同時代史学会 News Letter

第9号 (2006年9月) ISSN 1347-7587


2006年度年次大会に向けて

同時代史としての憲法

中北 浩爾(立教大学)

 今日、日本国憲法の改正に向けた動きが急速に進んでいます。昨年11月、自民党の憲法改正案が発表され、結果的には継続審議となったものの、今年の5月には国民投票法案が国会に提出されました。世論をみても、憲法改正に賛成する意見は、容認まで含めると、多数を占めています。戦後改革の結晶であり、その後の「平和と民主主義」の支柱となってきた日本国憲法は、制定から約60年を経て、最大の転換点に差し掛かっているといっても過言ではないでしょう。

 同時代史学会は、今年度の大会のテーマとして、憲法を取り上げます。歴史と現代の架橋を目指す学会として、日本国憲法の意義と限界を再検討することは避けて通れない課題だと考えるからです。問題点を安易にあげつらうような改憲論の噴出を鑑みれば、憲法の可能性と限界を冷静に指摘することが必要であることは言うまでもありません。本学会は、あくまでも学問的な歴史学の方法にこだわり、それを通じて憲法論議に示唆を与えることを目指したいと思います。

 憲法をめぐる今日的状況で重要なのは、1950年代に成立した「改憲」と「護憲」という二分法に収まりきらない広がりを有していることです。そもそも国家の最高法規としての憲法には、9条に代表される安全保障や統治機構のみならず、人権、家族、教育、労働、社会保障など、様々な事柄が規定されています。また、憲法が持つ意味も、時代によって大きく変化してきました。戦後日本の総合的な歴史研究を志す同時代史学会は、若手・中堅の研究者を中心として、自由な発想から日本国憲法を多角的に検討します。

 日本国憲法が持つ国際的な性格についても重視したいと思います。「押し付け憲法」論は論外としても、占領下での制定にはじまり、憲法が国際的な文脈と密接に関係しながら存在してきたことは紛れもない事実です。そのことは、平和条項にとどまらず、人権や社会保障などについても、指摘できることです。軍隊を持つのは国際的に当然である、集団的自衛権を認めて国際平和に貢献しなければならない、といった主張が強まりつつある今日、改めて国際的視座から憲法を再考することが不可欠です。

 今年度の大会は、以上のような問題関心に立脚し、「同時代史としての憲法」と題して開催されます。

 まず、午前の部は、「国際的文脈のなかの日本国憲法」というテーマの下、吉次公介氏(沖縄国際大学)にアメリカとの関係から、平井一臣氏(鹿児島大学)に韓国・沖縄との関係から論じていただきます。両氏はそれぞれ、アメリカと韓国での在外研究を終えられたばかりです。そして、フィリピンを中心とする国際関係史の中野聡氏(一橋大学)に司会を、日本国憲法史を国際的な観点から研究しておられる古川純氏(専修大学)にコメントをお願いしました。

 午後の部は、「憲法・歴史・社会空間」をテーマに設定し、様々な分野を取り上げつつ、日本国憲法の歴史とそれを取り囲んできた社会空間について論じます。9条を中心とする平和・安全保障に関しては、新書『自衛隊は誰のものか』を書かれた植村秀樹氏(流通経済大学)、25条の生存権をはじめとする社会政策については、占領期の労働問題を研究しておられる兵頭淳史氏(専修大学)、ジェンダー・家族に関しては、気鋭の若手研究者である豊田真穂氏(関西大学)に報告していただきます。司会は日本政治史の雨宮昭一氏(独協大学)、コメンテーターには、政治理論の研究者で憲法についても造詣の深い杉田敦氏(法政大学)と、『新憲法の誕生』の著者である古関彰一氏(独協大学)をお迎えします。

 午前と午後のセッションを通じ、フロアーを含めて、自由な発想、そして多様な視角から、活発な議論が交わされることを期待しています。


大会テーマ「同時代史としての憲法」

日時 2006年12月3日(日曜日)

   午前9時30分受付開始、10時開会、17時30分終了

場所 早稲田大学(西早稲田キャンパス)小野梓記念館・小野記念講堂

午前の部 10時10分~12時30分

テーマ 「国際的文脈のなかの日本国憲法」

   司会  中野聡氏(一橋大学)

   報告者 吉次公介氏(沖縄国際大学)「戦後日米関係と日本国憲法」

       平井一臣氏(鹿児島大学)「戦後東アジアの変動と憲法」

   コメンテーター 古川純氏(専修大学)

総会   13時30分~14時20分

午後の部 14時30分~17時30分

テーマ 「憲法・歴史・社会空間」

   司会  雨宮昭一氏(独協大学)

   報告者 植村秀樹氏(流通経済大学)「憲法第9条と終わらない『戦後』」

       兵頭淳史氏(専修大学)「社会政策論と憲法原理

             ─基本的人権原理と変容する福祉・雇用システム─」

       豊田真穂氏(関西大学)「憲法と家族・婚姻・ジェンダー」

   コメンテーター 杉田敦氏(法政大学)

           古関彰一氏(独協大学)

懇親会 18時~

会場の案内 会場は以下の地図の
27番です。

 http://www.waseda.jp/jp/campus/nishiwaseda.html


<海外会員から>

東西センターとハワイ大学

吉次 公介(沖縄国際大学)

 皆さんは、ハワイについて、どのような印象をお持ちだろうか。近現代史に関心を持つ方であれば、まずはパール・ハーバーを思い浮かべるかもしれない。現在もハワイには陸、海、空、海兵隊全ての基地があり、米太平洋軍の拠点となっている。オアフ島のワイキキ・ビーチやノース・ショアに象徴される「南の楽園」というイメージも強いだろう。

 私は、「小渕国際交流基金フェローシップ」によって、そのハワイ・オアフ島にある東西センター(East West Center)で研究を行う機会を得ることができた。そこで、東西センターとハワイ大学について、簡単に紹介してみたいと思う。

 1907年に設立されたハワイ大学は、ハワイ諸島各地に10のキャンパスを擁し、5万人以上の学生が在籍している。約90の領域に及ぶ学部課程と修士課程、そして50近くの博士課程を持ち、とくにアジア研究、言語学、天文学、海洋研究、観光などの分野で高い評価を受けている(ホームページのアドレスは、http://www.hawaii.edu/)。

 その中心が、ホノルル市の緑豊かなマノア地区に位置する、ハワイ大学マノア校だ。アジア研究が活発なことで知られるハワイ大学には、日本研究センター、朝鮮半島研究センターをはじめ、アジア太平洋地域に関する様々な研究所が設置されており、研究会や講演会、アジアの文化を紹介する様々なイベントが頻繁に開催されている。

 日本を研究対象とする専門家も多い。その代表的な存在は、社会学部のパトリシア・スタインホフ教授である。1960~70年代の日本の左翼運動を専門とするスタインホフ教授は、『死へのイデオロギー 日本赤軍派』(岩波現代文庫、2003年)の著者として、日本でもよく知られる。スタインホフ教授は、一九七二年にテルアビブ空港を襲撃し、イスラエルで拘留されていた岡本公三を訪ねてインタビューを行うなど、非常に精力的に研究を進めている。政治学部で日本の外交と政治を担当しているのはペトリス・フラワーズ助教授。沖縄の基地問題に詳しく、最近、フィリピンと沖縄の反基地運動に関する著書を出版したヴィンセント・ポラード博士もハワイ大学の教壇に立つ。

 ハワイ大学構内に位置する東西センターは、東西文化の交流を促進し、アジア太平洋地域の連携を強化するために、アメリカ議会によって1960年に創設された研究・教育機関である。創設以来、アジア研究および国際交流の重要な拠点として機能し、米国内はもとより、世界的にも高く評価されている。

 東西センターの第一の機能は、アジア太平洋地域に関する研究を進めることである。研究プログラムは、安全保障・政治、経済、人口・保健問題、そして環境の四つに分かれている。日本で最もよく知られる東西センターの研究者の一人として、アジアの安全保障や沖縄の基地問題に精通しているシーラ・スミス博士がいる。現在、琉球大学の我部政明教授らと共同研究を進めており、近いうちに、その成果が出版されることになっているという。

 また東西センターは、教育機関としての機能も併せ持つ。世界各国から大学院生を受け入れ、ハワイ大学と連携しながら、教育を行う。「日米ジャーナリスト交流プログラム」をはじめとして、ジャーナリストや政府関係者の国際交流事業にも力を入れている。

 東西センターが取り組んでいる教育プログラムの一つに、真珠湾攻撃に関するワークショップ“Pearl Harbor; History, Memory, Memorial”がある。アメリカ本土と日本から中学・高等学校の現役教員を集め、ピーター・ドゥース・スタンフォード大学教授、ジェフリー・ホワイト・ハワイ大学教授や矢口祐人・東京大学助教授ら日米の研究者を交えて、真珠湾攻撃やアジア太平洋戦争についてどう教えるのかを、一週間にわたって議論するのである。私もこのワークショップでプレゼンテーションを行ったが、東西センターのスタッフやアメリカ側の参加者が「新しい歴史教科書をつくる会」やその歴史教科書などをめぐる諸問題に、非常に強い関心を示したことが印象的であった。

 東西センターは、様々な形で研究成果を発信している。世界各地から研究者やジャーナリスト、政府関係者が集い、シンポジウムや講演会がしばしば開催されている。“Asia Pacific Issues”などの出版物や、ホームページ(ホームページのアドレスは、http://www.eastwestcenter.org//)、あるいはセンター独自のニュース・サービスである“East West Wire”も、充実した内容を誇る。アジア太平洋地域に関心をお持ちの方は、一度、ホームページを訪れてみてはいかがだろうか。


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News Letter 第8号に以下の訂正がございますのでお知らせします。

4ページ

 札幌女性史研究会編『ほっかいどう女性史研究』第2号
     → 札幌女性史研究会編『女性史研究ほっかいどう』第2号

 浅井良夫(成蹊大学) → 浅井良夫(成城大学)

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<書評と紹介>

黒崎輝『核兵器と日米関係 アメリカの核不拡散外交と日本の選択 1960-1976

(有志舎、2006年)

樋口 敏広(ジョージタウン大学・院)

 冷戦後北東アジアをめぐる安全保障環境は複雑さを増している。その力学の中核となっている核問題に対して、同時代的な問題意識、歴史的な問題設定、および緻密な史料分析により迫ろうとするのが本書である。ソ連(ロシア)、中国、そして北朝鮮の核の脅威が日本国内において声高に語られる中で、本書は北東アジア地域の核問題史上における最大の潜在的懸念材料のひとつである「日本問題」を正面から取り扱っている。すなわち、これまでよく論じられてきた「唯一の被爆国」としての日本を前提とするのではなく、「潜在核保有国」として日本を捉えなおし、日本がいかなる条件の下、いかなる論理に基づいて「非核」の選択を続けてきたのかを問い直すという、斬新な問題設定である。事実、本書が分析対象とする1960年代から1970年代中盤とは、世界的にはデタントと多極化の進行、NPT体制の成立、原子力発電の商業ベース化、地域的には中国の核武装、ベトナム戦争、そして劇的な米中和解、さらに日本国内においては高度経済成長を背景とした科学産業能力の伸長、「戦後」の清算を求めるナショナリズムの高まり、沖縄返還、そして70年安保問題が同時に噴出し、日本の核問題をめぐる国際政治経済において重層的かつ決定的な地殻変動が起きた時代である。このような流動的な政治経済・戦略環境の渦中で、日本政府は受動的に「非核」政策を国民やアメリカにより強いられ続けたのではなく、主体的および能動的にその政策の継続と堅持を「選択」および「再選択」した、との見方を著者は提示している。著者によれば、この「選択」過程で決定的な役割を果たしたのは、アメリカの核抑止力である。本書が詳述するように、中国の核武装の衝撃と米ソ核戦力の均衡化への潮流の中で、日本政府はアメリカの核抑止力を主体的に再評価し、それへの依存政策を再選択し公式化させた。つまり、日本の「非核」政策の確立とは、国民の「核アレルギー」の単純結果でも、アメリカの核不拡散に向けた「外圧」の消極的受容でもなく、日本政府によるアメリカの核抑止力への依存政策の再選択および定着化の裏返しである。非核国日本とは、非核政策と核抑止依存政策という二つの不可分な政策の主体的構築および選択の所産である、というのが著者の主張である。

 本書の日本政府の「選択」と「選択されなかった可能性」への注目は、現代の核不拡散レジームの成立時における流動的な時期を捉える上で一つの重要な分析視角を提示している。また、日米両国から渉猟した公文書を総合的に検証したアプローチは、とかくセンセーショナルな「暴露」の断片に終始しがちな日本の核政策をめぐる議論に、手堅い歴史実証主義を導入し、複雑な政策決定過程およびそれを取り巻く国際・国内環境を明らかにする上で大きな成果を挙げているといえよう。著者が指摘するように、冷戦中の最高機密とも言える核問題についての公文書の利用にあたっては未だ数多くの困難が伴うが、本書は情報公開法により取得した新史料も含めた利用可能な材料を網羅し、さらに史料が沈黙する内容については豊かな想像力と慎重な解釈を駆使している。本書はその画期的な分析視角のみならず、研究手法においても日本の核政策研究史上において大きな一里塚となろう。さらに、数々の「選択されなかった可能性」についての本書の議論は、アメリカの「核の傘」への依存か日本独自の核武装かという二者択一的なこれまでの日本の核政策についての見方に一石を投じている。筆者が本書内で随所に示したような冷静な歴史的理解と柔軟な発想が、北東アジアにおける核問題に日本が主体的に関わる上でいまほど必要とされる時はないだろう。


<第12回研究会の報告>

「高度成長期の「消費」と娯楽」

「大衆消費社会」とは?

原山 浩介(国立歴史民俗博物館)

 通常、この原稿は、報告者が自らの報告内容を要約することになっている。しかし今回は、そうした場でありながら、少し報告内容を離れて、「大衆消費社会」をどう考えるのかということをめぐって、私の考え方を述べさせていただくことをお許しいただきたい。

 このことを、今回のニュースレターにおいて書くのは、3月に行われた研究会での議論に、いささか気になるところが多かったためである。これを一言でまとめると、「消費」をめぐって議論をする際に、私たちが「消費」という言葉以上に共有しているものを持っていないのではないか、との危惧を抱いた、ということになる。つまり、「消費」という言葉だけが先走ったなかで、テーマ設定をし、複数の報告者と出席者が同じ土俵に立つということに、そもそも無理があるのではないか、というのが、今回の研究会における私の率直な感想である。

 同時代史学会において、何らかの形で「消費」を問題とすることの必要は私も感じている。しかしそれが、日常語の持つ、いささかした混乱したイメージのなかで、一定のディスコミュニケーションを孕んだまま問題とされ続けるのであれば、それはとても不幸なことだと思う。そうしたなかで繰り広げられるいくつもの報告は、断片的なものにしかならず、事例報告の域を出ない。

 研究会の場で話題に上った「大衆消費社会」をめぐって、私たちの持つ観念を対象化しながら、少しでもこの不幸な状況を脱する方向で、議論を蓄積する必要があると、私には感じられる。以下に続く文章は、そうした議論の、ささやかな第一歩という程度に受け止めていただけると幸いである。

☆     ☆     ☆

 研究会の議論で、「大衆消費社会」ということが話題に上った。これは、同じく「消費」ということがテーマになっていた、昨年の7月の研究会に引き続いてのことだった。そして、私を含む報告者に対して、「大衆消費社会はいつから始まったと見ることができるのか」との質問が寄せられた。

 私はこの問いに対して、正直なところ、戸惑いを覚えた。というのは、「大衆消費社会」とは何であるのかをめぐり、そもそも私たちが、市民として、あるいは研究者として、何を共有できているのかが曖昧であると感じていたからだ。恐らく上記のような問いは、そうした曖昧さをいかに超え得るのか、という問いでもあったのだろうと私は理解している。ただ、その曖昧さ自体が議論の対象になっていないなかで、ある種の時代区分のようにして、それぞれが「大衆消費社会」を位置づけるようとすることは、その曖昧さの上塗りをすることになりはしないか、と考えていた。

 過去数十年の間に、「大衆消費社会」という用語は実に多様な形で用いられてきた。そうしたなかには、ある時点におけるいくつかの社会現象を統合して把握するために用いられる場合(ちょうど今、「格差社会」という言葉が好んで用いられる如く)や、林周二の『流通革命』に見られるように、ある種のスローガンや近未来予測の根拠として行為遂行的に用いられたりするケースもあった。そしてその背後で、大量生産やマス・メディアの成立、あるいは複製技術の発達を契機とする、文化的画一化や「個」の置かれ方の変容といった、いわゆる「大衆社会」の成立や、それに伴う、家や村といった中間団体の喪失が感得されたこと、それらが「大衆社会論」という文脈において論じられていたことも見逃せないだろう。

 それら様々な、まさしくコンテンポラリーな語用や議論の積み重ね、そして同時に進行した生活の変容を通じて、「大衆消費社会」という言葉のイメージが膨らんできたこと、そしてわれわれはこの言葉を前にしたとき、それら歴史的束縛からそう簡単には逃れられていないことは、意識されるべきであろう。

 そうした過程を経て、「大衆消費社会」という語は、同時代的な時代感覚とないまぜになりながら、研究者を含む多くの人々の間で、漠然とイメージされるに至っている。そして、ある時代感覚を依存する形で流通する多くの言葉がそうであるように、「大衆消費社会」もまた、その語の意味するところが吟味されないまま、しかしその意味するところについてあたかも一定の了解があるかのような感覚をもたらしている。これは、現代史、ないしは同時代史と称されるような叙述・議論に、常々つきまとう、いわば日常語とテクニカルタームの混乱であり、それはまた、ある経験(群)や出来事(群)を、自らの経験(ないしは自らが想定する経験)のありようへと一足飛びに回収してしまうことと無縁ではない。

 「大衆消費社会」という用語を共通の議論の土台とするには、これら諸点を念頭に置きつつ、学的な関心から改めてこの語を位置づけなおすという作業が必要になる。これはあくまでも私なりの整理に過ぎないが、この作業において射程に収めるべきポイントとして、次の二点を挙げることができる。第一に、「大衆消費社会」が、大量生産の成立をひとつの契機とする経済的・社会的・文化的な構造変動の下で展開したものであるとの位置づけが不可欠である。第二に、「大衆消費社会」そのものが、ある方向に向かって社会や人々が変わっていく「動き」や「ベクトル」を前提として成立しているとの理解である。

 まず第一の点、「大衆消費社会」が広範な構造変容を前提として成立したものであるとの位置づけについて考えてみたい。その契機のひとつである大量生産-大量流通-大量消費の成立は、必ずしもモノだけを対象にしたものではない。大衆娯楽に代表されるような一種の情報も、「大量」という言い方とはいささかなじまないものの、その範疇に入ると考えられる。マスレベルでのモノ・情報・文化の流通と、それを自由に、しかし実際には限られた幅の中で選択していく体制ができ、その下で、人々の労働・社会関係の切り結び方・生活スタイル・文化や思想といったものが再構築されていくところに、この「大衆消費社会」の特徴を看取できる。

 こうしたうねりは、しかし、地域差・個人差を孕んでいる。全ての人々が同様かつ一斉にこのうねりに乗っていくわけでは決してない。試みに、水俣の漁民たちが、汚染されているかもしれない魚を「食べない」という選択がなぜできなかったのかということ、そのことが東京にいる人々にとって実際の距離以上に遠い話でしかなかったことに、思いを至してみたとき、この構造変容がいかなる性格を持つものなのか、その複雑さが想像できるだろう。「大衆消費社会」をある種の時期区分として扱うことの困難さは、ここにある。

 次に第二の点、「大衆消費社会」が「動き」であるということだが、このことを考える上でヒントになるのは、鹿野政直の『日本の現代』における、「豊かさへの離陸」という表現であろう。いわゆる、社会が「豊かになる」こと、あるいは一定の経済成長を遂げることに対して「離陸」という言葉を充てているのは、鹿野だけではない。例えばロストウが『経済発展の諸段階』において、高度大衆消費社会に至る段階設定で「離陸」という表現を用いている。しかしその上で、鹿野がこの一冊の本のなかでとりわけ強く意識されているのは、例えば過去の戦争や弱者の存在といったことどもを忘却し、「日本も人びとも、“強者”になろうと疾走した時代」としての高度経済成長期であろうと思われる。欧米の豊かな生活スタイルなるものを想定し、そこに少しずつであれ近づいていくという見通しを持ちながら、日々の生活変容を通じてその未来予想を裏付け続けるというプロセスが、この時期に都市部を中心に進んでいった生活変容であったということができるだろう。単にモノが手に入るということだけでなく、一定の未来への期待を持ちながらの生活変容が、象徴的には「三種の神器」の入手において実現し、より深いところでは社会関係や文化・思想にまで及ぶ変容を伴いながら、ひとつの流れとして共有され、体感されるという一連の「動き」ないしは時代を覆った「ベクトル」を、鹿野は恐らく「離陸」という表現にこめたのではないかと考えられる。

 この第二の点は、「大衆消費社会」という語に本来的に備わっている事柄というよりも、むしろ日本社会の固有性の問題であり、通文化的な一般性がないともいえる。この固有性をどう考え、位置づけるのかは、もう少し慎重な議論が必要であろう。ただ、例えば異なる時代の異なる地域(例えば最近の上海など)において耐久消費財が普及していく状況を指して「大衆消費社会」と呼び得るのか、呼び得たとしてそれが日本の「大衆消費社会」とパラレルに置くことができるのか、あるいはそうすることに意味があるのかといった点を考える際に、少なくとも立ち戻らねばならない地点であるのは確かであろう。

 ところで、私は「第一の点」を論じるなかで、「大衆消費社会」の展開における地域差・個人差に言及しながら、この言葉を時期区分として用いることの困難さを指摘した。これは、時期区分そのものを否定しているわけではない。大づかみに社会を捉えようとするとき、そこに一定の無理がかかることを承知の上で、あえて時期区分(ないしは時代区分)をしてみることも、時には必要である。そうした試みが、「大衆消費社会」という形で為されるのが有効なのかどうかを含め、議論が必要な点であろう。

☆     ☆     ☆

 冒頭にも述べたとおり、私は、「大衆消費社会」の位置づけをめぐる議論を、意識的にやってみる必要があると感じている。そして、一度、本学会において、そうした議論の場を設定してみても良いのではないか、と考えている。その際には、経営史や社会学といった、あまり同時代史学会ではみかけない人ないしは議論も呼び込みながら、「「大衆消費社会」の対象化と位置づけの模索」といった形で、研究会の趣旨をはっきりとさせて、入念な打ち合わせを行った上で、実施してみたらどうだろう。もちろん、一度や二度の研究会で目覚しい成果が出るわけではなかろうが、議論の方向性くらいは示しだせるだろう。

 これは、今回の研究会に報告者として参加させていただいた私からの、自分の報告の良し悪しを棚上げしたままの、僭越を承知の上での、ひとつの提案である。


高度成長期における《おしゃれ》の問題

~ショッピングのレジャー化と女性~

田中 里尚(立教大学・院)

 今回の発表では、女性のための実用雑誌『主婦の友』をもとに、高度成長期という文脈下で、誌面がどのように変化していったかについての分析を行った。とりわけ、生活必需品であると同時に、文化的規定性の強い衣服に関する記事を中心にして、高度成長期における物に対する意味の変容を探ることを通じて、消費社会の発生に関するメルクマールを明らかにしようとした。

 一般に衣服は着用者の社会的地位、場の状況定義、個人的趣味の三つの意味を生じさせるメディアである、という認識を前提においた。ただ、この認識は対面的コミュニケーションの文脈において生じるものであり、誌面というメディアの上に衣服が更なるメディアとして置かれていることを考慮するならば、どのように考えることができるだろうか。

 『主婦の友』において衣服記事は、まず裁縫という家庭内労働に役立つ情報として示されている。夫の服の修繕、子供の服の作製、細々した布製品の保全といった技術的指導といった内容がそれにあたる。これは編集側が「主婦役割」というものを取材の中で想定しながら、その中に生じる問題解決のために差し出される記事である。同時に、この想定の中で、「主婦」という存在は実体的なものとして構築される。

 もうひとつの衣服記事の系列は、着こなしに関するものである。たとえば、グラビアに示された女性の身体とその状況、そしてそれに付される言及は、主婦労働の補助という主題に収まらない情報である。この情報は、構築された主婦役割という枠組みの「外」を示すものである。もちろん、占領期から復興期にかけて女性は家庭において美を体現することによって家庭に潤いを与えるという主婦の精神的労働に帰属するような論もある。けれども、それでもなおここには『主婦の友』が想定する「個人」としての女性像が含まれている。

 雑誌記事という文脈で個々の記事は、日常生活にとって必要な情報として表象されている。その中で衣服は、単に日常的な必要を満たす情報だけではなく、その衣服を扱う女性の「主体」を意味として伝える。衣服の記事を読むということは、この「主体」を読むということである。この「主体」の変化を、消費社会のメルクマールとして議論することはできないか、という趣旨で今回の発表は企図されたものである。

 上記の二つの「主婦役割」および「個人」はどちらも『主婦の友』が構築する女性像であるといえる。発表時には、ここをもう少し強調しておく必要があった。それが曖昧だったために、社会的事実の反映としての雑誌記事を扱っているのか、『主婦の友』の社会的行為としての誌面構成に宿る権力性を扱っているのかがわかりづらかったように思われる。「主婦」の事実性をめぐる質問や、雑誌の構築性への自覚を促す質問は、その曖昧さに対する指摘であるとうけとめた。

 その上で、反映としての雑誌記事と構築する権力としての雑誌記事という二つの問題をどう考えたらいいのだろうか。

 『主婦の友』の職業意識は、取材の際によく現実を把握し、その現実に対応するような記事を書くということである。その際、自誌が読者へ恩着せがましく現れるような指導者的性格を消そうとする。その上で、実用的な情報だけを送ろうとする。これは、教師や評論家のように読者の前に現れる高踏的婦人雑誌との差異化でもある。けれども、ここで消されているのは単に雑誌が高圧的に現れるような権力のあからさまな表象でしかない。要するに怖い教師の顔ではなく、優しい友人の顔をして、情報を送るということに過ぎない。

 このような一歩引いた語り手という姿勢は、『主婦の友』に限らず実用婦人雑誌に特徴な姿勢だが、それによって戦中は国家のキャンペーンを無批判に伝えるメディアとして機能したり、読者優勢であるときには読者の要求にこたえようとする記事が増加したりもする。そうした変転の中で一貫しているものとは、情報取得代行役割に徹しようという職業意識である。

 こうした職業意識による誌面構成の中では、むしろ社会的事実の反映を読み取られることが多かった。そして、「主体」の表象も、あからさまな自画像から読み取られることから始められた。けれども、むしろ実用記事という表象なき場所に宿る「主体」の像を読み取ろうとするならば、どうなるだろうか。

 極論すれば『主婦の友』は、記者の取材した現実のいくつかをもって、読者の現実を構成している。それは、『主婦の友』もまた読者と同様現在起こっている世界の全体は知りえないということでもある。けれども『主婦の友』は読者に代わって、その不確かな世界を確かな形に切り詰めなくてはならない。とりわけ、増大する「物」や「出来事」との関係を編成するような言葉をつくっていかなければならないのである。おそらく、ここで現れる「主体」とは言葉を通じて事後的に構成されるようなものではないか。

 このようにして構成された誌面を、不透明さが増す現実を解りやすくするための準拠枠と呼んだ。『主婦の友』が伝える現実とは、むしろ不確かさをいかに確かなものへと変換するか、という変換の規則である。本論では、それに使われた象徴的な語彙としての「おしゃれ」に注目し、その変化から女性の消費者としてのまなざしの出現を考察してみた。

 「しゃれた」から派生する「おしゃれ」は、身なりに気を配るさまといった辞書的定義がある一方で、戦後には衣服との体験様式を示す意味ももった。例えば、『主婦の友』1954-1月の記事「これからの和服 新しい和服の流行は何か?」では「洋服で飛び跳ねているサラリーガールも、野良着の娘も、改まった気持ちで、晴れ着を着るときの楽しい錯覚─みんなが“おしゃれ”のときめきを覚えるとき、明るい新しい年が明けるのです」と述べられている。

 戦前にも「おしゃれ」という語彙が使われているが、このような個人的な感情の表出を意味するものとして使われだすのは、戦後の復興期の特徴である。とはいえ、この復興期には「おしゃれとは教養のことである」(『婦人画報』1953-1「編集部だより」)と述べられたり、「ハイカラ」という昔に流行った言葉を用いて「おしゃれ」という体験を解説しようとした試みなどが見られた。その語彙は『主婦の友』だけではなく、多くの女性雑誌の衣服記事の中に登場し、女性の衣服との新たな体験様式を示す意味として増殖していった。

 1955年から始まる第一次主婦論争の口火を切る石垣綾子の論文では、「おしゃれ」を見栄や贅沢といった女性の悪徳とされているものから引き離し、新たな定義づけが試みられた。ここでみられる定義の揺らぎは、「おしゃれ」という言葉が不透明な語彙として享受されていたことを示すものである。

 こうした意味の不確定な語彙である「おしゃれ」に『主婦の友』は、どのような期待を込め、新たな体験様式を示す言葉として使ったのだろうか。その『主婦の友』が「おしゃれ」を頻繁に使い出すのは1960年ごろからである。もともとは衣服のグラビアに付された言及の中で時々使われる程度であったが、衣服の着こなしや買い物(特に衣料)の記事に頻繁に出現してくるようになる。

 それには『主婦の友』が想定していた都市の中間層以下の既婚女性の1950年代後半から1960年代初頭における実態との関係について考えてみなければならない。

 一般的には、1950年代に家庭内の機械化が進み、家事労働も省力化が進んで、女性たちの自由時間も増えたという流れがあると理解されているが、実態はどうだったのだろうか。本発表で私が史料として挙げたのは『レジャー消費の実態に対する調査』(国民生活研究所 1962)である。そこに記されたデータから結論だけを抽出すれば、主婦層の時間割の中では融通の利かない「非弾力的時間」が多くを占めており、男性が土曜の午後と日曜に仕事から解放され、男性の余暇を満喫しうる時間にこそ働かねばならなかった。したがって、主婦層はまとまった時間を余暇の時間としてはとれず、とれた余暇時間は休息にあてねばならないという現状であった。そして、余力があっても未だ余暇の過ごし方についての見方が形成されておらず、いわば余暇時間は創出されていても、余力と余裕がない、そんな現状が1960年代前半の状況であった、と結論した。

 『主婦の友』は、こうした状況で倹約中心だった女性役割の中に、余暇という主題を出現させた。その経緯は本発表では次のようにまとめられた。

c) 余暇活動(レジャー)記事の出現

  1. レジャーのイメージ(旅行、スポーツ、映画、芸能…)ex.「家中そろって休日の新しい楽しみ方」(1959-4)、「主婦の楽しみ =旅行=」(1960-11)
  2. 内職の好機 ex.「レジャーで技術を」(1962-4)
  3. 家政の一環として ex.「わが家の経済的な行楽計画」(1959-3)

 したがって、『主婦の友』は「非弾力的時間」を前提にしながら余暇的体験をもたらすものを案出していくことになった。余力が金銭的に生じた際、家事労働という「非弾力的時間」の中で、余裕の欠如を補って余暇の祝祭的側面を満たしてくれる活動は「買い物」に他ならなかった。そして、とりわけ個人の表出につながる「買い物」、すなわち「おしゃれ」を目標においた「買い物」が、徐々に記事として『主婦の友』の誌面に浮上してくることになった。

 『主婦の友』の特質として、単調な家庭内労働を有益なものとして読者へと提示する編集方針が戦前よりあった。ここでもまた、家庭内労働の一部として規定されていた買い物の時間を別の意味を付与することで、新たな経験の形を作り出そうとしていることがうかがえる。しかし、ここで以前のように『主婦の友』は人生修養の一段階としてそれを記述することはせず、レジャーのような開放的経験(本発表では「祝祭」と表現した)を意味するものとして提示した。とりわけ、衣服の買い物という行為については、衣服という自己表出への開放的契機として「おしゃれ」を用い、その経験の場としての衣服の買い物を提示している。

 買い物記事の嚆矢だった「買い物十二ヵ月」(1960年度連載)では「買い方のコツは、二、三のデパートを足まめに歩くこと」と言われた。そして、その年の6月には「夏の買物東京探訪」(1960-6)として、ボーナスの使い道の指南がされた。以降、ボーナス期の六月、十二月には買い物に関する記事が現れる。そして「楽しいショッピングガイド」(1963-11)という記事でやっと目次レベルに「ショッピング」という言葉が出現することになった。

 そして、「奥さまはお出かけ 装いのマナー」(1964-4)や「ショッピングニュース」(1964-連載)や「ミセスのタウンウェア」(1965-6)「ママが出かけるとき」(1966-3)などの記事が出現する。そこでは、外出のステージの細分化とそのマナーが特集されるようになっていった。例えば、伊勢丹と関わりの深いファッション・デザイナー成尾歌子は『おしゃれのヒント』(真珠書院 1965)の中で「TPO」という言葉の発生に触れて「タイム、プレイス、オケイジョン(時、場所、場合)の略。新しいおしゃれのルールとして話題になっている」と語った。

 こうした『主婦の友』によって提案された「おしゃれ」という経験を読者の一人である吉本秀子は次のようなエッセイに表現している。

 「それは、はじめてスキーに行くための買物を、親友としていたときだった。ふと目についた真紅のモヘヤの帽子がほしくなってしまった。白一色のゲレンデで、真紅の帽子がどんなに映えるか、考えただけで胸がふるえ、うずいた。…真紅の防止をかぶった彼女は、どうしようもないくらいかわいく、そのとき私は、ふと絶望のようなものを感じた。でも、私もスキー場でのおしゃれを完璧なものにしたい。…あれからもう五年。彼女はまだあの水色の帽子をもっているだろうか。目立つおしゃれの悲哀も味わったはずなのに、私は、まだ派手なおしゃれけが抜けきれない。ときどき夫から、「ハンドバッグの赤ひとつで、赤はもう充分きいているよ」なんていわれている。」(中略筆者:「読者の随筆 おしゃれ」『主婦の友』1962-2)

 この祝祭としての買い物という場とおしゃれという開放的経験との結合は、先に記した女性の余暇を楽しむ余裕の欠如という現状からすると、考え方の転換によって女性が家庭内労働の「外」に出る契機として作用する一方、女性をレジャー化した家庭内労働の枠内に閉じ込めるというアンビバレンツを含む提案である。

 実際、後者の側面は、「おしゃれ」という言葉が日常の中に入ってくることでむしろ強まったと言える。発表では、それをおしゃれの「内側化」と呼び、本来祝祭的性格をもたない仕事着や普段着にその言葉が使われることでありふれたなものになっていく過程を示し、おしゃれが家庭内労働のあらゆるものを満たすことで開放的側面が消えてしまうことを述べた。

 本発表では、こうした主婦役割の「外」として提出されたものが日常性の中へ散消していくことのメカニズムも語ろうとしたが、それはうまくいかなかった。けれども、ここで本発表の一番のテーマである消費社会のメルクマールを議論しようという試みにとっては、『主婦の友』が新たな現実の処理形式として採用した「おしゃれ」という語彙の祝祭的意味の出現を記すことで十分だろう。

 議論の最後で、「消費」「消費社会」という言葉の曖昧さをめぐる問題提起が行われた。私の議論も「消費社会」を目指して論を進めていきながら、「消費」という言葉をもって定義してしまったという循環論に陥っているかもしれない。けれども、消費社会化を歴史的に記述するために必要な集合的経験(社会変革をもたらす運動ではなくても)として、「おしゃれ」という経験が歴史的に生じていたという趣旨を伝えることができれば、本発表の企図は達せられた。


1950年代におけるパチンコ産業の構造変化

韓 載香(首都大学経済学研究科研究員)

 本報告の課題は、1950年代のパチンコ産業の構造変化に注目ながら、パチンコホールがビジネスとして成り立っていく過程を明らかにし、同時期に産業発展の礎石が築かれたことを検証することである。このような課題設定の含意は、パチンコ産業が今日30兆円の巨大市場に成長したにもかかわらず、その歴史的要因がほとんど解明されていないという研究史上の空白を埋めることにある。

 戦後、パチンコ産業は、映画、スポーツなどが含まれる「娯楽業」一般のなかで、「その他の娯楽業」に分類されるという付随的な地位から出発した。同産業は、日本に固有な産業であり、他国で禁止されていた事例を考えれば、「規制」がパチンコ産業の存立において決定的であることはいうまでもない。にもかかわらず、巨大化に関連して言えば、「ギャンブル性」や脱税など陰の側面のみが浮き彫りになり、事業として成り立っている産業の構造と企業戦略については明らかにされていない。娯楽としてのパチンコが事業として成立してくる1950年代から、その後の70年代までのパチンコの産業の道のりは、それほど平坦ではなかった。戦前以来のパチンコは、わずかな台数の移動式の営業形態が主要であったから、1,000台規模のホールも珍しくない今日のような経営形態に注目すれば、その間の飛躍は当然の成り行きではないだろう。本報告では、パチンコ産業の胎動期、1950年代に注目し、規制のあり方に留意しながら、ホールがどのようにして利益を生み出し、事業として成り立たせていったのかを考察する。長期的に安定的な利益が確保できるようになっていく歴史的過程は、結論を先取りして言えば、経営ノウハウの蓄積として考えられる。

 1950年代の構造変化に関する以上の課題は、パチンコ産業の発展史のなかでは次のような意味がある。すなわち、パチンコ産業は戦後本格的に発展したが、パチンコホール数が、1949年の4,818軒から53年に43,452軒となり、1950年代前半はホール数が異常とも言える勢いで増加していた。しかし、1957年には8,487軒と、わずか5年の間に激減に転じたことから明らかなように、50年代は産業発展史のなかで最も大きな変動を経験した時期であった。こうしたホール数に表れるパチンコ産業の急激な発展と、その後の一転した不況は、業界の一般的な見方によれば、新しい体系の機械の出現と、1955年に実施された連発式禁止令の規制が、ホールおよび機械メーカーに与えた影響として理解されている。この見解は、ホール数が1953年にピークを迎えていたことに注意すると、時期的にはその後に来る規制強化だけでは現象の激しさを説明できないという点で、産業のあり方を捉える上では不十分である。この揺籃の時代は、パチンコ産業の基本的特徴を鮮烈に表しており、産業発展のために何が問題であったかを浮き彫りにした。本報告では、こうした視点から1950年代にパチンコ産業が急激に発展し、そして失速した要因を明らかにするため、産業構造と企業経営の実態に即した考察を試みた。

 以上の課題を果たすために、当時のパチンコ産業を代表するM社の成長と事業再編を検討した。同社は、「パチンコ機械の販売業及び遊技場の経営」を事業内容として、1951年に設立された。戦前からパチンコ機械を作っていた創業者は、機械の元祖といわれる正村式遊技機を考案した後、下請工場でのOEM生産に移行しながら、1949年から外販に乗り出した。同社は、1950年代半ばまでの時期において、パチンコ機械の全国的な市場基盤をもち、企業としての最盛期を迎えていた。1955年現在、『帝国銀行会社要録』に、パチンコ産業関連の有力企業と考えられる6社(機械メーカー2社、メーカー・ホール兼業2社、機械販売会社1社、パチンコ玉製造会社1社)が記載されているが、同社はその1社として採録されている。このように代表的企業であるM社の成長と挫折、経営の再編過程から、1950年代の産業揺籃期の特殊性と、パチンコ産業の発展を規定し続けてきた規制の意義を明らかにした。

 歴史的考察をまとめてみれば、ほぼ以下のように要約できる。

 1950年代前半に見られるパチンコ産業の急成長の原動力は、注目すべき機械の改良であった。パチンコ機械は1950年前後に正村ゲージ、連発式機械などが考案され、小物といわれた戦前以来の体系から、発展の基盤となる戦後の器械体系への飛躍を成し遂げた。正村ゲージなどは、偶然性を抑えて技術的な要素を付け加えたもので、このことが客とホール両方に遊技と事業にかかわるコントロールの可能性を与えた。後者のコントロールの可能性が計画的な事業を成り立たせる条件となり、パチンコ産業が発展する基盤であった。しかし、パチンコ機械の更なる改良は、需要の質に呼応してギャンブル性を高くさせる方向にあり、機関銃式に代表される連発式の機械は蓋然性の要素を大きくする方向となった。それは事業としての安定的な収益を阻害する側面をもっていたが、それゆえに経営能力等に依存してホール間の競争のなかでの淘汰が進行することになった。そのなかで射倖性が高いという理由を根拠に、1955年以降、パチンコ人気をもたらした連発式機械を全面禁止するという規制が導入され、このことによって順調であったパチンコ産業の成長は転換点を迎えることとなったのである。

 このような産業全体の流れのなかで、M社という時代を代表する企業は、次のような歴史をたどることになった。M社は1955年の規制までは代表的な企業として成長していた。機械販売部門は、圧倒的な人気に支えられた全国市場の基盤をもち、高い収益性を保ちながら同社の主要な事業部門となっていた。4店舗のホールは、射倖性の機械の出現によって、一旦はマイナス収益となった。蓋然性は、機械自体がもつ出玉の不確実性を高くし、1人当たりの投資額に制約を与えたからであった。釘調整に関する卓越な経営資源を有するM社は、翌年には再び収益を上げる方向になっていった。しかし、同社の機械販売事業とホール事業は、1955年の規制によって、再編を余儀なくされることとなった。両事業に絶対的な収益の激減をもたらしただけでなく、特に前者については東京市場が消滅するという決定的な打撃を受け、事業再編という企業としての質的な変化をせざるを得なかった。長期的には、M社は新事業としてホテル業に参入するなどの戦略を採用し、事業の再編をはかるなかで、パチンコ産業を代表する企業として成長する道を閉ざす結果となった。他方で、M社のホール経営の回復からみると、連発式機械の禁止によって射倖性が抑えられた結果、安定的な収益が確保されるようになった。このことは、規制によって、M社にとっては、機械販売事業の限界という個別企業としての成長性に制約が加えられた反面、同社を含むホール一般の事業安定の可能性を切り開き、その意味でパチンコ産業の発展のための基盤を作り出したと理解できる。

 以上の分析から、1950年代を通して、規制強化によって与えられた「射幸性」の抑制の下で、パチンコホールの経営ノウハウの蓄積が可能になり、ホール事業が安定したことが明らかになった。つまり、射倖性の制限を名目にした規制による環境変化が、ホールやメーカーのその後の発展に関わる重要な問題を提起することになった。連発式禁止令がこの産業に及ぼした長期的な影響を、次期の産業動向に関連付けながら、まとめることにしよう。

 1955年の連発式禁止は、ホール数の激減をもたらし、有力機械メーカーの経営を直撃した結果、パチンコ機械製造の競争構造を大きく変化させた。ただし、パチンコ産業から見た「規制」というのは、何時何が起こるかわからないという不確実性だけで片付けられるものではない。すなわち、M社の規制後の事業再編の過程から明らかになったように、規制産業としてのパチンコ産業が、需要側の潜在的なギャンブル的要素を過度に助長しない程度で掘り起こすことが、供給側としてのパチンコ産業成長のカギになったと要約できる。一方で、規制の一要因であった買人・暴力団問題とその背後にある射倖性は、機械規制だけでは一時的な効果に止まり、未解決のまま1960年代に持ち越された。パチンコ産業の長期的な発展の上で、違法であった換金をどう解決するかが構造的な課題となった。連発式禁止のようなかたちでの規制の再現は、まさに換金とそれにまつわる暴力団関与に業界がどのように対応するかに依存することになった。この解決の兆しは、ホール事業者の不正な事業についての認識が深まり、景品買い業者をホールとは別に取り込むような景品売買の組織化が進展する1960年代まで待たなければならなかった。このことは、暴力団との関連を断ち切って、換金の利益を産業内に取り込むことにより、ホールの出玉率を上げながら、同時に収益を確保できる道を切り開いた。

 他方で、連発式禁止は、ホール事業において、多くの企業を廃業に追い込むというマイナスの影響だけを与えたわけではなかった。正村ゲージは、機械がもっていた蓋然性を収益の確保に転換させていたが、連発式がそのノウハウの蓄積を無効にした可能性が高かったからである。機械体系が再び単発式に再転換したことによって、安定的な収益が確保できたホールが存在した。釘調整が重要であったことは変わりないが、こうした面での経営ノウハウ一般の蓄積がみられ、1ホールあたりの機械台数の増加、即ちホールの規模が拡大すれば、収益の安定的な上昇が期待できた。実際に、1960年代は、パチンコ産業史の中で、ホール規模の上昇がもっとも著しかった時期である。しかも、経営ノウハウの蓄積は、1950年代の初めのような新規参入の増加を事実上困難にする、参入障壁の確立を意味する。こうした展開が、本稿が分析した1950年代半ば以降の時期に準備された。

 先述したように、規制強化は、機械メーカーの競争構造を大きく変えた。全国市場をもつ有力メーカーを、地方メーカーに突き落としただけに留まらず、激しい季節性という条件をメーカーの経営に付与した。この時期には、1970年までに有力企業として君臨することになる、西陣商会と平和商会の台頭が著しい。この2社は、正村ゲージが業界のデファクト・デザインとして定着したなかで、ヤクモノという要素に関連して人気商品を開発し、業界トップに踊り出た。射倖性の低下により、「飽きられる」からマイナーでもデザイン・チェンジをして客の関心を惹き付ける必要が生じた。そのような市場の変化に対して、M社は、人気機種を打ち出すことができなかった。このように、連発式禁止令という規制によって作り出された機械体系の変化とパチンコ機械の許可制の導入という新たな規制の導入は、その後の産業発展において、流行の創造とそれへの対応が求められるパチンコ機械の開発において、規制をどのように織り込んでいくかという課題を残した。1店舗当りの設置台数が拡大する1960年代以降は、季節性という経営上の困難を内包しながら、定期的に行われる入替市場において、安定的な取引先を確保すれば、機械メーカーとしての成長が可能なはずであった。一方で、連発式禁止がもたらした価格低下と技術的な後退は、模造品の続出と物品税問題を浮き彫りにし、これらによる市場の不安定への対応を提起することになった。正村ゲージがそうであったように、産業発展を促した模倣が、厳しい規制の下では、開発を指向するメーカーが充分な利益を確保することを困難にしたからである。こうしたなかで射幸性の低下のなかで、娯楽性の要素を高めた新規機種の提供できるメーカー経営の安定化が、長期的な産業発展においては次なる課題となったのである。

 本報告で明らかにしたように、蘇生期の1950年代初頭にみられたホール事業の不安定さは、「産業化」のため最初に乗り越えるべき困難であった。それは皮肉にも規制という外性要因によって射幸性を抑制されるなかで実現した。こうしてパチンコ産業は、規制がもたらした射幸性の抑制と1人当たりの限界投資額の低下の下で、産業化への第一歩を踏み出したのである。1950年代のホールにおける安定的な事業化の道の発見を前提にして、いよいよメーカーの生き残りをかけて戦いが始まる。


第12回研究会参加記

佐貫 正和(総合研究大学院大学・院)

 本参加記では、最初に田中報告に関して、自分の問題意識から生じた共感を大会趣旨とリンクさせて、結論への疑問、今後の研究への期待などを述べる。次に原山報告と韓報告に対して、大会趣旨とリンクした疑問と期待を述べる。最後に本学会の雰囲気を述べる。思想史を学ぶ私には経済学の蓄積が乏しく、各報告への主張やバランスに偏りが生じると思うが、「偏見すらも世界を認識するための手がかりになる」と開き直って書かせて頂いた。

 先ず、田中報告に対する共感を述べる。私には、「すてきなモノが欲しくて欲しくてたまらない。それを持っていないと自分の価値が無いように思い込み、逆にそれを持ったら自分の価値が証明できるという気分」が一体いつから生じたのか、という問題意識があった。私は1979年東京生まれだが、小学校時代から83年「ファミリーコンピューター」、85年「ビックリマンチョコ」、86年「レーサーミニ四駆」などモノの洗礼を受けた。いつの間にか教室でブームとなり、持っていないと何か取り残された気分になり、持っていれば周りに自慢できるヒーローとなれる気分が作られていて、モノを求めて町の玩具屋を自転車で駆け巡った記憶がよみがえる。言い換えれば、「モノの所有と組み合わせにより他者と差別化をはかることが自分の価値を決定する」という気分が何時、如何に生じたのかという問題になる。趣旨の「高度成長期の消費と娯楽」に関連させれば、「80~90年代に都市部で成長期を送った世代を貫く、消費が人間価値を決定する時代的気分の形成プロセス」となる。

 田中報告はその問いにヒントをくれた。田中氏は、欲望を「主観的には自発的なものだが、客観的には操作されたもの」と定義して、「80年代的なバブルの社会を体験する中で、なぜ欲望が生まれたのか」という問題意識から出発した。そして、『主婦之友』の「おしゃれ」の問題を対象に、出費を控えて国・夫への奉仕に献身する主婦役割から、消費を肯定する個人主義(個人の楽しみ))へ変化する戦後主婦の経験の変遷を考察した。分析では国・夫への献身という<自分の外>にある主婦役割が、個人の楽しみという<自分の内>へ変化するメカニズムが理解できた。この文脈を推し進めていくと、「モノの所有と組み合わせにより他者と差別化をはかることが自分の価値を決める気分」につながる思想の道筋が見えてくるのではないか。この道筋は、「おしゃれ」の変化が、戦前から高度成長期まで存在した国や家族から求められる役割分担を果たす生き方から、高度成長期以降の自分の楽しみを優先させる個人主義的な生き方へ変化した、戦後史の経験変化を象徴するように思えた。

 次に疑問を述べる。田中氏は、「おしゃれ」は主婦役割の外にある自分への脱出という内的意味を持ち、「おしゃれを内的意味として抱えたショッピングの余暇(レジャー)化」と結論した。私には外と内の関わりあいのメカニズムは如何なるものかという疑問が生じた。戦後史の経験変化の象徴を先述したが、個人における役割分担や個人主義は、一方が消えて一方に移行するものではなく、調和~拮抗~矛盾しながら両者が並存するものである。重要なのは両者の関わりあいではないか。田中氏が挙げた吉本秀子「真紅の帽子」『読者の随筆 おしゃれ』(1962-2)を挙げよう。「(親友の)真紅のモヘヤの帽子がほしくなってしまった。白一色のゲレンデで、真紅の帽子がどんなに映えるか、考えただけで胸がふるえ、うずいた。(中略)ときどき夫から、『ハンドバックの赤ひとつで、赤はもう充分きいているよ』なんていわれている」。ここでは、親友の帽子に羨ましさを感じ、自分も欲しいという吉本の欲望が伺えるが、同時に夫(家族)の眼差しも意識されている。つまり、吉本の中には親友への羨みと自身の欲望と夫の制約が交じっている。問題は、外と内の関わりあいのメカニズム分析になるのではないか。ここからは、親友・吉本・夫は役割分担と個人主義(外と内)と分類可能なのか、その関わりあいのメカニズムは如何なるものか、この個別事例は戦後主婦の経験にとって如何に位置づけされるべきか、などの疑問が次々に生まれる。

 続いて今後の期待を述べる。第1に、「おしゃれ」研究の分析概念を提示・確立して欲しい。個人の中には、国家・企業・家族・他者・社会意識・経済的条件・自分などの様々な要素が内包されていて、それは場所・時間・社会地位が絡み合う具体的状況下で、欲望の規制要因にも扇動要因にもなる。分析概念が必要ではないか。第2に、雑誌分析の適応範囲を明確にして欲しい。『主婦の友』の変化は、「戦後主婦の高度成長期の体験変化そのものを表示」と主張されていた。しかし、本当に戦後主婦の体験変化そのものなのか。字面には書かれない戦後主婦の体験はより深く多様ではないか。「おしゃれ」には、「どのような戦後女性の経験が映し出されているのか」という幅広い研究対象への意欲が伺えるので、体験の複雑性を明らかにして欲しい。第3に、目指す研究の方向性(意義)をより明確にして欲しい。戦後女性の多様な経験を内在的に明らかにするのか、高度成長期の社会構造を多角的に明らかにするのか、欲望のメカニズム解明とそれを生み出す社会変革を目指すのか。「おしゃれ」の問題は様々な可能性を秘めた分野であるからこそ、今後に期待したい。

 原山報告では、趣旨の「消費」と関連して、「消費者性の生成」の定義と具体的中身がよく分からなかった。「消費者像の生成」は、「人々の生活が、地域経済や流通講堂の変容というフィルターを通して、『消費者』として位置づけられていくプロセス」を指すように思えた。しかし「消費者性」に関しては、「消費者像」や「消費性」と何が異なるのか、自己規定か他者規定なのか、中身は一体何を指すのか等が不明だった。私の理解不足もあるだろうが、今後は題目に掲げた「消費者性」をより明確にして欲しい。

 韓報告では、「『所得』や『他の娯楽』など、『需要側』に関連する要素、影響を前提とし、パチンコ産業を『供給側』に注目して内的要因から説明」する視点から、50年代の法的規制と経営方式の関連性を考察した。趣旨と関連させると、パチンコ産業の「供給側」に注目することが、「消費と娯楽」という問題を考える上で如何なる意味があるのか不明だった。言い換えれば、パチンコ産業を題材に「消費と娯楽」を掘り下げるのであれば、産業構造という「供給側」の変化を主眼に考察した上で、前提とした「需要側」の変化・連続も考察すべきではないか。私見だが、寺山修司『誰か故郷を想はざる』(角川文庫2005年122~128頁)に出てくるようなパチンコ屋に出入りしていた人々は、「1950年代におけるパチンコ産業の構造変化」の中で一体どうなったのか。たった百円のタマに「生活がかかっている」北朝鮮出身の李さん。「パチンコという手職を見つけて更生した」もと傷痍軍人の「兵隊」と呼ばれる男。スピーカーから流れる「逃げた女房に未練はなあああいがお乳欲しがるこの子が可愛い」と唄う一筋太郎のレコード。「パチンコ屋に入った途端にホッとする。つまり、開放感があるんですな。自分が自分でなくなることの快感みたいなものがあって、われを忘れて熱中している。(中略・横に妻がいて)やっぱり『我を忘れて』パチンコをやっている。それを見てゾーッとした」と述懐するサラリーマン。子供タマ拾いをさせて「しんせい」一個と替える貧しい父親など。高度成長期の中で、この「ある種の戦前」と「ある種の戦後」が交じり合う両義的な経験を抱えて生きる人びとはどうなったのだろうか。

 最後に、同時代史学会には創立当初から何度も参加させて頂いているので、私が感じている同時代史学会の雰囲気を述べる。面白い点は、「歴史学なら歴史学だけ研究を」などという学問のタコツボ化が起こらずに、さまざまな分野の研究者が他流試合を行う場となることだと思う。今後期待する課題は、各分野が集まり多様な議論を行うからこそ、各分野における問題意識・分析概念・研究意義などの学問姿勢をより明確に出して、異分野の学問に対する共通と差異をはっきり提示して欲しいということである。


<第13回研究会の報告>

ベトナム戦争終結と試行錯誤の日本外交

福田ドクトリン―1970年代の「自主外交」の象徴として

若月 秀和(北海学園大学)

 ポスト・ベトナム期にあたる1977年8月、東南アジア諸国を歴訪した福田赳夫首相が発表したのが、福田ドクトリンである。その内容を簡潔にいえば、日本の軍事大国化を否定するとともに、東南アジア諸国と対等な立場から、東南アジア全域の平和と安定に寄与しようとしたものである。

 すでに発表されてから30年近くの時間が経過しているにもかかわらず、現在においても日本の対アジア外交の拠り所として語られるケースがしばしばである。戦後日本外交の先行研究においても、1970年代の日本の「自主外交」の具体的表れとして、総じて画期的な性格を有するものとして評価される傾向にある。特に、先行研究では、戦後いわゆる「大国」の地位を降りた日本が、大国間権力政治の後退したベトナム戦争後の東南アジアに向けて、精力的に自らの活躍を求めたものが福田ドクトリンであったと意義付けられている。

 しかし、ベトナム戦争後の東南アジアに積極的に関与を求めた日本外交が、大国間の権力政治と全く関わりを持たないわけではなかったし、当時の日本の政策決定者たちが、当該地域をめぐる米国・中国・ソ連の動きに注意を払っていなかったわけではなかった。東南アジアは日本外交にとって他の地域よりも活躍しやすいフィールドではあったが、働きかけの対象としては必ずしも生易しい場所ではなかった。何よりも、「大国」の地位を降りたとはいえ、すでに経済大国となっていた日本が、米国がプレゼンスを著しく低下させ、中ソ両国が影響力拡大を競う東南アジア地域に対して、外交的な試行錯誤を続けたという自体が、政治的・戦略的に何らかの意義を有するものであった。

 そこで、本報告では、ベトナム戦争終結を受けた日本の対東南アジア外交の試行錯誤の過程を検証することを通じて、1970年代の「自主外交」がいかなる性格を持っていたのか(「自主」という言葉の中身は何であるのか)、またその意義と限界は何であるのか、さらにはその今日的意義は何であったのかについて明らかにすることを試みた。

日本外交の試行錯誤

 1971年における米中和解の表面化を契機に、日本政府は北ベトナムとの政府間接触に入り、73年には外交関係を樹立するものの、インドシナ半島での戦闘が依然続いているなかにあっては、日本の外交上の裁量も大きく制約された。やはり、日本の対東南アジア外交が活発化するのは、1975年のベトナム戦争終結―サイゴン陥落―以後であった。米国がベトナム戦争での後遺症によって明確な東南アジア政策を打ち出せない状況の下、日本は全土統一を果たしつつあった社会主義・ベトナムとの関係を構築する一方、インドシナ社会主義化の衝撃を受け、地域機構としての結束を強め始めていたASEAN(東南アジア諸国連合)を地域政策の要として位置づけて、それとの関係を強化した。

 これらポスト・ベトナムに対応した新たな東南アジア政策は、1976年末に成立した福田政権の政治的リーダーシップを通じて、国際社会に対して表明されることになる。福田首相は自らの東南アジア歴訪までに、米国・カーター政権とのアジア政策に関する協議を重ね、米国首脳に対し、在韓米軍撤退問題への慎重な対応や対ASEAN支持の明確化、アジア太平洋地域における米国のプレゼンス維持の確約などを求めた。

 その一方で、福田は、東南アジアへの影響力浸透を図る中ソ両国に対する防波堤としてベトナムをとらえ、同国との関係を保っていく考えを持っていた。米国ともこの認識で一致しており、1977年5月に米越国交正常化交渉が始まっている。また、反共主義の立場からベトナムへの警戒心を持ち続けるASEAN諸国首脳たちに対しても、ベトナムのナショナリズムの強さを指摘しつつ、政治・社会体制の相違を超えて同国との関係を維持する必要性を説いている。

 このように日米両国がアジア政策で協調している構図を明示したうえで、福田は、東南アジア歴訪にあたって、ASEANの地域協力深化とその加盟諸国の安定化を目指して、ASEAN工業プロジェクトへの10億ドルの資金供与やODA(政府開発援助)倍増計画など、経済協力の拡充策を明らかにした。日本が経済援助や経済交流を通じて、アジアの自由主義諸国の平和と安定に貢献していること、すなわち、「平和国家・日本」のイメージを国際社会に対して効果的にアピールしたのである。そして、福田ドクトリンの表明を通じて、将来において生じかねないASEAN―ベトナム関係の緊張激化や、この地域への中ソ対立の波及など国際環境の分極化要因を未然に防ぐ方針が、国際的に表明されたのである。

 その後、日本政府は福田ドクトリンの方向性の実践へと動いた。1978年4月にベトナムとの債権債務継承交渉を決着させた後、対越経済援助の供与を本格化させて、同国の対ソ傾斜の抑制を図るようになる。また、ベトナム側からの強い意向を受けて、米越国交正常化交渉の促進を側面から後押しした。これは、インドシナ情勢を冷戦的視点でとらえない米国務省の対越正常化推進派の動きを支えるものであった。さらに、ベトナムと鋭く対立するカンボジアのポル・ポト政権にもアプローチし、その内政・外交両面の穏健化を促そうとした。

 しかし、福田ドクトリンが前提としていた国際環境は、1978年以降急速に転換していた。ベトナムとカンボジア、中越間の対立が、中ソ対立や米ソ対立と連動しながら激化していき、東アジアは新冷戦時代の対立構図に向けて次第に分極化していったのである。同年末のベトナムのカンボジア侵攻は、東南アジアに対する日本政府の外交的イニシアティブに大きな打撃を与えた。そして、1979年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻によりデタントが終焉を迎えると、福田ドクトリンで掲げられた政治目標は棚上げされ、日本の対東南アジア外交は、ベトナムに対抗するASEANをテコ入れするものに変質していった。

複眼的発想に基づいた対アジア外交を求めて

 1970年代の日本の対東南アジア外交は、「対米自主か対米協調か」や「米国かアジアか」といった単純な二者択一的発想を超えて、両者のバランスをとりながら、国際社会における日本の役割のあり方を追求していったといえる。

 まず、一方で、福田首相の東南アジア歴訪までに、日本政府は米国政府首脳とのアジア政策に関する協議を重ねた。これによって、それまでに形成されたASEANに対する支援とベトナムへの接近策という「対米自主」的な外交を、米国との共同歩調で推進していく形に発展させたのである。

 また、福田ドクトリンの重要な要素である対ベトナム接近は、米国を駆逐した社会主義国・ベトナムに接近したという点に着目すれば、「対米自主」あるいは「アジア重視」としての外交という評価ができる。しかし、この対越接近の背景には、ベトナムの対ソ傾斜、換言すれば、インドシナ地域に対する過大なソ連の影響力浸透を阻止する意図が存在していたのは明らかである。この意図は、当時の米国の対アジア戦略上の利益とも重なっていた。

 それゆえに、福田は首相在任中、日本を「西側の一員」と位置づける発言を行っていないものの、インドシナ社会主義化や在韓米軍撤退計画への懸念を強めるASEANを政治・経済両面で積極的に支援したことを含めて、事実上、広い意味で西側陣営の安全保障に貢献する外交を展開したとすらいえる。実際に、この時期に始まる日本の対ASEAN支援が、インドシナ社会主義化によって生じたASEAN諸国の不安感を払拭する一助となり、その後のASEANの経済成長、地域協力の進展に貢献した。

 しかし、他方で、「対米自主」の要素も存在した。ベトナム戦争終結後においては、東南アジア地域における米国主導の冷戦対立構造が崩壊して、米国の当該地域への政策が不明確であった。そうした状況のなかで、日本は福田の歴訪を通じて、ASEAN諸国と連帯しながら、東南アジアでの米国のプレゼンス喪失で生じた力の空白を日本の経済力で埋めると同時に、ASEAN―インドシナ関係の緊張激化や、この地域への中ソ対立の波及といった地域秩序の分極化要因の芽を事前に摘み取る方向性を提示した。伝統的な意味での「大国」の地位を降りたとはいえ、日本が、米国がプレゼンスを著しく低下させ、中ソ両国が影響力拡大を競い合う東南アジア地域に対して、外交的な試行錯誤を続けたということ自体が、事実上「大国」としての役割を果たそうという意思表明に他ならなかった。

 むろん、この時期の外交的試みは必ずしも成功したわけではない。1978年以降の国際情勢の急変により、中ソ対立がインドシナに波及した結果、第三次インドシナ紛争の勃発につながってしまう。結局、ベトナムがソ連との軍事的関係を強めて、ASEANと鋭い対立関係に陥ってしまうなど、福田ドクトリンが目指した方向とは全く逆の事態が生じてしまったのである。しかも、この間に、債権債務の継承問題を重視するあまりに対越援助供与の好機を逸したことや、ベトナムの自主独立路線を過大評価する一方で、日中平和友好条約の締結がインドシナ情勢にもたらす影響を過小評価するなど、日本外交の機動性の低さや状況認識の甘さも露呈してしまったことも否定できない。

 それでも、アジアの国際政治における日本の存在感は、福田ドクトリンが標榜された1977~78年にかけて大幅に高まったのは間違いない。以上の過程で見られるのは、「対米自主」と「対米協調」との両立であり、「米国もアジアも」という複眼的発想である。

 さて、当時から約30年を経た2006年現在、小泉純一郎政権の外交が「対米協調」に偏重しているという批判を背景に、アジア諸国、特に近隣諸国に向けた日本の「自主外交」の必要性が主張されてきている。まさに、これまで述べてきた「対米自主」と「対米協調」の問題は過去も現在も日本外交に付きまとっている。

 米国はイラクの不安定化やイランの核開発など、中東問題により多くの精力を割かねばならず、東アジア情勢について十分な目配りができていない。それゆえに、日本が同盟国として、この地域で建設的な役割を担うことを期待している。あたかも、30年前、ベトナム後遺症に苦しむカーター政権が、日本がアジアにおいて政治・経済両面でより大きな役割を果たすことを期待したのとよく似た状況が現在あるのである。

 日本が取るべき選択は、「対米自主」・「アジア重視」という掛け声の下に、日米同盟関係を弱めて、近隣諸国の立場・見解に同調するという安易なものであってはならない、そうではなく、1970年代の対東南アジア外交の如く、米国との協調関係を一層深化させながら、アジアにおける日本の外交基盤を固めていくような方向でなければならない。


ポスト・ベトナム戦争期における市民運動の展開

鶴見良行研究序説

道場 親信

1.70年代市民運動と「アジア」──反戦市民運動と他領域の布置

 通常「ベトナム反戦運動」といわれる運動は、1965年2月に始まるアメリカ軍の北ベトナム空爆(北爆)への抗議行動を起点として考えられている。この時代は、多様な市民・住民運動の噴出期であったとともに、学生・新左翼運動の絶頂期でもあった。それは「戦後日本」の「繁栄」の意味が多様な形で問い直された時代でもあり、戦争に加担する日本政府への批判は、同時に彼方の戦争を背景に経済発展と「平和」を謳歌する自分たちの生活自体への批判と見直しへとつながっていった。70年代に入ると、入管闘争や日韓連帯運動(民主化支援、キーセン観光批判など)、反公害輸出、反公害・反開発住民運動、反戦市民運動、ウィメンズ・リブなどの諸運動が、相互に課題を重層させながら展開されていくことになる。

 こうした配置の中で、反戦市民運動の中から「アジア」を意識する新たな運動へと展開していく部分があらわれるとともに、「反戦市民運動」自体は、日常的構造としての「安保」を批判し、その構造強化に抵抗する運動として、「ポスト・ベトナム戦争期」固有の活動領域を設定していった(もちろん両者は共約不可能な形で分岐していたわけではない)。

 しかしながら、この時期の反戦市民運動は社会主義国の戦争、つまりベトナム・カンボジア戦争や中越戦争、アフガン戦争(ソ連のアフガン侵略)に対して、有効な「反戦平和」の行動をとることができなかった。この空白を埋めたのが、JVCやSVAなどの人道支援NGOであり、暴力の直接被害者への支援、という行動スタイルと問題設定は、「反安保」型の反戦市民運動とはまだ出会っていなかった。

2.ベトナム反戦運動と「アジア」──ベ平連運動に即して

 では、ベトナム反戦運動の中から「アジア」の問題がどのように浮上してきたのか、いわゆる「神楽坂ベ平連」の活動に即して概観しておくことにしたい。

 ベ平連(「ベトナムに平和を! 市民連合」)が掲げた「ベトナムに平和を!」というスローガンは、ベトナム人民への同情・アメリカへの怒りから出発して、戦争遂行のためにフル稼動する安保体制=「戦争機械」の可視化とその「機械」の一部としての自己の発見を介して、自らの「加害性」への問いへと深められていった。そして「安保」はその結節点となった。

 だが、70年6月を頂点として「70年安保」闘争が収束していくと、60年代末以来の新左翼運動、学生運動、反戦青年労働者と競合・協働の関係によって展開されてきたこの運動は求心力と動員を低下させていくことになる。「これからが本当の闘いだ」ということばが何度も語られるようになったということが、逆に運動の後退を物語っていたように思われる。と同時に、活動を持続する中で、「反戦」の課題の多様化・多元化も進んでいった。

 ベ平連運動においては、反戦米兵の抵抗運動と連帯し、米軍基地機能を阻止するとともに、基地そのものの解体をめざす「反軍運動」がこの時期から新たな展開を見せ、同時に「反戦自衛官」との連帯や、軍需産業への「一株運動」などがこれ以降取り組まれていくことになる。そして、1972年後半に入ると、和平間近という見通しの中で、米軍撤退後、あるいは「ベトナム戦争後」の運動の模索が始められることになる。72年12月に浦和で開かれたベ平連全国懇談会では、鶴見良行は「アメリカ、日本両政府によって始められているアジアへの足場作りにどう対応していくかも考えていかなくてはならないだろう」と述べている(『ベ平連ニュース』第88号、1973.1)。73年1月にはパリ和平協定締結、4月には京都ベ平連が解散した。こうした動きの中で、各地のベ平連では「解散」「持続」論議が活性化するが、「神楽坂ベ平連」は74年1月に解散集会を開いた。

 このころ、ベ平連運動の中では急速に「アジア」が浮上してくる。とりわけ和平協定締結後の「復興」ビジネスに政府・財界が関与を志向し出すと、戦争加担への反省を欠き、戦争で儲けた者たちが今度は「復興」で儲けようとすることに対する批判を強め、和田春樹らは「ハイエナ企業を監視する会」を結成し、小田実らは経団連へのデモを呼びかける。73年9月の『ベ平連ニュース』(第96号)で小田実は「具体的な行動で「アジア」への展望を」と語り、同じ号の編集後記には山口文憲が「いまベ平連を一個の妖怪が徘徊している。いや、一個の妖怪じゃなくて、一種のカゼかな。その名を“アジア風邪”。実際ショーケツをきわめているのだ」と記していた。「ポスト・ベトナム戦争期」をにらんで、「アジア」が重要なキーワードとなってきていることが確認できよう。その後小田は「アジア人大学校」「アジア人大集会」を提起し、数回の講座と集会を行なっている。

  また、「アジア」への視線は、反公害運動と結合することで具体的な行動と現場を得ることにもなった。公害批判が高まり、公害を規制する立法が相次ぐ中で、規制の緩いアジア諸国へプラントを移転しようとする企業に対し、「公害輸出」を批判し監視する運動、「公害輸出通報センター」が出発することになる。他方、武藤一羊、北沢洋子や鶴見良行らもまた「アジア太平洋資料センター(PARC)」を1973年3月に設立する。

3.鶴見良行の軌跡──ベトナム反戦運動/以後

 鶴見良行は、ベトナム戦争期以前から生涯を貫く関心として、「国籍(とそれからの自由)」と自己の「存在」への問いを抱えてきたように思われる。外交官の息子としてアメリカで生まれた彼は、日米の二重国籍をもって成長した。国籍選択の時期となる18歳の時には、両国は戦争中であったため、アメリカ国籍は選択されないままに終わった。彼がのちに就職することになる国際文化会館は、ロックフェラーの寄付によって設立された日米親善のための機関であり、彼はそこで「知米派」の知識人として仕事をしていくことになった。その彼が、「日本」「アメリカ」双方のあり方に疑問を提示し、「アジア」に目を向けつつ両者から離脱する新たな思考を追求していくことになったのは、ベトナム戦争がきっかけであった。1965年6月に南ベトナムでの公開処刑に遭遇した彼は、「アジア」に対する強い意識をもつようになり、また、アメリカ軍の脱走兵に遭ったことで、国家原理を相対化し、より普遍的な抵抗の可能性を強く追求することになる。

 1966年5月には、戦争を支える「全体の構図」を探求する必要を訴えているが、これは日本、アメリカ、そしてアジアがどのような政治、経済、軍事的な関係によって結びつけられているかという関心を早くも提出したものである。1967年10月の論文「日本国民としての断念」では、戦争を遂行する主権国家に対して、反戦運動は「反体制運動」たらざるをえず、したがって国家の構成員としての「国民」という立場を断念し、個人の次元から国家との関係を問い直していかなくてはならないと主張している。こうした視点から、アジアと自分たちとの関係、この関係を規定する構造に対して思考が深められ、「わが内なるベトナム」という認識を媒介として、日常生活の中に「社会化された安保」の批判へと議論が展開されていくことになる。1970年2月に、これらの論考を集めた最初の著作、『反権力の思想と行動』を刊行した鶴見は、あとがきにおいて「アメリカを手掛かりとして日本を考察する方向とは逆に、アジアを手掛かりとして日本を考察し運動を設計する方向がいまの私たちに不可欠であること」を述べていた。

 この1970年4月、鶴見はフィリピン・バタアン州の保税(輸出)加工区を実見し、そこからいわゆる「新帝国主義」(鶴見の用語でいえば「統合帝国主義」)の問題へと関心を深めていく。鶴見の「アジア」研究の視点は、そうした非軍事的な地域支配や「援助」を通じた支配機構へと向かうことで、「ポスト・ベトナム戦争期」の地域再編を問題化する質を確保していた。1972年には次のように述べている。

 「戦争を契機として日本とベトナムが(権力も運動の側も)つながったということは、新しい植民地主義や帝国主義の仕組みを学んでいくのには、まずい出発点ではない。戦争にさいしてそれぞれの社会はその潜在的な可能性を全面的に開発し、国際的な構造が人びとの眼にあらわになるから。事実われわれは、日本の産軍複合体がどの程度まで、米国のそれの下請けとなっているかを、脱走米兵の援助活動で学んだ。/だが、戦争でつながったということは、戦争でしかつながらなかったことでもある。[…]これからの日本・アジア・アメリカの関係は、もっと尋常な形式によって支配が貫かれるということになっていくだろう。たとえば、技術援助、開発援助、教育援助、さらにはアジア太平洋経済圏などを資本の論理が貫徹する形で。」(「日本の悪霊とアジア」1972.11)

 こうした「尋常な形式」による「支配」の問題とは、まさにパリ協定成立後に「復興」ビジネスを通じてベトナムに介入し、「アジア」への経済進出を果たそうとしていた日本資本の問題でもあった。鶴見は「アジア」の問題に取り組みうる市民運動的センスをもった「自前の研究者」を育てるべく、1971年5月から「アジア勉強会(アジア塾)」をスタートしている。そして、「アジア」に向き合う中で「日本人ばなれ」をし、「どうしたら[…]<される側>の国の<される側>の人びとと実践的につながってゆけるか」という問題(「日本人ばなれの生き方について」1972.6)を考えていくことを唱えていた。ここには「日本国民としての断念」のモチーフと「アジア」への実践的関心とが統合された形であらわされている。

 この間、1969年11月には、英文で日本の反戦市民運動の動向を海外に発信する『AMPO』誌が創刊され、この『AMPO』誌との情報交換を通じて集まってきた海外の運動体の機関誌類を整理・公開し、自らも「アジア」を調査するシンクタンクとして設立されたのがPARCであった。このPARCにおいて鶴見は「アジア勉強会」のプロジェクトを継続していくとともに、「新帝国主義」の調査と批判、そして多国籍企業研究のプロジェクトへと展開していった。こうした研究の流れから、保税加工区の研究やバナナ研究などが生まれていったのである。この時期の鶴見の「アジア」研究は、「アジア」を歩くという後々まで続く姿勢を確立しながらも、いわば<帝国>の内在的批判という関心が強かったといえる。

 しかし、しばらくすると鶴見の市民運動との距離に変化が訪れている。1977年に彼が書いた「新左翼再考」においては、それまで取り組んでいた運動論を禁欲し、運動に対する調査報告の役割を自分の任務として引き受けたいという宣言がなされ、それはやがてPARCの活動自体から鶴見が離れていくことへとつながっていく。これ以後、彼の「アジア学」は、国境線によって仕切られ、定住者、農耕民を中心に記述される歴史像を脱し、定住に対する「移動」、陸に対する「沼地」「浜」「海」、中心に対する「辺境」にまなざしを据えた歴史像の探求へと進んでいく。それは、<帝国>の内側というよりは<帝国>の外へ、<帝国>の手に負えない世界へ、それを通じた<帝国(意識)>の相対化の可能性へと彼が進んでいったことを示しているように思われる。

 とはいえ、それは鶴見が「市民運動」と絶縁していったことを意味するものではない。自分の著作は「日本の市民のために書いている」と晩年にも鶴見は述べているし、そこには「日本社会のもっている一種の一国主義みたいなものをもっとこわしたい」「日本文化の閉鎖性というか、単一民族論のような幻想をこわしていきたい」という関心が終生貫かれていた(『対談集・歩きながら考える』2005.6)。それは、ベトナム反戦運動に携わる中で萌し、「ポスト・ベトナム戦争期」における「アジア」と自らの関係を問い返す中で発芽した一つの想像力の、その持続ゆえの軌跡であったということができるだろう。

注記:本報告作成に当たっては、本野義雄氏、藤林泰氏、遠藤洋一氏、吉川勇一氏から貴重なお話をうかがうとともに、埼玉大学共生社会研究センターで「鶴見良行文庫」資料を参照させていただいた。記して感謝の意を表したい。


日中貿易の拡大と対米経済関係の調整

―稲山路線を中心に

邱 麗珍(北海道大学)

はじめに

 ベトナム戦争期において日本は、重化学工業製品を主としてアメリカおよびアメリカがベトナム戦争を通じてドル散布を行った地域、すなわち沖縄、韓国、香港、台湾、フィリピン、タイ、南ベトナムへの輸出を拡大することで、高度成長を持続した。これによって、日本はアメリカに次ぐ自由世界第二位の経済大国に台頭することになった。しかし、日米繊維摩擦の激化に象徴されるように、こうした日本の輸出拡大は日米関係の緊張・対立を生み出した。さらに日米間の貿易不均衡は、米国の国際収支の悪化に繋がり、戦後米国を中心に構築されてきたIMF体制崩壊の一因となった。そして、1971年のドル・ショック以降、日本にとって円の切り上げを回避するために、対米経済関係を調整することが重大な課題となったのである。一方、1972年の日中国交正常化実現に伴い、対中国貿易拡大が新たな政策課題として浮上した。こうして、ポスト・ベトナム戦争期において日本は、対米経済関係の調整と対中国貿易拡大という二つの課題に直面することになった。

 本報告では、この二つの課題がいかなる関連性を持っていたかを、ポスト・ベトナム戦争期の対米経済交渉と対中経済交渉の中心にいた日本の鉄鋼業界のリーダー、稲山嘉寛に焦点を合わせて検討する。

 稲山に関して、これまであまり研究はないが、古川万太郎の『日中戦後関係史』、李恩民の『転換期の中国・日本と台湾』等の日中関係の先行研究が代表するように、1978年の日中長期貿易取決めの締結をめぐる稲山の対中経済交渉は、中国原油の獲得を目的とする資源外交の視点から解釈されてきた。 

 しかし、実際の取決めの交渉過程を検証すると、稲山ら日本の民間経済首脳にとって中国原油の確保が主要な目標だったとは必ずしも言えない。重質油の中国原油は、流動点が高く、一般の小口の消費者に持っていくことは困難である。日本において重油を使うのは主に電力会社と鉄鋼業者であった。ところが、その需要分は既にインドネシアからのミナス原油によって賄われていた。1973年に、中国原油が日本にはじめて輸入されて以降、一時的に輸入量が増加することはあったが、その後は伸び悩むことになった。実際、中国側との交渉過程において、日本側は中国原油の輸入拡大について消極的であった。そして1978年の取決め締結の際には、中国原油をどこが受け入れるかが日本国内で問題となった。

 こうした先行研究の資源外交論の問題点を踏まえて、本報告では稲山の考えを、1970年代日本の経済成長問題という、より総合的な視点から捉える。特に注意を払うのは対米経済関係の調整と対中貿易の拡大との連動性である。その際、報告者は「稲山路線」という一つの仮説を立てる。「稲山路線」において、1970年代の日中貿易拡大推進は、1960年代後半に、対米輸出依存の経済成長路線が行き詰まったことに対する、官民協調の対応の一つであった。本報告では主にこの主題についての検証を行う。

稲山嘉寛の対米輸出自主規制論

 まず、1960年代後半、次第に緊張化した日米経済関係に、稲山がどのように対応したかをみてみよう。日本の鉄鋼輸出は、1960年代以降アメリカ市場に集中するようになった。鉄鋼の対米集中輸出は日米経済関係の緊張の火種になる危険性をはらんでいたが、繊維の対米輸出問題のように、日米の政治関係を損なうような深刻な対立にまで発展することはなかった。ここで指導力を発揮したのが、日本鉄鋼連盟会長であった稲山である。対米輸出の自主規制に反対した繊維業界のリーダー宮崎輝旭化成社長と異なり、稲山は鉄鋼の対米輸出自主規制を積極的に進めた。1968年3月、米国政府の輸入課徴金実施と議会の鉄鋼輸入の割当法案を阻止するべく、稲山はウィルパー・ミルズ米国下院歳出歳入委員長、ソロモン国務次官補に会い、対米輸出の自主規制を行うことを表明した。また、その効果を高めるべく、国際鉄鋼協会(IISI、1967年設立)の民間ネットワークを通じて、日本と並ぶ対米鉄鋼輸出の主要国であったECの鉄鋼リーダーに働きかけ、共同歩調を取ることに成功した。こうした稲山の姿勢は、米国議会と米国政府から評価され、議会での鉄鋼輸入制限法案の審議が延期されることになった。さらに1968年の12月(第一次輸出自主規制)と1972年の5月(第二次輸出規制)、稲山は鉄鋼輸出組合理事長の名で米国国務長官宛てに対米鉄鋼の自主規制に関する書簡を送っている。鉄鋼の輸出制限問題が、繊維と違って深刻な対立へと発展するまでに至らなかったのは、このような稲山の努力によるものだった。

 1960年代後半以降浮上した日米の貿易摩擦問題について、稲山は常に、対米輸出の自主規制が最も効果的だと主張した。稲山は輸出の自主規制により円の切り上げを回避しようとしただけではなく、これによって鉄鋼業界の過当競争も是正しようとした。稲山は自主規制は「長い目でみて、国内のムダな競争はなくなり、価格も維持されて、業界全体のプラスになる」と考えたのである。

 戦後の「戦争なし鉄鋼不要論」に対し、稲山は経済復興・成長における基礎産業としての鉄鋼の重要性を強調してきた。彼は鉄鋼業の安定こそが、日本経済の安定に繋がるという「鉄は国家なり」の論者であった。その稲山にとって、鉄鋼業界の安定を脅かすのは業界の過当競争であった。過当競争が生じれば鉄鋼業者はコストを割ってでも鉄鋼を安売りし、売れば売るほど鉄鋼会社の経営が困難となる。その結果、会社が相次いで破産し、社会・経済が混乱に陥り、国家が危機に瀕することになるというのが稲山の考え方であった。

 鉄鋼業界の過当競争による日本経済の破産を回避するために、稲山は生産を中心とする自主調整が必要だと主張してきた。業者による輸出量の共同調整を必要とする対米輸出の自主規制を主張したのもこうした考え方に基づくものだったのである。稲山の対米輸出自主規制論は、彼の「鉄は国家なり」の論理と不可分の関係にあった。

日中貿易拡大に関する稲山構想

 一方、日中国交正常化の前後から、稲山は日中貿易拡大の方策を模索し始めた。岡崎嘉平太らの日中覚書貿易グループや田中脩二郎元日本国際貿易促進協会常務理事と協力して、1971年5月、稲山は中国アジア貿易構造センターを設立した。そして、中国との貿易を拡大するために、中国からの輸入をどのようにして増やすかについての調査・研究を進めた。この研究センターをベースに1972年8月、稲山は日本経済人訪中団を組織し、中国を訪問した。この際に、稲山は中国側に原油の対日輸出の可能性を打診した。稲山はこの訪中の後に、当時の通産大臣であった中曽根康弘及び通産官僚の支持のもとで日中経済協会の初代会長として迎えられた。稲山の訪中の後、中国は原油の対日輸出に踏み切り、稲山は中国原油受け入れのために設立された国際石油株式会社の取締役に就任した。

 さらに、1974年6月、武漢製鉄所に建設する圧延プラントの契約調印のため訪中した稲山は、日本が中国から石油5000万トン、石炭500万トンを輸入するのと引き換えに、日本から中国に設備・資材を輸出するという構想を中国側に打診した。以降、この構想を中心に稲山は対中経済交渉を積極的に展開した。そして、1978年2月にこの構想が日中長期貿易取決めの締結という形で実現することになった。その内容は、期間は1978年から1985年までの8年間、貿易総額は200億ドルで、日本から中国に技術及びプラント並びに建設用資材・機材を輸出し、中国から日本に原油と石炭を輸出するというものであった。

 このように、日中国交正常化以降、稲山は日中貿易拡大で中心的役割を果たした。稲山は中国側の要請を受けて、1972年には武漢製鉄所の建設、1978年には上海での製鉄所建設に、それぞれ協力することになった。当時、稲山の指導のもと、日本の鉄鋼業界は、1968年以降は対米輸出自主規制を、1971年末以降は対欧輸出自主規制を行っていた。さらに、1974年以降オイル・ショックにより日本の鉄鋼業界は長期不況に陥った。こうしたなか、製鉄所の建設案を含めた中国への鉄鋼輸出は、鉄鋼業界にとって重大な関心事となっていた。しかし、当時の中国では外貨が不足していた。そのため製鉄プラント・鋼材の対中輸出の見返りとして、中国原油を輸入しなければならなかったのである。

 鉄鋼や製鉄所のプラントの対中輸出のために、稲山が日中長期貿易取決めを構想し、実現したというならば、稲山の対中経済外交は単なる鉄鋼産業の利益の反映だと思われるかも知れない。しかし、ここで強調したいのは、稲山の対米輸出自主規制論を検討した際に触れたように、稲山の考えの中心にあったのが「鉄は国家なり」という論理だったことである。稲山にとって鉄の安定は国家経済の安定であり、鉄の生産をコントロールすることで貿易摩擦が解消され、世界平和が実現する。対中経済協力について、稲山は常に対中協力は、世界の平和、アジアの平和、日本の平和にとって必要があると語っていた。稲山の日中貿易拡大構想の背後にも、このような鉄の論理が潜んでいたのである。

 一方、稲山にとって日中貿易拡大、対中経済協力は、日米貿易摩擦をはじめとする対外経済摩擦の解決とも結び付けられていた。1979年2月に経団連会館で開かれた「日中経済交流の展望」の座談会において、稲山は次のように語っている。「いまは対米貿易収支のインバランスが問題になっていますが、アメリカへの輸出は減らして、買いたいという中国へ売るというほうがいいのではないか。もっと真剣に中国との貿易について考える必要があるのではないか」すなわち、稲山は対米貿易摩擦を解決するためにも、対中貿易を拡大する必要があると考えていたのである。

おわりに

 稲山の行動に示されているように、ポスト・ベトナム戦争期において日本は中国をはじめとするアジアとの貿易を拡大することによって、1960年代後半以降緊張化した日米経済関係に対処した。また、稲山の行動の背後には常に「鉄は国家となり」という論理が働いていることも見逃すことはできない。ポスト・ベトナム戦争期の日本の対中経済外交を考える際には、鉄鋼産業をはじめとする重化学工業の産業発展の問題に注意することが必要なのである。言うなれば、1970年代の日中貿易拡大推進の動きは、1960年代後半に対米輸出依存の経済成長路線が行き詰まったことに対応するものだった。これを報告者は「稲山路線」と名付けたい。なぜなら、このような路線を推進するに際して、稲山が中心的な役割を果たした人物であったと報告者は考えるからである。「稲山路線」は、1972年に稲山が日中経済協会の初代会長に就任したことにより制度的な形をとることになった。この日中経済協会は、日中国交正常化という大きな変化に対応して、これまでの民間貿易ルートを通産官僚のもとで統合し、他方で正常化を契機に拡大していく日中貿易を官民が協調して推進すべきだという考えから設立された。日中経済協会の主要な目的は、政府の協力のもとで、民間経済界の意見を統合したうえで、日中経済交流の長期的ビジョンを確立し、日中経済交流を推進する体制をつくりあげていくことにあった。それは、1978年の日中長期貿易取決め締結という形で結実することになる。このことと並行して、民間経済界における稲山の地位が上昇し、1980年に稲山は経団連の会長に就任することとなった。


第13回研究会参加記

昇 亜美子(日本学術振興会特別研究員)

 2006年7月8日、第13回研究会が立教大学キャンパスにおいて開催された。共通テーマとして「ポスト・ベトナム戦争期の日本とアジア」が設定され、主に1970年代のアジアの関係について、政治、経済、社会という多角的視点から考える、意欲的な報告が行なわれた。若月秀和氏(北海学園大学)による報告『ベトナム戦後終結と試行錯誤の日本外交』は政治外交の領域を、道場親信氏(大学非常勤講師)による報告『ポスト・ベトナム戦争期における市民運動の展開:鶴見良行研究所説』は社会運動の領域を、邱麗珍氏(北海道大学大学院)による報告『日中貿易の拡大と対米経済関係の調整―稲山路線を中心に』は民間経済外交の領域を扱うものであった。報告に続いて討論者である小林英夫氏(早稲田大学)と佐藤晋氏(二松学舎大学)及び研究会参加者からコメントと質問がなされた。

 若月報告は、「福田ドクトリン」の形成から挫折に至る試行錯誤の過程を詳細に分析することで、1970年代の日本の「自主外交」の内実は一体何であったのか、その意義と限界はどのようなものであったのか、を明らかにしようとするものであった。日本外交の展開を、中ソ対立のインドシナ地域への波及と米ソデタントの変化という、国際政治の文脈の中に位置づけながら、以下のような考察が行なわれた。

 福田ドクトリンは、ポスト・ベトナム期に日本がASEAN諸国と連帯することにより、経済協力を通じて、ポスト・ベトナムの地域秩序の安定を目指す試みであった。だが、福田ドクトリンが目指した地域秩序は、その後の中ソ対立のインドシナ地域への波及により、実現不可能になってしまう。「米中対ソ越」の対立構造が顕在化するに至り、福田の後を襲った大平政権は、慎重ながらも、次第に、「西側の一員」路線に舵を切り始め、福田ドクトリンに沿った東南アジア政策は事実上棚上げされることになるのである。

 若月氏は、このような展開を見せた1970年代の対東南アジア外交について、「対米自主」か「対米協調」か、あるいは、米国かアジアか、という単純な二者択一的発想を超え、両者のバランスを取りながら国際社会における日本の役割を追求していった、複眼的発想に基づいた政策であった、と評価をした。そして、東南アジア地域において米国主導の冷戦対立構造が転換する中、日本がASEAN諸国と連帯しながら、米軍の撤退による力の真空を日本の経済力で埋め、この地域への中ソ対立の波及による地域秩序の分極化を事前に防ぐことを目指す対東南アジア構想を明確に示したことは、アジアの国際政治における日本の存在感を著しく高めた、と指摘した。

 若月報告に関しては、ポスト・ベトナム期の日本外交の中に一貫して流れていたのは、経済利益の追求であり、それが、外交を試行錯誤させたのではないか、との指摘がなされた。また、福田ドクトリンから大平外交への転換には、対米追随だけではなく、対中追随の側面もあるのではないか、との質問が発せられた。

 道場報告は、ポスト・ベトナム戦争期の市民運動とアジアとのかかわりについて明らかにしながら、その中での鶴見良行の独自性についての考察を行なった。その中では、鶴見良行の著作の刺激的な文章を多数引用し、いわば鶴見自身に語らせる手法をとりながら、70年代の市民運動の展開と変化、そして鶴見の活動と思想の軌跡についての興味深い知見が示された。

 道場氏はまず、70年代の市民運動全般の展開とそこにおけるベトナム反戦運動の位置づけをおこなった。「戦後日本」の「繁栄」の意味が多様な形で問い直されたこの時代、市民運動の課題は多様化した。ベトナム反戦運動も、入管、反公害輸出、三里塚、水俣、リブなど、様々な課題に対する諸運動と接点を持ちながら展開されていく。このように、ベトナム反戦運動のみならず、他の課題、例えば反公害輸出運動において、市民運動は広い文脈でのアジアと直面していった。

 それでは、ベトナム反戦運動は鶴見良行の思想と活動においてどのような意味を持っていたのだろうか。道場氏は、鶴見の、戦争を支える「全体構造」へのまなざしや、「内なるベトナム」への認識を紹介したあと、ベトナム戦争末期からポスト・ベトナム期の鶴見の新たな活動について報告した。1970年のフィリピン・バターン州の輸出加工区での体験を転機として、鶴見は、ベトナム戦争を考える際の「全体構造」のまなざしを、アジア全体に広げ始める。そしてアジアを自分の足で歩きながら新たな学問を創り出していくのである。また、鶴見らは、アジア太平洋資料センター(PARC)を設立して、世界の各種の運動体の機関誌などの収集やアジアに関する調査を行なうようになる。

 道場報告に対しては、70年安保を転機として「ベ平連」的運動が終焉していったのは何故なのか、という問いが発せられた。また、当時の市民運動に関わった人たちが、東南アジアのナショナリズムをどう理解していたか、あるいは、日本政府のベトナム和平工作を知っていたらどのように反応しただろうか、という質問がなされた。

 邱報告は、対米経済関係の調整と対中経済関係の拡大という二つの課題に直面した、ポスト・ベトナム戦争期の日本の経済政策を、当時の鉄鋼業界のリーダーであった稲山嘉寛の役割に焦点を当てながら、明らかにするものであった。邱氏は、先行研究においては、日中長期貿易取り決めの締結が、民間経済の対中国資源外交の観点から解釈されており、対米経済関係という視点が欠落していた、と指摘した上で、次のような仮説を明らかにした。すなわち、1970年代の日中貿易拡大推進は、60年代後半に対米輸出依存の経済成長路線が行き詰ったことに対する、官民強調の対応の一つだった、というものであり、これを邱氏は「稲山路線」として、この仮説の検証をおこなった。

 日本からの鉄鋼輸出は58年以降アメリカ市場に集中しており、60年代後半には、繊維同様日米経済関係の火種になる危険性を持っていた。稲山は、この「日米貿易摩擦を解決するため、対米輸出自主規制のイニシアチブを取る。そして、日中国交正常化以降、稲山は、中国原油を中心に、長期安定の日中貿易拡大を促進する。重要なのは中国原油の獲得自体が目的ではなく、プラントなどの対中輸出拡大のための手段であったという点である。さらに当時の稲山の発言からは、日中貿易拡大、対中経済協力拡大を通じて、日米貿易摩擦の解消をはかろうと意図していたことが確認できる。

 邱報告に対しては、「稲山路線」と、石油ショック以降経済安全保障の考えが中心となっていた日本政府としての政策の間には緊張関係があったのかどうかについて質問がなされた。また、稲山の意図について分析を行なう際には、対米経済関係という側面だけではなく、国内的な視点も入れたほうがよいのではないか、との指摘があった。

 最後に、司会者の黒崎輝氏から、報告者と討論者に対して、今日の日本とアジアの関係に照らして、ポスト・ベトナム期の日本とアジアの関係をどう評価するか、との問題が提起された。これに対し邱氏は、1985年の中曽根の靖国神社参拝が中国内で大きな反発を招いた際、中曽根が最も信頼する情報源として稲山の意見を参考にして翌年の参拝をやめたことを紹介し、国家間の交渉において、両方から信頼される民間経済人の役割は重要である、と指摘した。佐藤氏は、福田政権の全方位外交において、中国、ベトナムに対しては単なる封じ込めではなく、関与政策を通じてソ連からの引き離しが模索され、なおかつ、米ソとの関係を悪化させないでそれを実現しようとしたことは、現在から見ても学ぶべき視点があるのではないか、と述べた。

 全体を通して、政治、経済、社会、と対象の異なる三報告を繋ぐような興味深いコメントが、討論者そして報告者自身から発せられたことが大変印象深かった。例えば、反戦市民運動が、当時の佐藤政権の米国のベトナム政策協力を著しく拘束していた事実にかんがみても、市民運動史と外交史をつなぐ研究があれば、当時の日本の政治社会状況の全体像をより包括的にそして正確に捉えることができるのではないか、との重要な指摘がなされた。

 討論者によるコメントや参加者からの質疑応答だけで1時間半を超えたにもかかわらず、まだまだ議論したりないというような余韻を残しながら第13回研究会は幕を閉じた。専門領域の異なる研究者が集い、それぞれの専門領域にひきつけながら、また新しい領域を発見しながら、ポスト・ベトナム戦争期の日本とアジアという共通テーマについて考える機会をもてたことは非常に貴重であった。


同時代史学会のあゆみ ― 事務局から ―

浅井 良夫(成城大学)

 本号では、2006年4月から8月までの本学会の歩みを記す。

[研究会]

第12回研究会 2006年7月8日(土) 立教大学太刀川記念館
テーマ「ポスト・ベトナム戦争期の日本とアジア」
若月秀和(北海学園大学)「ベトナム戦争終結と試行錯誤の日本外交」
道場親信(大学非常勤講師)「ポスト・ベトナム戦争期における市民運動の展開:鶴見良行研究序説」
邱麗珍(北海道大学大学院)「日中貿易の拡大と対米経済関係の調整 - 稲山路線を中心に」
コメント 小林英夫(早稲田大学)、佐藤晋(二松学舎大学)

[ニューズレター]

 同時代史学会 News Letter 第8号(2006年4月)が刊行された(20ページ)。

[理事会]

2006年度 第3回(通算第24回) 6月10日(土)
 2006年度大会テーマについて討議が行われ、報告者、コメンテーター候補が決定した。
2006年度 第4回(通算第25回) 7月15日(土)
 大会テーマ「同時代史としての憲法」、午前のテーマ「国際的文脈のなかの日本国憲法」、午後のテーマ「憲法・歴史・社会空間」とすることが決まった。

会計より

会計担当 永江 雅和(専修大学)

 8月3日、会員各位へ2006年度会費の納入依頼書と振込用紙を発送しました。昨年来会費納入の依頼事務が遅れがちでご迷惑をおかけしております。来年度は春のニューズレター発送に合わせて作業をおこなう予定です。会員各位の会費納入へのご協力をお願い申し上げます。

 会則の付則にありますように、会計年度は4月~翌年3月となっております。2006年度会費の納入をお願い申し上げます。また2005年度までの会費が未納の方がいらっしゃいます。未納の方は相当額を郵便振替にてお支払いくださいますようお願いいたします。

 会費は、年額で、一般の方5000円、院生の方3000円です。

郵便振替口座番号00120-8-169850
加入者名同時代史学会

 なお、お支払いいただいた振替用紙をもって領収証にかえさせていただきますので、ご了承ください。

 また、住所などにご変更のある場合は、振替用紙にその旨をご記入ください。よろしくお願い申し上げます。


●第14回研究会のご案内

 以下の要領で行われますので、ご参加ください。

10月7日(土) 13:30~18:00 立教大学12号館地下第1.2会議室

テーマ:「1960・70年代の社会運動再考―一国史観を超えて―」

報告:

 趙基銀「在日朝鮮人と韓国民主化運動」

 梅崎透「第三世界運動とアメリカ新左翼運動の展開
         ―ニューヨーク自由大学と1968年ハバナ文化会議―」

 中島さやか「チリの学生運動・大学改革運動
         ―60年代、70年代クーデターに至るまで―」

コメンテーター: 上杉忍(アメリカ現代史)、安田常雄(日本現代史)


同時代史学会 役職者一覧

理事
明田川融、浅井良夫、雨宮昭一、荒木田岳、池田慎太郎、伊藤正直、今泉裕美子、岡田彰、岡本公一、加藤千香子、菊池信輝、黒川みどり、小林知子、武居秀樹、豊下楢彦、永江雅和、中北浩爾、中野聡、兵頭淳史、平井一臣、福永文夫、三宅明正、宮崎章、森武麿、安田常雄、吉次公介
会計監事
疋田康行
研究会委員
加藤千香子(理事兼任)、川口悠子、黒崎輝、斉藤伸義、佐治暁人、土屋和代、豊田真穂、中北浩爾(理事兼任)、中野聡(理事兼任)、永江雅和(理事兼任)、長谷川亮一、松田春香、吉次公介(理事兼任)、和田悠

編集後記

 このレターが発行された直後に、法科大学院一期生による新司法試験合格者が発表される。法曹界の人員増は必要だろう。ただし裁判官や検察官の数はふやさず、弁護士のみを増加させる今回の措置は適切だろうか。また、せっかく大学院を卒業しても、受験回数が3回までに制限されるなどの結果、数字的には卒業者の過半数は永遠に合格できない仕組みになっている。莫大な学費を費やした(巨額の借金を背負った)大量のフリーターを生み出す政策の責任は、誰かとるのだろうか。(三宅明正)

 今年も日本国首相の靖国神社参拝などによって大いに揺れた「8・15」でしたが、「この日」はそもそもどういう日なのでしょうか。ポツダム宣言受諾(降伏)の最終決定と連合国への通告・受理は8月14日中です。大本営から部隊への停戦命令は16日、降伏文書調印は9月2日です。では8月15日とは?天皇の「終戦の詔勅」が放送された日にすぎません。その日を「終戦」ないしは「敗戦」の「記念日」として日本現代史における最も決定的な一日と捉える認識そのものを問う必要はないのか。毎年行われる8月15日のさまざまなイベントや議論や事件を見るにつけ、そのことを考えざるをえません(この問題については佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書,2005年))が参考になります)。(兵頭淳史)

本年度の大会は12月3日(日)に
早稲田大学 で開催されます。

(プログラムは2~3ページにあります)

同時代史学会News Letter 第9号
発行日 2006年9月12日
同時代史学会
連絡先:〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20
成城大学経済学部 浅井良夫研究室
Tel/Fax 03-3482-9242  asai@seijo.ac.jp