第5号 (2004年10月) ISSN 1347-7587
同時代史学会も、12月には第3回の年次大会を開くこととなった。本学会は、歴史学、経済学、政治学、国際関係論をはじめとするさまざまな分野の研究者が集ってスタートを切り、これまでに、大会、そして研究会などでとりあげてきたテーマも広範囲に及んでいる。同じ学問領域の研究者が集まって議論するのとは異なり、理事会の構成メンバーをとっても問題関心もアプローチも多様であるために、なかなか接点を見いだしにくい点もあることは否めないが、その学際性をむしろ生かした内容となることをめざしつつ、今年の12月7日に行われる大会では、「朝鮮半島と日本の同時代史 東アジア地域共生を展望して」というテーマを設定した。
詳しくは、「大会のお知らせ」に記されているので、それをお読みいただきたいが、今まさにいろいろな意味で朝鮮半島をめぐる話題が日本の注目を集めており、そのような状況のなかで、もう一度歴史に照らしながら、それらを検証してみたい。それは、たんに私たちの日常とはかけ離れたところで繰り広げられている、国家間の、あるいは一国の支配層のレベルのこととしてあるのではなく、その分析をつうじて、それぞれが自己の朝鮮半島、ないしは在日韓国・朝鮮人にたいする認識を問い直す機会となればと考えている。むろん、当日の議論は、そこまでを想定したものではないが、そのような広がりをもった議論の場になれば、本大会の意図は達せられよう。
本研究は、長野県旧下伊那郡松尾村(現飯田市)の婦人会の残した史料をもとに、分析と考察を行う。
戦時の婦人団体については、千野陽一の先駆的な研究により概観され、大日本国防婦人会(以下、国婦)については、藤井忠俊のまとまった成果がある。その後の大日本婦人会(以下、日婦)については、鈴木裕子の指導層の分析があるばかりである。いずれの研究も、史料面で克服されるべき課題もあり、実際の活動を担った、末端レベルの研究こそ不可欠である。
戦後の地域婦人会については、伊藤康子や千野陽一らによる通史や資料集により、概観されている。長野県下の動向については、辻村輝雄の通史も存在する。主に社会教育の分野での蓄積があるが、近年では、特に占領期のCI&Eや文部行政などの間の議論に関心が寄せられ、地域の婦人会は何を受容し何を受容しなかったのかが明らかにされつつある。
戦後の地域婦人会は、戦前・戦時の横すべりの復活・再生であるとされるも、戦時との連続を意識した研究は、守田幸子・雨宮昭一による茨城県の事例研究に限られる。戦時と同様、戦後の婦人会についても末端レベルでの研究の必要性がある。さらに、戦前・戦時と戦後の婦人会が連続しているのであればこそ、可能な限り、連続した史料による、連続した視点による研究を行うべきであろう。
松尾(村)婦人会では、明治期から今日に至る膨大な史資料が残され、本研究では、1942年に日婦の支部となって以降、敗戦を挟み、復活した松尾村婦人会としての1949年までの活動を対象とする。必要に応じ、その前史である国婦分会時代の活動についても触れる。
松尾村は、旧飯田市街の南東に位置し、農業を中心としながら商工業も盛んな豊かな地域であり、戦時から敗戦直後には、戸数は1200戸から1400戸で推移し、女性の人口は3000人から4000人程度であったということを前提として掲げておく。
松尾婦人会は1902年に設立している。松尾小学校の教員・大沢茂尾(のちに副会長・会長)の尽力による。松尾女子会としての名称変更や改組を経て、1936年11月には、国婦松尾村分会として発会している。国婦分会時代の会員数は1600人で(一部の史料上、約1000~1200人とも)、1戸につき1名かそれ以上の参加であった(会員資格を有する年齢層を考えれば、かなりの参加率である)。
国婦松尾村分会としての初期(1937年度)と末期(1941年度)の活動からは、以下のような傾向がうかがわれる。まず、総本部から末端に至る組織・命令系統を持った団体ながら、狭い意味での軍事援護事業である「慰問」や「武運長久祈願」を中心とした、地域の実情に併せた活動に終始していた。次に、すでに他の地域では、食糧や物資の不足に対応するような活動が提起され始めているのに対し、松尾村分会ではそうした活動はまだ本格化していない。最後に、満州移民が多かった下伊那地域にあって、その関係の活動に地域性がうかがわれる。
この時期の活動は、地縁・血縁を意識した活動であったともいえるであろうし、豊かな地域であったとされる松尾村への戦争の忍び寄り方は非常に緩やかであったともいえる。
国婦が、同時期に併存した愛国婦人会・連合婦人会などと統合され、大日本婦人会(日婦)に移行するのは1942年2月であり、松尾村の日婦支部は同年4月に発会している。
日婦の支部の時期の活動内容とその特徴を年ごとに振り返ることにする。1942年では、送迎や慰問、武運長久祈願など、それ以前からの中心的な業務は継続して行われている。この頃、急激に物資・食料・労働力不足が顕在化し、増産・供出・節米への対応、廃品回収の動きも活発化したようである。のちの生活改善につながる、戦時生活の確立が求められ、女性に対する動員もなされ始める。上位の組織から「健民」運動が指示されるも、まだ末端での対応は鈍い。ただ、傷痍軍人・渡満民の慰問に、結婚の問題が加えられ始めている。
1943年には、食生活の改善・結婚の改善が唱えられ始め、結核問題への対応も始まる。満州開拓も推奨されている。意外なことに、この年以降、各種の講演会・講習会の開催が頻繁になることは注目に値する。
1944年には、女子挺身隊の動員がなされ、献納と結びついた廃品回収も目につく。この年においても、各種の講演会・講習会の開催は盛んであるものの、前年と比較して、もはや具体的な活動とはいえない、より精神面を強調したものに変化している。松尾村支部の活動全体からも、1942年以降徐々に、精神面を強調した錬成や修養の活動が増加していることが感じられる。
日婦としての最末期の1945年では、前年開始の学童疎開への慰問などが早々に打ち切られるなど、もはや活動が成立しなくなっている状況を呈している。
1942年以降の日婦の支部としての活動は、戦局の悪化に伴い業務が拡大していく様相を表している。女性は、次々に新しい要求を突きつけられていき、その対応の必要に迫られていく過程でもある。活動の性格も、空疎なスローガンに転じている。総本部レベルでは、1948年の「婦人総決起申合」にある、戦士を育成する母親、子供を戦地に送り出す母親としての役割を求めるに至っている。一方で、地域社会の状況や実際の生活に関わる活動は継続されており、それ以前の節約をする程度では済まされない、二方向の活動を両立させねばならない、矛盾と葛藤とを抱え込み戦時生活を実践する女性の姿がそこにある。
1945年4月以降、婦人会の記録は途絶えている。移行が企図された国民義勇隊としての活動は行われないまま、敗戦を迎える。戦後の婦人会の再興は、1946年3月のことである。
1946年3月に再興した松尾婦人会は、設立にあたって、民主的な団体であり、下からの自発的な動きによることを強調している。ただ、その背景には、戦時の婦人会の組織の活用と行政の意向の反映があった。会長には、日婦支部時代に副会長を務めた丸山菊江が選出された。以前の婦人会が、各集落・地区ごとの支会を軸に、(行政の枠組みに則して)活動していたのに対し、庶務・会計・文化・社会・産業(のちに政治部や体育部も)といった各部門が設置され、活動が展開されるという変化もあった。
戦後の婦人会が取り組んだ活動を時系列に沿って見ることにする。再生したばかりの1946年には、まず「食糧危機突破」・「一品献納運動」と題し、いかにして生活を成り立たせるかという問題への対応を行う。その名称に見られるように、まさに戦時の活動の延長であった。また、戦時同様、慰問や慰霊も行われている。一方で、戦時以来改めて結婚の簡素化が話題にのぼり、選挙への関心の鼓舞も行われた。
1947年には、援護の活動として、未復員者や未亡人の問題が浮上している。村内の他の団体との連携も深まり、結婚の改善を主とした「松尾村生活改善申合」を共同で作成し、村政への申し入れを行っている。保健所職員の講演なども行われるも、まだ結婚改善や純潔教育と関連した性病予防への関心であり、健康や衛生の問題に正面から取り組む段階ではなかったようである。
1948年では、結婚改善は継続されている。援護活動は未復員者の帰還などにその中心を移し、慰問・慰霊は一段落しつつある。講演会・講習会が多数開催されるようになり、村内各地区対抗の村内意見発表会なども開催される。その内実は、まだ、精神面を強調したものであったようながら、自由な議論の雰囲気が浸透しつつあったようでもある。
この年の青年団・壮年団と共同して発行していた『村の新聞』(のちの公民館報)の紙面に、菊池幸子が婦人会の在り方を批判する投書を行っている。旧態然の網羅的団体であることへの批判(同志的団体の必要性の主張)が表明され、婦人会の役員層の階層性の存在を指摘している。さらにその後の生活改善の方向性の示唆も含まれる菊池の主張は非常に先見に飛んだものであった。結果として、松尾村の婦人会に変化は起こらなかった。しかし、戦後の婦人会の再興期から1960年代にかけて、時期は様々ながら、下伊那郡下でも、また全国的にも、同様の婦人会の性格をめぐる議論は確認できる。菊池の主張を含め、このような議論も自由な空気がもたらしたものといえよう。
1949年では、冠婚葬祭全般の簡素化を訴えるようになり、当時の「村風刷新」の動きの中で、村政からも意見を求められてもいる。下伊那郡下の連合婦人会レベルでの議論の中では、生活の合理化・台所の改善・嫁姑問題などが話題となり始める。こののち1950年代に全面的に展開されるような、生活改善の萌芽を見いだすことができる。
戦時と戦後を連続した視点により眺めたうえで、戦後の松尾婦人会の活動について考察した結果は、以下のようにまとめられる。
組織の面・人的な面で、戦前・戦時の婦人会の横すべりの再生を果たした松尾婦人会は、慰問・慰霊・援護の活動の一方で、生活を組織するための廃品回収・増産・供出といった戦時の延長にある活動に奔走していた。その中での生活改善は、結婚・冠婚葬祭の改善どまりであった。
とはいえ、戦後の民主化は婦人会の活動や女性たちの発言の自由をもたらしている。村政でも存在感を示すに至っている。各種講演会・講習会の開催、村内外の諸団体との交流を通じ、自由な議論がなされ、生活改善の次の段階、婦人会活動の展開の新たな段階を準備しつつある。
最後に、本研究が対象とする時期の松尾婦人会の活動からは、自らの戦時経験を問い直すまでには至っていなかった、「(あの)戦争」の対称として「民主主義」を置いてとらえ返すことはできていなかったといわざるをえない。松尾婦人会においても、1950年代半ばには、生活記録文集の活動も行われている。そうした点にも留意しながら、1950年代以降の研究を継続していきたい。
(なお、本報告要旨は手違いにより、前号(第4号)に掲載することができませんでした。第4号の参加記とあらためて読み直していただければ幸いです。)
本報告は、タイで「開発(phatthana パッタナー)」という言葉が政策として使用され、一イデオロギーとして流通し始めた1950年代後半から1970年代前半の時代の「開発」をめぐるイメージを提示することを目的としたものである。
開発研究は、開発経済学のように途上国の開発現象を経済的・社会的側面から分析的・還元主義的にとらえるものから、「開発」の持つイデオロギー性に注目する言説研究まで多岐にわたっている。しかし、既存の研究では開発という概念が個々の主体のもとでいかに解釈、受容、拒絶されたのか、その解釈がどのような歴史的・空間的背景で生まれたのかについての問いがたてられておらず、特にある一時期の開発思想の多層的な面を明らかにするような研究はされていない。本報告は、そのような研究の欠落を埋める試みのひとつである。ここでは、冷戦期の資本主義対社会主義の「システム間競争」の舞台であるタイにおける「開発の時代」と呼ばれる1958-73年の(1)政府の開発イデオロギー(2)行政府を支えた官僚教育内の思想(3)メディアに現れたイメージを分析する。
まず、当時の首相であるサリット・タナラットによる開発イメージについて分析する。開発を至上とするイデオロギーは、国家が主導したイデオロギーであった。サリットは「国家経済計画」を制定し、国王、仏教という装置を動員して、国家開発を推進した。そのために強い行政府をつくり、官僚機構を改編していった。強硬な反共政策をとり、アメリカとの関係を強化するが、西欧思想への部分的抵抗を示し、国民の自由・権利を制限した「タイ式民主主義」を採用する。
首相サリットのスピーチ、当時の政府のスローガンから開発のイメージを抽出すると、開発というのは、単なる工業化ではなく、秩序を重視した「上からの社会変革」であった。秩序はサリットにとって民主主義の前提条件であり、開発の目標は本質的に行政を容易にするもので、政治参加といった民主主義までは含んでいないものであった。一方、サリットは国民を開発の主体とすることをイメージしており、国民へ開発の精神を植え付けようと試みた。それは、「働くことは金、金は働くこと」などといったスローガンにみられるように、「より多く」「より便利に」という成長の方向へ人々を駆り立てる、開発に関する価値(お金、労働、教育、節約)や精神を喚起するものであった。しかし、サリットは「政府―官僚―国民」の上下の三層からなる国家像を描いており、為政者と国民を父と子になぞらえ、官僚は政府の耳・目とする「独裁的温情主義」と呼ばれる統治スタイルをとっていた。サリットの開発イメージは、国民に開発の主体たることを望み、精神面も含めた上からの社会変革ではあったが、秩序を重視し、上下の三層は固定した政治参加までは求めないものであった。
次に、サリットの開発政策で強化された行政府を支えた官僚教育内で、どのように開発がとらえられていたのかを分析する。開発の概念は、「知」の領域に配置され、体系化された学問分野である「開発学」という形に形成されていき、タイにおいても経済学をはじめとする「開発学」が主にアメリカから流入していった。ここでは、「開発学」の教育機関である国家開発行政研究所(大学院 National Institute of Development Administration = NIDA)を分析対象とする。NIDAは国家開発という特定の目的のためにアメリカの支援によって1966年に設立され、開発を目的とする学問分野を集結させて官僚教育を行った機関であった。NIDAの中心学部は強い行政府を支えた行政学部であるが、その中からNIDAの開発思想を分析すると、アメリカの近代化論の中でも構造機能主義をベースにした発展史観、特にフレッド・W・リッグスのプリズマティック社会理論の影響を受けたものであった。開発イメージの特徴としては、(1)開発が単なる経済成長ではなく、システム、制度、価値そのものの変化であるという開発観があった(2)伝統社会の不合理な状態を排除し、システム全体の機能分化の結果、合理性が実現された状態が開発の達成された状態であり、開発は民主制を内包したものであった(3)「先進国/低開発国」の序列ではなく、タイの歴史における通時的なイメージの中で開発を認識しており、先進国との比較で開発を語るのではなく、タイにおいて近代的制度が確立されているにも関わらず、機能しない理由を自国の歴史と理念の中に探る内向きの分析の傾向があった(4)開発が外部世界、主に西欧世界からのインパクトの一つと考えられており、全面的な受容への抵抗があった(5)教育対象である官僚に、開発という変化をおこす「変化の担い手(change agent)」としての役割を期待し、地方官僚が想定されていた、という点が挙げられた。
最後に印刷メディア上では、いかに開発が認識されていたのかということを新聞「サーン・セーリー」「サヤーム・ニコン」「ピム・タイ」、週刊誌「サヤーム・ラット・サップダー・ウィチャーン」から抽出した。第一点は、サリットが開発に主体的な意味を含ませていたことに反して、受動的なイメージがあったことが、「開発を受け取る」といった表現や、陳情型投書などから挙げられる。二点目として、開発がイベントのように描写されていたことが指摘できる。道の補修、橋の修復といった地方開発の様子が、宴会つきのお上の主催する行事のように記事では記述され、官僚が民衆の作業を監督し、開発活動とされるものが強制的に行われている様子が風刺画に描かれていた。三点目として、サリットが植え付けようとした開発の精神も「節約」の価値などが理解されず、実質的な命令ととらえられ、むしろ外国からの援助による開発資金を享受する政府を批判する道具となってしまっていた。
各領域の開発イメージの共通点と差異を挙げてみると、共通点としては、サリットと官僚教育では、開発が単なる経済成長ではなく、精神面を含む、あらゆる面の変革であったこと、また西洋思想への部分的な抵抗がみられることが共通のイメージとしてあったといえよう。また、開発の担い手についても、サリットと官僚教育では、官僚を媒介として、国民を開発の主体に導いていくことも共通点であった。
しかし、差異も各領域間で存在していた。開発の達成された状態を、サリットは政治的参加や民主制を含まない、行政を容易にする「秩序」のある状態とみなしていた。一方、NIDAを中心とする官僚教育においては、各社会機関が機能することにより、伝統社会の不合理性が排除され、あらゆる面での「合理性」が達成されるという社会をイメージしていたと考えられる。また、サリットは国民を自立した開発の主体にしようとしていたが、メディア上では、開発活動の動員の対象として描かれており、開発を懇願する「臣民」の姿がみられた。これは、サリットが期待した国民の主体性と、温情主義的な政治スタイルとの間に矛盾があったことが原因として考えられよう。また、この時期は、開発を「消費」する光景が展開された時期でもあった。開発には政府の意図とは離れたところで、流入してくる新しい商品、外国資本のイメージが伴うようになり、開発が新しい、便利なものと重なってイメージされるようになる。サリットが伝えようとした開発の精神とは無縁の働きぶりである官僚が外国からの援助によって省庁の設備を瀟洒なものにしていく様子は、サリットの国民への節約の精神といった要求を受け入れがたいものにしていたといえるのではないか。官僚の役割についても、サリットは官僚を政府の「下僕」とみなしており、政府と国民の中間媒介者と位置づけていたが、官僚教育においてはより主体的な「変化の担い手」と考えられていた。しかし、メディア上では、強制的に国民に開発活動を強いる命令者であり、ここにもイメージのずれがあるといえよう。これは官僚が開発の概念によって変化していくというよりも、実施レベルで旧態官僚体制の中に「開発」という言葉だけが一人歩きしているという状態を示しているのではないか。
このように一国家の中においても、為政者、官僚、メディアというように一枚岩の開発イメージがあったわけではなかった。為政者からの一方的なメッセージだけで開発概念が構築されたわけではなかったこと、また「開発学」においてもアメリカからの押しつけをそのまま受容したわけでもなく、自国の文脈で解釈、ローカライゼーションしていく自発的な過程があったことなどをとおして、開発の概念の多層性がみられるのではないか。またこのような分析が、「開発の時代」を単に独裁による為政者の「暗黒時代」と単純・平面的に理解してしまうことを回避できるひとつの手段になるのではないかということを指摘して、本報告のむすびとしたい。
日本の重化学工業は、工場立地として港湾整備と埋立造成が進められた臨海工業地帯を求めてきた。これは工場の新設や拡張にあたり、新規かつ大規模な用地を求める重化学工業の企業が、生産手段と輸送施設を直接結びつけることにより、輸送コストの低廉化と時間の短縮化を実現する効率的な手段として、臨海工業地帯を捉えてきたためであった。
高度成長期には、多くの重化学工業の企業が臨海工業地帯に進出した。本報告が対象とする京浜地域では、横浜港・東京港・川崎港の三港を抱え、埋立地には鉄鋼や造船、電機、石油など工場の新設やその拡張が行われた。これら港湾整備や埋立造成は、地方公共団体、とくに東京都・神奈川県が事業主体となって進められた。
京浜間の臨海開発には、すでに第一次世界大戦より以前に、浅野総一郎ら民営開発として着手されていた歴史的経緯があった。この開発は、京浜間の港湾流通の改善を目的として運河を開鑿し、その余剰土砂を用いて埋立地を造成し、工場を誘致する京浜運河開鑿事業として進められていたものであった。しかし、漁場を埋め立てる臨海開発は、漁民に対して転廃業を余儀なくさせるため、漁民は工場誘致を目的とした民営開発に対して熾烈な反対運動を引き起こした。これにより埋立への漁民の同意を取り付けることが困難な状勢となった民営開発は、頓挫せざるを得なくなっていった。だが、日中戦争開戦による軍需産業の生産力拡充の方針は、軍需工場誘致のための埋立に反対することを困難にする新たな状勢をもたらした。そのため、「公共性」を明確に打ち出すためにも事業の公営化が要請されるようになり、京浜運河開鑿事業は、東京府・神奈川県営事業として推進されることになった。そして漁民は漁業権放棄を余儀なくさせられた。
したがって本報告の課題は、戦前よりつづく公営の臨海工業地帯開発が、「非軍事化」と「民主化」を推進する占領期の制度上の改革を経つつも、ふたたび公営開発として結実していく過程を検証することにあった。このような問題提起をした背景には、「民営化」ないし「民間活力の導入」といった象徴的な言辞で語られている、市場と国家のあり方をめぐる現状での議論があり、またそれを受けて報告者が「開発」の歴史的意義について再検証する必要性を認識したことがある。
報告では設定した課題に対して、港湾の接収とその解除運動や賠償政策による民需転換のほか、シャウプ税制勧告によって変容した都県財政の状況を分析したのち、漁業法の改正や国土総合開発法と港湾法の制定について検証を試みた。その結果、占領期において、都府県が開発事業主体となる臨海工業地帯開発体制が確立したと結論づけた。この要因としては、民間貿易の再開による企業側の臨海工業地帯形成の指向と地方公共団体の財政上の要請のほか、京浜地域においては旧漁業権の放棄の存続確認が重要視されたと説明した。この点については、報告後の質疑において議論が集中した点でもあり、以下検証内容を整理したいと考えます。
埋立の規制立法である公有水面埋立法は、1921年に制定された。同法によれば、漁業法によって漁業権が付与された漁業権者の同意を得ずして海面を埋め立てることができないことが明記されている。焦点となっている大森地区の漁業権は、東京府との間で39年に締結した協定書により漁業権放棄が完了しており、漁民は転廃業を余儀なくされ、多くは戦地へ赴いた。しかしながら、敗戦により埋立事業が頓挫したため、漁場は回復し、復員者などが漁業を再開していた。民主化を推進する戦後改革は漁業にもおよび、49年には封建遺制的な旧漁業法は改正された。そこで大森地区の漁業協同組合である大森漁業協同組合は、漁業権の付与を東京都に対して申請し、東京都は漁業権を付与した。その結果、正・準組合員861名、海苔柵数26,722柵におよぶ大森漁業の再興が果たされた。だが、臨海工業地帯開発を推進する東京都は、55年に至って、大森漁業協同組合長に対して39年に締結した旧漁業権の放棄を約した協定書の確認を求めた。これにより、ふたたび転廃業を余儀なくされることになった漁民は反対運動を起こしたが、同年、東京都と大森漁業協同組合は旧漁業権放棄を確認した協定書を締結した。
つまり、漁業法は「民主的」に改正されたにもかかわらず、企業側の要望と財政上の要請を背景に開発の推進をのぞむ東京都知事(埋立の申請者であり、許可権者でもある)が、存続する公有水面埋立法に依って漁業権の放棄を確認したのである。言い換えれば、埋立の規制立法と行政機構の存続が効率よい漁業権放棄のあり方を維持させたのであった。その結果、京浜地域では東京都・神奈川県(横浜市・川崎市)による港湾整備と埋立造成が推進し続け、企業が相次いで進出したのであった。
最後に小稿の締めくくりとして、報告の際にご指摘頂いた点、「千葉県側の臨海工業地帯開発である京葉臨海工業地帯開発を含め、東京湾の開発として総合的にとらえる必要があるのではないか」についてコメントを付したいと思います。
千葉県は、1950年に川崎製鉄が千葉市地先の埋立地に進出したことによって、臨海開発の端緒をつかみました。この埋立は、戦時期において軍需産業を誘致するため、また食糧増産と利根川の水害対策として放水路を開鑿し、その余剰土砂を利用する目的のため、国営事業として進められたものでありました。同地には飛行機工場が建設されましたが、敗戦後まもなく賠償工場に指定されて設備が撤去されため更地となっていました。そこで千葉県は千葉市と協力して工場誘致を推し進め、川崎製鉄が銑鋼一貫型の製鉄所を建設することになりました。この誘致の成功により千葉県は、52年に火力発電所を誘致するなど臨海開発に対して積極的な姿勢を示していきました。
しかしながら、第一次産業の割合が70%を占める千葉県の財政基盤は、54~55年にかけて財政再建団体に指定されるほど脆弱でありました。そのため、県独自に開発を推し進めることが困難であったため、県知事らが民間デベロッパーへの資金協力を取り付けて開発を行う方式を案出しました。その結果、千葉県は三井不動産の協力を取り付けることになり、工場誘致のため県が漁業権放棄交渉を含めた埋立事業を担い、三井不動産が前納で資金を提供する、いわゆる「千葉方式」による臨海開発事業が展開されることになりました。そして千葉県は、浦安から富津にかけての10市、1万2千ヘクタールに及ぶ埋立地を造成して、石油化学コンビナートや東京ディズニーランドを誘致しました。
要するに千葉県側の開発の特徴は、先進的な京浜地域に追いつくため、より効率的な手段を求めた結果、民間資金の導入に踏み切ったことにあると言えます。そのため、地域を東京湾として捉え直した場合、京浜地域に始まった公営の臨海開発は、より効率的な方式を生み出しながら外延的に拡大していった過程として捉え直すことが可能になり、東京湾を挟む両開発は互いに作用し合う関係であったと考えられます。
したがって、頂いたご指摘はまさにこうした点を鋭くついたものでありまして、戦後千葉県の臨海工業地帯開発こそ、臨海開発の検証を進めるうえで不可欠な対象であることを報告者は再認識させられました。そこで今後の課題としましては、京浜・京葉両開発の比較検証の視点を盛り込むなど東京湾開発を立体的に捉えつつ、検証を深める必要があると考えるに至った次第であります。
本報告は、東南アジア開発閣僚会議(以下、開発閣僚会議)やアジア開発銀行に象徴される、1960年代後半の日本の東南アジア経済外交(東南アジア開発構想)が、アジアの国際情勢にどのようなインパクトを及ぼしたのか、また、それは、「東南アジア」という地域概念の形成にいかなる影響をもたらしたのかを、日本・オーストラリア・アメリカの外交文書を基に検証したものである。
第1回UNCTAD(1964年3-6月)におけるアジア諸国からの対日批判を受けて、日本政府内部には「南北問題」に対応した東南アジア政策が不可欠であるとの認識が深まっていた。これに拍車をかけたのが、ECAFEウェリントン総会(1965年3月)とジョンソン米大統領のボルティモア・スピーチ(1965年4月)であった。アジア諸国とアメリカの二方向から積極的役割を求められた、1965年春のこの二つの出来事を契機として、日本政府は開発閣僚会議・アジア開発銀行を軸とする東南アジア開発構想を展開していく。焦点は、東南アジア諸国から日本の掲げる開発構想に賛同を得られるかどうか、そして、インド・パキスタンを切り離し、「東南アジア」に限定した開発構想を進められるかどうかの二点であった。
しかしながら、日本のイニシアティヴは東南アジア諸国にすんなりと受け入れられたわけではなかった。開発閣僚会議をめぐり、日本はヴェトナム戦争との関係を希薄化し、かつ「東南アジア」を包括して開発を進めることを重視する立場から、ビルマ・インドネシア・カンボジアの参加を重視していた。ところが、これら3カ国は当初、開発閣僚会議とヴェトナム戦争との関連や、紛争をかかえる隣国との同席を拒否する立場などから、いずれも出席を拒んだ。会議開催直前まで、3カ国の態度に変化はみられなかったが、この膠着を劇的に打開することになったのが、1966年3月のインドネシア政変であった。これを受けて、まずインドネシアが、次いでカンボジアがそれぞれ第1回・開発閣僚会議(1966年4月)へのオブザーバー参加へと踏み切った。かくして、東南アジア諸国が、政治的主義主張に関わらず、経済開発を協力して進めること(具体的には、域内協力の下に、工業化よりも農業開発を優先させ、自助努力に基づいた地道な経済開発を実現すること)を掲げた日本の東南アジア開発構想は、東南アジア国際情勢の変動という外的環境の変化により、辛うじて動き出したのである。
一方、「東南アジア」に限定した経済開発を掲げる日本の東南アジア政策は、「アジアの大国」インドとの軋轢を生じる結果となった。日本の東南アジア開発構想から取り残されることを懸念したインド政府は、東南アジア農業開発会議(1966年12月)および第2回・開発閣僚会議(1967年4月)への参加希望を日本に表明した。ところが日本政府は、インドの希望の背後には中国への対抗意識があるのではないかとの懸念や、インド(及びパキスタン)が加わると限りある資金が分散し、効率的な経済開発運営を進めることが困難になるとの理由から、インドの要望を峻拒した。東南アジア各国も、従来、世界銀行などの国際機関や域外先進国からの援助がインド・パキスタンに偏重していたことへの不満から、「東南アジア開発」の重要性を強調して、印パ両国の参加に否定的であった。かくして、利害の一致をみた日本と東南アジア各国は、開発閣僚会議やアジア開発銀行などにおいて、「東南アジア」に限定した経済開発を進めるべしとの議論を展開していく。
こうした事態を前に、インド政府は、日本と東南アジア諸国との連携が特恵的な貿易枠組みへと変化し、そこからインドが排除されるのではないかとの危機感をいっそう募らせていた。そこでインドは、日本・東南アジアの「東南アジア開発」に対して、インドを包含した「アジア開発」を掲げて対抗を試みた。まずインド政府は、日本に対しては「アジア開発」の重要性という論拠から、また、東南アジア各国に対しては、日本による新たな「大東亜共栄圏」の出現をカウンターバランスする必要があるとして、再三にわたり開発閣僚会議への参加を訴えた。このようなインド政府の動きは、必ずしも各国に広く支持されたわけではなかったが、第3回・開発閣僚会議(1967年)会議主催国であるシンガポールへの働きかけが奏功し、インドは第3回開発閣僚会議にオブザーバーとして出席することとなった。ところが会議では、日本政府の強い意向により、インドは「サイレント・オブザーバー」という限定的な参加資格しか与えられず、席上でも一切の発言を認められなかったほか、ワーキング・セッションへの出席も容認されなかった。日本はインドの「東南アジア開発」への参加を頑ななまでに受け入れなかったのである。日本による拒絶を突きつけられたインドは、開発閣僚会議という枠内での活動を諦め、インドとオーストラリアの主導による東南アジア経済開発組織や「ECAFEアジア経済協力閣僚理事会」など、広くアジアを包括する経済協力組織を新設しようと画策した。しかしながら、インドのこうした努力は結実することなく、結局、「東南アジア開発」という枠組みから、インドはフレームアウトしていくのである。
他方、インドの参加を拒絶し続けた日本もまた、「東南アジア開発」という枠組みの中で孤立していくこととなる。その要因のひとつは、東南アジア向け経済援助の増大など第1回・開発閣僚会議などで華々しく掲げた東南アジア政策が一向に進捗しないためであり、また、対日一次産品輸出の拡大や片貿易の改善など東南アジア諸国の求めに、日本がほとんど乗り気を示さないためでもあった。つまり、経済開発構想は示すものの、その具体策にはなかなか踏み切らない日本に、東南アジア各国は不満を募らせていたのである。こうした不満は、佐藤首相の東南アジア諸国訪問時における首脳会談や、第3回開発閣僚会議などにおいて日本に鋭く突きつけられるなど、次第に日本の東南アジア開発構想は東南アジア諸国からの支持を失っていくのである。
以上のように、1960年代後半に積極的に展開された日本の東南アジア開発構想は、「東南アジア」と「アジア」の線引きをもたらす結果となった。すなわち、農業開発の重視や自助努力を強調した経済開発を域内協力の下に進めていこうとする日本の東南アジア開発構想を一つのきっかけに、この枠内に加わるか否かをめぐって、インド・パキスタンを包括する「アジア」とは異なる地域概念としての「東南アジア」が具体化した。一方、「東南アジア開発」の重要性を訴えつつも、それをフォローする具体的政策に欠ける日本に対して、東南アジア諸国は徐々に不満を募らせていた。こうして、東南アジア諸国は、ASEANに象徴されるように、インドとも日本とも切り離れた、「東南アジア」という地域概念ないし自己規定の下での行動をより重要視していくのである。
最後に、「アジア太平洋国際関係史」という視点の必要性に触れておきたい。本報告が舞台とした1960年代は、「アジア太平洋」という地域概念が登場した時期でもある。この「アジア太平洋」という新しい地域概念が、どのように形成され、いかなるダイナミズムをもって現代に至っているのかについて、われわれは必ずしも明確な解答を持っているわけではない。今後、その解明が同時代史研究の一課題となると思われるが、そこに至る一つのヒントは、「アジア太平洋国際関係史」という研究視角にあるのではなかろうか。すなわち、「アジア太平洋」を舞台として展開されていた国際関係を、実証的な手法の下、多角的・多層的に考察することにより、「アジア太平洋」をめぐるダイナミズムに少しずつ近づけるのではないかと思われる。その意味からすれば、本報告で論じた1960年代後半における日本の東南アジア開発構想と、それが「東南アジア」ないし「アジア」に及ぼした影響も、同時期にアジア太平洋地域で繰り広げられていた国際関係(たとえば、ヴェトナム戦争や文革下・中国の影響力、東南アジア諸国で登場した開発独裁体制、日本の東南アジア政策と日韓・日台関係との関係、イギリスの東南アジアからの撤退、アジアへの関与を深めるオーストラリアなど)と重層的に連関させることで、「アジア太平洋」というより大きな枠組みのダイナミズムの一環として捉えることができよう。
(本報告は、報告者個人の私的な見解であり、現在、報告者が所属する機関の見解とは全く関係ありません。)
第7回研究会(2004年6月12日)は、「冷戦下アジア諸国の『開発』を巡る構想」が共通テーマになった。報告者とそれぞれの論題は、斉藤伸義氏(立教大学大学院)、「占領期の臨海工業地帯開発――京浜工業地帯を事例に――」、河村雅美氏(一橋大学大学院)「タイにおける開発イメージの諸相 『開発の時代(1958-1973年)を中心として』」、高橋和宏氏(外務省外交史料館)、「日本の東南アジア開発構想をめぐるアジアの国際関係 (1965-1968) 」であり、アジアにおける「開発」について活発な議論が展開された。
報告の詳細は各氏の報告概要に譲ることとし、以下、参加記として各氏の報告や質疑応答の様子について触れたい。
斉藤報告は、占領期において、都府県が臨海工業地域開発の事業主体となる過程を検証し、開発をめぐる制度上の変遷と、地域社会の変容に着目していた。とりわけ、港湾開発に伴う漁業権の問題に注目するアプローチは、「開発と人々の暮らし」の一面を浮き彫りにするものであった。
漁業社会は、当時の日本社会の一面を物語っていた。敗戦による軍需工場の操業停止は、漁場の回復につながり、また、復員や転廃業漁民が漁業へ復帰し、落ち込んでいた養殖業をも復活させることになった。しかしその後、国土総合開発法と港湾法の制定を通じて、臨海工業地域開発の土台が形成され、漁民は開発のうねりの中に巻き込まれてしまうことになる。これらの展開を分析した報告であった。
斉藤氏の報告に対しては、地域的特性について多くの質問が寄せられた。つまり、各地の開発と漁業権をめぐる問題に、どのような共通点と相違点が存在するのか、というものである。今後は報告者自身も指摘するように、地域的特性の検討を含め、各地における企業・漁業・行政の相互関係を整理し、分析を進めることが課題になろう。
河村報告は、共通テーマにある「開発」という言葉に注目したものであった。タイで「開発」という語が使用され、ひとつのイデオロギーとして流布し始めたという1950年代後半から1970年代前半が、分析対象として設定された。報告では、「開発」が「上からの社会変革」と位置づけられ、考察されていた。なかでも、官僚を中心にした「開発」の担い手の育成過程、そしてメディアのもたらす「開発」イメージの形成が注目され、各種の資料に基づいて検討された。
河村氏の報告に対する質疑応答では、まず「開発」の実体が問われた。つまり、「開発」イメージという抽象的なものが、具体的な数字や結果にいかに反映されたのか、という質問である。「開発」のイメージが、実際にどのような影響を与えていたのか検証するには、本報告で利用された現地のスピーチや記事だけでなく、各種の統計や数値の利用も必要ではないか、と提起されていた。また、「開発」をめぐる諸説についての質問が多かった。例えば報告の中では、タイの開発経済学がドイツ歴史学派の影響下から新古典派経済学へと変化した、と説明されていた。しかし、当時の開発経済学の潮流を振り返ると、全体としては構造主義アプローチもさかんであった。構造主義アプローチとは、「市場の失敗」を是正するため、政府に主導的役割を見出すスタンスである。河村氏の注目する時期の開発経済学には、大別すると構造主義アプローチと新古典派経済学に基づくふたつの理論的体系が存在していたのである。今後、タイのみならず各国の「開発」をめぐる諸説を比較検討する際には、これらの理論の影響も視野に入れる必要があろう。
当時は、アジア地域の多くが「開発独裁」または「開発主義」の下にあった。各政府は、自らの目的に適した「開発」イメージを流布し、その正当性をアピールしようとしていた。河村報告は、タイを事例にその分析を試みたものと位置づけられる。
高橋報告では、1960年代後半における日本政府の東南アジア開発構想をめぐる動きや、それがアジア各国に与えた影響について検討されていた。とりわけ重視されたのは、アジア地域の開発構想をめぐる日本・東南アジア・インドの関係である。インドが自国を含めた「アジア」開発構想を提起する一方、東南アジア各国は、印パを除いた「東南アジア」を地域概念として明示し、開発構想の策定に着手していた。ここから明らかにされるのは、開発構想を通じた「東南アジア」という地域概念の形成プロセスである。この展開が説明された上で、アジアの開発をめぐる多様な国際関係が、史料に基づき実証的に描き出されていた。
高橋氏の報告に対しては、アメリカやイギリス、中国など関係諸国の要因を視野に入れる必要性が指摘された。この点について高橋氏は、「アジア太平洋国際関係史」という分析視角を提示する形で応答していた。アジア太平洋地域の各国間関係を多層的に考察する高橋氏の報告は、当時の実務経験者との質疑応答により、さらに現実的かつ立体的なものとなった。
三氏の報告の後、討論者の西川博史氏(北海学園大学)、中野聡氏(一橋大学)によって、各報告のまとめとコメントが行われた。いくつもの重要な論点が提示されたが、両氏が共通して指摘していたのは、二点であったように思われる。第一に、「開発」という用語について。この言葉には、いくつもの含意がある。そこで各報告者に対して、どのような「開発」を意識し、分析を進めたのか質問されていた。第二に、冷戦下という特色を報告の中にさらに盛り込めば、時代的背景も鮮明になるのではないか、という指摘もあった。これらの質疑応答を通じ、報告者各氏の研究内容がさらに洗練され、フロアにいた参加者の問題関心もさらに高まったものと確信している。
本研究会は、予定時間を過ぎるほど活発な議論が展開され、盛会のうちに終了した。今回の研究会を準備していただいた関係各氏のご尽力に対し、参加者の一人として心から御礼申し上げたい。
日時: 2004年10月30日(土) 13:00~17:30 場所: 立教大学12号館 地下1階 第1・第2会議室 共通テーマ: 戦後社会における労働と家族 報告者: 豊田 真穂(日本学術振興会) 中村 広伸(一橋大学大学院) 柳井 郁子(東京大学大学院) コメンテーター: 市原 博(駿河台大学) 井上 恵美子(フエリス女学院大学) 司会: 佐治 暁人 趣旨説明: 和田 悠
朝鮮半島における南北分断の歴史は半世紀を超え、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、朝鮮戦争の休戦ラインに沿って、依然、対峙しつづけています。しかし、南北は、とりわけ2000年6月15日におこなわれた初の首脳会談以後、和解と協力をめざし、着実に歩み寄りをみせていることも事実です。韓国では、金大中政権が打ち出した外交基本政策である「包容(太陽)政策」が、盧武鉉政権にも引き継がれています。
韓国統一省の発表によれば、昨年1年間に、観光目的の旅行者以外で南から北を訪問した人数は1万5千人を上回り、北から南への訪問者は1千人を超えました。金剛山への韓国人旅行者数は、今年の5月までで既に累計65万人を超え、陸路で行く日帰り旅行も定期化されました。離散家族についても、再会事業の定例化・制度化へむけて尽力されています。また、韓国は今や中国に次ぐ北朝鮮の貿易相手国でもあり、開城では韓国の技術と資本によって工業団地の建設が進められています。南北関係は、米朝関係や「脱北者」問題等によって停滞することもあるとはいえ、民間交流と経済協力事業を推進する動きは、一貫して続いています。
他方、日本では、とりわけ2002年以降、朝鮮半島に対する認識は、サッカー・ワールドカップ共催や「冬のソナタ」ブームに代表される韓国観と、いわゆる拉致問題や核開発問題抜きにはイメージしがたい北朝鮮観というように、南北を統一的にではなく、それぞれを二分法的に捉える動きが一段と加速されているように思えます。「民族」をキーワードに南北交流をめざす動きは、日本のメディアでも学界でも、しばしば無視されがちであり、また、韓国で今年制定された「親日・反民族行為真相糾明特別法」をめぐる議論に対しても、その歴史的意味を戦後の冷戦構造もふまえて理解するというよりは、今なぜ「反日法」の制定か? と過敏に警戒する側面が大きいように思われます。
南北交流の進展や韓国内における歴史清算の動きは、日本の朝鮮認識の歪みを逆に照らし出す光源といえるかもしれません。戦後日本は、冷戦が進行するなかで、植民地支配の清算の課題を不問に付し、その朝鮮観の底流には、植民地時代に根拠をもつ「差別」意識を再生産させてきましたが、最近の日本における韓国文化の大衆化は、こうした歴史に起因する問題を払拭し、東アジアにおける民衆の相互理解の深化や平和の構築に、大きな意味ではつながっていくものなのでしょうか。
そこで、今年度の大会は、現在、朝鮮半島で展開している事象について、あらためて、その歴史的意味を検証しながら、日本と南北朝鮮の関係の今後について共に議論すべく、「朝鮮半島と日本の同時代史 -東アジア地域共生を展望して-」と設定しました。
午前の部では、朝鮮戦争と日本、日韓国交正常化に関し、若手研究者による個別研究発表を通して考えます。崔徳孝氏には、朝鮮戦争への在日韓国人の参戦問題について、また、吉澤文寿氏には、日韓条約締結をめぐる問題について、ご報告いただきます。
午後の部はパネルディスカッション形式で、今日の南北交流、日本における朝鮮半島認識と朝鮮半島における日本認識の推移、「東アジア共同体」への展望などについて総合的に議論していく予定です。パネリストとして、石坂浩一氏(韓国社会研究、日韓・日朝関係史)、鄭章淵氏(東アジア地域経済研究)、林哲氏(国際関係学、東アジア近現代史)に問題提起および議論をしていただくほか、韓国から、韓国・外交安保研究院や国家情報院での職も歴任された、徐東晩氏(政治学、北朝鮮研究・統一研究)をお招きし、議論に参加していただきます。
なお、会員の皆様には、後日あらためて大会案内をお送りします。午前・午後を通し、フロアーを含めて、活発な討論の場となることを期待しておりますので、どうぞふるってご参集ください。(文責 小林 知子)
日時:2004年12月5日(日曜日) 午前9時30分受付開始(予定) 場所:専修大学神田校舎7号館731教室 1.午前の部 <個別研究報告> 10:00~12:30 報告者:崔 徳孝(チェ・ドッキョ/東京大学・院) 吉澤 文寿(よしざわ・ふみとし/大学講師) 2.午後の部 <パネルディスカッション> 14:30~17:30 パネリスト:石坂 浩一(いしざか・こういち/立教大学) 鄭 章淵(チョン・ジャンヨン/駒澤大学) 林 哲(リム・チョル/津田塾大学) 徐 東晩(ソ・ドンマン/韓国・尚志大学校) 司会:出水 薫(いずみ・かおる/九州大学) *「午後の部」の前には会員総会、後には懇親会があります
監査報告書 同時代史学会 代表 安田 常雄 様 2004年6月12日 同時代史学会 会計監査 疋田 康行 2003年度同時代史学会決算 収入:1,467,978円 支出: 595,995円 繰越: 871,983円 会計監査が行った監査の結果、正確なることを認めます。
会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2004年度会費の納入をお願い申し上げます。また2003年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。
会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。
郵便振替 | 口座番号00120-8-169850 |
---|---|
加入者名 | 同時代史学会 |
なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。
また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。
項目 | 03年度予算 | 03年度決算 | 04年度予算 | |
---|---|---|---|---|
(収入) | ||||
前年度繰越金 | 553,778 | 553,778 | 871,983 | |
会費収入 | 870,000 | 773,000 | 870,000 | 一般150、院生40を目標 |
大会収入 | 51,600 | 50,000 | ||
年報販売収入 | 89,600 | 年報の発刊がないと想定して | ||
拠出金・寄付金 | ||||
雑収入 | ||||
収入計 | 870,000 | 1,467,978 | 1,791,983 | |
(支出) | ||||
ニューズ・レター編集・発行費 | 130,000 | 74,179 | 80,000 | |
委員会通信費 | 30,000 | 30,000 | 40,000 | |
大会費用 | 100,000 | 248,766 | 200,000 | 04年度大会で海外からの報告者を想定し |
若手研究会費用 | 50,000 | 133,325 | 150,000 | 活動の拡大している若手研究会への補助 |
年報編集費 | 109,725 | 110,000 | ||
雑費 | 30,000 | 10,000 | ||
支出計 | 340,000 | 595,995 | 590,000 | |
来期繰越金 | 530,000 | 871,983 | 1,201,983 |
今年7月には国際交流協定の締結の仕事で、釜山に行った。さまざまな博物館などをまわったが、最近オープンした「釜山近代歴史館」に心をひかれた。この場所はかつて東洋拓殖の支社で、解放後はアメリカ領事館となり、最近になって返還されてこの「歴史館」となったのである。それは写真を中心に近代はじめから現在までを構成している。もちろん日本の朝鮮支配の歴史は一つの大きな軸をなしているが、それとともに同時代を生きた人々の姿をいかに描き出すかが大きなテーマになっている。町並み、衣服、食べ物、住まい、そしてさまざまな陰影を含んだ人々の表情、怒りがあり、悲しみがあり、その合間にふっともれる微笑ややすらぎがある。この支配と暮らしが交錯する場所からあらためて日朝関係史を捉え直したら、どのような歴史像が浮かんでくるのだろうか。
日本は韓国ブームだという。釜山空港もヨン様一色だった。私もその対極に映画「シルミド」の苛烈さをおきながら、日朝関係史や朝鮮の南北交流史を考えてみたい。その意味で、「南北朝鮮交流」を正面からとりあげる今年の同時代史学会大会を楽しみにしている。(安田常雄)
話題の映画、「華氏911」を見てきました。一般には「ブッシュ叩き」とその手法の是非という文脈でのみ語られがちなこの映画ですが、単なる一指導者の批判にとどまらず、映画評論家木下昌明氏の言葉を借りれば「アメリカの社会構造の矛盾を民衆の側から」問うというところまで踏み込んだ骨太なドキュメンタリーであったと思われます。またそれが、日本で作られるととかくありがちなようにただ重々しい告発調としてではなく、常に風刺とユーモアに貫かれつつ展開されているところも印象的でした。しかし、ドキュメンタリー映画監督森達也氏の「ただの情報」にすぎない「退屈な」映画であるというような批評をはじめ、日本の映画関係者などの間には辛辣な意見も多いようです。私自身は上記のような理由からももっと評価されてしかるべき作品だと感じますが、いずれにせよまさに「同時代史」的に論争的な映像作品であることは間違いないと思います。それにつけても某国首相のように「政治的に偏った映画は見ない」という態度はいかがなものなのでしょうか。
さて、いよいよ12月の大会に向けての準備が本番を迎えつつあります。本ニューズレター巻頭での「お知らせ」の通り、今年度の大会では朝鮮半島と日本の同時代史をとりあげます。その「お知らせ」でも述べられているように、「韓流」ブームに見られる日本での韓国への好意的関心の高まり、それとまったく対照的な「拉致問題」「飢餓」「独裁」報道に現れる北朝鮮への嫌悪・蔑視と、私たちの周囲にみられる朝鮮半島認識は今きわめて単純に二分化された状況になっています。しかし私たちはそうした単純かつ分断されたイメージの背後にある朝鮮半島の実像あるいは実情をどこまで本当に理解しているのだろうか、そのようなイメージによってわれわれは朝鮮半島と隣国同士として真に共生しうる関係をとり結べるのであろうか、そのような認識のあり方は、日本社会のある種の歪みを反映しているのではないか、といった問題意識から、このテーマは出発しました。韓国・朝鮮研究の専門家はもちろんのこと、日本あるいは東アジアの問題さらには国際関係や平和問題などに関心をもつ幅広い研究者や市民研究者に考え、かつ積極的に発言していただけるテーマだと考えています。多くの方の参加を期待しています。(兵頭 淳史)
なんとか第5号の発行にこぎつけました。創立の時のある種の熱気がおさまって、はやくも登り坂にあえいでいる感じもします。新しい力が必要です。どうぞお力添えを。HPはとりあえずつくってありますが、まだ内容がほとんどありません。それもあってかBBS(掲示板)も利用されていません。景気の悪い話ばかりですが、直前で会費の納入状況を打ち込んでいたら、なんと88名の方が、前号の発送の時に入れた振替用紙で会費を納入してくれていることが判明し、元気が出てきました。お忘れの方は、どうぞよろしく。(宮崎 章)
同時代史学会 News Letter 第5号 |
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発行日 2004年10月1日 |
同時代史学会 |
連絡先:〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 |
東京大学大学院経済学研究科 伊藤正直研究室 |
Tel 03-5841-5602 masaitoh@e.u-tokyo.ac.jp |