同時代史学会 News Letter

第7号 (2005年10月) ISSN 1347-7587


2005年度年次大会に向けて

― 大会テーマ「日中韓ナショナリズムの相剋と東アジア」趣旨説明 ―

森 武麿(一橋大学)

 本年12月マレーシアで東アジア・サミットが開かれます。東アジアは、近年インドネシア、フィリピン、タイなど東南アジア市場を中心に、日中韓をふくめた東アジアFTA(自由貿易協定)が次々に締結されています。昨年、日本の輸出入貿易額は香港を含む中国との取引額が、第二次大戦後はじめてアメリカを追い越しました。日本と東南アジア、中国との経済関係は融合を続けています。その意味で、今回の東アジア・サミット開催は、東アジア共同体への第一歩となるかもしれません。

 現在の世界レベルでの地域統合は、1990年代社会主義体制崩壊後、情報革命をともなう欧米・日本の多国籍企業の世界的展開を背景にしたグローバリゼーションによるものであり、今後、アジアにおいても、1997年アジア金融危機に見るように、グローバル資本と地域民衆・市民との摩擦・軋轢を含みながら、紆余曲折を経て進行するものと思われます。

 もちろん、東アジアはヨーロッパ・EUとは異なり、国家・地域によって大きな経済的格差、宗教・価値観の違いを包含しており、地域統合が簡単に進むような状況にはないことも事実です。とりわけ、東アジアは、戦前の日本帝国主義のアジア侵略という負の遺産が克服されず、最近のサッカー国際試合における重慶・北京での反日暴動や靖国問題・領土問題での中国・韓国での反日運動など、深刻な日中韓ナショナリズムの相剋とでもいうべき問題をかかえています。東南アジア諸国10、プラス3といわれる日中韓3国の対立・相剋が、東アジア共同体形成の大きな障害となっていることは明らかです。

 さらに、今年はアジア・太平洋戦争終結60周年であり、日本の敗戦・東アジアの解放から60年目に当たります。また日露戦争から100年、日韓条約から40年という東アジア関係史において記念すべき節目の年にも当たります。それゆえ、日本のアジア侵略と「過去の克服」の問題が、首相の靖国参拝、教科書問題も含めて近隣諸国から問題にされ、外交上の焦点となったことは、周知のとおりです。

 そこで、本年の同時代史学会では、「日中韓ナショナリズム相剋と東アジア」を大会テーマとして開催することにしました。

 午前の部は、大東亜共栄圏の歴史的経験と戦後日本のアジア外交の展開をおもに東アジアとの関係で考えてみます。

 報告は、安達宏昭氏(東北大学)に大東亜共栄圏の建設を経済的視点から論じてもらい、権容氏(一橋大学)には、岸政権の1950年代のアジア外交をアジア主義の視点から論じてもらいます。二人とも新進気鋭の若手研究者であり、歴史学と国際関係史という異なる学問領域から、議論を発展させることができればと思っています。

 コメンテーターは、日本とアジアの金融問題など日本経済論を専門とする伊藤正直氏(東京大学)にお願いしました。

 午後の部は、現在の日中韓ナショナリズムの相剋をテーマとします。経済のグローバル化のなかで、現在の日中韓ナショナリズムの問題を焦点して、3つの国がこれまでどのような国家像をめざしてきたのか、これからどういう国家像を追求しようとしているのか、これらを検討するなかで、日本などの偏狭なナショナリズムを、東アジアはどのように克服していけるのかについて、方向性を明らかにできれば、と考えています。

 とくに、本学会の特徴として、「同時代」をつかまえる「歴史」の視点を大切にして、戦前日本の東アジア植民地支配の経験を学ぶなかから、本大会のテーマ「日中韓ナショナリズムの相剋と東アジア」に迫りたいと思います。

 午後の部の報告者ですが、日本の視点から、保阪正康氏(作家)をお招きしました。氏はご承知のように一貫して「昭和史」、戦争史を追求され、最近では「兵士たちの精神的傷跡から靖国問題を考える」『世界』2004年9月号、近著『あの戦争は何であったか』(新潮新書)を書かれ、いつも忘れてはならない視点をわれわれに示してくれます。

 韓国の視点からは、玄武岩氏(東京大学情報学環、政治学)です。氏は『韓国のデジタルデモクラシー』(集英社新書)を最近上梓され、韓国におけるネット市民による電子民主主義の実情を分析して、各新聞の書評欄でとりあげられた若手の実力派です。今回の報告では、こうした市民民主主義とナショナリズムの関係につい論じていただくことにしています。

 中国の視点からは、高媛氏(日本学術振興会外国人特別研究員、社会情報学)です。氏は「リスクからタスクへ」『世界』(2005年8月号)の論文において、日中の偏狭なナショナリズムを「歴史の共犯者」というユニークな視点から切り込んで、注目を集めました。

 コメンテーターは、米原謙氏(大阪大学)にお願いしました。氏は近著『徳富蘇峰・日本ナショナリズムの軌跡』(中公新書)があるように、一貫して日本のナショナリズムとアジアとの関係を、思想史的アプローチから追求されてきました。

 午前の研究会と午後の大会テーマを通じて、現代の東アジアの連帯の道と偏狭なナショナリズム克服の道をみんなで考えてみたいと思います。フロアからの討論もふくめて、東アジアのナショナリズムはどこに向かうのか、本来の地域統合・地域協力はいかにあるべきか、など議論を深めることができればと思います。

 アジア・太平洋戦争終結60周年を締めくくるに飾るにふさわしい、白熱した議論を期待しています。ふるって、ご参加ください。


2005年度年次大会の予告

日時  2005年12月4日(日曜日)

       午前9時30分受付開始 10:00開始 17:30終了

場所  一橋大学 東キャンパス 東2号館(2201室)

大会テーマ趣旨説明   森 武麿(モリ・タケマロ/一橋大学)

午前の部  <個別報告> 10:10~12:30

 報告者:安達 宏昭(アダチ・ヒロアキ/東北大学)

  「戦時期の「大東亜経済建設」構想 -「大東亜建設審議会」を中心に-」

    :権 容(コン・ヨンソク/一橋大学)

  「岸政権の対アジア外交-対米「自主」とアジア主義-」

コメンテーター:伊藤 正直(イトウ・マサナオ/東京大学)

 司会 :浅井 良夫(アサイ・ヨシオ/成蹊大学)

昼の休憩

会員総会

午後の部  <大会報告>  14:30~17:30

 大会テーマ 日中韓ナショナリズムの相剋と東アジア

 報告者:保阪 正康(ホサカ・マサヤス/作家)-日本の視点から

    :玄 武岩(ヒョン・ムアン/東京大学)-韓国の視点から

    :高媛(ガオ・ユアン/日本学術振興会外国人特別研究員)-中国の視点から

 コメンテーター:米原 謙(ヨネハラ・ケン/大阪大学)

 司会 :豊下 楢彦(トヨシタ・ナラヒコ/関西学院大学)

懇親会  18:00~20:00  一橋大学東キャンパス 東プラザ2階

*昼の休憩後に会員総会があります。


<会員から>

突発的な事態

三宅 明正(千葉大学)

 05年9月上旬、中国に短期出張した際に見た現地のテレビとBBCは、カテリーナによるアメリカの被害を連日大きく報じていた。被害にあわれた方にお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興がなされることを切に願う。こう書いたところへパキスタン北部大地震の報が飛び込んできた。ハリケーンといい大地震といい、余りにも多くの人命が失われている。なぜこのような事態になったのか、その検証は徹底して行われるべきである。

 危機的な事態に遭遇する可能性は、滅多にあることではないと、私たちは感じている。しかしながら、突発的な事態にであうことは、決して少なくない。ただしそのほとんどが、最終的に深刻な状況に至らなかったがゆえに、私たちはそう感じているだけなのではないだろうか。

 以下、2003年8月に私が体験した、ニューヨーク州大停電のことを紹介する。

 この年私は、同州北西部のイサカに滞在していた。文部科学省の長期在外研究員制度で、家族(連れ合いと双子の子どもたち)とともに、この年の冬からそこで生活していた。住んでいたアパートはコーネル大学の北2マイルくらいのところにあり、およそ10棟、総戸数200戸ほどの規模であった。アパートの室内は、すべて電化されている。スタッフはマネージャーとその助手が1人、あとメカニックの人が2人、昼間だけ勤務していた。住民は8割くらいがコーネルの関係者である。私たち家族がよく話をしたのは隣の棟に住む韓国人学者のご家族であったが、この一家は8月は旅行中で留守であった。

 8月14日午後4時、突然停電した。気づいたのは、うなり声を上げて動いているエアコン(クーラー)が止まったためである。いろいろとみてみると、冷蔵庫内のランプが消え、ポット、コンピュータも全て停止している。ここではすでに一、二回停電を経験していた。冬、雪の重さで電線が切れるのが主な原因だった。それらは10分程度ですぐに復旧したので、今回もしばらくは様子をみていた。しかし30分以上そのままの状態が続くとさすがに不安になってくる。部屋の外へ出ると、同じような面持ちの人に出会った。彼らも状況がわからないという。

 マネージャーの部屋を訪ねてみた。彼女はポータブルのラジオを持っていたが、何もわからないという。5時になるので急いで自宅に帰るとのことであった。バス通りをはさんでアパートの向かい側は、子どもたちのデイ・ケアになっている。そのバス通りへでると、驚いたことに、交通信号機がまっくらになっていた。信号機を含めての大停電だったのだ。デイ・ケアは、子どもを迎えに来る車、自宅へ戻る車でごった返していた。

 あわてて部屋へ戻り、相当に大がかりな停電のようだということを連れ合いと話し、今後の対応を相談した。まずイサカに居住する友人(アメリカ人)の家に電話して、相談しようと考えた。ところが電話が通じないのである。ネットの回線をDSL(日本のADSL)にしていたので、停電時に電話が使えないことにしばらくして気づいた。テレビに使うだけの乾電池はないので、状況もわからない。しかし信号機が停止している道を車で移動するのは怖い。とにかく夕方から夜にここを動くのは得策ではない。明日まで待つことにし、その準備に入った。

 最も困ったのは、ポットが使えないことであった。子供たちがまだ乳児なので、調乳のためのお湯と粉ミルクは命綱なのである。部屋には魔法瓶と、こちらで買ったタイガーのポット(お湯を摂氏60度で保温できるもの。こういった機能が日本製品の強みである)がある。後者のお湯を全て前者に移し、夏だということもあるので、ベビー用の水で少しずつ薄めて使うことにした。

 あとは大人である。調理ができないので、ジュースを飲みクッキーやパンをかじりつつ、とにかく夜を越すことだけを考えた。朝になったら、市南部の友人のところへ避難しよう、あそこはガスも使えたしと考え、早めに床についた。だが不安な気持ちがあるせいか、なかなか眠れない。空腹だったためもあったかもしれない。

 ようやくうつらうつらし始めた深夜2時すぎ、冷蔵庫がけたたましい音を立てて運転を開始した。10時間を超す停電がやっと終わった。

 さっそくテレビをつけ、インターネットで情報を集めた。想像を超える広域の大停電だったこと、ニューヨーク市内はまだ停電の地域が多いことを初めて知った。

 年末に帰国し、電車の中で次の広告を見た。

 「新しい年を、未来志向の新居で迎えませんか。 オール電化の××マンション」

 背筋がぞっとした。


衆院解散総選挙に思う

菊池 信輝(一橋大学)

 2005年9月11日、思いもかけない衆議院の解散総選挙が行われた。結果は小泉純一郎率いる自由民主党が296議席を獲得する大勝利に終わった。かつて中曽根康弘首相の時代、86年の衆参同日選挙で自民党は304議席を獲得したが、当時衆院の定数が512人だったことを考えれば今回の小泉自民党はそれを上回る勝利を収めたことがわかる。

 国民の選択なのだから、それについてとやかく言うつもりはない。それにしても釈然としないのは、憲法改正や首相の靖国神社参拝問題、イラクへの自衛隊派遣問題、消費税増税問題など、いくらでも選挙の争点になるはずの問題がありながら、郵政民営化「法案」一点に問題が絞られた形となったこと、とりわけ、その「法案」を巡る与野党のやり取りに大いに疑問があることだ。

 それは単に民主党が「郵政民営化」自体には賛成していて、政府の「郵政民営化法案」に反対していたことが解散後に明白になった、ということだけではない。その民主党が泥縄式に出してきた対案の内容の方が、よっぽど「民営化」という言葉に近く見えたことである。

 そもそも政府は昨年9月の「郵政民営化の基本方針」の段階で「民営化」とは言えないような姿勢を示していた。日本郵政公社を四分割するとはいうものの、その四社を子会社とする持株会社設立を認め、さらにその発行株式の3分の1を政府が保有するとした。さらに、「移行期」なるものが考慮され、郵貯会社、簡保会社による赤字国債の引き受けを当分続けることについても示唆していた。つまるところ、「民営化」の名に値するのは、窓口ネットワーク会社が新規事業としてコンビニを始められるといった程度に過ぎなかったのである。

 これに対して、法案としてまとまったものではなかったが、民主党の側は、まず郵貯・簡保の預け入れ上限を下げ(現行1,000万円を700万円に)、規模を縮小していった上で民営化するというのである。

 結局まとまったお金として赤字国債の受入機関となることがほぼ明らかな政府案に比べれば、この民主党案による300万円の差額の方がよほど民間に流れるように思われた。都市銀行に預けてもいいし、株を買ってもいい。いっそのこと大きな買い物をしてもいいだろう。

 こうした疑問を持ちながらじりじりと選挙戦を見据えていると、さらに不思議なことが起こった。なんと財界の総本山、日本経済団体連合会(日本経団連)が自民党支持を明確に打ち出したのだ。かつての自民党と社会党の二大政党制時代ならいざ知らず、どちらも財界から政治献金を受けようとする「保守政党」である。しかも、今書いたように、民主党案の方がより「民に金を流す」政策となるのに、である。

 さて、かように衆院選について拘泥しているのは、実は私が新著を書き上げる、まさにその時に解散総選挙が行われることとなり、大慌てしたからである。財界と政治との関係、それを歴史的に整理した一般書だが、上記の疑問について私なりの答えを書き加え、同時代史的な書物に仕上げたつもりである(校正の段階でそうとう書き加えたのだが)。是非会員の皆様にご一読いただき、ご議論の題材にしていただけたら、と思う。

  『財界とは何か』(平凡社、\1,700)10月下旬刊行


<第9回研究会の報告>

戦後沖縄における「占領」と「主体性」

― 社会変容と政治の組織化、1945~1950 ―

若林 千代(津田塾大学)

 沖縄戦から占領初期の沖縄現代史は、未だ検証不十分な課題の多い時期であり、同時に、整合性のある意味づけをすることの困難な性格をもっている。この時期の、米軍という新たな支配者との拮抗する関係を梃子にしながら、近代史に起因する日本とのせめぎ合いを見つめ直し、自らの立つ所を明らかにしなければならないという沖縄に生きる人びとの課題は、沖縄戦によって、いわば力によって強引に開かれた地平で問われるものであった。戦後沖縄のジャーナリスト・池宮城秀意の言葉を借りれば、人びとの暮らしは「生き延びる」ことがすべてである「難民」のそれであった。しかし、同時に、沖縄において、敗戦は人びとの日常に鋭く迫るものであり、「軍民一体化」による極限の権力関係と帝国主義が破綻し、近代日本国家から解き放たれる経験でもあった。

 今回の報告では、占領初期の重層的な権力関係と政治空間、そして、そこでの政治意識の覚醒、近代史を通じて沖縄が支配勢力や制度によって意味付与され、自主的に共同社会を運営していく選択肢があまりにも限られていたという問題、そして、その克服という課題を人びとがどのようにとらえ、どのように自らの政治を組織しようと試みたのかについて、政治活動に関する琉球政府文書および米国公文書を相互に往復して検証しつつ考察を加えた。その際、とくに、沖縄戦から占領初期の沖縄の社会変容に注目し、こうした「主体性」の問いが具体的に問題提起される人びとの生活空間のありようとその社会矛盾に迫り、その時空間を、第二次世界大戦終結を契機とする国際関係、とくに、東アジアにおける冷戦体制の形成がもたらす同時代的あるいは構造的変動のなかに位置づけ、その基本的性格の理解の一端に結びつけたいと考えた。

 報告は、1)研究史整理、2)戦闘から占領への社会変容、3)政治の組織化、4)人民戦線、5)「占領」の時空間と「主体性」の問い、という5つのパートで構成した。

 まず、1)では、主要な先行研究として、国場幸太郎、新崎盛暉、宮里政玄といった1960年代から1970年代の先駆的研究を紹介し、さらに、1980年代以降の本格的考察として、鹿野政直による占領初期沖縄における「自治」と「民主化」という米軍占領下沖縄の政治思想のせめぎ合いと発露について、また、我部政男による占領初期の政治の組織化を論じた研究に言及した。

 2)では、沖縄戦と米軍占領、軍事基地の存在をその主要な規定要因とする戦闘から占領への社会変容について整理し、占領初期沖縄における政治の組織化がおかれていた条件を示した。米軍占領初期の沖縄では、沖縄戦による圧倒的な物質的人的破壊、また、日本からの事実上の分離と米軍の直接的な軍事占領の下、住民による自発的な政治組織の出現は1947年春以降のことであった。それは、日本本土や旧日本支配地域の諸民族、また、奄美、宮古、八重山といった周辺諸島と比較して、いわば、周回遅れの出発とも言うべきものであった。具体的には、この時期まで、多くの住民は米軍政府の管理する民間人収容所で生活しており、また、民間人は各村落間あるいは各民間人収容所間の自由通行を禁じられていた。1947年3月、米軍政府が昼間のみ自由通行を許可し、各収容所に隔てられていた人びとは相互に往来することができるようになった。戦後最初の政治集会である沖縄建設懇談会が5月に開催され、6月に沖縄民主同盟、7月に沖縄人民党が結成された。また、このタイミングは、沖縄における自主的な政治の組織化のあり方に決定的な影響をもたらした。1947年3月、米トルーマン大統領は米国議会においてギリシャ・トルコへの軍事援助を打ち出し、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」を発表した。そして、地域固有の歴史に起因する民族解放の方向が、冷戦のイデオロギー的レトリックを伴った権力政治的国際関係によって歪められて展開せざるを得ない事態が各地で顕在化した。沖縄に出現した自発的な政治組織の展開も、こうした戦後世界史の新たな局面と無関係ではなく、むしろ、米軍占領との関係から、冷戦亢進による影響を免れることはなかった。戦後初期の沖縄の政治組織は、総じて、イデオロギー的な理由からというよりは、むしろ、地域の近代史に起因する沖縄の民主的自主的発展の要求を理念として掲げ、沖縄戦から米軍占領の過程における社会変容のなかで「難民」生活を余儀なくさせられている住民を代弁しようとする自生的な組織であった。しかし、米軍政は結成当初からこうした政治組織に対し監視を加え、場合によっては、直接的に介入・弾圧した。

 3)では、こうした政治の組織化の様相をさらに具体的に踏み込んで整理した。占領初期の沖縄の政治の組織化として、まず米軍によって主導された過渡的な中央政治行政機構であった沖縄諮詢会および沖縄民政府の設置に言及した。一方、1947年以降に出現した沖縄建設懇談会、さらに、沖縄民主同盟や沖縄人民党の結成といった自生的組織は、米軍政下の上意下達的に円滑な行政執行を目的として形成された政治空間に対して、自主的な政治空間の形成をめざした。本報告ではとくに、沖縄人民党の結成過程について詳細に報告し、さらに綱領や演説会報告、および米軍対敵諜報部隊報告書の考察から、その民主主義論および独立論を分析した。

 4)では、1948年から1949年における政治組織の変化と米軍政との関係について整理し、とくに、軍労務供出をめぐる問題から発展した食糧配給停止問題と民衆側の異議申し立て、それへの米軍政の対応とせめぎ合いについて整理した。その上で、1949年5月1日に始まり、わずか1ヶ月弱で米軍政によって切り崩された「人民戦線」の試みについて考察した。「人民戦線」はメーデーに合わせて出発し、階級的意識が反映していると同時に、記録によれば、「民族戦線」の呼称によっても記録され、「人民」と「民族」は互換的なものであった。また、「アメリカに土地を売るな」「私たちの敵は沖縄民政府ではなく軍政府である」「私たちは米国によってあらゆるやり方で制約されている」「米国に絶対に土地を売り渡してはならない」など、さらに軍政府批判、米国批判へと展開するものであった。

 5)では、「人民戦線」の試みが挫折させられたタイミングについて、1949年半ばを境に、沖縄における恒久基地を目指した米軍基地建設の本格化について触れた。さらに、アメリカが、中華人民共和国の成立や朝鮮における内戦の深まり等、アジアにおける冷戦の国際情勢から、沖縄の米軍基地を安定的に維持することを目的として、占領行政への住民の支持を獲得するためにおこなったさまざまな施策、とくに経済レベルを引き上げるための経済復興政策と「知事公選」を限定的にでも実現し、自由選挙による住民自治の拡充をはかる政策について言及した。その「民主化」は必然的に「親米的」なものでなければならず、アメリカの国益と矛盾しないことを前提としてのみ認められ得るものであった。

 さらに結論として、アジアの国際的変動のなかで、沖縄の米軍基地の恒久化と排他的統治をはかる米軍が、この新たな局面において、占領行政に対する住民の支持を醸成しなければならないという認識をもたざるを得なかったのは、1947年から1949年の過程で沖縄の自主的な政治が占領体制を押し返した結果である。しかし、米軍は、そうした動きの根源にあるものを正確には理解することはできなかった。沖縄の米軍基地の恒久的保持の決定を促した1948年3月のPPS28文書を提起したジョージ・ケナンは、沖縄の住民は米軍支配下で布令・布告を遵守し、穏健であるが、米軍は困窮する住民への適切な保護を与える責務を果たさず、「住民の経済と社会構造の復興のための本格的なプログラム」が実行されていないために、そうした政策の不確実な状況を「共産主義者」が利用し始めていると述べている。しかし、ケナンが理解していなかったのは、沖縄の人びとが単に経済的社会的困窮のゆえに自らの政治を組織しようとしていたのではなく、その核心にあるのは、自主的な社会の形成と管理であったということである。それは、言論の自由であり、土地の解放であり、首長や議会公選による自治であり、戦争の荒廃からの再生過程そのものを自分たち自身の手にすること、「人民自治」による「新沖縄建設」、「民主主義的自主沖縄」の確立ということであった。


講和以後における戦犯釈放問題

佐治 暁人(立教大学・院)

はじめに

 これまで、戦犯裁判研究は、東京裁判研究をはじめとして、開廷前後までを対象として進められてきたが、サンフランシスコ講和以後の戦犯裁判問題に関しての検討は、ほとんどなされていない。本報告では、講和以後の戦犯問題のあり方を日米両国の戦犯問題の議論を通じて検討したい。

 アメリカにおける戦犯釈放問題は、1954年以降、最終的な解決を念頭に入れつつ検討されたように思われる。したがって、本報告では、1954年~1955年中頃までのアメリカ政府内での戦犯釈放問題の議論に着目して検討することとする。

 その際、以下の2点に留意したい。第1点は、アメリカの対日政策と戦犯釈放問題の関係についてである。第2点は、戦犯釈放政策の特徴についてである。同点に関しては、「戦犯処罰観」(A級戦犯とBC級戦犯とをどのように見ていたのか?)といった問題や戦犯釈放問題の抱えていた問題(同時期に仮釈放制度が、2度の改変を果たすのであるが、その際に抱えてきた問題とは何なのか?)といった点に留意したい。 

 一方、日本における戦犯釈放問題は、講和条約によって大きな制約(戦犯裁判の受容)を受けた問題であった。つまり、日本における戦犯釈放問題とは、戦犯裁判をどのように理解するかに大きく依存した問題と言える。したがって、本報告では、講和条約発効から1955年頃までの日本における戦犯釈放問題の議論に着目して検討することとする。

 その際、以下の2点に留意したい。第1点は、日本政府と戦犯釈放問題の関係についてである。同点に関しては、講和条約による大きな制約を受けた日本政府、すなわち、困難を抱えた主体としてのあり様に着目する。第2点は、戦犯裁判を日本社会がどのように受け止めたのかについてである。同点に関しては、「平和」を求める動向と、「平和」と一見矛盾するような戦犯釈放を求める動向とをどのように理解するかに着目する。

1 戦犯釈放問題の再検討と日米関係

 1954年1月、駐日大使アリソンによって提起され、アメリカ政府内で開始された戦犯問題の再検討とは、対日政策上の課題としての提起を受けた上での、対応を迫られていた長期刑(終身刑を含む30年以上の刑)対策と言える。同検討から、戦犯問題の抱える困難さを認識させる。その困難さとは、 (1) ダレスによって主張されたような減刑勧告の困難さ、 (2) 減刑・仮釈放委員会(The Clemency and Parole Board)によって主張されたような、主として、長期刑(終身刑を含む30年以上の刑)内における「釈放されるべき人々」と「釈放されざる人々」という2層の存在(つまり、判決の重さと犯罪行為の重さというダブルスタンダード)を浮かび上がらせる。そして、大規模釈放論による戦犯釈放でなく、減刑・仮釈放委員会による戦犯の釈放という原則の下、以上ような困難を抱えつつ、1954年7月、アメリカ政府は、仮釈放適格資格の変更、すなわち、10年ルールの適用(10年服役後の仮釈放適格資格の取得)を決定する。

 その後、NSC5516の策定(1955年4月)へと連なる対日政策の見直しを前提として、戦犯問題の最終的解決を念頭に入れた検討が進められた。その際、大統領権限の軽減という要請から、日本側への仮釈放権限の委任を台頭させながら(1955年1月において、日本の国内情勢をにらみ退ける。)、減刑・仮釈放委員会への委任という結論へと帰着した。また、前述したような戦犯問題の困難さから、BC級戦犯内での二層に分解していく制度的枠組みを形成させ(従って、以後の検討課題とは、「釈放されざる人々」をどのように措置するのか?)、他方、10年ルール適用によるA級戦犯の仮釈放を推進するといった米国の戦争犯罪政策の一つの特質を明らかにしていった過程と言える。

2 日本社会と戦犯釈放問題

 日本にとって戦犯裁判は、アメリカ側とは異なり、所与の前提ではなく、戦犯裁判を、「正義による平和」のための「勝者の裁き」と理解し、A級戦犯とBC級戦犯の立場性の違いに留意しつつ、政党レベルから一般社会レベルまで、BC級を不合理な戦犯として理解し、「平和」実現のために、BC級戦犯釈放を求める動向を形成した。さらに、このような動向の延長線上には、戦犯裁判を積極的に捉え、「平和」実現のための「戦犯裁判論(=自主裁判論)」をも生じされるものであった。

 一方、政府にとってこのような動向は、個別的勧告の困難さ(すなわち、個別勧告作成のため、各戦犯に対して、罪の重軽を判断しなければならない困難)や、対連合国への考慮(主として、海外に存在する戦犯への考慮)などから全面的赦免を要請するに際して、合致するものであったと言える。

 その後、戦犯裁判なき朝鮮戦争の停戦やそれに伴う世界情勢の変化あるいは、戦犯問題の進展(フィリピン関係戦犯の釈放など)と行き詰まりから、「勝者の裁き」といった認識(戦犯=敗戦の犠牲者という認識)を台頭させ、「平和」実現のための戦犯裁判という認識基盤を掘り崩した。

 このような動向を受け政府は、日米協調・自由主義諸国との提携強化を掲げ、国内基盤の強化を期しつつ、長期刑の一律減刑という形での仮釈放促進という政治的釈放路線への転換を果たしたのである。

さいごに

 日米両国にとって戦犯釈放問題の長期化とは、新たなる戦犯釈放問題への対応を迫るものであった。アメリカ政府は、2度の制度的改変による戦犯釈放を促進する一方で、「釈放されざる人々」をどのように措置するかという問題、すなわち、戦犯を釈放する責任を自覚させられることとなるのである。一方、日本政府は、戦犯釈放による日米協調を掲げ、国内基盤の強化の必要性を認識しつつ、個別的な戦犯釈放という枠組みを保持し得る仮釈放ルールの緩和による戦犯釈放の促進を目指していた。そして、このような動向は、「平和」実現のための戦犯裁判という認識基盤を掘り崩していったのである。


アメリカ・韓国・南ベトナムの軍事関係の形成

― 李承晩・韓国大統領による韓国軍インドシナ派兵提議を中心に ―

松田 春香

 本報告で主に取り扱う1954年の李承晩(イスンマン)・韓国大統領による韓国軍インドシナ派兵提議については、木宮[1995]*1や李鍾元[1996]*2の研究で言及され、李承晩大統領の積極性が指摘されている。両研究において、李大統領の派兵提議は、韓米二国間の交渉上の題材として捉えられている。つまり、李大統領の提案の目的は、予定されていた在韓米軍撤退後の韓国軍増強を図るため、派兵を口実にアメリカ合衆国(以下、アメリカと略記)から軍事援助を得ることであると考えられていた。また、李大統領の提案に対するアメリカ政府内での議論は、既存研究*3の多いアメリカのインドシナ政策と関連付けて分析されていない。また、李大統領の提議以後のアメリカ・韓国・南ベトナム(1955年以前はベトナム国)の関係についての研究は、皆無と言って良い。

 上記のような研究状況を踏まえて、本報告では建国以後の韓国の東アジア(東南アジアを含む広義)外交と54年の李承晩による韓国軍インドシナ派兵提議の経過とその意図について論じる。また、アメリカの対インドシナ政策と関連付けながら、李大統領の提案に対するアメリカ政府内での議論、55年以降の韓国と南ベトナム両国の軍事交流の進展について述べたい。一次史料としては、Foreign Relations of the United States, Documents of the National Security Councilなどのアメリカの外交文書、「韓国外交文書」(韓国・外交安保研究院所蔵、 microfilm)を用いた。

 韓国政府の東アジア政策の目標は、建国以降、国内外での地位向上を目的とする「反共・反日同盟」結成であった。韓国政府は、1949年、国共内戦での中国共産党の勝利と1948年におけるアメリカの対日政策の転換に対応すべく、自国の国際的地位を高めるため、フィリピンや中国国民党政権と共に、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)を模した「太平洋同盟」(Pacific Pact)の締結を推進した。それを「軍事同盟」にまで発展させようと努力し続けたが、実現しなかった。また、韓国政府は、同盟の構成国の東アジア地域外への拡大にも失敗したが、朝鮮戦争直後から「太平洋同盟」構想を再燃させた。まず中華民国*4の蒋介石(ジャンジェシ)総統に対し協力を求め、外交関係を結んでいなかったフィリピン以外の東南アジア諸国に、1953年末から1954年までに3回使節団を派遣し、「太平洋同盟」への参加を呼びかけた。その結果、1954年、韓国政府は、目標としていた「軍事同盟」からは程遠いものであったが、中華民国、フィリピン、ベトナム国などと共に「アジア民族反共連盟(APACL)」を結成するに至った*5。李承晩大統領は、1954年、上記のAPACL結成と連動させ、またインドシナ情勢と朝鮮半島情勢を一体化したものであると認識したため、韓国軍のインドシナ派兵を二度提議した。

 一方、アメリカは、朝鮮戦争への中国の参戦を契機に、東南アジアに対する軍事的価値評価を高め、朝鮮半島情勢と対インドシナ情勢を連動したものとして捉えるようになった。そして、1954年初に従来の対東南アジア政策を見直し、インドシナへのアメリカ単独での直接介入を検討し始めた(NSC5405)。このような政策変更を受けて、アメリカは、韓国軍のインドシナ派兵提案を高官レベルで審議した。その結果、二回とも「今回」は韓国軍の派兵を見合わせるという結論を下した。韓国軍派遣により、中国の介入を招く恐れがあり、また、インドシナ戦争の国際化を嫌うフランスが韓国軍派遣に反対したからであった。

 しかし、李大統領の提案がなくても、アメリカ政府がインドシナに介入しようとして各国に働きかけた「統一行動(united action)」の選択肢には韓国が含まれていたことから、アメリカ政府も、自国のインドシナ介入を推進するタカ派を中心に、韓国軍のインドシナ派兵の可能性を常に念頭に置いていたといえる。54年の段階では、アメリカが直接介入しなかったため、韓国軍も派遣されなかったに過ぎず、将来の派兵の可能性までもアメリカは否定しなかった。

 1954年の段階で韓国軍のインドシナ派兵は行われなかったものの、韓国・ベトナム国間の軍事視察などは、同年から行われていた。そして、55年にアメリカがゴ・ディン・ジェム(Ngo Dinh Diem)を支援し、南ベトナムを樹立した直後に韓国は外交関係を締結した。そして、韓国は、これまでの外交政策に基づき、南ベトナムに対して「反共・反日同盟」の締結、あるいはそれを軍事同盟まで発展させようと提案したが、南ベトナムの外交拡大に不利になるというアメリカの判断から、実現されなかった。建国以来の台湾との蜜月関係が崩壊したため、韓国にとって、南ベトナムはより重要な意味を持つようになった。南ベトナムにとっての韓国も同様であった。特に、1950年代の二国の軍事関係は、軍事同盟など軍関係者の相互視察がアメリカの仲介で行われるなど、より緊密なものになっていった。そして、このような協力関係が、1960年代に実現された韓国軍のベトナム派兵の背景であったと推測される。

 本報告の結論として、以下の三点を指摘したい。

 これまで対米交渉の材料として考えられていた李承晩大統領によるインドシナ派兵提議は、韓国の東アジア政策とも不可分であったことである。韓国政府が構想してきた「反共・反日同盟」は、1954年にAPACLという形で実現したが、結成過程でベトナム国など東南アジア諸国との外交を積極的に展開し、そして、アメリカのみならず、ベトナム国にも韓国軍の派兵を提案したことからも、派兵提案の目的には、先行研究で指摘されてきたように、対米交渉で韓国にとってより有利な条件を引き出そうとしたということのみならず、APACLという「反共・反日同盟」を共に結成したもう一つの分断国家・ベトナム国との関係をより強固なものにしようとする狙いがあった。

 次に、アメリカが李大統領の提案を政府内で議論した背景として、アメリカ自身もインドシナ直接介入を検討するという対インドシナ政策の見直しがあった。既存研究では、李承晩・韓国大統領の積極的が指摘されてきたが、李大統領の提案がない状況でも、アメリカ政府内で韓国のインドシナ派兵は常に念頭にあった。その具体例は、インドシナにおいてアメリカと協調して行動を取るという「統一行動」の選択肢に韓国が含まれていたという事実である。よって、韓国軍のインドシナ派兵をめぐる議論は、韓国政府とアメリカ政府内のタカ派の連携と見るべきである。

 最後に、アメリカは、自国のインドシナ介入と同様、韓国軍のインドシナ派兵も断念したものの、実際には、1954年以降、韓国とベトナム国間では軍関係者の視察などが始まった。そして、その後韓国と南ベトナムの軍事関係は、アメリカの後ろ盾を受けて進展していった。

 今回取り扱った事例から、米中ソ大国間のみならず、大国・アメリカの庇護を受けた東アジアの冷戦国家、韓国や南ベトナムも積極的に冷戦に加担していったという東アジア冷戦の一断面を見ることができる。ただ、アメリカが分断国家同士の関係にどの程度関与していのかは、今後の課題である。

*1 木宮正史(1995)「1960年代韓国における冷戦と経済開発」『法学志林』92-4。

*2 李鍾元(1996)『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会。

*3 代表的なものとして、矢野暢(1986)『冷戦と東南アジア』中央公論社; 松岡完(1988)『ダレス外交とインドシナ』同文舘出版; 赤木莞爾(1991)『ヴェトナム戦争の起源』慶応通信; Melanie Billings-Yun(1988), Decision against War: Eisenhower and Dien Bien Phu, 1954, New York: Columbia University Press.がある。

*4 本報告では、1949年10月の中華人民共和国樹立後、台北に移転した国民党政権を意味する言葉として使用。「一つの中国」「二つの中国」など特定の政治的立場を示すものではない。ただし、49年10月以前に関しては、中国国民党と表記。

*5 韓國外務部(1979)『韓國外交30年 1946-1978』112頁; 大韓民國通商外交部(1999)『韓國外交50年 1946-1998』128頁。


第9回研究会参加記

長谷川 亮一(千葉大学・院)

 2005年3月12日(土)13時より、立教大学池袋キャンパス太刀川記念館3Fホールにて、同時代史学会第9回研究会が開かれた。参加者数は20数名ほどであった。

 今回の共通テーマは、「戦後アジア秩序の再編とアメリカの影――リージョナル・ナショナル・ローカルアクターの主体性」である。すなわち、若林千代「戦後沖縄における「占領」と「主体性」――社会変容と政治の組織化、1945~1950」が「沖縄」というローカル、佐治暁人「講和以後における戦犯釈放問題」が「日本」というナショナル、そして松田春香「アメリカ・韓国・南ベトナムの軍事関係の形成――李承晩・韓国大統領による韓国軍インドシナ派兵提議を中心に」が「東・東南アジア」というリージョナルな単位をそれぞれ扱う、ということになる。なお、コメンテイターは明田川融氏(法政大)と伊藤裕子氏(亜細亜大)、司会は黒崎輝氏(立教大学)であった。

 ただし、このテーマ設定については、討議の中で多少疑問の声があがった。まず、報告者の若林氏からは、「沖縄」をローカル・アクターとしてよりもヒストリカル・アクターとして見たい、という意見があり、またコメンテイターの明田川氏からは、「沖縄」は単にローカルな存在ではない(沖縄自身もナショナルな性格を持っている、という意味で)し、また沖縄にとってアメリカは「影」などではない、という指摘がなされた。なお、この点については、自由討議の中でも、「八重山共和国」独立運動などのような、「沖縄」の内部におけるローカルな存在も指摘された。もとより、冷戦というグローバルな状況が背景にあることも考えに合わせれば、三者の間にはっきりと線引きをすることは難しいだろうし、むやみに線引きにこだわるべきものでもないだろう。

 個別報告の内容については各々の報告概要に譲ることとして、以下、討議の主だった内容を、個人的に興味を持った部分などを中心に、簡単にまとめさせていただくことにする。

 コメントの中では、若林報告との関連で、伊藤氏から、戦後初期の段階では、紛争地域である韓国や台湾に軍事基地を起きたくないという米軍側の思惑から沖縄に基地が集中したこと、また、沖縄の基地化によってフィリピンにおける米軍基地の存在意義が薄れ、見捨てられそうになったフィリピンでは米軍慰留運動が生じたことなどが指摘された。また、伊藤氏の、日本軍の残虐行為に関する報道が乏しかったのではないか、という指摘に対し、佐治氏からは、報道自体は多くなされており、また敗戦直後の軍需物資隠匿問題などともからんで、講和直後における軍人に対する反発は非常に強く、そこに自主裁判論へとつながってゆく契機もあった、という反論がなされた。

 自由討議では、沖縄問題への関心の強さもあってか、特に若林報告に対する質問が多く出された。若林報告の冒頭にある「沖縄は……「癒し」の島空間の演出を多くの日本人に提供する場所となっている」というくだりについて、フロアからは「戦後初期に育った人間にとって、沖縄は決して娯楽などではない」という声があがった。もとより、これはどちらも一面の真実なのであって、どちらが誤りというものでもないだろう。

 また、若林報告が末尾で、ジョージ・ケナンの言葉を、沖縄に対する無理解として引用したことに対する疑問や、八重山等の離島部についても言及すべきではないか、という意見なども出された。

 今回の三報告から共通して浮かび上がってくるのは(テーマがテーマだけに、当然といえば当然ではあるのだが)、東アジアにおける「冷戦」――東アジアにおいては、それは決して「冷たい」戦争などではなかったのだが――、とりわけ朝鮮半島分断と朝鮮戦争の持つ意味の大きさだろう。李承晩政権を扱った松田報告は言うまでもないが、若林報告でも朝鮮戦争と沖縄とのかかわりが意識され、また佐治報告では、朝鮮戦争が「戦犯裁判」がなされないまま「終結」したことが、日本の戦犯釈放問題にも影響を及ぼしたことが指摘された。この時代に生じた状況が、現在もなお東アジアの政治・社会の状況を強烈に束縛し続けている、ということが、あらためて思い起こされる。

 最後に明田川氏より、アメリカ側がどの程度意図したかどうかはわからないが、リージョナルなレベルで見ると、結果的に韓国は「人」、日本は「基地」をアメリカに提供する体制が出来ていたのではないか、という指摘があったことを付け加えておく。


<第10回研究会の報告>

家電産業の展開と家電製品の普及

― 電気冷蔵庫を中心に ―

西野 肇(静岡大学)

はじめに

 家電産業は代表的な耐久消費財産業として、高度成長のメカニズムにおいて基軸的な位置を占めた。また、「消費革命」、「生活革命」などと称される、当該期の国民生活の変容を象徴する存在でもあった。そこで本報告は、「戦後日本の大衆消費社会」解明の一環として家電産業に着目し、その検討を試みることとする。その際、具体的には個別製品、とりわけ電気冷蔵庫に対象を限定し、 (1) 産業としての発展・確立過程、 (2) 需要側=市場の特質、の両面から検討することを課題とする。対象時期は、高度成長期以前の蓄積を重視して、起点を戦前期(両大戦間期)からとし、需要が大きく落ち込む65年不況直前までとする。主要な論点となるのは、第一に、生産拡大及び普及の要因であり、具体的には技術問題・価格問題の解消過程である。第二に、需要構造=市場の日本的特質への留意である。「家庭電化」はアメリカナイゼーションの一側面として捉え得る反面で、日本独自の要素も普及過程では重要な意味を持ったと考えるからである。

1 歴史的前提

 1920年代半ば以降、米国技術の模倣により日本においても電気冷蔵庫の製品開発が開始された。その結果、1930年前後に芝浦製作所(東芝)・三菱電機・日立製作所の三社は家庭用に適した技術である密閉式コンプレッサの開発に成功し、市販を開始した。その際、各社は製品開発において小型化による低価格化を強く志向したことが特徴であり、これにより普及拡大を図った。だが、戦前期の製品は総じて生産技術、内箱表面処理(琺瑯加工)、冷媒制御、冷媒等に難点を抱えており、未だ完成形態に至らない、言わば過渡的な段階にとどまっていた。こうした技術上の問題が、高価格と並んで製品普及上の阻害要因となっていたのである。

 戦時期の生産中断を経た後、敗戦直後に冷蔵庫需要を創出したのは占領軍であり、およそ2万台程度が家族向け住宅用として求められた。だが、彼らが要求した製品仕様は、コンプレッサ形式(開放式)と内容積(7立方フィート)の二点で日本市場の要求と齟齬があった。従って、占領軍需要が直接日本市場拡大に寄与したわけではなかった。だが、その反面で占領軍から施された技術指導は、各メーカーの技術水準向上に大きく寄与したのである。要するに、戦前・占領期を経ることにより、各メーカーは冷蔵庫の個別要素技術を蓄積したのであり、これが高度成長期の製品普及の重要な条件となっていた。

2 冷蔵庫の普及過程と市場の特質

 占領軍需要の消滅後、51年には2千台を割る水準にまで落ち込んだ冷蔵庫生産は、翌年から拡大傾向に転じた。50年代末からそのテンポはいっそう急速になり、63年には340万台に達したのである。こうした生産=需要拡大の基盤となった日本市場の特質としては、第一に競合製品即ち氷冷蔵庫の存在、第二に製品需要の季節性、そして最も重要な点として第三に、小型(90~114リットル=4立方フィート弱)機種の集中生産、等が指摘できる。小型製品への需要集中は、冷蔵庫に限らず製品普及の初期段階の一般的現象とも言えるが、例えばアメリカとの比較では日本の小型志向はより強いことがうかがえる。

 それではなぜこうした傾向が生じたのか。第一に、制度的側面、即ち物品税の存在である。内容積を基準として税率が二段階に設定されたため、小型機種が相対的に安価なった。第二に、言わば物理的制約条件としての日本家屋・住居の狭隘性である。そして第三に、消費者の冷蔵庫に対する製品認識である。具体的には「冷やす道具」として、食品(とりわけ飲料)の冷却機能そのものが重視されたことである。つまり、当該期の冷蔵庫はテレビ、洗濯機等より奢侈品的性格が強い商品であったが、その用途のためには小型機種で充分だったのである。一方、冷却による食品の保存機能が重視されれば、ある程度の内容積は必要となる。だが、この点に対して日本の消費者はその食料品購買行動(生鮮食品購買頻度の高さ)から関心は希薄であった。冷却機能の重視ということは、製品需要の夏期への偏りをも意味しており、従って、日本市場の第二・第三の特質は相互に関連しているわけである。このような日本市場の特性に適合する製品開発が、メーカーに要請されたのである。

3 冷蔵庫生産の本格的展開

 冷蔵庫普及の端緒となった製品は、日立が52年に発売したEA-33である。これは戦前来の小型化による低価格化の徹底的追求という点がまず第一に重要であり、その際、開発陣のターゲットとなったのが、前述の氷冷蔵庫の価格であった。そのために、小型化に加えて設計・部品等の点で、デザインを敢えて犠牲にしたコスト削減が徹底された。第二に重要なのは、技術面では戦前から蓄積されてきた各要素技術を結集した、冷蔵庫のドミナント・デザイン的役割をも果たしたことである。要するに、EA-33は価格・技術の両面から冷蔵庫普及の契機となったのである。これを受け各社は翌年から一斉に競合する小型機種を開発販売したが、日立は50年代半ば過ぎまで価格競争力上の優位を保った。

 こうした中で各社は価格低下(による優位性獲得)のためのさまざまなコスト低減策を追求した。第一にロータリコンプレッサや吸収式などの新技術の開発であるが、これらは技術不足等からいずれも不調に終わった。第二に、コンプレッサの機種間(大型機種と小型機種)、及び他製品(アイスクリームストッカ、ショーケース等の冷凍機応用製品)との間の共用化であり、基幹部品の量産によるコスト低下である。これはテレビの場合(14型ブラウン管の量産)と類似の事態であるが、ブラウン管ほど単機種に集中したわけではなく、その意味ではテレビのケースよりもその効果ははるかに小さかった。だが、一方で生産規模の小さな初期段階では、一定の有効性が発揮された可能性もある。

 50年代末頃になり、前述のように冷蔵庫需要=生産の拡大テンポが加速されたが、その一方で、各社製品は価格・仕様ともに近接化する傾向が強まった。従って、生産能力の拡張によって、需要拡大に機敏に対応することが各社にとって喫緊の課題となりつつあった。そこで主要3社(中川電機=松下電器の冷蔵庫部門・日立・東芝)をはじめとする各社は、いずれも50年代末から60年代初頭にかけ、大規模な生産設備増強や新工場建設を敢行した。これを通じて冷蔵庫の量産体制は確立したのである。企業間の生産シェアはほぼ生産能力の拡大状況と符合する形で変動し、60年代には中川、東芝が日立を凌駕した。その原動力は中川の藤沢工場、東芝の大阪工場建設であるが、両社はともに既存工場拡張の物理的限界に直面しており、このことが大規模新工場建設による飛躍的な生産能力拡大を促す要因となったと推定される。しかしながら、こうした量産体制の形成が製品価格面に与えた影響は大きくなく、一社当たり年産20万台水準以降、即ち時期的には60年代に入るとほぼ横這いとなった。このことは、前述のように、本格的普及期には価格にかわって生産能力そのものが企業間競争上の焦点となったことを示している。

おわりに

 以上のように、冷蔵庫は生産拡大を遂げ、各世帯に普及していったが、その際、日本独特の市場のあり方が家電産業の特質を刻印していたことを再度確認しておきたい。いわば、「国民生活」に密着した、生活財としての意味の重要性である。なお、こうした市場面に関しては本稿の分析はなお精密化の余地を多分に残しているが、アメリカ市場も含めた上で、この点を今後の課題としてゆきたい。


高度経済成長と生活協同組合

― 横浜生協を事例に ―

及川 英二郎(東京学芸大学)

 本報告は、一九六〇年代の横浜生協を事例に、高度成長下の生活協同組合が、大衆消費社会に適応していくなかで捨象していく宅地造成事業の文脈と意義を考えるものである。

 当該期の横浜生協の活動は、一九五六年に本部が倒産するなど、一連の経営破綻からの回復をもって始まる。すでに別稿で論じたように(「戦後神奈川における生協運動の経験-「労働者」と「婦人」・「在日朝鮮人」をめぐって-」『歴史学研究』七六八、二〇〇二)、ドッジライン以来の経営難を救うために採用された「商店吸収政策」という独特の方針が、徴税攻勢によって破綻するという経緯がそこにはあった。すなわち、免税特権を得るため生協に衣替えする一般商店と、その商店からの上納金を様々な文化活動にあてる横浜生協との連携という、一九五〇年代前半に成立していた共生関係に終止符が打たれ、拡大した事業を生協が維持できなくなったのである。

 経営が破綻する前の一九五〇年代前半、横浜生協では在日朝鮮人の菊田一雄(金台郁)を中心に、員外に開かれた食堂経営や、在日朝鮮人女性と日本人女性との連携など、労働組合とのつながりも持ちながら広範な活動が繰り広げられていた。たしかに、生協に吸収された商店のなかに在日朝鮮人経営の商店が皆無と思われるなど、日本人と在日朝鮮人との間に明確なラインが引かれていたことは事実であるが、当時さまざまな次元で成立していた地域的な連帯に横浜生協が参入しえたことの意義は大きい。その背景には、経営難を克服するにあたって、神戸や灘など主流の生協で採用されていた出資金の増額・組合員意識の強化・員外利用の禁止といった、生協経営の「正常」な方針から距離をおき、貧困層にアピールしたことがあった。高度成長前、人々の間で共有された貧困という現実は、こうした文脈で日本人と在日朝鮮人との連帯を促したのであり、それを支えたのが商店吸収政策だったのである。

 しかし、商店吸収政策が徴税攻勢によって破綻する前後から、横浜生協の周辺では、経営を「正常」化する動きが活発になっていた。そして、一九六〇年代に入って経営を建て直し、やがて優良生協として知事表彰までをも受けるにいたる同生協のその後の軌跡は、大衆消費社会に見事に適応していく過程であると同時に、出資金の増額や員外利用の禁止といった方針を強化することで、貧困層へのこだわりを捨て、それまで成立していたような形での地域的連帯から離脱する過程でもあった。そのなかには、当該期、生活保護を打ち切られる在日朝鮮人など、高度成長の外縁に放置される人々の存在もあったことは銘記されなくてはならない。

 そして、この過程で捨象されていく事業に、生協の活動としてはやや意外な印象を与える宅地造成事業があった。一九六一年、横浜市従や横浜地区労など、労働組合からの要請を受けて着手された同事業は、業者を仲介に戸塚区和泉町(現泉区)の山野を切り開き、宅地用の土地を組合員に、坪あたり八〇〇〇円前後で売却するものであった。同年九月下旬から予約受け付けが開始され、一〇月中旬には第一回分譲契約四七件が成立するなど順調な滑り出しをみせた同事業は、一九六三年六月の第十六回通常総代会では、「宅地造成は第一次で二三二八〇坪を三二〇世帯に、第二次で、約六五〇〇坪を一〇二世帯に、いま第三次計画が同じ戸塚区和泉町で進行途上にあります」と報告されている(『第十六回通常総代会議事録』コープかながわ所蔵、CD-ROM版六〇三頁)。

 このように、当初、明らかに成功をおさめていたはずの宅地造成事業は、その後、金沢区や磯子区など、六〇年代を通して第七次まで取り組まれたが、それらは結局完売できずに失敗し、優良組合となった横浜生協にとっては“お荷物”的な存在にまでなっていく。そのためか、横浜生協が発行する組合史では、一九七二年版の『横浜生協25年のあゆみ』で言及されていた同事業は、後継組合であるかながわ生協の一九八六年版『かながわ生協40周年』では全く言及されていない。事業が失敗した理由については様々な要因があると思われるが、ここではその一端を垣間見るために、同事業の展開と併行して進められた、出資金増額をめぐる議論を検討しておきたい。

 出資金の額については、すでに一九五〇年代前半には、全国水準にあわせて一〇〇円から一〇〇〇円に引き上げようとする動きが顕在化していた。お隣の川崎生協では、一九五四年に次のような意見が寄せられている。

 「川協の場合でも出資金は最低一人一〇〇〇円にしなければ組合員によろこばれるようなほんとうの組合事業はできないわけです。『生活が苦しいからとても出資金が出せない』とよく聞くことですが、生活協同組合はみんなの力をもちよって生活改善の事業をやるものであり、・・・・一ヶ月三〇円づつでも貯金すれば一年で三六〇円になるし三年で一〇八〇円になります。」(『川協ニュース』一九五四・一一・二〇)再建後の横浜生協でも、ほどなくそうした動きが活発になったようであるが、一〇〇円から一〇〇〇円への増額は、たとえそれがすでに全国標準だったとしても、組合員にとって劇的なものであることに変わりはない。例えば一九六一年当時、『神奈川新聞』によれば、大根一本の小売価格は三〇円(三月一四日)、格安アパートの家賃が一〇〇〇~二〇〇〇円(三月七日)。すなわち、一〇〇円から一〇〇〇円への出資金の増額とは、いわば大根三本分の額から家賃一ヶ月分の額ほどの変更を意味したのである。高度成長の恩恵が不均等に浸透するなかで、貧困層を対象に事業展開してきた横浜生協にとって、それが重大な問題であったことはいうまでもない。事実、一九六二年の総代会では、構成団体である労働組合から強い批判が寄せられている。これに対して、増額を積極的に推進したと思われる岩山圭志の回答は次のようなものであった。

 「一口一〇〇〇円でなければ認められない云々は一組合員にとってさほど重要でなく一〇〇〇円出資の価値を認めてこそ出資する気持になる組合員が一〇〇〇円出資よかろうと云うような活動こそ重要である。」(一九六二年七月『第十四回通常総代会議事録』コープかながわ所蔵、CD-ROM版、五二七頁)。

 さきの川崎生協の記事にも、「生活が苦しいからとても出資金が出せない」という批判に対して「生活協同組合はみんなの力をもちよって生活改善の事業をやるもの」という論理があったが、こうした“組合員のためにこそ増額する”、あるいは岩山のように“増額に応じられる組合員を対象にした活動こそが重要である”といった主張が、ある“ごまかし”を含んでいることはいうまでもない。組合員が主役であるはずの生協において、増額できない組合員が、すでにそこでは度外視されているからである。

 結局、出資金増額については一九六三年に定款が変更され、一口一〇〇円を維持したまま、「すべての組合員は出資一〇口に達するまで払込むものとする」といった規定が設けられることで妥結することになる。その間、宅地造成事業を推進した菊田一雄は、一九六二年の総代会で次のように説明している。さきの岩山との温度差に注意したい。

 「一〇〇円が、一度に一〇〇〇円になる。これは大変だと云う具合に受取られているようですが、組合としては徐々に一〇〇〇円に引上げる方針であります。・・・・実際問題としても一口一〇〇〇円で第一回払込み一〇〇円で立派に組合員の資格がある。」(同上)

 すなわち、一九六一年に始まった宅地造成事業は、六三年以降も一〇〇円出資者が利用可能なよう、時間的な猶予をもたせる工夫のもとに継続されたのである。

 その後、出資金に関する定款の規定はしばらく維持されたが、一九七三年に口数が一〇口から二〇口に変更され(CD-ROM版、一三九二頁)、一九七五年に川崎生協を含む近隣五組合が合同してかながわ生協になった後には、「新規加入は引き続き20口2000円ですが、50口5000円以上になるよう出資増口を呼びかけます」といった方針が見られることから(CD-ROM版、一四九〇頁)、一九七〇年代には高度経済成長と歩調を合わせる形で増額されていったようである。その過程で、「第一回払込み一〇〇円で立派に組合員の資格がある」といった方針がどう変容していったかは史料からうかがい知ることはできなかったが、菊田の説明とさきの岩山の説明との温度差からは、こうした出資金増額が、決して高度経済成長にともなう“自然”な増額などではなく、一〇〇〇円出資可能な中流家庭を重視するか、それとも一〇〇円出資者にも資格を認め、宅地造成事業の需要者を下方にまで拡げるかという、組合員の範囲をめぐる選択と不可分であったことが理解されよう。結局、横浜生協の経営は、前者を推進する岩山を中心に小売業に特化する形で整序され、宅地造成事業も“正史”から忘却されることになるが、労働組合からの要請で始まった同事業が、組合員の範囲を中流家庭に上方シフトさせていく圧力のなかで後退していったことは、看過されるべきではない。同事業については、当該期、中流家庭の指向性や宅地造成の地域的な全体状況、労働組合との関係、あるいは菊田一雄の個性など、多面的な角度から分析しなくてはならないが、その可能性や意義を、商店吸収政策の文脈もふまえて再検討することは、一国史的な枠組みを相対化するためにも重要な作業であると思われる。


メディアテクストとしての所得倍増計画

浅岡 隆裕(立正大学)

1 問題の所在 ~ メディアテクストと“高度経済成長の物語”

 本報告は池田勇人内閣によって策定された「所得倍増計画」が,いかに雑誌メディア上で表象・言説化され,変化していったのか,そのロジックの構築・変容過程を中心に考察するものである.その過程をみていくことで,この政策や思想がマス・メディアを媒介にして,どのように社会的に流通し,受容され,最終的に支配的な社会意識ないしは価値観として定着していったのかを検証することができると考えている.

 一般的なイメージとして,日本の「高度経済成長」のメルクマールとしての「所得倍増」という政策は,直接的な受益者としてのサラリーマン層には歓喜を持って受け入れられたとされている.例えば,所得倍増計画の語られ方としては,“10年で所得が二倍というキャッチフレーズのもとに,国民が一致団結した結果として,公約自体はわずか7年で達成され,それは高度経済成長の原動力となった”式の美談として,今では語られることが多い.このように「邁進して行った」といったような形で語られることは果たして本当なのか.当時,所得倍増計画はどのようにメディア言説化がなされ,社会的に受容されたのかという点については,《自明視》されていて問われることがほとんどない.

 本研究の意義としては経済成長を説明するために経済以外のファクターが果たした役割として,社会的コミュニケーション過程の中での“コミュニケーション”という独自の領域に着目している.例えば“所得倍増”というキー・シンボルが果たした役割について,これが国民レベルでの達成すべき目標(=「ナショナル・ゴール」)として掲げられた時に,集合的エネルギーを喚起することがどの程度出来たのだろうか.これはすぐれて社会学や社会心理学分野における研究アジェンダである.

2 メディアテクストを分析するということ

 本報告で使用するメディアテクストとは,メディアによって生成される,「記号間の相互的関係によって意味を表す記号体系のセット」である.「テクストの輪郭とその社会的な意味と価値」は,それが生起する状況 context や他テクストたちとの間に取り結ばれる相互テクスト性 intretextuality の作用を常に受けている.その受け手,読み手における「読み」の過程をも考察対象とし,そのダイナミズム性を問う必要がある.メディアテクスト分析が明らかにするのは,メディア上においてある言説が生成・変容していく時にどのような力学作用が働くのだろうかということがある.赤川は言説の変容に関して「言説空間内部における言説相互の衝突や言説自身がもたらす論理内在的な展開,すなわち言説の力学」を持って説明すべきであると提唱している(赤川,2001).本研究でも言説の変化を説明する際には,国家や資本的権力関係という単純かつ素朴な変数の説明図式は採用しない.また赤川が主張する言説空間内部だけの要因という説明図式にも組みしない.そこには言説空間内外のもっと複雑な様相があると考えるからである.この見方を《相互作用アプローチ》と呼ぶこととする.

 メディア言説の変容は,制作者(=送り手)と読者(=受け手)の相互作用によるものであり,メディアそのものが《社会的な討論過程の場》として機能したものとして捉えられる.メディア誌面そのものが社会的な討論過程であり,なおかつそれは社会的な討論の反映過程となっていると考えられる.このことは,送り手,受け手は相互規定的であるという,雑誌メディア特有の状況の反映である.雑誌の編集・制作は真空の中で行われるのではなく,《作り手の(読者世論を想定した)社会認識》が大きな影響を及ぼすことになるだろう.雑誌は「クラスメディア class media」であり,その特質としては,想定している読み手の意識との乖離が即,販売部数の低下という負のサンクションをもたらす.雑誌の記事がどのように変質していったのかを時系列的に追ってみることで,送り手の認識の変化,のみならず,それに密接に関わる読者という「世論」を想定した上での変容(=受け手の社会認識の変化)を間接的に類推することができるのではないだろうか.

 メディア・コミュニケーションと社会意識の間に「解釈共同体 interpretive community」を媒介概念として思考実験的に置いてみる.この概念自体はもともと文学理論の中で使われ,それをメディア研究の中に輸入された.解釈共同体内部にいる読者個々人の解釈のあり様は,共同体という社会的なシステムの規制を受けるという形で立ち現れてくる.解釈共同体を構成するような特定の社会層の社会意識や社会的価値観は,その社会層が接触している共通のメディア(送り手)との,ある程度長期的な時間幅の中での相互作用過程によって,その輪郭が形作られていくことが容易に想定される.メディアの送り手である制作者集団というコミュニティと,セグメント化された受け手という双方を併せて一つの「解釈共同体」とみなしたい.送り手による記事制作が真空の中で行われるわけではなく,ある程度の制作者とその受け手の文化的共通の「解釈コード」に基づいている.つまり雑誌メディアの特性上,つまりマジョリティとして受け入れやすいロジックを構築し,またそれに共鳴していくそれぞれの主体が解釈共同体を構成している.解釈共同体は,メディア・コミュニケーション上のロジックを一様に変換し,社会意識として醸成するために一つの思想的な基盤として捉えることができる.

3 研究方法の検討

 本研究では,メッセージとして取り上げられ,言及されている内容,及びそのロジックの特質から見ていく.ロジックは,モノのように扱いやすいという利点がある.ある言説が,ポジティブかネガティブかの判断は,言説の結論部分に対する分析者の解釈や判断という要素が強く効いてこようが,ロジックの場合には,論理の構成がモノのように扱われ,処理される.言及されている事柄と,それがどのような論理構造で描かれているのか,という問いが立てられる.通常,文章は多くの内容が盛り込まれるために,複数の言及対象がそこに内包されうるが,雑誌のように批評・論評機能を専らとするメディア特性から,最終的には説得のためのレトリックとして中心的な論点となっているロジックを抽出することができると考えられる.

 個々の記事に関するデータ項目として,政策を形容するために使用された「文体上の選択」,「言及されている政策とサブテーマ」,「政策の有効性に関する評価ロジック」を抽出した.これらの項目に関しては,パンとコシツキ Pan & Kosicki のフレーミング・アナリシス framing analysis を援用している.

 分析の対象期間は,池田勇人内閣が成立する1960年7月から,「国民所得倍増計画」が内閣決定された同年12月から2ヶ月後の1961年2月まで8ヶ月間である.

 サラリーマン(=ホワイトカラー系男性)が高度経済成長という政策を支えた有力な「社会層」と考え,サラリーマン層において多くの読者を抱えていた「週刊朝日」「サンデー毎日」「週刊読売」の三誌で,関連記事を対象として分析を進めた.分析に当たり,池田内閣の「経済政策」に関わる項目を扱っているものを収集し,さらにその中でも所得倍増計画と関連政策に絞り,最終的に分析対象になったのは44本である.

4 メディア言説の分析結果の考察

 1)自明としての社会的合意の成立

 8ヶ月の記事のロジックを単純に言えば,当初は“所得も上がるが物価も同時に上がるので,生活自体はさほど変わるわけではない”というシニカルな姿勢が目立った.物価対策や社会資本整備といった具体的な政策での対応が決定された後は,それを所与のものとした記述スタイルとして“所得倍増で生活がどう変わるのか”という記事形式がマジョリティとなった.

 雑誌記事のスタンスやロジックが,ごく短期間に収斂していった背景には,すでに高い経済成長率が実現し,サラリーマン世帯での所得が実際に増えていたことから,所得が倍増すること自体は,荒唐無稽な話ではないとの,ある種の社会的な合意があったことが推察される.雑誌記事からも「生活革命」や「消費革命」とも言われるような文脈の中で,ポジティブな意味で使われるようになったことは,すでに“自明のもの”と考えられていたことを示唆している.

 経済政策に関しては「二重構造解消政策」「安定成長政策」「高度経済成長政策」という3つのオプションがあった.この三誌に関して言えば,高度経済成長政策に対する批判的なトピックを小出しにしつつも,それに代わる他のオプションを積極的に取り上げ,そのメリットについて言及することはあまりなかった.

 2)“争点ずらし”という議題設定の意味

 雑誌メディアが持つ世論形成機能が活かされなかった側面を見ることもできる.それは大衆行動を起こした安保改定に関して,総選挙で,当然のごとく争点となると予測されていたにもかかわらず,雑誌メディアではあまり大きく扱われなかったということである.

 政権党である自民党は総選挙の争点から「安保問題」を外し,その代りに野党でさえ異を唱えることができずに,その追従を見た高度経済成長政策を争点化した.結果的に自民党にとって総選挙に利する結果となった.安保問題という政治争点から,経済成長という経済争点へ,結果的に《争点ずらし》というメディアの議題設定が機能したと見るべきである.

 3)今後の課題

 経済専門誌「エコノミスト」)での言説の差異,他メディア(新聞)との関係性あるいは差異/受け手との相関関係を見ていく作業が残されている.さらに大きな問題として社会的受容といった問題の残り半分は未だ未検証である.一般の日常生活に基礎付けられた社会思想との連続性について探っていく必要があるだろう.

 引用文献

 赤川学2003 「言説分析とその可能性」『理論と方法』数理社会学会.

 Pan, Z. and Kosicki, G. M. 1993 Framing Analysis Political Communication Vol.10, pp 55-75.


第10回研究会参加記

北山 幸子(立命館大学・院)

 第10回研究会(2005年7月2日)は、「戦後日本の大衆消費社会」を共通テーマとして開催された。報告者と論題は、西野肇氏「家電産業の展開と家電製品の普及-電気冷蔵庫を中心に」、及川英二郎氏「高度経済成長期と生活共同組合-横浜生協を事例に」、浅岡隆裕「メディアテクストとしての所得倍増計画」である。天野正子氏(東京女学館大)と油井大三郎氏(東京大)が、それぞれの報告に対してコメントされた。

 筆者の研究対象は零細小売業である。消費のあり方と関連することから、今回の報告に対して強く惹かれ初めて参加した。報告の印象は、及川氏の報告が大衆消費社会というアプローチから消費者運動論をどのように扱うか、という主催者側の意図とは多少異なっていたようであった。1980年代、零細小売業も参加する小売商団体と生協の間で、対立や規制強化を求める動きがあった。しかし、1950年代前半の横浜生協において、一般商店が生協に名義変更することで所得税を免除される「商店吸収」が行なわれていたことは、及川氏の報告主旨とは外れるかもしれないが、商店経営の興味深い側面であった。

 浅岡氏の報告は、1960~61年のメディアが所得倍増計画をどの様に評価していたかを明らかにするために、「週刊朝日」「サンデー毎日」「週刊読売」の三誌の分析をされた。分析にあたり、抽出したデータ全てに目を通されたことに対しては評価できるが、フロアからの質問にもあったように、この三誌だけで良いのかという疑問をもった。

 筆者が興味を持ったのは西野氏の報告であった。西野氏は大衆消費財としての家電製品である冷蔵庫について、戦前期から1965年までを本報告の分析対象期間として、技術問題・価格問題の解決過程を中心に報告をされた。西野報告によれば、1965年まで冷蔵庫の容量は、85~114リットルの範囲に集中していたとされる。現在では、200リットル未満の冷蔵庫は1~2名用を指し、3~4名家族であれば、300~400リットルが適当な容量とされている。隔世の感である。そして、なぜこのような小型製品であったかの要因として、 (1) 物品税など制度的要因、 (2) 住居の狭隘性、 (3) 消費者の冷蔵庫認識とされる。当時の消費者意識は、冷蔵庫とは「冷やす道具」であり、保存機能への関心の薄さが見られるとのことである。三種の神器といわれた洗濯機、テレビ、冷蔵庫の中でも冷蔵庫の普及は一番遅く、生鮮食品購買頻度の高さなど消費者の購買行動・消費性向の影響が強く現れている。西野氏の報告は、高度成長期の終焉する1973年までは対象期間とされていないが、生鮮食品購買頻度の高い消費行動と零細小売業である魚屋、八百屋など個人商店とが深く結びついていたこと。このような消費行動の変化が零細小売業の衰退要因の一つとされていることなど、筆者の研究と関連していることが興味を持った要因である。西川氏が冷蔵庫普及の契機とされた戦後初(1952年)の家庭用小型冷蔵庫EA-33(日立製)は、95リットルで価格は85,000円である。それが、1970年になると日立の125リットル、電子制御冷蔵庫R-5150Sが75,000円で購入できるようになった(産業技術史資料情報センターHP)。小売と消費の両活動においても冷蔵技術の発展は大きな影響を与えている。

 コメンテーターの天野氏は、家族とジェンダーの視点からコメントをされた。最初に、3報告が天野氏の視点からは「無いものねだり」であったとされ、西野報告には家電製品を受け入れる側の状況分析が必要ではないかと指摘された。家電製品が家庭に入ってきたことでライフスタイルが画一化され一気に中流化が進み、主婦の家事労働時間が減少したという認識が強いが、実際にはそうではないことをご自身の調査研究から述べられた。家電製品の家庭への導入によって、有職主婦では家事労働時間が減少しても、専業主婦では増加しており、主婦内で分化が進んだことが60年代の特徴の一つであるとされる。実証的な研究が重要と認識させられた。

 もう一人のコメンテーターである油井氏は大衆消費社会化を考える場合、大量生産、広告媒体としてのマスメディア、金融システムの変化だけでなく、フォードの経営を例にあげ経営理念の変化・労使関係を取り入れる必要があると指摘されたのが印象深かった。また、大衆消費社会化の与える影響も考える必要があるとされた。

 研究会は報告と討論に5時間以上費やされた。零細小売業のような経済合理性だけでは十分に説明できない存在の意味を明らかにするためには、学際的な視点が必要である。その意味でも筆者にとってこの研究会は大変貴重な時間であった。

 本来、このような参加記は討論の中で明らかになった点や十分でなかった点を記するものにもかかわらず、感想文めいた雑文となってしまった。討論の内容が十分に理解できなかった筆者に大きな原因があるが、大衆消費社会という大きなテーマだけに議論が深まりきれないもどかしさを感じたことも一因である。ただ、一消費者として過ごしていた背後に様々な出来事があったことが明らかにされていく。このような歴史的な研究の面白さを、改めて教えてもらったことを感謝の気持ちを込めて伝えたいと思った次第である。


同時代史学会のあゆみ ― 事務局から ―

浅井 良夫(成城大学)

 本号では、2005年4月から9月までの本学会の歩みを記す。

[研究会]

第10回研究会

共通テーマ「戦後日本の大衆消費社会」2005年7月2日 立教大学池袋キャンパス

報告 西野 肇(静岡大学)「家電産業の展開と家電製品の普及 -電気冷蔵庫を中心に」

   及川英二郎(東京学芸大学)「高度経済成長と生活協同組合 -横浜生協を事例に」

   浅岡 隆裕(立正大学)「メディアテクストとしての所得倍増計画」

コメンテーター 天野 正子(東京女学舘大学)・油井 大三郎(東京大学)

約50名の参加者があり、熱心な議論が展開された。

[ニューズ・レター]

同時代史学会 News Letter 第6号(2005年4月)が刊行された(24ページ)。

[理事会]

第18回(2005年度第5回)理事会(7月2日 立教大学池袋キャンパス 10時~12時)
 今年度大会(一橋大学)の全体テーマについて、大会委員会の原案「東アジア地域統合とナショナリズム」をもとに、討議が行われた。また、ニューズレターに会員の著作の書評をとりあげたらどうかという提案がなされ、了承された。
第19回(2005年度第6回)理事会(9月24日 専修大学神田校舎 13時~17時)
 今年度大会の全体テーマを「日中韓ナショナリズムの相克と東アジア」とし、午後のパネルのテーマを「日中韓ナショナリズムの相克」とすることが決定した。(プログラムの詳細は別掲。)理事・会計幹事の選出方法、学会誌(年報)刊行について討議が行われた。

[大会報告集]

前年度の大会報告を中心とした単行本は、前回と同じ形式で、今年度大会までに刊行する予定。


会計報告

2005年10月10日

会計担当 永江 雅和(専修大学)

1 2004年度会計監査について

 2004年度の会計監査を、6月10日、監査の疋田康行氏に実施して頂き、当該年度の会計が適正に行われたことについて、承認が得られました。

2 2005年度会費納入について

 2005年度会費の振込用紙を10月3日付けで発送しました。会費の納入にご協力お願い申し上げます。また例年より遅れての作業となり、会員各位には大変ご迷惑をかけましたこと、お詫び申し上げます。


 会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2005年度会費の納入をお願い申し上げます。また2004年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。

 会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。

郵便振替口座番号00120-8-169850
加入者名同時代史学会

 なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。

 また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。


同時代史学会2004年12月から2年間の役職者一覧

理事
明田川融(法政大)、浅井良夫(成城大)、天川晃(放送大)、雨宮昭一(茨城大)、荒木田岳(福島大)、有山輝雄(東京経済大)、池田慎太郎(広島市立大)、伊藤正直(東京大)、今泉裕美子(法政大)、岡田彰(拓殖大)、岡本公一(早稲田大)、加藤千香子(横浜国立大)、菊池信輝(一橋大)、黒川みどり(静岡大)、小林知子(福岡教育大)、武居秀樹(都留文科大)、豊下楢彦(関西学院大)、永江雅和(専修大)、中北浩爾(立教大)、中野聡(一橋大)、兵頭淳史(専修大)、平井一臣(鹿児島大)、福永文夫(獨協大)、三宅明正(千葉大)、宮崎章(筑波大附属駒場中高校)、森武麿(一橋大)、安田常雄(国立歴史民俗博物館)、吉次公介(沖縄国際大)
会計監事
疋田康行(立教大)
研究会委員
加藤千香子(横浜国立大/理事兼任)、黒崎輝(立教大)、斉藤伸義(立教大・院)、佐治暁人(立教大・院)、豊田真穂(PDF)、中野聡(一橋大/理事兼任)、永江雅和(専修大/理事兼任)、長谷川亮一(千葉大・院)、松田春香(東京大・院)、吉次公介(沖縄国際大/理事兼任)、和田悠(慶応大・院)

編集後記

 本ニューズレター巻頭でお知らせの通り、今年度の同時代史学会大会テーマは「日中韓ナショナリズムの相剋と東アジア」です。多数のご参加を期待しています…というこの編集後記を書いているまさに今日、小泉純一郎首相が再び靖国神社を参拝、中国の反発により日中外相会談中止、盧武鉉韓国大統領年内訪日見送り示唆、というニュースが次々飛び込んできました。「同時代の中の戦争」をテーマに掲げた創立大会と相前後してイラク戦争がはじまったことを思い出します。またしても実にタイムリーな大会となるようです。多数の参加者を期待できるという点では幸運なことなのでしょうが、何とも……(兵頭淳史)

 ニューズレターも創刊から3年を超え、第7号となりました。今回は書評欄の記載がありませんでしたが、「この本の書評をあの人に」というようなご意見をお寄せ下さい。また<会員から>の欄へのご投稿をぜひお願いいたします。(三宅 明正)

同時代史学会News Letter 第7号
発行日 2005年10月20日
同時代史学会
連絡先:〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20
成城大学経済学部 浅井良夫研究室
Tel/Fax 03-3482-9242  asai@seijo.ac.jp