同時代史学会 News Letter

第8号 (2006年4月) ISSN 1347-7587


韓国における近現代史再検証の動きと同時代史認識

小林 知子(福岡教育大学)

 韓国で近現代史を再検証する動きが、ついに政府レベルでも取り組まれるに至ったことは、すでにご存じのとおりです。昨年には8・15以後、1980年代の軍事政権期までの民衆被害の問題等を包括的に取り扱う「真実・和解のための過去事整理」に関する特別法が制定され、12月にはそれに基づく委員会が設置されました(被害申告件数は本年3月末現在で約2500件、うち1900件が朝鮮戦争下での事例です)。また、日本統治期に関しては、すでに一昨年11月に強制動員被害真相糾明、昨年5月に親日反民族行為真相糾明の委員会活動が始まっています(http://www.gangje.go.krhttp://www.pcic.go.kr:日本語選択可)。

 このような現在は、近現代史を実証的に学術研究することさえ大変な制約があった1980年代までの状況を思うと、私でさえ隔世の感を覚えるほどですが、同時に想起されるのは、こうした特別法制定や関連活動を直接・間接的に担い、精力的に推し進めてきた、韓国の友人・知人研究者たちの姿です。いわばタブー視されてきた問題や被害当事者の体験に向きあい、その解決に尽力してきた多彩な人びとによる問題解決のためのひとつひとつの動きこそが、総じてみれば、既存の歴史認識全般を根幹から問いただす力となっていることが実感されます。こうした近現代史再検証の動きに対しては、韓国内で一部強い抵抗も表明されていますが、いずれにせよ、多くの人びとに、いわば同時代史を意識する機会が生み出されています。具体的な問題を直視し、それに取り組む過程からこそ、同時代史認識は深められ拡げられるのではないか、とあらためて考えさせられます。

 ところで、この近現代史再検証の動きは、本質的には、日本の植民地統治や朝鮮分断の問題はもちろん、戦前来の東アジアそのものの問いなおしを不可避とするものであり、こうした動きの今後は、いわゆる東アジア共同体の展望にも重要な影響を及ぼしうるのではないでしょうか。日本では、昨夏、強制動員被害真相糾明委員会への協力を意識し、各地のNGOや個人を結ぶ「強制動員真相糾明ネットワーク」(http://www.ksyc.jp/sinsou-net)がつくられ、遺骨調査促進等の活動が行われていますが、東アジア規模での同時代史認識は、例えば、こうした取り組みの積みかさねからこそ、培われていくように思われます。


<海外会員から>

中野 聡(在コロンビア大学)

 昨年9月から私は、マンハッタン島の北西部ハーレムに接したコロンビア大学のウェザーヘッド東アジア研究所に、1年間の予定で客員研究員として籍を置いている。国際交流基金とアメリカの社会科学研究評議会(Social Science Research Council)が運営する安倍フェローシップのプログラムから渡航滞在資金の援助を得て、本務校(一橋大学)からは海外研修として承認を受け、アメリカ合衆国からは、いわゆるJ1ビザを交付されての滞在である。とはいえ、東京やマニラに大学の用事やシンポジウムなどが次々と重なって、考えてみればビザなし渡航(90日間)でも構わない頻度で私は太平洋を往復している。せっかくの「留学」なのに興ざめなとは、まったく思っていない。むしろ、混沌とした世界都市マンハッタンでの生活それ自体も含めて、トランスナショナル・ライフを送る現代移民のありさまを疑似体験しているようでもあり、私はひとりで面白がっているのである。

 さて、史資料調査という面では、長年、大学・文書館めぐりをしてきたから、取り立てて目新しい思いをすることはない。むしろ自分が指導する学生・院生を毎年のように留学生としてアメリカに送り出している手前もあり、やはり気になるのはアメリカの大学の仕組み、あり方である。年間3万ドルを超える学費や豊富な外部資金を背景として初めて可能なのであろう図書館機能の充実ぶりや、大学構成員に提供されるサービスの質量に圧倒されることは言うまでもない。我々を受け入れてくれている東アジア研究所所属の教員は、みな忙しそうではあるが、行政負担でノイローゼになっている様子はない。学位をもち専門性をある程度生かしながら大学の管理・行政職に専念するスタッフもいる。授業や研究をサポートする博士後期課程クラスのTA(ティーチング・アシスタント)・RA(リサーチ・アシスタント)を学内で雇用する仕組みの充実ぶりも、とても真似ができない。

 しかし、少し視点をずらせば、今日のアメリカの大学が、終身雇用教員(tenure)・終身雇用候補(tenure-track)教員を、非常勤(adjunct)教員や院生TAが下層労働者として支えている、かなり殺伐とした現実が、すぐに浮かび上がってくる(この場合、非常勤と言っても、日本のようにコマ単位の雇用というよりは、1年単位で常勤職と同様に複数のコマを担当させる、最近使われるようになった言葉で言えば嘱託教員という言葉が当てはまる場合が多い)。事態はかなり深刻である。ここ十数年の間に、多くの大学においてtenure/tenure-trackの全教員に占める比率が急激に低下した(たとえばカリフォルニア州立大学システム全体で、1990年代までは70-75パーセントだったのが、2001年には52パーセントまで低下したという)。教員総数に占める比率がこれだけ急激に低下しているのだから、新規採用におけるtenure/tenure-track枠の激減ぶりは容易に想像できる。同じ若手教員のなかで「勝ち組」と「負け組」が、はっきりと分かれ始めている、と言うこともできる。就職口の絶対数がそもそも少ない日本よりはましだろうという意見が聞こえてきそうだが、本当にそうなのか、よく考える必要がありそうだ。外見では区別できないファカルティーの内部が、とくに若手において階層化していることが、ファカルティーのモラルや授業のあり方に影響を与えることは避けられないからだ。

 F教授とB教授の名を冠したシンポジウムがあり、大学院生として指導を受けた若手中堅で活躍中の教員たちが参集して興味深い先端的な報告が聞けるというので出席した。もちろん大いに勉強になったのだが、びっくりしてしまったのは、F教授のシンポジウムでは報告者のひとりが、またB教授のシンポジウムでは司会者が、話の枕に教授の学恩を語るうち言葉に詰まり嗚咽してしまったということだ。あれえ、アメリカってこんなところだったの?と薄情者の私はすっかり感心してしまったのだが、落ち着いてその発言と嗚咽の瞬間を記憶の中で反芻してみると、それらは、人格識見ともに優れた教授たちの学恩に対するものであるとともに、いや実はそれ以上に、自分たち自身の、大学院時代の、心身共にトラウマティックなまでに苛酷な日々をふり返っての嗚咽であったことに気がついた。厳しさを増すアメリカの大学の雇用環境を重ね合わせると、なるほどと思わせる光景であった。

 コロンビア大学と対角線上のマンハッタン島南東部、ビレッジに接するニューヨーク大学は、院生組合が私学では唯一の団体交渉権をもつ組織化に成功した事例として注目されていたが、いよいよ大学当局が本格的な組合潰しに動いて、昨年11月、院生組合がストライキに突入した。数百の授業が休講となり、さらに数百の講義が大学当局に対する抗議の意思表示としてキャンパス外で行われ、地元では大きなニュースになった。ストライキは百日以上たっても収拾されていない。この事件も、アメリカの大学がいかにTAに依存しているかを示したし、ストライキに協賛する全米の院生・教員の署名運動の盛り上がりぶりは、院生組合をもてない他の大多数の大学の院生や、良心的な教員たちの、大学の雇用の現状と将来に対する不満と不安がいかに強いかを示した。

 アメリカ有力大学を偶像視した大学改革が延々と続く日本だが、客人として身を寄せるキャンパスの心地よさに浮かれて、この殺伐とした現状を見逃さない方が良さそうである。まだ考えたくはない未来だが、私がやがて退職でもするときに、かつて院生として指導した、あるいは留学生として送り出した教員が万一思わず嗚咽したとしても、生来の薄情者であることに加えて、こんな大学事情を知ってしまったからには、私は決して素直には喜ばないだろうと思うのである。


<書評と紹介>

 長野県現代史研究会編『戦争と民衆の現代史』

(現代史料出版、2005年)

札幌女性史研究会編『女性史研究ほっかいどう』第2号

(札幌女性史研究会、2005年)

浅井 良夫(成城大学)

 本学会の会員が関係する地方史の研究会から、最近出版された2冊の本を紹介したい。

 最初の長野県現代史研究会編『戦争と民衆の現代史』を刊行した長野県現代史研究会は、1997年12月に松本市に設立され、2005年末までに34回の研究会を開催してきた。本書は、戦時下に関する3本の論文と、占領・戦後に関する6本の論文で構成されおり、総頁数225頁である。論文名を紹介しておくと、戦前に関しては、小林信介「満州移民史研究の現状と課題」、三輪泰史「菊池謙一の歴史思想」、渡辺知弘「清沢洌論」、占領・戦後に関しては、荒敬「戦後占領初期における長野県と軍政部」、大串潤児「戦後地域女子青年団運動の思想と行動」、松田圭介「長野県下の平和運動 - 浅間山米軍演習地化反対運動」、島本浩樹「結成当初、長野県評の運動と地域連帯」、瀬畑源「明仁皇太子・美智子妃と軽井沢」、坂本敦「えんぴつを持った女性たち - 下伊那の生活記録運動」が掲載されている。

 もう一方の、『ほっかいどう女性史研究』第2号を出版した札幌女性史研究会は、かなり歴史が古く1981年11月に設立された。本書は、2003年刊行の創刊号に続く第2号目であり、全部で221頁である。「特集・戦後60年を考える」として、中村一枝「1945・8・15 14歳の私 - 私の受けた戦中・戦後の教育から」、高畑イク(西田秀子解説)「<戦時体制>下の修学旅行 - 昭和14年 滝川高女」、本田明子「長兄のこと - 戦後60年に」、西田秀子「ある戦後緊急開拓史 - 江別市・新野幌部落のこと」が収められている。また、小特集「“国際婦人年”から30年」として、林恒子「戦後北海道女性政策の総括 - 「国際婦人年」から30年に立って」と、橋本順子「女性と自立 - 高校生がうけとめた<25歳論>1978、92」の2本を掲載している。さらに、寄稿1本、鷲沢セツ「20世紀から21世紀へ 『遥かなる彼方』物語」、研究ノート3本、岸伸子「1920年代の農民運動を闘った女性像 - 重井しげ子を中心として」、中村一枝「ミス・ブライアントの平取におけるアイヌ民族への伝道(2)-1911~1922年」、遠藤昌子「ハイデルバーグ大学日本校教育修士号課程 日本人成人女性の学びの機会」、伝記1本、斉藤道子「心は常に“今”にある - 祖母 斉藤ハクの歴史(2)」と盛りだくさんである。

 なお、創刊号では、戦時下の炭鉱地帯における朝鮮人「労務慰安婦」問題、占領期チトセ基地の売春問題などが取り上げられている。

 紙面の制約で、目次の紹介に終わってしまったが、両書とも地方史研究会ならではの貴重な史実を発掘しており、大変に興味深かった。後者が聞き語り的・体験記的であるのに対して、前者が対象から距離を置いた叙述であるのは、おそらく執筆者の世代の違いを反映しているのだろう。


<第11回研究会の報告>

戦後旧軍人集団の特質

木村 卓滋(一橋大学・院)

はじめに

 戦後旧軍人を中心として組織された集団はその活動目的などを基準として次の三種に分類することができる。第一は、集団の活動目的を、主として慰霊祭の開催、会員間の親睦などに限定する集団であり、いわゆる戦友会がこれにあたる。第二は、靖国神社国家護持や軍人恩給の増額といった、主として政治的要求実現を目的とした組織であり、旧軍人関係恩給権擁護全国連盟(以下軍恩連、1952年結成)や日本郷友連盟(以下郷友連、1955年結成)のような、旧軍人による大規模な全国組織である。第三は、第一と第二の分類の性格が混在した組織であり、具体的には旧陸軍正規将校による組織である偕行社(1952年結成)などがこれにあたる。

 こうした旧軍人による集団に関するこれまでの研究は、第一の分類にあたる戦友会、第二の分類における郷友連を中心になされてきた。そして戦友会については、数多くの戦友会が戦後活動を行うにあたって戦友会以外の社会を外集団とみなし、外部社会との間に明確な隔たりを置く姿勢を重視してきたという戦友会の閉鎖性が、また郷友連については、その愛国主義や国防思想を普及する活動のあり方や、そこから生じる郷友連運動の大衆性の無さ、さらには旧軍人達の間においてさえもこうした活動が支持を得るのが困難であったことが明らかにされている。これに対して本稿では、第二の分類の中でも、軍恩連の活動に焦点を当て、戦後政治に対する旧軍人集団の持った政治的影響力という問題を、また第三の分類の偕行社の活動を分析することにより、戦後旧軍人集団が抱えた葛藤を明らかにしたい。

一 軍恩連と軍人恩給

 軍人恩給は1953年に復活して以降毎年のように改正され、その支給金額の増額、支給範囲の拡大を果たしてきたが、この背景には軍恩連などの激しい圧力活動があった。この点で軍恩連は、他の旧軍人集団と比較すると、政治的圧力団体として最も影響力を発揮した集団であるといってよい。軍人恩給は、金銭給付という現実味の強い問題であったこと、また郷友連が活動目的として掲げていた自主憲法の制定や靖国神社国家護持といった戦後社会に厳しい対立を引き起こすようなイデオロギー性を持っていなかったこと、さらに一種の雇用契約であるという軍人恩給の性質は、旧軍人が恩給を受給することを正当化するものを持っていたことなどのために、軍人恩給問題や軍恩連の活動は旧軍人の間でも幅広い支持を受けていたと考えられる。

 1953年に軍人恩給が復活することにより、旧軍人に対する恩給支給が再開されることとなったが、前年に成立した戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定経過やその後の軍人恩給の改定過程、さらには復活した軍人恩給の給付内容から明らかなことは、戦後「国との特別な身分関係にあった者」に対する金銭給付は、戦没者遺族に最大の優先順位が置かれていたこと、また生存軍人の中でも、将校よりも兵士であった者に対する配慮が強く働いていたことである。さらに軍人恩給の支給実態を見ると、軍人恩給受給者のおよそ7割が戦没者遺族であったこと、また階級別に見てみると生存軍人受給者のほぼ8割が下士官、兵といったかつての軍にあっては下位に属する軍人であった。このことからは、軍人恩給は実態としても戦没者遺族や下級軍人を対象とした制度であったこと、また軍人恩給の改正を目指す軍恩連による運動が、かつて下士官、兵であった者によって担われていたことが推測できる。

 軍恩連が重視したのは恩給理論と軍人恩給の支給実態であった。すなわち、軍人恩給は、その支給を前提として就官等がなされたのであるから、一種の雇用契約であり、恩給の受給は国家によって保障された正当な権利であるとする恩給理論と、軍人恩給はどちらかといえば生存軍人よりも戦没者遺族の救済を目的とした制度であることを強調することにより、軍人恩給に対する支持を調達しようとしていた。しかし軍人恩給に対しては恩給費の突出が国家財政を圧迫するとの批判が強く、そのため軍恩連の運動は、自らの権利ばかりを主張する利己的圧力団体であるとの批判をたびたび受けることとなったのである。

二 偕行社に見る戦後旧軍人集団の特質

 偕行社は会員間の親睦を会の活動の中で重要な役割を占めている点で戦友会的性格を持つと同時に、会員の多くが、旧陸軍の伝統を継承する正統派の集団としてのプライドを有しているという点で第二の分類の性格をも強く持った組織である。偕行社は1951年12月、「市ヶ谷同窓懇談会」として出発した(1952年には偕行会、57年には偕行社へと名称変更)。1952年の偕行会発足時には、会員間の相互親睦、扶助を優先し、特定の政党、その他の団体を支持、反対はしないこと、選挙において特定の候補者を支持、あるいは反対しないことを会の方針として決定していた。この背景には、当時偕行社は旧軍復活を目指す元陸軍将校をまとめ上げる集団として強い警戒心を持って受け止められたこと、また会員内部でもかつての戦争の評価や偕行社の政治集団化に対しては大きな意見対立があったこと、そして戦後の旧軍に対する反発の強さは、会員間でも政治的話題や行動をタブー視する空気が強かったことがある。そのため結成以後たびたび偕行会内部には組織を郷友連のような政治集団にすべきだとの意見が出されるが、その都度会員間の相互親睦主義優先を確認することでこうした意見を斥けてきた。

 1982年の教科書問題に端を発した南京事件論争は、それまでの偕行社のあり方に大きな変質をせまるものであった。偕行社は『偕行』1984年4月号以降「証言による『南京戦史』」を連載し、南京攻略戦に参戦した会員の証言に基づき、南京事件を再構成しようとした。この連載は、南京攻略戦において日本軍による不法行為が無かったことを証明しようとする目的で開始されたが、当初の意図とは裏腹に、捕虜の虐殺を行った、あるいは虐殺された死体を目撃したといった証言が続出した。その結果『偕行』1985年3月号の「証言による南京戦史 その総括的考察」では、南京事件における日本軍の蛮行を中国国民に対して謝罪することとなった。この「証言による『南京戦史』」は、極めて論争的な南京事件という問題をめぐる中国や日本国内の議論に一石を投じようとした点で、また「総括的考察」において中国国民に対して謝罪を行ったという点で、それまでの偕行社の抑制的な姿勢とは大きく異なるものであった。

 また1994年3月から翌年の3月まで延べ14回行われた「対談集会」は、偕行社の母体組織である旧陸軍を批判的にとらえ直そうとする試みであった。この対談では、今日の偕行社は「自分たちの先輩の罪は罪として認めざるを得ない」として旧陸軍の指導層を痛烈に批判した。「対談集会」の記録は、「わが人生に悔いあり」という題名で『偕行』1995年8月号以降に連載される予定であったが、わずか一回のみで打ち切りとなってしまった。このことは、この対談に対する偕行社内部における賛否両論の激しさが窺えるが、他方でこうした企画が実現した背景には、偕行社の運営の中心が若い世代の元陸軍将校に移り、比較的余裕を持ってかつての軍を眺めることが出来るようになったことが考えられる。

おわりに

 戦後社会における旧軍に対する反発や警戒心の強さは旧軍人による集団のあり方やその活動を大きく規定したといえる。それは例えば一方での戦友会のように戦後社会に背を向けた形で活動を行う集団のあり方や、他方での郷友連のように戦後社会に対する反発をむき出しにした活動を行う集団のあり方に表れている。そしてこうしたあり方には、組織を支える旧軍人のかつての戦争や戦後社会に対するスタンスをめぐる意志統一が極めて困難であったという事情が影響していると考えられる。そのことは例えば50年代初頭の偕行社内部におけるかつての戦争をめぐる議論の激しさや、1980年代に至るまでの会員間の親睦優先という抑制的な姿勢に見て取れる。一方軍恩連による活動は、軍人恩給の増額という組織目的ゆえに、旧軍人からの幅広い支持を得ることに成功し、恩給の増額といった目的も一定程度達成した。しかし復活した軍人恩給は常に厳しい批判にさらされ、そのことが制度そのものにも抑制を与えたこと、さらには軍恩連が主張する軍人恩給受給の正当性が理解を得られなかったという点で、軍恩連の活動も戦後社会に大きく規定されていたといえる。


戦後広島市の「復興」と被爆者の視点

-『中国新聞』の記事を史料として-

桐谷 多恵子(法政大学・院)

 戦後広島市の復興がはらんだ問題を、被爆者が抱いた違和感に基づく批判に焦点を据えて、1946年から1950年にわたる8月6日の行事を報じた『中国新聞』の記事を一次史料に用いて論じた。報告者がこのように考察の対象時期を限定したのは、この5年間が、被爆者が最も肉体的・精神的に行政当局の支援を必要としたにも関わらず、占領軍のプレスコードによって被害を訴えることができず、日本政府も急速な戦後日本復興を唱えながら、被爆者への医療面や生活面での援護を行わなかった時期であることによる。

 先行研究に当たるものとして、報告者は、主に二つの文献を取り上げ、広島市編纂の市史は市の復興過程について網羅的ではあるものの、被爆者の立場との緊張関係への目配りを欠いた行政側からの記述になっていること、宇吹暁の労作『平和記念の歩み』は、復興行事の概史を纏めて問題の所在に関して有益であるが、被爆者の違和感に関してその歴史的与件に基づく考察がとくにはなされてはいない、と指摘した。

 報告者はまず、被爆者の「違和感」を念頭に置きつつも、行政側の市史などを参考に、被爆後の広島市の「復興」の軌跡を概観した。市は「復興」の資金繰りに没頭し、広島市長浜井信三や同市会議員らは政府に補助金を要望したが、その結果、広島市に限った「原爆都市」復興の国庫負担が認められ、「広島平和記念都市建設法」が制定された。こうした状況下に一市民の柿原政一の訴えで、復興事業の前提としてまず原爆死者の供養をすることになり、中島の慈仙寺の鼻に「戦災死没者霊供養塔」が建立された。「広島平和記念都市建設法」の制定によって、国または地方公共団体は、広島を「平和記念都市」として建設するための特別な援助を義務づけられ、長崎市ともども補助金が支給された。だが、そこから生まれたものが、「大広島建設」をうたったモニュメントなどの構築であり、「復興」が市民の暮らし、生活空間を基にした「復興」と隔たりのある建造物などであった事実は否めない。

 以上を背景に、報告者は、『中国新聞』の8月6日行事関連記事から、次のような、状況の時系列的変化を読み取った。

 1946年、市は市民の声に応じて、平和復興祭の開催を準備、8月5日に、護国神社跡(現広島球場付近)に、広島市町会連盟主催による広島市平和復興市民大会が開かれ、7000人が参加した。しかし、GHQ、呉地方軍政部の許可を受け、「反米的言動」の一切禁止等監視下に行われ、報道する新聞論調にも、「アトミック・デー」、「原子力の平和利用」等々の記事が目立ち、被爆1年後の被爆者の厳しい生活や原爆症に苦しむ様子は削り落とされていた。

 1947年、民選市長浜井信三による「広島市を世界平和実現の原点にする」という構想が立ち、8月6日に慈仙寺の鼻に新設の木造平和塔を中心に平和祭が開催され、以後これを毎年の慣例とすることになった。しかし、記事見出しには、前年と比してかわりばえはなく、外来客による「平和音頭」などのお祭騒ぎの風景が目立ち、被爆者の心情や声は読み取れず、被爆後2年の歳月の流れがあるというのに、現実の復興の遅れと記事の内容の懸隔が目立つのが、1947年の特徴と感じられた。

 1948年は、前年に決定を引き継いで同じ平和広場で平和記念式典が開かれ、初めて浜井市長による「平和宣言」が読み上げられた。これは、現在の平和慰霊式典の原型となった。新聞記事には、谷本清牧師の提唱になる「ノー・モア・ヒロシマズ」の標語、「原子力時代」、「原爆名所13景」、式典に参加した英連邦司令官ロバートソンの「報復」メッセージなど、奇妙な取り合わせが目立つ。

 1949年の平和式典は、前年と異なり、市民広場の児童文化会館で、開催、5月に第5回国会衆参両院で満場一致可決をみた「広島平和記念都市建設法案」の記念行事を兼ねて、内外から参列者を集めて開かれた。新聞報道を見ると、この年に初めて、被爆者の平和式典にたいする違和感が、「物足りない」、「第三者のお祭騒ぎだ」、「一日でも原爆者を楽しませるプランを」などの思いの告白のかたちで紹介され、被爆者の声をとり上げる欄も設けられている。

 1950年は、原爆禁止を呼びかけたストックホルムアピールを支持する署名運動が進むという世界情勢を受けて、広島市は、6月には第4回平和祭の計画案を作成し、また県や市も含めて平和擁護大会が開かれる予定であった。ところが、式典の4日前に、広島平和協会常任委員会が「(中国地方)民事部ならびに国警本部県管区本部長、市警本部長との交渉」の結果、平和祭を注視すると決定、広島市も平和式典への協力を辞退、8月6日の行事は、一切禁止された。新聞は「北鮮軍のいわれなき侵略」を非難し、「静かな祈り」や「お祭騒ぎ」を指弾する記事に満ちあふれていた。

 次に市史などの叙述や『中国新聞』の記事を補完する作業として、被爆前から広島市で生活をしていた被爆者が被爆後の生活の中で、広島市からどのような処遇を受けたのかを語る資料を実際の証言や手記などから取り上げ、被爆者が8月6日の諸行事や「復興」に対して抱いた「違和感」を示した。以下被爆者との面接の際に当時の状況や生活を背景に発せられた言葉の一部を紹介したい。「(被爆1年後に)『復興祭』というもの自体が開かれていたことすら知らなかった。とにかく、大変だったんですよ。」、「被爆の1、2年後は各町内会の至るところで慰霊祭は行われていましたけど、『復興祭』なんて行われていたんですか?」、「一女(広島市立第一高等女学校)の慰霊祭など、それぞれのひとが自分が当時通っていた学校ですとか、関係するところの慰霊祭に出ていましたよ。」

 これら被爆者の証言からは、被爆1年後広島では通常の生活自体が送れる状況ではなかったことが窺われる。被爆者の日常生活において「8・6」の「復興祭」などの諸行事に関する情報は浸透してはいなかったか、あるいは情報があっても記憶にとどめるものではなかったのではないだろうか。

 被爆者の「復興」に対する「違和感」については、被爆者である吉川清『「原爆一号」といわれて』に詳しい。吉川の証言は、この時期の緒事実をさらに明らかにする中で裏付けてゆく必要があるものの、本稿で明らかにしてきたことと関連する内容である。つまり、「広島平和記念都市建設法」は被爆者のための法律とは言えず、「広島市」の建設的な「復興」が目的であり、被爆者への援護は行われなかったこと、また、被爆者の視点から書かれた戦後史においては、広島市史では言及されていない生活苦や放射能被害による精神的・人体的な痛手が赤裸々に告白されている。また吉川は、「朝鮮戦争がはじまると、平和は危険思想となった。8月6日は祈りの日とされ、一切の平和と名のつく集会は禁止された。」、「警察は、県下の警察を動員して、8月6日の集会禁止にむけて厳重警戒体制をしいた。」と1950年の平和式典取りやめの光景を記している。吉川が記す「警官包囲の中で勇敢にも平和集会」を行った被爆者の峠三吉は、その時の様子を以下のように詩で表している。「市長が平和メッセージを風に流した平和祭は 線香花火のように踏み消され 公園会、音楽会、ユネスコ集会、すべての祭りが禁止され 武装と私服の警官に占領されたヒロシマ」。このような峠の詩による1950年8月6日の様子の「告発」から、被爆者の平和祭への強い思い入れが読み取れる。これは当初「お祭り騒ぎ」と非難されていた平和祭が徐々に被爆者の思いも汲み込まれるものへと変化していったことを示しているのではないだろうか。しかし、漸く芽生えて来た被爆者の願う被爆者の参加できる平和祭が、平和運動は共産主義と繋がっているというアメリカ占領軍の見解によって警戒されることで、取り止めとなったのである。

 報告では、原爆攻撃を受けた広島市が強調する「奇跡の復興」にたいして、被爆者が「違和感」を表明してきた事実と内容を明らかにし、それら「違和感」を当時のアメリカ占領軍、広島市の追悼などの諸行事や都市復興事業の中で分析することで、広島の「復興」について再考することを試みた。その結果、広島市が意図し、実施した「復興」と、被爆後の原子野に留まり住み続けた被爆者が描き望んだ「復興」とは、必ずしも一致しなかったという事実が浮かび上がった。本報告で見てきた戦後の広島は、被爆者にとって被爆者不在の新たな「大広島の建設」という見方を生じさせる面があった。本報告で検閲の資料について貴重なアドバイスを頂き、また被爆者の「原風景」を明確に示す必要性など議論のやり取りの中で再確認した。今後はそれらのアドバイスをもとに実際に検閲された被爆者の声を丁寧に集め、緒事実や「復興」を巡って被爆者が抱えた問題を広島市の公文書館所蔵の史料を検討することで裏付けてゆきたい。更に、広島の「復興」をめぐる諸問題は、長崎にも存在していたのではないかと考えられる。したがって、長崎についても同じ作業を行い、今後の研究では、様々な資料を検討し、問題を巡る諸条件の証言などを付き合わせて行く中で、被爆長崎の戦後「復興」をも再構成したいと考えている。


「在外被爆者」の形成過程

川口 悠子(東京大学・院)

 戦後日本社会において、広島・長崎の原爆被爆者は、アジア太平洋戦争の被害のナショナルなシンボルであった。だが、その大多数を占める「日本人のエスニシティを持ち、日本に居住する被爆者」以外の被爆者(本報告では「マイノリティ被爆者」と総称した)の存在は充分に認識されてこなかった。日本のメディアがこれらの人々について報道する際、かつてはさまざまな呼称が混在していたが、現在では「在外被爆者」という呼称がほぼ定着している。特定の対象に対する呼称が、その対象に対する認識枠組と密接に関係していることを考えると、この呼称の変化は注目に値する。しかし、先行研究はマイノリティ被爆者運動の側から書かれたものが多いため、運動論にとどまりがちで、日本政府やメディアが、マイノリティ被爆者を日本というネイションとの関連でどのように認識してきたのかを掘り下げて議論するには至らないことが多い。本報告ではこの点について、マイノリティ被爆者問題の歴史的経過を中心に、そうした経過を新聞が報道する際に用いられた呼称にも留意して考察した。

 なお、マイノリティ被爆者のうち、朝鮮半島出身の被爆者を本報告では「コリアン被爆者」と呼んだ。コリアン被爆者はマイノリティ被爆者の中でもっとも多く、全被爆者数の約一割にのぼる約七万人を占め、うち約四万人が死亡したと推定されており、現在韓国・北朝鮮・日本でそれぞれ約二千三百人、千三百人、千九百人が確認されている。また、二本人・日系人の被爆者も北米で約千人、ブラジルを中心とする南米で百六十二人がそれぞれの被爆者協会に登録している。しかしいずれも実数は不明であり、このこと自体がマイノリティ被爆者の周縁性を如実に示している。

 マイノリティ被爆者問題についてまず押さえておきたいのは、被爆者援護の諸法律、すなわち1957年の「原子爆弾被爆者の医療などに関する法律」と1968年の「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」の「原爆二法」、両者を一本化した1994年の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に国籍条項がないことである。このことは戦争被害者援護法・社会保障法の中では極めて例外的であり、後述するようにマイノリティ被爆者の処遇について決定的な要素となった。ただし、国籍条項がなくても在日コリアンの被爆者はその運用から差別されてきたと言われている。

 マイノリティ被爆者のなかでは、在韓被爆者問題が最も早く1960年代に浮上してきた。1965年の日韓基本条約などで、戦後補償がなされないまま請求権問題は解決されたと定められたことが在韓被爆者を失望させ、1966年に在韓被爆者組織が設立されるきっかけとなった。このころ、日本国内でも、被爆者が韓国にもいることが知られ始めてきた。

 マイノリティ被爆者問題の基本的構図は1960年代末に形成された。原爆二法の運用に当たり、日本政府は地理的な国境の内/外によって被爆者を区分したのである。1969年には厚生省が、原爆二法は社会保障法なので日本国内に定住している者のみが適用対象であり、一時来日した在韓被爆者には適用されないという国会答弁をした。これに対し、1972年には在韓被爆者の孫振斗が原爆二法の適用を求めて提訴し、地裁・高裁・最高裁ともに勝訴した。ここでの司法判断は、原爆二法は国家補償的性格を持つため、国外居住者であっても来日すれば被爆者手帳の交付と医療・財政的手当の受給は可能というものだった。だが、行政側は地裁判決が出された直後の1974年に、一度手帳交付・手当受給を受けても出国するとそれらは無効となるという、国外のマイノリティ被爆者に対する原爆二法の適用を事実上不可能とする「第402号通達」を出していた。

 とはいえ、在韓被爆者が原爆二法の適用から排除されていた理由が、本質的にはエスニシティや国籍にあった可能性は非常に高い。すなわち、この時期には日本人のエスニシティや国籍を持ちつつ日本国外に居住する在米・在ブラジル被爆者の存在が顕在化していなかったため、地理的な国境はエスニシティおよび国籍上の境界と一致すると想定されたと考えられるのである。またこの頃、戦争被害者援護法や社会保障法はほぼ全てが国籍条項を有していたため、日本国籍を持たない在韓被爆者を原爆二法の適用対象としないことが不自然と思われなかったとも推測される。ただしこの点については逆に、なぜ原爆二法には国籍条項を設けなかったのかという疑問が生じ、とりわけ、日本国籍を持たない在日コリアンの被爆者が少なからず存在したことが問題を複雑化させる。しかし現時点では二法の制定過程が明らかになっていないため、この疑問に答えることは困難である。

 1980年代には在米・在ブラジル被爆者の存在が浮上したが、日本政府は引き続き原爆二法の運用に際して地理的な国境のみを基準とする姿勢を維持し、それによってさまざまなマイノリティ被爆者を「在外」として一括する概念の形成に寄与した。在米被爆者は日本人のエスニシティをもっており、在ブラジル被爆者の多くはそれに加えて日本国籍を保持していたが、両者とも原爆二法の適用対象外とされたのである。しかし、マイノリティ被爆者問題全体を見渡すと、エスニシティや国籍がまったく問題ではなかったわけではない。そのことは、後述するマイノリティ被爆者の呼称に表れている。また、在日コリアンの被爆者は、日本国内に居住しているため文言上は原爆二法の適用対象であったにもかかわらず、運用によって適用から排除されてきたケースが多かった。おそらく、在米被爆者・在ブラジル被爆者への対応が問題となったのが第402号通達を発した後であったため、在韓被爆者を想定した通達を、両者に対しいわば適用「せざるを得なかった」のではないだろうか。また、1980年代には法的な内外人差別が問題視されるようになっており、在韓被爆者を原爆二法の適用対象外としながら在米・在ブラジル被爆者を適用対象とすることが問題となるのは明らかだったことも一因であろう。

 1990年代半ばからは、被爆者の側も「在外」というカテゴリーを利用し始め、「在外被爆者」という単語が頻繁に使われるようになった。それまで国別に組織されていたマイノリティ被爆者の団体と、日本の被爆者組織である被団協とが連帯して運動を進めるという大きな変化が見られたためである。こうした変化が生まれた背景には、1990年代初めから過酷被爆者の個人・地域レベルでの被爆者の交流が増加したこと、被爆者援護法制定後の新たな運動戦略が必要とされたこと、また冷戦構造の崩壊・戦後50周年を迎え、戦後責任を問う声が高まったこと、などが挙げられる。さらに行政に批判的な司法判断も変化を加速させた。

 最後に、『朝日新聞』の記事・見出しデータベースから、マイノリティ被爆者に対する呼称の変化を分析したい。在韓被爆者の存在が最初に浮上した1965年代半ばには、「韓国にも原爆被爆者」「被爆の韓国人女性」など、さまざまな呼称が混在していた。その後、1970年代から90年代半ばごろまでは、エスニシティを中心とした認識枠組が存在していた。すなわちコリアン被爆者に対してはおもに「朝鮮人被爆者」「韓国人被爆者」とエスニシティ・国籍による呼称が用いられ、対して「在米被爆者」「在ブラジル被爆者」には居住地による呼称が用いられていたのである。このことは、前者は「日本人」ではなく、後者は日本国外に居住し、日本国籍を持たないことがあっても「日本人」であるという認識を示していると言えよう。また包括的な呼称としては、「日本人」ではない在韓被爆者が問題の中心だったことから「外国人被爆者」が用いられていた。そして1990年代半ば以降にマイノリティ被爆者運動が連帯し、認識枠組も変化したことは、1995年ごろからエスニシティを問わない「在外被爆者」が用いられる頻度が急増し、2000年代にはほぼ定着したことにも現れている。コリアン被爆者についても居住地を基準とした「在韓被爆者」がかなり定着している。

 以上のように、当初はマイノリティ被爆者問題の中心が在韓被爆者だったことから、日本政府はエスニシティや国籍を含意しつつも、公式には地理的な国境の外部にいる被爆者を排除する政策を取った。一方でマイノリティ被爆者側も1990年代半ば以降、このことを逆手にとって「在外」であることを軸に連帯し、運動を大きく進展させた。このように、「在外被爆者」という認識枠組は、元は日本政府の排外的政策から生じたとはいえ、原爆被害を日本のエスニックおよび地理的な境界の外にも広げていく契機となっており、原爆被害を日本のナショナル・ヒストリーの中に位置づける言説を批判するためにも重要である。ただし、「在外」と一括りにすることで、そこに含まれる各被爆者集団が持つ背景が捨象されてしまうことには留意すべきである。とりわけコリアン被爆者の場合には、日本の植民地支配の結果広島・長崎に渡り、あるいは連行され、被爆することとなったという歴史や、「在日」の朝鮮人被爆者が存在する点を忘れてはならない。

 とはいえ、現実的には高齢化した被爆者に対し充分な援護をすることが急務であり、「在外被爆者」として連帯することで、1990年代半ば以降にマイノリティ被爆者の運動が大きく進展したことはやはり高く評価すべきである。今後いっそうの援護・補償がなされること、さらに他の戦争被害についても国境を越えた連帯が可能になることが待たれる。


第11回研究会参加記

八木 良広(慶應義塾大学・院)

 同時代史学会第11回研究会は「戦後史の中の〈戦争体験〉」というテーマの下開催された。報告者及び題目は、木村卓滋氏「戦後旧軍人集団の特質」、桐谷多恵子氏「戦後広島市の「復興」と被爆者の視点-『中国新聞』の記事を史料として-」、川口悠子氏「“在外被爆者”の形成過程」、コメンテーターは浜日出夫氏であった。私は専ら社会学の研究に多く触れてきた。前例に倣うならばこの参加記でも歴史学的観点からコメントすべきであろうがそれは手に余ることであるため、ここでは社会学的思考に馴染みのある者として印象に残った点や気になった点について記していきたい。

 「同時代史」をどのように捉えるか。『同時代史学会News Letter第4号』掲載の田中幸一氏の「私にとっての同時代史研究とは」を参照すると、研究主体と研究対象は各々独立した存在ではなく相互に形成しあう関係にあることがその特徴の一つとしてある。今回のテーマに即せば、戦争体験世代と戦無派世代(同一ではないもののその内の一つとしてあるのが、被爆者と非被爆者)の関係として捉えられる。ヒロシマ・ナガサキを主題とする場合には近年被爆体験の継承が声高に叫ばれいかに継承していくかが問われているが、これは継承の内容と方法の問題が未解決であることを示している。つまりその解決に取り組む場合問題感覚と問題認識の中身が問われるのである。これは少なからず研究者にも当てはまる。戦無派世代の研究主体(報告者)は、いかなる問題感覚と問題認識をもって戦争体験世代の研究対象を分析するのか。3名の報告者に対して一番に問いかけたいと思ったのがこれである。

 軍恩連盟と偕行社の活動を通して旧軍人による運動の軌跡を追った木村報告は、この分野に明るくないものの近年の靖国問題との関連性がとても興味深かったが、他の社会運動や、よりマクロなその時々における歴史的・社会的・政治的状況との関り合いの中ではどのように位置づけることができるのかが気になった。

 桐谷報告は広島が行政主体に復興を進めるもそれは被爆者不在の建設であったことを対比的に詳細に史資料より記述しており占領期の被爆者のあり様を浮き彫りにする方法として有意味であると思った。ただ復興に対する「違和感」として提示されている被爆者の声を報告者は聞き取りから得たと述べていたが、約60年を経て語られたということをどのように受け止めているのか、聞いてみたい。

 「在外被爆者」カテゴリーの形成過程について論じた川口報告は丹念にそれにまつわる言説データの収集・整理・分析を行っており言説の歴史社会学に連なる研究として位置づけられるという点で関心を引いたが、呼称の一つとしてある「ヒバクシャ」カテゴリーは、「在外被爆者」に内包されるのかそれとも何らかの関係性を持った形で言説上に現れているのか、この点は探求すべき問いとしてあるように思われる。

 詳細は省略させていただくが、当日は質疑応答が活発であったこと、そして単なる批判に終わるのではなく報告者が研究を継続可能となるような応答であったことが印象的である。テーマの重なりから私にとっても「戦争体験」は探求すべき問題としてあることを改めて認識することができ、とても充実した時間を過ごすことができた。自身の興味関心に従いまた参加したいと思う。


同時代史学会のあゆみ ― 事務局から ―

浅井 良夫(成城大学)

 本号では、2005年10月から2006年3月までの本学会の歩みを記す。

[会員数]

219名(2005年12月2日現在)

[大会]

 2005年度大会(第4回大会)が、2005年12月4日に一橋大学で開催された。

 全体テーマ「日中韓ナショナリズムの相克と東アジア」

 午前の部 <個別報告>

  報告 安達宏昭(東北大学)

     「戦時期の「大東亜経済建設」構想 -「大東亜建設審議会を中心に-」

     権容ソク(一橋大学)

     「岸政権の対アジア外交 - 対米「自主」とアジア主義 -」

  コメント 伊藤正直(東京大学) 司会   浅井良夫(成城大学)

 午後の部 <パネルディスカッション>「日中韓ナショナリズムの相克」

  パネリスト   保阪正康(作家) ― 日本の視点から

          玄武岩(東京大学) ― 韓国の視点から

          高媛(日本学術振興会特別研究員) ― 中国の視点から

  コメンテーター 米原謙(大阪大学) 司会  豊下楢彦(関西学院大学)

[研究会]

 第11回研究会

   「戦後史の中の〈戦争体験〉」2005年10月22日 立教大学池袋キャンパス

   木村卓滋(一橋大学大学院)「戦後旧軍人運動の軌跡」

   桐谷多恵子(法政大学大学院研究生)「戦後広島の復興と被爆者の原風景(1946年~1950年)」

   川口悠子(東京大学大学院)「朝鮮人被爆者問題:主要裁判とその新聞報道を中心に」

   コメント: 浜日出夫(慶応大学)

 第12回研究会

   「高度成長期の「消費」と娯楽」2006年3月18日 立教大学池袋キャンパス

   原山 浩介(国立歴史民俗博物館助手)「消費者性の生成と高度成長 ―― 生活協同組合の設立過程に見る消費者像の生成 ――」

   田中 里尚(立教大学大学院)「高度成長期における《おしゃれ》の問題 ―― ショッピングのレジャー化と女性 ――」

   韓 載香(東京大学COE特任助手)「1950年代におけるパチンコ産業の構造変化」

   コメント:有賀 夏紀(埼玉大学)、加瀬 和俊(東京大学)

[ニューズ・レター]

 同時代史学会News Letter 第7号(2005年10月)が刊行された(32ページ)。

[理事会]

2005年度 第7回(通算21回) 2005年11月26日(土)
2005年度大会の運営について打ち合わせが行われた。
2006年度 第1回(通算22回) 2006年1月14日(土)
2005年度大会の反省、2004年度大会報告集の配布の件、2006年度大会のスケジュール、研究会の運営、2006年度理事の役割分担が話し合われた。
2006年度 第2回(通算23回) 2006年3月11日(土)
2006年度大会のテーマについて、担当理事からテーマ案が提出された。

[大会報告集]

  2004年度大会報告集『朝鮮半島と日本の同時代史 -東アジア地域共生を展望して-』(日本経済評論社)を、2005年12月に刊行した。 

訂正:前回のニューズレターの中で、理事会の通算回数が1回少なく記載されておりましたので、訂正させて頂きます。


今年度の大会は2006年12月3日(日)
早稲田大学 において開催されます。


会計報告 2006年3月31日

会計担当 永江 雅和(専修大学)

1 年報発送について

 2006年1月から3月にかけて、同時代史学会編『朝鮮半島と日本の同時代史』(日本経済評論社)を会員各位に発送しました。発送対象者は理事会の議に従い、2006年3月7日時点で、04年度会費までを納入した方とさせて頂きました。後日会費納入のありました会員の方々にも追って順次発送させていただきます。

2 発送に関わるトラブルについて

 上記発送の際、05年度会費未納の方には振り込み用紙を同封しましたが、一部会計の不手際により、会費納入済みの会員に振込み用紙を同封するミスが生じました。該当の会員各位には後日現在の振込み状況をお知らせする文書を発送しましたが、誤解と混乱を招いた件につき、お詫び申し上げます。

3 会費納入状況について

 05年度は会費納入通知の発送が遅れましてご迷惑をおかけしましたこと、お詫び申し上げます。3月末時点での会員数、会費納入状況は下記の通りです。引き続き会費納入にご協力お願い申し上げます。

4 05年度決算・予算について

 05年度決算及び06年度予算につきましては、次回ニューズレターにてご報告申し上げます。

表 同時代史学会会費納入状況
会員数 会費納入 未納数
2002年 180 169 11
2003年 206 183 23
2004年 212 172 40
2005年 226 148 78
2006年3月31日現在

 会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2006年度会費の納入をお願い申し上げます。また2005年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。

 会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。

郵便振替口座番号00120-8-169850
加入者名同時代史学会

 なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。

 また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。


同時代史学会 役職者一覧

理事
明田川融、浅井良夫、雨宮昭一、荒木田岳、池田慎太郎、伊藤正直、今泉裕美子、岡田彰、岡本公一、加藤千香子、菊池信輝、黒川みどり、小林知子、武居秀樹、豊下楢彦、永江雅和、中北浩爾、中野聡、兵頭淳史、平井一臣、福永文夫、三宅明正、宮崎章、森武麿、安田常雄、吉次公介
会計監事
疋田康行
研究会委員
加藤千香子(理事兼任)、川口悠子、黒崎輝、斉藤伸義、佐治暁人、土屋和代、豊田真穂、中北浩爾(理事兼任)、中野聡(理事兼任)、永江雅和(理事兼任)、長谷川亮一、松田春香、吉次公介(理事兼任)、和田悠

編集後記

 本誌第7号の編集後記に、兵頭淳史さんが、東京都教育委員会による、卒業式での「日の丸・君が代」をめぐる教員の大量処分について書いている。今年も同教育委員会は、強制を拒否した人々33人に、停職3ヶ月を含む懲戒処分を行った(4月1日付各紙朝刊)。あまりに有名なことではあるが、サミット諸国のなかには、学校教育の現場において日本のように国旗・国歌を強制している国はない。サミット諸国を昔は<先進>国、いまは<主要>国と呼ぶ。もちろん世界にはいろいろな国々がある。学校の現場で日本と類似のことを行っている国には、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、そして中国があるそうだ。最近、はやらなくなった言葉に<アジア的>というのがある。これに<後進性>や<停滞性>、さらには<野蛮>を続けることが、かつて広く行われていたことを思い出した。もちろんいまの私たちには、<先進>と<後進>などではない枠組みで現象をとらえ、向き合うことが求められている。 しかし、野蛮は野蛮というほかはない。(三宅 明正)

 中国各都市を揺るがし、日本に衝撃と波紋を与えた反日デモの波から早もう1年が経とうとしています。この春は、昨年のような大規模な反日運動の動きはすくなくとも今のところ生じていないようです。しかしこの1年、なおも行われる日本の首相による靖国神社参拝問題、そして東シナ海の海底ガス田開発をめぐる対立など、日中間に横たわる懸案はさらに根深さを増している感があります。そのようななか、中国を何よりも警戒すべき存在とみなすべきといった立場を、政府高官と最大野党(「二大政党」のひとつと自称)の党首(4月4日現在辞任が確定的となっていますが)が共有するという事態にさえなっています。そして核開発・拉致問題などをめぐって、日本と北朝鮮との間もあいかわらず冷却した関係が続くのに加え、「韓流」ブームの反動のような「嫌韓流」という言説の日本国内における不気味な拡大、日本の改憲問題をめぐる日韓首脳の応酬など、日韓関係もまた危うさをはらみつつあるように見えます。わが同時代史学会は、こうした状況に対する危機意識をもちつつ、「日中韓ナショナリズムの相剋と東アジア」をテーマに昨年度大会を開催しましたが、上述のような東アジアの国際情勢・政治状況を見たとき、隔靴掻痒といった感も否めないものがあります。しかし、本来、学問的営みというのは短期的に、ダイレクトに社会状況を変革するといった性格のものではない以上、学会での報告や議論を通じて提起された問題を咀嚼しつつ、冷静な分析と必要に応じた社会への発信といった営為を、迂遠な作業と意識しつつも継続していくしかないのかもしれません。(兵頭淳史)

同時代史学会News Letter 第8号
発行日 2006年4月5日
同時代史学会
連絡先:〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20
成城大学経済学部 浅井良夫研究室
Tel/Fax 03-3482-9242  asai@seijo.ac.jp