在の学会の力量からいって、規約通り大会で選挙管理委員会を選出することは困難であるとの意見が多数を占めたため、総会で役員選出方法についての現状を説明し、会員の意見を求めることとなった。
1月10日の理事会では、大会の総括が主課題となった。理事会では、種々の議論がだされたが、今回のような実証的なセッション(午前の部)と大きな話(午後の部)のような形式は今後も維持すべきだという結論となった。また、可能であれば、準備研究会を1回程度は持った方がよい、あるいは事前に報告予稿という形での報告要旨があった方がよい、という点なども確認された。また、総会で承認された今後1年間の体制と次期役員選出方式についても、ジャーナリスト、市民などを理事に加えるかどうか、理事の入替を行うかどうか、選挙方式はいつから導入出来るか、などが議論になったが、当面急いで結論を出すことはせず、今後、引き続き議論していくことになった。さらに、次年度大会についての検討も開始された。3月6日の理事会では、ニューズレター第4号の刊行と、次年度大会のテーマについての予備討論、研究会の今後の予定とそのための体制などが議論された。大会テーマについては現在検討中であるが、第3回大会は、12月5日(日)、専修大学神田校舎において開催予定であるので、会員の皆様の予定に入れておいていただければ幸いである。
会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2004年度会費の納入をお願い申し上げます。また2003年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。
会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。
郵便振替 | 口座番号00120-8-169850 |
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加入者名 | 同時代史学会 |
なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。
また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。
項目 | 02年度決算 | 03年度予算 | 03年度決算 |
---|---|---|---|
(収入) | |||
前年度繰越金 | 0 | 553,778 | 553,778 |
会費収入 | 699,000 | 870,000 | 773,000 |
大会収入 | 51,600 | ||
年報販売収入 | 89,600 | ||
拠出金・寄付金 | 205,000 | ||
雑収入 | 4,969 | ||
収入計 | 908,969 | 1,423,778 | 1,467,978 |
(支出) | |||
ニューズ・レター編集・発行費 | 183,760 | 130,000 | 74,179 |
委員会通信費 | 30,000 | 30,000 | |
大会費用 | 63,620 | 100,000 | 248,766 |
若手研究会費用 | 35,000 | 50,000 | 133,325 |
年報編集費 | 109,725 | ||
雑費 | 72,811 | 30,000 | |
支出計 | 355,191 | 340,000 | 595,995 |
来期繰越金 | 553,778 | 1,083,778 | 871,983 |
私事ですが、2004年4月にイラクで発生した日本人人質事件を受けて、私の勤務する広島市立大学国際学部の有志が緊急シンポ「イラク戦争はどうなる」を開催し、私も日本外交の立場からパネラーをつとめました。新学期が始まった直後でもあり、また急な開催であったにもかかわらず、会場には学長以下多数の学生、教職員が詰めかけ、熱心に討論に参加し、この問題に対する関心の高さを感じました。「イラク戦争はどうなる」ではなく、「イラク戦争をどうする」という姿勢が必要ではないか、というフロアからの発言には、考えさせられるものがありました。さて、今号も盛りだくさんの内容となっていますが、地方の大学に赴任した私は、ここで紹介された研究会のほとんどに参加することができず、また誌面編集のお手伝いもできませんでした。学会を運営して下さっている皆様には、大変申し訳なく思っております。(池田慎太郎)
3号雑誌という言葉がありますが、当面これはクリアーしました。ただし、原稿の集まり具合などで遅れがでてきて、発行が1月近く遅延してしまいました。さて、同時代史学会のホームページができた(http://jachs.hp.infoseek.co.jp/)ことは前号でお知らせしたとおりで、研究会の案内、入会申込書、NewsLetterのバックナンバーなどの情報に加え、BBS(掲示板)ができました。これは昨年12月の大会でご要望がでていたもので、ユーザーIDとパスワードを使えば利用できます。書き込みに関しては、このIDとパスワードがないとできないようになっております。ただし、書き込まれた内容は完全に公開されます。会員の皆様においては、積極的に利用していただけると、同時代史学会の活動も日常的に活発化できるのではないでしょうか。地方の方にとっても、利用価値は多いと思われます。(宮崎 章)
同時代史学会 News Letter 第4号 |
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発行日 2004年5月1日 |
同時代史学会 |
連絡先:〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 |
東京大学大学院経済学研究科 伊藤正直研究室 |
Tel 03-5841-5602 masaitoh@e.u-tokyo.ac.jp |