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10月

同時代史学会2025年度大会 自由論題 報告一覧

同時代史学会2025年度大会 自由論題 報告一覧

*以下、会場ごとに、報告の➀タイトル、➁報告者(名前のよみ/所属等)、➂要旨、の順で掲載しています。

*A~Dの全4会場は、すべて名古屋大学文学部本館1階・文系共同館1階となります(2つの館はつながっています)。

*各会場とも10時開始、報告者1名につき報告40分+討論20分の計1時間を予定しています。

*開催形態は、全4会場とも対面のみとなります。

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A会場[128教室(文学部本館1階)]

報告A-1

➀ 代議士の妻に見る戦前・戦後の選挙と支持基盤:川崎康子を事例に

➁ 高島 笙(たかしま・しょう/慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任研究員(雇用型学振PD))

➂ 本研究は、代議士の妻の役割が戦前・戦後にかけてどのように変化していったのかについて、三重一区選出の戦前派代議士川崎克の妻康子を事例に検討するものである。康子は夫である克が代議士になると、次第に選挙に深く関わっていく。やがて事実上の地元秘書と化した康子は、地方選挙の采配まで揮うようになり「伊賀の宋美齢」と呼ばれることとなった。

 戦後、夫である川崎克は公職追放となり、追放中に急死した。その際、いわゆる身代わり代議士として次男秀二が地盤を引き継いでいく。一方で、秀二の選挙戦では依然として康子が克以来の支持基盤を引継ぎ、采配を揮うという状況が1950年代後半まで続いていく。

 本研究では、こうした康子の生涯における選挙へのかかわり方の変化から、選挙の政党化や夫の代議士としての出世、公職追放や息子の落選など、様々な理由でジェンダーバランスが変化していく様子を長期的なスパンで考察していく。そこから、妻の政治活動の歴史的展開を明らかにしたい。

報告A-2

➀ 戦後日本の「性教育」:厚生省資料から

➁ 松元実環(まつもと・みわ/神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート学術研究員)

➂ 本研究は、戦後日本における「家族計画」を中心とした「性」と生殖の政治を、教育・「啓蒙」的言説から再考することを目的とする。従来は女性の身体や権利に焦点が当てられてきたが、1960年代の核家族モデル形成において、夫・父としての男性身体がいかに語られ、また不可視化されてきたのかは十分に検討されていない。本研究では、「純潔教育」や「性教育」の周辺で、厚生省人口問題研究所を中心とした人口学者・優生学者らが、男性身体をいかに教育・啓蒙の対象として構築したのかを分析する。特に、男性身体に階層的差異を見出す視点に着目し、戦後日本における男性身体の在り方を明らかにする。資料は人口問題研究所の出版物や関係者の著作を中心とし、第5代所長・篠崎信男に関する資料を重点的に扱う。本研究は、従来の女性中心の議論を補完し、戦後日本社会における「性」の政治の再検討に資することを目指す。

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B会場[127教室(文学部本館1階)]

報告B-1

➀ 暴力対策と〈青少年〉の変遷

➁ 中山良子(なかやま・よしこ/大阪公立大学工業高等専門学校准教授)

➂ 占領期から高度経済成長期にかけては非行の「第一のピーク」(1951年)、そして「第二のピーク」(1964年)と呼ばれる状況が存在する。この間に「青少年問題」とよばれる政策群がある。本研究では、このピークの形成を、暴力対策を含めた〈青少年〉を射程とする治安対策の変遷としてあらためて捉えなおす。具体的には、警察・司法関係者が〈青少年〉をどのように取り組みの射程に収めていったのか、そこで何が問題として語られたのかを分析する。着目するのは、警察による未成年者を対象とした内規の変化(1950年の「問題少年補導要綱」から1960年の「少年警察活動要綱」へ)や、その前後にある警察の暴力対策の変化(1954年の警察法改正、1961年の暴力犯罪防止対策要綱案)、また石井栄三・森田宗一らの発言や動き、1960年以降の「人つくり政策」の動き等となる。つまるところ、規範/逸脱への言及を内在した統治用語が〈青少年〉である。

報告B-2

➀ 1960年前後の山谷における治安管理体制の再編強化

➁ 渡邉啓太(わたなべ・けいた/東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)

➂ 本報告は、1950年代末から1960年代にかけて、東京都の山谷地域において民警一体のもとで推進されていく治安対策の展開過程とその内実について明らかにすることを試みる。

 先行研究では、1950年代末以降この地を対象に取り組まれていく環境浄化運動や暴動対策によって、セックスワーカーとその「ひも」、「ぐれん隊」の追放、家族世帯の転出という事態が生じ、その結果、山谷が単身男性労働者の街へと再編されていったことが指摘されている。この運動・対策について、福祉・保護(権力)という側面からはその実態が一定解明されている反面、治安管理という点に関しては明らかになっていないことも少なくない。よって本報告では、上記の運動・対策の担い手のうち、地元有力者と警察に着目し、緊密な協力関係のもとで両者がこの地域の「明朗化」に向けていかなる戦略を立てており、実際にどのような治安管理の実践を行なっていたのか、地域紙や警察史料にもとづき論じてみたい。

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C会場[1AB教室(文系共同館1階)]

報告C-1

➀ 長崎ベ平連の位相:地域ベ平連における独自性をめぐって

➁ 港 那央(みなと・なお/日本学術振興会特別研究員(PD・立教大学))

➂ 1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃に対して、同年4月にベトナム反戦市民運動体として「ベトナムに平和を!」市民連合(以下、ベ平連)が東京で結成された。その後、日本各地で「ベ平連」を名乗る運動体が誕生し、その数は数百にのぼった。近年、東京で最初に結成されたベ平連にくわえて、日本各地のベ平連=地域ベ平連に焦点を当てた研究が進められ、ベ平連の運動を再構成する作業が行われてきている。

 本報告では、これまでの(東京の)ベ平連研究および地域ベ平連研究をふまえたうえで、地域ベ平連の一つとして長崎県長崎市にて1968年1月末に結成された長崎ベ平連に注目し、その運動展開を明らかにしながら独自性を検討する。具体的には、東京のベ平連、他の地域ベ平連と適宜比較しながら、他組織との関係性や運動課題などについて独自の性質をもって展開したことを考察する。

報告C-2

➀ 戦後日本の「台湾」に対するまなざし:来日台湾人の支援運動を中心に

➁ 郭 書瑜(カク・ショユ/一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)

➂ 戦後に来日した旧植民地出身者は、制度上「外国人」として扱われた。しかし、冷戦構造による「分裂国家」状況のもと、彼らは異なるアイデンティティを抱いていた。台湾出身者の中には「人民中国」に傾倒する者、「中華民国」を支持する者、さらに「台湾独立」を志向する者が存在した。こうした異なる立場をもつ来日台湾人に対して、日本社会の対応は一様ではなく、その差異は戦後日本における台湾および中国への認識を反映していた。また、日本の出入国管理体制の下で、台湾出身者はしばしば在留問題に直面し、ときに強制送還の危機にさらされた。本報告は、1972年の日中国交正常化までに展開された来日台湾人への支援運動、なかでも中国派の陳玉璽・劉彩品支援運動と、台湾独立派の林景明支援運動を対象に、運動路線、支援者の構成、当事者に対する態度などを比較分析することによって、戦後日本社会が日本帝国最初の植民地である台湾に対して抱いたまなざしを検討するものである。

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D会場[129教室(文学部本館1階)]

報告D-1

➀ 名古屋オリンピック招致に抵抗した人々:「反オリンピック市民運動連合」の活動から

➁ 古木龍太郎(ふるき・りゅうたろう/名古屋大学大学院人文学研究科日本史学分野・専門博士後期課程)

➂ 1988年夏季オリンピックの名古屋招致は、1977年8月に仲谷義明愛知県知事が構想を発表して以降、行政と財界主導で進められた。革新系団体の多くは「簡素な五輪」を求める条件付き賛成にとどまり、明確な反対姿勢は示さなかった。その後、1981年4月の名古屋市長選を契機に、財政負担や環境破壊への懸念、商業主義・政治利用への批判を掲げる複数の団体が結集し、「反オリンピック市民運動連合」が結成される。連合は独自候補の擁立や署名運動、公開討論会に加え、西ドイツ・バーデン=バーデンでのIOC総会に合わせたデモやビラ配布など、国際的な直接行動も展開した。

 本報告では、参加者の証言や史料から、人々がなぜ運動に加わり、どのような論理で招致に異議を唱えたのかを明らかにする。あわせて、1980年代初頭の市民運動の特徴を、地域活動の広がりや海外とのつながりに注目しつつ、国際的な大規模イベントと市民参加の様相を解明する。

報告D-2

➀ 野坂昭如が語り続けた「戦争の記憶」と日本人論

➁ 小酒奈穂子(こさけ・なほこ/立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程)

➂ 本報告の目的は、野坂昭如が戦後日本社会において語り続けた戦争の記憶と、野坂の語る日本人論との関連を明らかにし、野坂の言説に潜む思想の論理構造を検討していくことである。

 野坂昭如は1968年に『アメリカひじき』『火垂るの墓』で直木賞を受賞した。その後メディア文化人として、様々な分野において、戦争の記憶や戦後の日本社会への批判を語り、没後は反戦を貫いたと評されている。

 一方1970年後半から、様々な分野の専門家との対談で日本社会について言及する中、野坂は必ずといっていいほど日本人論を持ち出し、議論を展開していた。本報告では、野坂の語る日本人論はいかなるもので、なぜ語るようになったのか、その社会背景はどうであったのかを分析する。野坂の日本人論と語り続けた「戦争の記憶」との関連を明らかにし、野坂の言説に潜む思想の論理構造を検討する。

以上