第6号 (2005年4月) ISSN 1347-7587
同時代史学会は創立以来2年余りが経過しました。その間『戦争と平和の同時代史』『占領とデモクラシーの同時代史』の大会報告集2冊の刊行、若手の院生や研究者を軸にした研究会の活発な展開、『ニューズレター』の刊行などを通し、一定の市民権を獲得しつつあります。それは異分野の研究者による学際性という理念の実現の一歩といえるかも知れません。準備過程を含めて運営に当たられた皆さまにあらためて感謝いたします。
しかしここ2年、当初から自覚されていた問題点も顕在化しつつあって、その最大の懸案が「同時代史学会年報」の刊行でしょう。レフェリー付投稿論文を審査のうえ掲載できる年報の刊行は、現在の学会スタンダードとして不可欠なものですが、そのためには最低会員数250名の確保が財政的ミニマムとシミュレーションされています。ここ2年ほど250という数字は、理事会でも事あるごとに言及される幻視の基点といえるかも知れません。その数字の確保のためには、いうまでもなく会員拡大が急務。これまでも理事会内に会員拡大委員会を設置してきたのですが、現在も会員210名ほどに止まっています。先日の理事会では新しい担当となった岡本公一さんから現状が報告され、(1)首都圏以外の地域への働きかけ、(2)中高教員やジャーナリスト、一般市民への働きかけ、(3)口コミ作戦から、インターネット作戦(これには同時代史学会HPの活用、既成の学会HPにリンクを張るなど)への転換の必要、(4)既成の学会との共同研究会の開催などが具体的に提起されました。
今後2年間、この問題は運営上の最大の試金石になると思われます。あらゆる知恵を出し合って、出来るところから着手したいと思います。会員の皆さまにはまず会費納入を手始めに、アイディアの提起や地域・友人への働きかけなど、積極的なご協力をお願いいたします。
日本を離れて1年半が過ぎた。一昨年の8月末からイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)のサントリー・トヨタ・センター(STICERD)、半年ほど前からアメリカのハーバード大学ライシャワー日本研究所に客員研究員として所属している。2年間のサバティカルを取得した場合でも、2つの国で留学生活を送るというケースは少ないのではないかと思う。所属の交渉、ビザの取得、生活の立ち上げなど、一度でも大変な作業を2回も行わなければならないからである。しかし、そのおかげで認識を新たにさせられることも多かった。
ハーバードに来て驚いたのは、その豊富な資金力である。数多くの図書館を持ち、日本語の本についても、研究上ほとんど困らないレベルにまで充実している。最も感心したのは、大学院生に向けの奨学金のすばらしさである。多くの院生は奨学金つきで入学しており、研究に集中できる態勢が整えられている。海外調査のための助成金も、多様に用意されているようである。優秀な院生がよりよい研究条件を求めてハーバードに集まり、それを土台として質の高い博士論文を執筆する、という好循環が存在している。もちろん、これは、アメリカの大学でも特殊な例であろう。いずれにせよ、ハーバードには、手の届かないものを感じることが少なくない。
それに比べて、イギリスの大学の状況は良好とはいえない。給与水準は高くないし、世界的に有力な研究大学のLSEでも、いわゆる研究費などないという説明であった。本の購入は自腹で、研究を行うには助成金への応募が不可欠なようである。それゆえ、著名教員のアメリカへの流出には深刻なものがある、と聞いた。イギリスでは、私が滞在した時期、大学の授業料を現行の約3倍に設定できるようにする法案が提出され、ブレア政権を揺るがす大問題になった。LSEでは学生の国際化が著しいが、その一因も高い授業料を取れるEU圏外の外国人を入学させるため、と言われていた。ケンブリッジ大学の図書館でも、図書購入費の制約が深刻だと耳にしたし、ロンドン大学の日本研究の拠点であるSOASからも、和書の寄贈を歓迎するという連絡を人づてにもらったことがある。
イギリスの大学は、模索の最中にある。なかでも最も興味深く感じたのは、大学の評価システムである。評価は、研究と教育の2つについて行われ、それぞれ Research Assessment Exercise (RAE)、 Teaching Quality Assessment (TQA) と呼ばれる。聞いたところによると、RAEは、5年ごとに実施され、主要業績5本を対象として、5段階評価が行われる。専門ごとに各大学がランク付けされ、それに基づいて資金が配分されるため、研究業績をあげるよう各大学は教員に対して様々なプレッシャーをかける。毎年業績一覧を提出させる、業績が少ない場合には学部長と担当者が改善を求める、それでも研究が振るわない場合には、他大学に異動するか、さもなければ教育・行政負担を加重される、ということであった。評価に際しては、経済ではジャーナルの格付けが重要で、歴史や文学などでは本の出版が重視されると聞いた。
私の知り合いの大学教員のなかには、意外なことに、RAEに対して好意的な評価が少なくなかった。評価方法がしばしば変更される、数値をよくするための人事が直前に行われる、以前よりも忙しくなった、といった不満も聞いたが、地道に研究すれば評価されるし、多くの教員が研究するようになり、導入される前よりはよくなった、というのが彼らの意見であった。必ずしも著名ではない大学がオックスブリッジよりも高い評価を受け、その分野の研究拠点になった例もあるようである。その一方で、評価が低落すると、有力教員が他大学に移籍し、学生が集まらなくなり、廃止される学部もあるようだ。
以上、必ずしも正確でない情報も含まれているかもしれないが、何卒ご寛容いただきたい。いずれにせよ、イギリスの研究者が、恵まれない環境のなかで素晴らしい業績をあげていることを含めて、考えさせられることが多かった。まともに走らない電車、異常な物価高、美味しくない食事を含めて、イギリスの抱える問題は一筋縄でいかないが、それだけに、その模索する姿にはある種の共感を覚えた。
アメリカとイギリスの日本研究のあり方の違いなど、語るべきものはまだまだ残されているが、それについては別の機会にゆずりたいと思う。
(高文研、2004年刊、四六版、288頁、本体1800円)
2004年8月13日午後、アメリカ海兵隊・普天間基地を離陸した米軍ヘリコプターCH53Dが、操縦不能に陥り、沖縄国際大学一号館(本館)に接触のうえ、墜落・炎上した。
夏休み中ではあったが、学生や教職員など約700名が学内で活動しており、そのなかには、間一髪難を逃れたものもあった。本館の壁は黒く焼け焦げ、破片の飛散により周辺の民家も深刻な被害を被った。これほどまでの大事故で、一般市民に死傷者がでなかったのは、奇跡以外の何物でもなかった。
米軍による事故後の対応は、沖縄県民の怒りを増幅させるものだった。事故直後、多くの米兵が大学構内になだれ込み、キャンパスや周辺道路を封鎖した。大学学長、宜野湾市長、そして外務政務官までも、現場への立ち入りを禁じられた。また米軍は、日米地位協定を盾に、沖縄県警による現場検証を拒否。さらに、沖縄県側による軍用機飛行停止要求も受け入れず、事故から間もなく、六機のヘリコプターが普天間基地を離陸した。この事件は、日米地位協定がいかに深刻な問題を持つものであるかを、改めて浮き彫りとするものだった。
その日米地位協定について、独自に入手した外務省の機密文書「日米地位協定の考え方」とその「増補版」を駆使しながら、批判的に検証したのが、琉球新報社・地位協定取材班の手による『日米不平等の源流』(高文研、2004年)である。本書は、地位協定がもつ「多くの問題点を広く沖縄県民、国民に提起し、改善を進める」(p.9)ことを狙いとして出版されたものだ。また、外務省がその存在を否定し続けてきた「日米地位協定の考え方」及びその「増補版」という新史料を発掘し、公開したという点において、琉球新報社の取材は歴史学研究にも大きく寄与するものであるといえるだろう。
さて、本書はまず冒頭で、沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件に触れ、「政府がいう『グローバル・パートナーシップ』という対等で密接な日米関係が幻想に過ぎず、米軍優位の地位協定の運用で主権を侵されても文句一つ言えない『被占領国家・日本』の現実を、白日の下にさらすことになった」(p.32)と、日本政府の対応を厳しく糾弾する。
続いて、「日米地位協定の考え方・増補版」について詳しい分析がなされている。そこで浮き彫りになっているのは、日本人基地警備員によるライフル携帯、米軍機による低空飛行の容認、「伊江島事件」における裁判権の放棄など、国内法を曲げてまでアメリカに便宜を図る外務省の姿である。「『米国の期待以上の過剰サービス』を解釈で広げる弱腰外交」のツケを、「国民、究極的には沖縄県民が負う事態になっている」ことを、著者は強調してやまない。
その後、本書は、沖縄の事例を中心として、日米地位協定にかかわる様々な問題点をさらに検討している。とりわけ大きく取り上げられているのは、米軍基地内における環境汚染の問題である。よく知られるように、米軍による環境汚染は極めて深刻であるにもかかわらず、米軍には原状回復義務がない。だが、実は、日本政府は米軍による環境汚染をチェックする権限を持っていた。日米合同委員会は「環境に関する協力」という文書で、米軍基地で環境汚染が発生した場合には、自治体側が基地に立ち入ることができる旨、合意していたのである。にもかかわらず、外務省は30年以上にわたってこの文書を非公表としてきた。この点について、著者は「住民の安全や環境保全に結びつく合意さえも隠す外務省の体質は、基地被害、環境汚染を防ぐ手だてを奪ってきた。その責任は極めて大きい」(p.126)と、外務省を厳しく批判している。
その他、(1)米兵容疑者の日本側への身柄引渡しが依然として米軍側の裁量に委ねられていること、(2)米軍人・軍属の私有車、いわゆる「Yナンバー」車の車庫証明取得が免除されてきたこと、あるいは(3)米軍による基地内の遺跡破壊など、日本本土ではほとんど報道されることのないものを含めて、地位協定をめぐって実に様々な問題が存在していることが明らかにされた。
本間浩氏や明田川融氏らによって、日米地位協定に関する研究が精力的に進められている。だが、地位協定に関するまとまった研究は、決して多くはない。「日米地位協定の考え方 増補版」全文を収録した琉球新報社編『外務省機密文書 日米地位協定の考え方 増補版』(高文研、2004年)と併せて、本書が地位協定研究を大きく前進させることを期待したい。
日本占領では、連合国最高司令官総司令部(SCAP)が、民主的な労働組合の育成を奨励し、労働組合法の制定を指示した。こうした政策により女性労働者が組織化すると、労働組合内に婦人部という別組織がつくられていった。しかし、日教組婦人部の歴史には、婦人部の活動を「圧殺」しようとする「右旋回した占領政策」のもとで、SCAPが一方的な「婦人部解体指示」を通告したと記録されている。これまでの研究でも、日本側の組合関係者による証言を分析した研究は、反共思想に基づいてSCAPが「婦人部解体指示」をしたとしている。それは、これらの研究が、当時の「逆コース」といった政策転換や日本側の労働組合員の証言をもとに、SCAPの意図を分析してきた結果と考えられる。既存の研究が示したように、SCAPの意図は、婦人部が共産主義の影響下にあったとみて、それを「解体」しようとする政治的なものだったのだろうか。また、労働組合や婦人部はSCAPに対しどのような反応を示したのだろうか。本報告では、主にGHQ/SCAP文書、組合史料などをもとに、SCAPおよび労働組合の婦人部に関する議論を分析した。
1945年12月、労働組合法が制定されると、次々に労働組合が誕生した。こうしたなかで女性労働者の組織率は一挙に上昇し、1948年には45.7%に達した。労働組合内に婦人部が結成されると、婦人部大会で選出される婦人部の幹部が、そのまま組合中央幹部となるケースが多く見られた。例えば、女性組合員数が全組合員の34%を占める全逓信労働組合では、1946年6月に婦人部が成立したが、婦人部長1名、副部長2名が中央執行委員となることが決定した。また、翌年6月には、国鉄労働組合(国労)本部に婦人部が設置された。国労では、婦人部を除く他部門の部長は、中央執行委員会で決定されるのに、婦人部長だけは女性代表者会議によって選出され、なおかつ、婦人部長は中央執行委員となることが決まった。このように、多くの組合では、婦人部長が自動的に中央委員となるような規約が定められていた。すなわち、女性は中央委員の選挙に一票を投じ、さらに婦人部長選挙にも一票を投じ、そこで選ばれた婦人部長が自動的に中央委員となるので、女性組合員だけが中央委員選出に際して二票を投じるという「二重権行使」が組合規約に定められていたのだ。そして、この「二重権行使」をSCAPが問題とした。
SCAP内部で婦人部が問題になったのは、主だった労働組合に全国レベルでの婦人部が結成された1947年9月から10月にかけてだった。経済科学局(ESS)労働課では、組合内にある婦人部のような「分離した組織は、男女の差という考え方を永続させる」ことになるし、「組合員を分断する」青年・婦人部は「封建的、非民主的、分離主義的である」し、「すべての労働組合員の連帯」という組合運動の原則に反するという意見がみられた。しかし、労働課の主流は、組合内に独立した婦人部をおくことは長期的・理論的には勧められないとはいえ、当時の状況のもとでは、婦人部がなかったら女性は男性と平等な機会を得ることはないとして、婦人部の必要性を認める見解を示していた。そして、労働課全体としては、SCAPの政策は婦人部をあるべき方向に誘導し助言して、「女性が組合活動に完全にそして活発に参加するよう促すべき」であり、「婦人部の廃止に向かうような破壊的なものであってはならない」とする点で一致していた。労働課は、統一の結論を出すために課内会議を開き、現段階では女性のための特別プログラムが労働組合にあることは「望ましく必要である」とする方針を決定した。しかし、現在の婦人部が、この目的を達成するためには効果的ではないとして、その望ましくない特徴をまとめた。そして婦人部は、組合の枠内で活動し、組合全体の活動に女性が参加することを促すことが重要であるため、組合活動への完全な参加を女性に促す教育プログラムに力を注ぐべきであるとした。このような政策方針にしたがって、パンフレット案を作成し、婦人少年局や労働組合を通して一般に配布することが決められた。こうして、労働課が「労働組合における女性」というパンフレットを作成した。このパンフレットと同様の内容で、約半年後の1948年1月15日、賃金労働条件係のゴルダ・スタンダーが記者会見を行った(いわゆる「スタンダー声明」)。この「スタンダー声明」の翻訳は、新設の労働省婦人少年局がパンフレットの第一号として、「労働組合と婦人」(1948年3月)というタイトルで発行した。これをもとに、労働省は12月22日、「民主的労働組合及び民主的労働関係の助長について」(発労第32号)を発した。以上のことから、SCAPが婦人部の解体を指示したわけではないといえよう。むしろ、婦人部は現状では必要であるとの認識のうえで、婦人部のあるべき姿について内部で真剣に議論していた。SCAPが婦人部の独立性を問題視したのは、組合内における男女平等に反し、組合運動の統一と矛盾すると考えたからだった。では、こうしたSCAPの批判に対して、労働組合はどのような議論を展開したのだろうか。
国労では、「スタンダー声明」や婦人少年局のパンフレットが出されると、組合中央から青年・婦人部の廃止論が出されるようになった。こうした中央での動きに対し、「婦人部中央委員会は満場一致で現段階では反対を決議」(1948年6月)するなど、抵抗を示していた。また、婦人部長の丸沢美千代は、「スタンダー声明」をふまえて、問題となる二重権行使を回避するような新たな選挙法(丸沢案)をあみ出た。しかし丸沢案は、全国大会での議案を審議する中央執行委員会において否決され、「青年部長・婦人部長を執行委員とする」と定めた組合規約第13条の削除案が大会に提出されることになった。そして、1948年10月に開かれた全国大会に、規約第13条の削除案が提出され、青年・婦人部問題をめぐって激しい議論が行われた。ここでは、「民主的な組合の内部に於いて二重人格的な存在を有する青年部は解消されるべき」だし、青年部は組合機関の決議にしたがうことが本質であるのに、「青年部は親組合と常に違反した行動に終始している」との発言が見られた。このように、組合内では青年部と婦人部の問題を同列に位置づけていたのに対し、婦人部は、婦人部の問題を青年部とは区別すべきことを訴えた。例えば、「性別による特殊事情は、とうてい男の人には理解出来ない」のだから、「13条の採決は青年部と婦人部と別々にやって貰いたい」と主張した。しかし、このような婦人部の訴えは受けいれられず、結局、青年部と婦人部の両方に関する規約の削除について採決がはかられた。紙幅の関係から国労の一例のみしか挙げられなかったが、以上のことから、当時の労働運動における青年・婦人部廃止問題では、廃止を唱えていたのは、SCAPというよりも、組合内部に存在していたといえよう。こうした組合内部の婦人部廃止論に対して、婦人部の側は、女性の特殊性・独自性を強調する論理で対抗しようとしていた。例えば、国労婦人部長の丸沢は、「婦人従業員のおかれている立場、婦人の自覚、民主化の状態からみて婦人部はどうしても残す必要がある」と論じている。婦人部は、自らを青年部とは切り離し、婦人部の特異性を強調していた。本来は、一組合員として女性も組合活動全般に参加するべきことを認めたうえで、それでもなお、組合に参加する機会を与えられたからといって、一足飛びに組合に影響力をもつ活発な組合員になることは困難であるという現状分析もあった。それゆえにこそ、婦人部の教育・訓練という機能が必要であるという点は、SCAPが考えていた当面の婦人部のあり方そのものだといえよう。
以上のように、SCAPが婦人部を批判したのは、自治や二重権行使といった婦人部の性質が民主主義や組合内の統一完遂という組合主義に反するからだった。とはいえ、SCAPは、女性労働者の現状に理解を示し、現時点では婦人部の存在を容認していた。たしかに、理論的には婦人部の存在に反対していたが、SCAPが婦人部の解体を「指示」したとは言えない。むしろ、SCAPは一貫して婦人部の活動に対して協力的な姿勢を示し続けていた。ただ、婦人部という組織の構造上の問題点を指摘していたのだ。このような「独立した婦人部」に対する警告は、SCAPからの指摘が初めてではない。1926年、日本労働評議会本部に婦人部を設置する際に起こった論争のなかで、婦人部設置賛成派の山川菊栄でさえ、「すべての男女組合員は、男の問題、女の問題という、仮想的区別に捉われることなしに、男女共通の全労働者階級の問題として、他の仕事同様、婦人の教育および組織に関する活動にも参加すべき」であると論じ、労働者を性別によって「分離対立」させる組織は、組合組織の根本原則に矛盾すると主張していた。これは、当時の無産運動の中に婦人問題をいかに位置づけるべきかという要請のもとに組み立てられた論理であるものの、労働課の主張と通底する論点だった。更に、こうした労働課の方針は、主張の根底にある思想において、他の女性労働政策にも通ずるものがあった。すなわち、婦人部として女性をひとまとまりにくくってしまうことを批判した労働課の姿勢は、生理休暇の全員取得を要求する当時の労働運動を批判した態度にも通じているといえる。労働課は、生理休暇を、必要かどうかに関係なく自動的に月ごとに取ることが、「男性と平等の待遇を得ようとする女性の努力」を阻害することになると主張していた。すなわち、女性であるという理由だけで女性だけが特権的になることに警戒し、できる限り男女共通の基盤を築いていくべきだとする思想という意味で、両者は共通しているといえるだろう。労働課は、独立した婦人部に反対し、婦人部を組織内に有機的に組み込むことを主張した。こうしたSCAPの姿勢は、組合員の平等性を重視し、性による分離を排する思想に基づいていたと言えるのではないだろうか。
本報告の目的は、1954年に生じた日鋼室蘭争議を事例として、この争議が労働者階級「主婦」像の形成にどのような影響を与えたのかを考察することにある。具体的には以下の点を考察する。第一に、争議初期において日本製鋼所室蘭製作所労働組合(日鋼労組=第一組合)が主婦を組織する際に、どのようなジェンダーが前提とされたのか、第二に、組合分裂によって結成された日本製鋼所室蘭製作所新労働組合(新労=第二組合)の論理には、どのようにジェンダーが組みこまれ、それがその後の主婦の組織化にどのように反映されたのか、第三に、争議後、第一組合側主婦の組織にはどのような変化が生じたのか、以上の三点である。
鎌田とし子・鎌田哲宏による日鋼室蘭争議の先行研究(『日鋼室蘭争議三〇年後の証言』御茶の水書房、1993年)より、争議前における日鋼労働者家族の特徴として、第一に、連帯の基盤としての「労働者世界」の存在と、第二に、「労職交流」の存在があげられる。労働者世界とは、労働者階級の中にあって身分的に他と区別された一つの階層を形成し、職業上、生活上の立場の共通性を土台に、価値観、生活習慣を共有し、我々意識を持つに至った集団を指している。日鋼労働者についていえば、学歴による共通性を土台に、学卒の事務・技術者とは明確に区別された、生産現場で働く人々であり、彼らの間では、技能の熟練を体得することが自らの誇りであり、仲間からの尊敬も得られるという価値観が共有されている実力がものをいう世界であった。日鋼室蘭の場合は、さらに生活の場での共同という要素がかぶさっていた。ひらの工員が住む八戸、六戸長屋での水道栓を中心とした共同生活は、世帯道具から晩のおかずまで知悉する密着した暮らしぶりであり、家庭の事情にも通暁する。貧しさ、地位の同一性、生活様式の類似、運命の共通性からくる仲間への“思いやり”と“安らぎ”、何一つ隠し立てのない家族の延長のような共同生活体がここにはあった。
次に労職交流について。当時の技術者は学卒が多かった。技術者といえども、製造業は現場を踏まなければ一人前になれない。したがってはじめは工員と同じ職場で働き一から教えて貰うわけで、そこから労職の人間的交流が生まれる。また職場を離れても、社会科学書の読書会や趣味の会を一緒にやることで一層交流は深まった。また学卒者の家庭で「ケーキを焼く」生活様式もかいま見た。向上心を持つ労働者にとってその世界はできれば到達したいあこがれの園であった。
日鋼労組による主婦の組織化は、組織部長の提案により行われた。その際、日鋼室蘭争議の前年の1953年に人員整理撤回を勝ち取った三井砂川炭鉱における主婦の組織化をモデルとした。
争議中における主婦の活動から、「家族ぐるみ」闘争における主婦は次のように位置づけられる。争議中における消費活動を組織的に行う担い手という、男性労働者とは異なる独自の役割を期待されつつも、同時に「大衆闘争」の一員として、男性労働者と同様に公的領域における大衆行動に積極的に参加し、争議団の士気を高め、また分裂策動をする者を「統制」することによって団結を強化することも求められていたのである。このことから、「家族ぐるみ」闘争において、男性労働者と主婦との間には明確な性別分業が存在したというより、むしろ主婦の公的領域への積極的な参加によって両者の活動や活動領域には共通する部分が存在していたといえる。
こうして日鋼室蘭における主婦は、男性労働者と同様に大衆行動に参加することを通じて、男性労働者の単なる従属的・補助的な存在としてではなく、主体的な争議の担い手としての意識を醸成していったと考えられる。そしてこのことが、後述する中央闘争委員会や全員大会への主婦の「参加」につながっていったと考えられる。
1954年8月25日の中央闘争委員会および、9月6日の全員大会は、争議が長期化し、組合分裂の引き金となった出来事として位置づけられる。8月24日、会社は日鋼労組に対し、解雇該当者901名のうち116名を取り消すという内容の最終提案をした。これをうけて日鋼労組は、執行委員会を開き、「最終案を受諾し、闘争を一応終結する」という執行部案を5対1で決定した。
しかし翌25日に行われた中央闘争委員会において、この執行部案は否決された。その際中央闘争委員61名を一般組合員と主婦数千名が「すり鉢」状に取り囲む形で行われた。この中央闘争委員会を、闘争続行反対派(組合分裂後は第二組合員)は「すり鉢会議」と呼び、一般組合員や主婦らによる大衆の圧力によって、執行部案が覆ったと捉えている。
また主婦は、9月6日に開かれた組合員全員大会にも「参加」した。この日、当初構外に待機していた主婦が大会への「参加」を求めて入構した。このため主婦を大会会場へ入場させるか否かで討論が行われ、結局大会委員会の当初の決定を覆して主婦の入場が認められた。そしてこの全員大会で改めて闘争続行が決定された。
9月23日、闘争続行反対派によって第二組合が結成された。第二組合は第一組合による「家族ぐるみ」闘争において、第一組合側主婦が公的領域において戦闘的に活動し、また「すり鉢会議」や全員大会への参加を通じて労働組合活動に「介入」したことに対して批判的であった。そして第二組合は、争議後明確な性別分業観に基づいて主婦を組織した。つまり第二組合は主婦本来の活動領域は家庭にあると捉え、新生活運動を通じて主婦の「文化的理性」や「智性」を高め「明るい家庭」を築こうとしたのである。
こうした第二組合のジェンダー観と主婦の組織化は、労使協調のもとで企業を繁栄させていくことが労働者の経済的地位の上昇につながるという第二組合の理念に組みこまれていたと考えられる。つまり、男性労働者は労使一体となり企業の繁栄に努める一方で、その妻である主婦は家庭において新生活運動を通しての生活の合理化に努めることによって、第二組合労働者家族はその経済的地位を高めようとしたのである。
なぜ第二組合幹部はこのようなジェンダーに基づき主婦の組織化を行ったのか。あくまで推論の域を出ないが、これには先述した争議前における労職交流の存在が深く関わっていると思われる。鎌田らは組合分裂に際し、同じ工員が第一組合と第二組合へと袂を分かつ分水嶺は、労使関係をどのようにみるかにあったと捉えている。つまりどちらの指導者も学卒者との交流はもっていたが、第一組合員は、どんなに親しんでも学卒者=幹部を“われわれ”とは思わなかった。人間的にではなく“世界”の異質性を認識していたからである。これに対し、第二組合員は学卒者=幹部の約束を信用し、彼らの世界への脱出を試みたのである。
このように第二組合は、労働者世界から学卒者の世界の脱出を指向していた。第二組合幹部は、学卒者との交流を通じて、学卒者の生活様式をかいま見ている。労働者世界とは異質の世界であるとされる学卒者の世界における家族生活は、明確な性別分業に基づくものであり、第二組合は彼らの家族生活を目指すべき目標としたのではないだろうか。
第一組合は争議後、争議中の主婦の活動が「家庭生活と遊離」していたと捉え、自分たちの指導や援助に欠陥があったことを認めている。そして「健全な主婦組織」とするために、第一組合側主婦は生協を中心とする生活再建闘争、「家庭を中心とする社会環境の整備など」を今後の方針として打ち出した。
また第一組合組側主婦もまた、争議中において「女らしい気持ち」を失っていたと反省し、今後は「家庭に帰るべき」だと捉えた。ここから第一組合側主婦は、争議中の家庭外での活動を行っていたことに対して、「女らしい」行動ではなかったと自己批判しているといえる。
「家族ぐるみ」闘争は、主婦を「大衆闘争」に組みこむことによって、彼女らの活動領域を私的領域だけではなく、公的領域にまで押し広げた。そして主婦は、こうした公的領域での活動への積極的な参加を通じて、単なる男性労働者の従属的な争議の担い手にとどまらない、主体的な争議の担い手意識が芽生えたと考えられる。そのことを象徴するのが、「すり鉢会議」や全員大会への主婦の「参加」であったといえる。
しかし闘争続行反対派(組合分裂後の第二組合)にとって、こうした主婦の「参加」は左翼勢力の扇動によるものであり、正常な労働組合運動への不当な「介入」であった。第二組合幹部は、公的領域における第一組合側主婦の活動およびこうした活動における彼女らの品格のない「戦闘性」に対して批判的であった。こうした第一組合側主婦に対する批判、そして労職交流でかいま見た学卒者の生活様式への憧れから、争議後、第二組合は性別分業に基づいた主婦の組織化を行い「明るい家庭」を築こうとした。この第二組合のジェンダー観とそれに基づく主婦の組織化は、第二組合の労使関係観?労使協調のもとで労使一体となり企業を繁栄させることによって男性労働者の経済的地位の向上を目指す?に組みこまれていたと考えられる。このような第二組合のジェンダー観と主婦観および労使関係観は、高度成長期における労働者家族に一つの指針を与えたと考えられる。
他方、第一組合および第一組合側主婦は、争議後に、「家族ぐるみ」闘争において主婦が公的領域の活動に参加したことに対して、「家庭生活と遊離」し、また「女らしくない」行為であったと自己反省し、性別分業に基づいた組織方針へと転換した。ここにおいて「家族ぐるみ」闘争による主婦の公的領域における活動は、内外からの批判によって否定されたといえる。
(本報告は、報告者個人の私的な見解であり、現在、報告者が所属する機関の見解とは全く関係ありません。)
家族と教育の歴史をたどってみると、日本では近代以降においても、共同体のネットワークが次世代育成の役割を果たしていた一方で、家族もそれぞれに自律的な人間形成の機能をもっていたのであり、それが失われていく歴史はそう古いものではない。戦前の農村や都市の多くの親たちは意図的なしつけや家庭教育を行ってはいなかったものの、家業に直結した「労働のしつけ」は厳しくなされたこと、また、戦前の労働者家族が子どもを自立させるための手段として学校を受け入れる一方で、家族が独自におこなう子育てが失われていなかったことがすでに指摘されている。しかし、家業の継承や伝統的儀礼の伝達を中心とした家族の人間形成機能は高度経済成長期に意味を持たなくなり、替わって学力や学歴を重視し進学に強い関心をもつ家族が急速に増加した。このような教育意識は、大正期の新中間層家族にすでに見出されることが指摘されている。しかし、そのような家族のあり方が、戦後多くの階層に受容されていったプロセスはどう説明されるのであろうか。ここにおいて注目されるのが、1950-60年代における家族の変化である。この時期、日本は高度経済成長期を迎え、産業構造は大きな変化を遂げた。また家族形態の推移を見ると、日本の場合、高度経済成長期に大きな変容を見せている。平均世帯人員数は1955年の4.97人から減少を続け、1960年代の後半からは3人台にまで減少している。こうした変化は家庭の教育機能や家族の教育要求において新たな側面を生み出すものであったと考えられる。
これまで企業と家族の関連を明らかにしたものとして、ジェンダーの視点からの研究や社会保障に関する研究があるが、都市の企業における労働者家族を対象に展開された企業による家族管理を取り上げ、そこでの家族の変化や教育意識を明らかにしたものは見られない。そこで本報告では、この高度経済成長期に都市に大量に生み出された家族の教育を捉えるために、企業で展開された新生活運動に注目し、家族への介入がどのようなものであったのかを明らかにすることを課題とする。
新生活運動は、1947年に片山内閣が閣議決定をもって「新日本建設国民運動要領」を提唱したことに始まる。これにもとづいて、各地で「新生活運動的」な活動が展開され、衣食住の改善・因習の打破・家庭内人間関係の民主化などに対する取り組みが見られた。一方、企業経営者の側でも既に新生活運動への取り組みが始まっていた。その指導にあたったのが、財団法人人口問題研究会である。人口問題研究会は人口対策委員会を常設して人口対策の審議検討を重ねる一方、1954年7月に新生活指導委員会を設置して企業体における従業員および家族を対象とし、家族計画および生活設計を中心とする新生活運動指導の役割を果たした。1960年2月の段階で本会指導のもとに新生活運動を実施している企業が約50社、その世帯数約120万に及んでいた。これらの実践では、まず家族計画と生活設計という二つの課題への着手がなされ、なかでも家族計画の指導が重点的に進められていった。
人口問題研究会では企業における新生活運動の目標を直接的には人口問題の解決、さらには「新日本の建設」においていたのであり、家族計画は「近代的、道徳的、合理的、計画的な日常生活」の基礎として位置づけられている。一方、企業側は労働者の家庭生活を整え、生産能率を向上させるという動機をもって、「合理的な家庭生活」の基礎となる家族計画の運動推進にあたった。それぞれの現状認識とねらいが、企業体における家族計画指導を中心とした新生活運動という一致した課題において同時に活路を見出していったのである。
企業における新生活運動に最初に着手した日本鋼管株式会社(以下、日本鋼管)の事業所のうち川崎製鉄所について具体的に見てみると、同製鉄所の従業員は川崎市内に約6000世帯、東京・横浜地域に約3000世帯が住んでいたが、運動は、まず社宅に居住する1000世帯を中心に始められた。日本鋼管では、「職場と家庭とは表裏一体、不即不離の関係におかれている、家庭生活の向上は、生産運動の向上につながる」との見地から新生活運動が行われたのであるが、なかでも家族計画が第一の課題となった背景にはやはり、労働者家族の生活が多産のためにゆとりを失っているとの会社側の認識があった。会社と従業員の妻たちが一体となった運動は全国でも初めての試みであり、各方面から注目されるものであった。新たな活路を模索していた他の大企業の厚生課も、この事例を参考に次々に新生活運動を始めるにいたった。
では、以上に見たような、企業における新生活運動の推進の背景には、企業側のいかなる家庭への認識があったのであろうか。新生活運動の直接的なねらいはまず、家庭生活を合理化することによって、労働者の災害率や欠勤率を減少させ、生産性を高めることにあったといえる。その背景にあったのは、労働者の置かれた次のような状況であった。鉄鋼業の従業員構成は当時農村出身の青年層が大半以上を占めていたが、彼らが結婚の時期を迎えたのに伴い出産件数が急増していた。このことは労働者本人には生活の疲労度を増し、勤労意欲の減退ならびに、安全管理上の問題を招く結果となっていたし、一方、彼らの妻にとって多産は肉体的にも精神的にも相当の負担を強いるものであった。そこで日本鋼管では「将来の厚生福祉対策を考えると、どうしても家庭を無視することは出来ない。主婦を中心に、教養を高め、生活態度の計画化を進め、家庭保健の実をあげるなどの、よき指導と相談相手となる運動を進めよう」と施策を進めることになったのである。こうして労働者の妻は企業の意図を家庭に浸透させるための運動主体として位置づけられ、生活態度の計画化を実践し子どもの教育や家族の健康を管理することが要求された。
また、企業が労働者の家庭生活に関心を高めたことは、この時期、家庭版社内報が登場していることからもうかがえる。家庭向けの社内報が発行されるのは1955年前後からであるが、これらはまず、重化学工業および鉱山業部門に属する企業から出されている。
以上のことから、すでに1950年代において、企業は労働者だけではなくその家庭をも管理の対象として位置づけ、妻の労働力再生産をいかに向上させるかに高い関心をもっていたことがわかる。そして、そこで提示された家族モデルは性別役割分業を基盤としているだけではなく、夫を通じて企業に貢献する妻、さらにはそれを通じて社会に寄与する妻というあり方を要求するものであったのである。
社宅に住む妻の発言からも、多産は家庭生活にとって重圧であると意識されていたこと、そしてそのために家族計画に対する期待が大きかったであろうことがうかがえるが、そのことは、日本鋼管の家族計画指導が大きな成果をあげていることからも知ることができる。同社が1954年に川崎製鉄所の2870世帯を対象に行った調査によると、指導以前の受胎調節実行率は40.7%であったのに対し指導以後には70.8%にまで上昇している。そして、「あなたは家族計画のような微妙なことを巡回指導していることについて、何とお考えになりますか?」との質問に対しては、「歓迎する」が75.1%である一方、「こういうことは指導すべきではない」は0.8%となっており、多くの妻たちが家族計画指導に積極的な態度をとっていたことがうかがえる。また、1955年の調査によると、家族計画の指導前と指導後の各1年間を比較すると出産数は47%減、妊娠中絶数は1/5に減少、不妊手術数も1/6に減少と、受胎調節による大きな妊娠出産減少効果が得られている。新生活運動が労働者の妻たちの積極的な参加によって展開された背景には、彼らが家族計画を切実に必要としていたという現実があったのである。
今後の課題としてここであげておきたいのは、「少なく産んでよりよく育てる」という教育意識が労働者家族にどのように受容されていったのかを明らかにすることである。労働者の生活向上をねらって企業が指導した多産から少産への変化が労働者家族自身に積極的に受け入れられていく過程で、家族の次世代育成戦略がどう変化するかを明らかにすることは、戦後家族の教育要求の変容とその一般化を理解するために必要であろう。
第8回研究会(2004年10月30日)は、「戦後社会における労働と家族―ジェンダーの視点からの再検討―」を共通テーマとして開催された。歴史学研究会現代史部会でも2004年度大会で「ジェンダー」をテーマとして取り上げており、自分もその企画に携わっていたことから、共通テーマの中の「ジェンダー」の文字に惹かれて、この研究会に参加した。
報告者と論題は、豊田真穂氏「占領下の日本における女性労働改革」、中村広伸氏「日鋼室蘭争議における主婦像の形成過程」、柳井郁子氏「高度成長期の家族と教育」であり、占領期から高度成長期にかけての日本における女性の立場の変遷がわかる適切なものであったと思う。
豊田氏は、1948・49年ごろ、GHQが反共思想に基づいて、労組婦人部に対して、解体命令を出したという従来の定説を、GHQの文書を詳細に分析することによって見事に覆してみせた。豊田氏によれば、GHQ内では女性を婦人部として分離させることに批判的な声があがり、男女は組合内で対等の権利と義務を持つべきであるとの観点から改善命令を出したに過ぎなかったという。しかし、GHQの改善命令を労組幹部が、共産党の勢力が強い婦人部・青年部を解体する口実として使ったのではないかと豊田氏は推測する。
民主化同盟(民同派)が労組内から共産党の影響力を排除しようとしていた当時の情勢を考えれば、豊田氏の推測が真実であった可能性は非常に高い。豊田氏の報告には、当時の労働運動の情勢に関する言及が少なかったように思われるが、その点への言及が増えれば、豊田氏の仮説の信憑性はさらに増すであろう。また、フロアやコメンテーターから求められていたことだが、当時の日本側の関係者に、婦人部解体命令をGHQから直接聞かされたのか、労組幹部づてに聞かされたのかどうかなどを確認する必要がある。この点については、豊田氏も今後の課題としたい旨、述べられた。
中村氏は、日鋼室蘭争議において、第一組合では主婦が積極的な役割を果たし、公的領域まで活動分野を広げたが、第二組合側が勝利を収めたことで、第二組合が理想とする「夫が働き、妻が家事をする」という職員層の生活モデル(後に新生活運動が理想とする生活モデル)が労働者の間に受け入れられていく過程を明らかにした。
争議の中で第一組合の主婦たちが自分たちの生活を守るために様々な活動を始めていく様に、高度成長期に開花していくことになる市民運動の萌芽を見る思いで大変興味深かった。ただ、フロアやコメンテーターから指摘されていたように、報告の目的がこれまで無視されていた第二組合の自主性を見出していくことだったにもかかわらず、第一組合の主婦の自主性の方が印象に残り、目的と報告の内容の間に齟齬が生じた感はぬぐえなかった。資料面での制約もあるかもしれないが、第二組合の自主性(単に経営側に丸め込まれただけでない、第二組合なりの主張)はこれまであまり検証されてこなかった問題だと思うので、今後も研究をすすめられることを期待する。
柳井報告は、1950年代から60年代にかけて、企業において実施された新生活運動のうち、人口調節に関する運動の実態を明らかにしたものであった。すなわち、子どもの数が多いことで労働者が自宅で十分に休養をとることが出来ず、労働災害が多発することを憂慮した企業側が、労働者や主婦に「少なく生んでより良く育てる」という考え方を浸透させ、出生率の低下を実現させる過程を明らかにしたのである。出生率の低下が新生活運動によってもたらされたものだとすると、現在、問題になっている少子化はまさに新生活運動の効果がてきめんに現われた結果だということになり、政府が今日では、多産を奨励していることは皮肉である。柳井報告に現代の少子化現象との比較の視点が加えられれば、さらに興味深い報告となったであろう。
フロアからは、新生活運動の理由とされている労働災害の抑制は表向きの理由で、実際は人件費の抑制を狙ったのではないかという質問が寄せられた。大いにありうることであり、新生活運動が本音で何を狙っていたのか、関係者への聞き取りなどで明らかにしていく必要があろう。
3氏の報告の後、市原博氏と井上恵美子氏が3報告へのコメントを述べた。市原氏は、共通テーマに関連して、日本における「労働史」研究の変遷とその分野で長く、女性軽視の傾向が続いたことやその理由を述べたが、大変興味深く、かつ勉強になるコメントであった。井上氏は3報告に関して詳細に感想を述べられたが、豊田報告に関連し、占領史研究全般に対する要望として、占領期にGHQがどのような命令を出したのかということについてのみ検証するのではなく、日本政府がGHQに対してどのような対応をしたのか検証する必要があるのではないかとコメントした。このコメントにはフロアからも賛成意見が寄せられ、反響が大きかった。
第8回研究会に参加して、ジェンダーをただ漠然と取り上げるのではなく、「労働・家族」とテーマを絞ってジェンダーを取り上げたことで、3報告がそれぞれ関連性を持ったものとなり、報告者とフロアの間の議論が散漫になるのを防いるという感想を持った。
ただ、市原氏もコメントの中で述べておられたが、「ジェンダー」という言葉が使われるようになった背景には、男女の性差にとらわれないという考えがあったにもかかわらず、「女性」というくくりで報告者や報告の内容が決められているのは矛盾するのではないかという疑問が残るのも事実である。これは同時代史学会の問題というより、ジェンダー研究自体が抱えるジレンマではないかと思う。同時代史学会がジェンダーを再び研究会のテーマとして取り上げる際には、女性史ではないジェンダー史をどう構築していくか、という観点を取り入れることが必要となるであろう。
本号では、第4号で紹介した時点以後の1年間(2004年4月~2005年3月)までの本学会の歩みを記したい。
第3回大会は、2004年12月5日(日)に専修大学神田校舎において、「朝鮮半島と日本の同時代史 -東アジア地域共生を展望して-」をテーマに開催された。
出席者は、約70名であった。
なお、午前の部と午後の部の間に、総会が開催された。総会では、会務報告、会計報告、会計監査報告が行われた。ついで、次期役員の選出がなされた。次期役員の選出方式について、学会代表から、(1)会員数がまだ200名程度で、選挙方式での理事の選出は困難だと思われるので、今回は理事会の提案した役員候補者リストを総会で承認する方式としたいこと、(2)次回(2年後)には選挙が実施できるように、会員拡大に努めたいこと、の提案と説明があり、了承された。次期役員(理事28名、監事1名)が、異議なく承認された。
大会終了後、九段会館において懇親会が開催された。
研究会は、若手研究者の報告を中心にプログラムが組まれ、年に3回開催されている。
当該期間中に行われた研究会は、以下の通りである。参加者は各回、30~40名。
2003年12月大会の報告集、同時代史学会編『占領とデモクラシーの同時代史』(244ページ、本体2700円+税)が、日本経済評論社から2004年12月10日に刊行された。大会報告、コメントのほかに、2本の研究会報告を掲載した。
第4号(32ページ)が2004年5月1日に、第5号(24ページ)が2004年10月1日に刊行された。
新体制が2004年12月に発足し、これまで3回の理事会が開催された。
なお、今年度の大会は、12月4日(日)一橋大学で開催予定です。
会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2005年度会費の納入をお願い申し上げます。また2004年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。
会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。
郵便振替 | 口座番号00120-8-169850 |
---|---|
加入者名 | 同時代史学会 |
なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。
また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。
項目 | 03年度決算 | 04年度予算 | 2004年3月末日 |
---|---|---|---|
(収入) | |||
前年度繰越金 | 553,778 | 871,983 | 867,378 |
会費収入 | 773,000 | 870,000 | 862,000 |
大会収入 | 51,600 | 50,000 | 154,000 |
年報販売収入 | 89,600 | 1,300 | |
拠出金・寄付金 | |||
雑収入 | |||
収入計 | 1,467,978 | 1,791,983 | 1,884,678 |
(支出) | |||
ニューズ・レター編集・発行費 | 74,179 | 80,000 | 41,696 |
委員会通信費 | 30,000 | 40,000 | 140,055 |
大会費用 | 248,766 | 200,000 | 456,214 |
若手研究会費用 | 133,325 | 150,000 | 48,018 |
年報編集費 | 109,725 | 110,000 | 63,000 |
年報購入費 | 334,678 | ||
雑費 | 10,000 | 1,740 | |
支出計 | 595,995 | 590,000 | 1,085,401 |
来期繰越金 | 871,983 | 1,201,983 | 799,277 |
共通テーマ「戦後日本の大衆消費社会」
日時:7月2日(土)午後1時~5時
場所:立教大学12号館会議室
報告:西野 肇(静岡大)
「家電産業の展開と家電製品の普及-電気冷蔵庫を中心に」
及川 英二郎(学芸大)
「高度経済成長と生活協同組合-横浜生協を事例に」
浅岡 隆裕(立正大)
「メディアテクストとしての所得倍増計画」
コメンテーター:天野 正子、油井 大三郎
卒業式・入学式の季節です。多くの人が人生の新しい旅立ちを迎える節目の季節、1年のうちでもいちばん喜びと感激にあふれるはずのこの季節が、ここ最近は、1年の中でも最も憂鬱な季節となってしまっています。今年もまた、卒業式での「君が代」斉唱時に起立しなかったことを理由とした、公立学校教職員に対する大量処分が、都教委によって行われました。「日の丸」や「君が代」に対する思いは人それぞれにあることでしょうが、それに疑問を感じる人を「異端狩り」よろしくいぶり出し、強制的に排除するということは、単純な「いつか来た道」論はとれないにせよ、やはり戦前・戦中の思想統制を想起せざるをえません。そうしたものへの反省をひとつの軸として展開されてきた戦後史が今重大な転機に立っているという実感を筆者は強く抱きますが、会員・読者のみなさんはどのように感じておられるでしょうか。(兵頭 淳史)
本ニューズレターには、これまで会員の皆さんからのさまざまな投稿が掲載されてきました。次号からは、「会員から」というコーナーを設けて、従来以上に投稿欄を充実させる予定でおります。どうかよろしくお願いします。また、書評欄も新設しましたので、「この本の書評をあの人に」というようなご意見もぜひお寄せ下さい。(三宅 明正)
同時代史学会 News Letter 第6号 |
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発行日 2005年4月21日 |
同時代史学会 |
連絡先:〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20 |
成城大学経済学部 浅井良夫研究室 |
Tel/Fax 03-3482-9242 asai@seijo.ac.jp |