24
10月

同時代史学会2024年度大会 自由論題 報告一覧

同時代史学会2024年度大会 自由論題 報告一覧

*以下、会場ごとに、報告の①タイトル、②報告者(名前のよみ/所属等)、③要旨、の順で掲載しています。

*A~Eの全5会場は、すべて駒澤大学3号館の2階となります(今回の大会は、すべて同館同階で開催)。

*各会場とも10時開始、報告者1名につき報告40分+討論20分の計1時間を予定しています。ただし、E会場のみ、11時開始となります。

*開催形態は、全5会場とも、対面のみとなります。

A会場[3-211教室]

報告A-1

➀ 戦後日本の「性教育」論

➁ 松元実環(まつもと・みわ/神戸大学大学院国際文化学研究科文化相関専攻博士後期課程)

➂ 戦後初期の日本における「性教育」の歴史的研究は、主に1947年から1972年に文部省が推進した「純潔教育」を中心に展開されてきた。従来の研究は、主に女性史において、性売買との関連の中で論じられてきたが、同時期の「性科学」領域においても同様の議論が広がっており、十分に検討されていない点が課題である。

 本研究では、戦後初期の日本における「性」に関する教育的および啓蒙的な議論に着目し、特に「性科学」分野の言説が果たした役割を明らかにする。この分野では、「純潔教育」にも触れつつ、さらに多様で複雑な「性」に関する議論が展開された。当時の資料を基にその議論の構造を整理し、背後にある思想的背景を掘り下げることで、戦後初期の日本における「性教育」の意義を再検討し、従来の枠組みを超え、より体系的に戦後の「性教育」を捉えるための新たな視座を提示することを目指す。

報告A-2

➀ 戦後右翼陣営における「大同団結」とその結実:「救国国民総連合」に焦点を当てて

➁ 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)

➂ 個々に活動する組織が共通の目的のために結集し、勢力の拡充を図る「大同団結」は、政治運動では度々見受けられる。1954年に発足した「救国国民総連合」(以下「総連合」)もその一つである。公職追放が解除された直後、日本国内の右翼活動家らが図ったのが自陣営の集結であったが、その背景には、戦後に台頭した左派陣営への意識があったものと推察される。その結実として発足したのが総連合であった。だが、発足に際して有力団体が合流しなかったために、組織としては機能不全な状態に陥った。このことが、総連合がこれまで注目されてこなかった所以であろう。

 本報告では総連合の発足以前から発足、そしてその後という時期区分を設けた上で、戦後における組織の集結と勢力拡充という課題に対し、戦前からの活動家たちはどう捉えていたのかを見ていく。また、結果的には挫折した「大同団結」であるが、それがその後何をもたらしたかについても併せて論じたい。

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B会場[3-202教室]

報告B-1

➀ 《赤とんぼ》を歌うことの表象:1950年代~1960年代前半の映画を中心に

➁ 栫 大也(かこい・まさや/九州大学大学院芸術工学府博士後期課程)

➂ 本報告の目的は、戦後約20年間における《赤とんぼ》(1927年作曲)に関する表象の一端を明らかにすることである。同曲はしばしば「懐かしい曲」として説明されてきた。しかし、そうした見方がどのように現れたかという研究が十分になされてきたとは言いがたい。

 前記の目的のため、本報告では以下の手順で検討を進める。まず、対象時期におけるこの曲の位置づけを、教科書、うたごえ運動などから確認する。次に、『少年死刑囚』、『ここに泉あり』(以上1955年)、『やくざ先生』(1960年)、『夕やけ小やけの赤とんぼ』(1961年)といった映画を検討する。これらの作品では、山奥の児童や戦災孤児、混血児といった多様な主体が《赤とんぼ》によって包摂される様子が描かれた。以上を踏まえ、遅くとも1960年代までには、《赤とんぼ》が「懐かしい曲」として挙げられる状況が成立していたと思われることなどを報告する。

報告B-2

➀ 部落問題はいかに上演されたか:1960年代前半の『差別』上演活動を中心として

➁ 長島祐基(ながしま・ゆうき/早稲田大学先端社会科学研究所助教)

➂ 1960年代の演劇運動(労働者が社会の問題を扱った劇を創り、上演する活動)は労働組合を基盤とする運動が停滞し、地域に基盤をおく労働者劇団や市民劇団が運動の新たな担い手となった時期とされる。本報告では大阪における地域劇団の一つである劇団未来を扱う。1962年に結成された劇団未来は旗揚げ公演で部落問題を扱った『差別』を上演し、同作は東京や大阪近郊でも上演された。本報告では同劇団とその前身となった演劇サークルにおいて部落問題がいかにして戯曲のテーマとして取り上げられ、各地で上演され、観客から評価されたのかを検討する。活動を通じた担い手の認識の変化や部落問題を上演することの難しさを明らかにするとともに、「職場を描く」という職場演劇の理念と部落問題という地域の課題の関係にも言及する。本報告は1950年代後半から1960年代初頭にかけての演劇運動の質的変化を具体的な上演活動に即して問うものである。

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C会場[3-203教室]

報告C-1

➀ 暴力の「後」を生きること:沖縄に生きた元日本軍「慰安婦」、裴奉奇に着目して

➁ 廣野量子(ひろの・りょうこ/同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程)

➂ 1975年、沖縄で日本軍「慰安婦」だった人物として、裴奉奇の存在が公にされた。1944年11月、裴は朝鮮から沖縄の渡嘉敷島に日本軍「慰安婦」として連れて来られ、1945年8月、渡嘉敷島の武装解除がなされた後、座間味捕虜収容所、屋嘉収容所、石川収容所へと移送され、その後も沖縄本島内を転々と移動しつづけた。

 本報告では、裴のとくに「慰安婦」の「後」に着目する。裴の聞き書きをした、川田文子の『赤瓦の家—朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房、1987)によれば、川田が訪ねた頃の裴は周期的に襲われる頭痛に苦しめられていたという。本報告では、「トラウマ」の概念を用いながら、裴が被った暴力とその暴力の「後」の生について考える。その際、裴が生きた土地が沖縄であったこと、すなわち1945年以降も現在に至るまで、沖縄という場所自体が複数の構造的な暴力に晒され続けた/ているという点を重視し、併せて考察していく。

報告C-2

➀ 開拓地を開発する:1950年代沖縄の農村開発構想の検討

➁ 座間味希呼(ざまみ・きこと/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)

➂ 本報告では、米軍統治期の沖縄北部開発計画の形成過程を次の三点に着目して跡付ける。第一に米軍基地開発によって立ち退かされる住民に対する琉球列島内への開拓移住計画との連関、第二に琉球政府による開発計画への本土農学者の関与、第三に北部市町村にとっての開発計画である。これを通じて沖縄島北部地域が開拓移住地から地域開発の対象とされていく過程を明らかにする。米軍統治期の開拓移住政策は成果があがらず、農村開発計画の達成率も低く、消極的であったという評価が与えられている。本報告の検討を通じて、開発計画の方針と農村地域の希求したものの絡まり合いを分析する。資料は沖縄現地政府の琉球政府資料、米国側の統治機構である琉球列島米国民政府資料、新聞記事、市町村議会議事録等を用いる。

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D会場[3-212教室]

報告D-1

➀ 2001年「新しい歴史教科書をつくる会」教科書の検定通過に関する日韓の反応

➁ 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科博士後期課程)

➂ 1997年に正式発足した「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)は、歴史教科書における「従軍慰安婦」の記述の削除を求めるなど、保守系の言論を展開していた。「つくる会」の制作した歴史教科書が2001年、教科書検定を通過すると、国内外から様々な反響が起こった。韓国をはじめとする近隣諸国からは、抗議の声も強まることとなる。

 本研究では、「つくる会」の準備段階であった1996年から、検定を通過した2001年を経て、日韓両政府による「日韓歴史共同研究」の報告書が出される前年の2004年までを対象として、日韓それぞれの政界、学界、新聞報道においてどのような反応が示されたのか、分析を行う。また、「つくる会」の動きが、日本と韓国の歴史・教育分野の共同研究にどのような影響を与えたかについても、明らかにしていく。

報告D-2

➀ 江藤淳の「検閲影響論」と1980年代後半の言論空間:日米経済摩擦と「閉された言語空間」をめぐって 

➁ 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)

➂ 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932-99)によるGHQ占領期の言論検閲をめぐる主張と、それに対する当時の言論空間での反応に焦点を合わせることで、1980年代後半における占領期言論検閲に関する認識について考えたい。1978(昭和53)年の「無条件降伏」論争以降、江藤は占領期の研究と論考の執筆に注力し、その成果は『一九四六年憲法——その拘束』(1980年)や『落葉の掃き寄せ』(1981年)、『自由と禁忌』(1984年)などの占領期の言論検閲を扱った作品群に結実していく。本報告では、江藤の主張の中でも、占領期の言論検閲が現代の日本社会においても影響を及ぼし続けているとする見解を「検閲影響論」と名付け、『日米戦争は終わっていない』(1986年)、『昭和の文人』(1989年)、『閉された言語空間』(1989年)などの作品を取り上げ、日米経済摩擦といった当時の情勢を踏まえつつ、1980年代後半における江藤の言説と言論空間での反応について検討していく。

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E会場[3-210教室]

報告E-1

➀ 大槻和也(おおつき・かずや/大阪公立大学非常勤講師)

➁ 1980年代中盤における梶村秀樹による「二重の課題」論の深化:指紋押捺拒否運動からの触発

➂ 本報告では、朝鮮史研究者である梶村秀樹が在日朝鮮人運動において重要な視角だと提唱した「二重の課題」論が、指紋押捺拒否運動に関わる中でどのように深まったのかを具体的に論じる。

 梶村は1970年代中盤以降、在日朝鮮人運動において朝鮮の解放運動の一端を担うという課題、そして日本での生活権を獲得していくという課題の「二重の課題」の追求があることを重要な視角としていた。指紋押捺拒否運動に梶村が積極的に関わっていった1980年代中盤以降、生活の場での「在日の統一」経験の場としての指紋押捺拒否運動の位置づけ、第三世界ナショナリズム思想と共鳴する「民族への帰属意識」論の提唱、日本国家と日本社会による在日朝鮮人に対する構造的同化暴力の分析などを行っていった。

 本報告ではこれらの論点を「二重の課題」論の深化と位置づけて論じ、梶村秀樹による運動への参加が彼の研究に及ぼした往還関係とその思想的地平を探究したい。

以上

25
8月

2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)」

2024年度大会「空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)」

日時

2024年12月7日

会場

駒澤大学 駒沢キャンパス 3号館(東京都世田谷区駒沢1-23-1)

全体会 13:30~17:30

<報告者>

長志珠絵(神戸大学)

「防空と銃後」(仮)

千地健太(東京大空襲・戦災資料センター学芸員)

「東京大空襲における朝鮮人の空襲被害ー実態、証言、展示ー」

<コメント>

田中利幸(歴史家)

伊香俊哉(都留文科大学)

趣旨文

空襲/空爆とその記憶の同時代史(仮)

空爆による無差別大量虐殺は、第一次世界大戦から本格的に始まり、第二次世界大戦を経て、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、シリア内戦、そして現在もなお続くロシアのウクライナ攻撃やイスラエルのガザ地区攻撃に至るまで、およそ100年以上にわたって連続している。

 第一次世界大戦後に戦略爆撃を体系化したイタリアの将軍ジュリオ・ドゥーエは、空爆は「残虐な特性にもかかわらず流血が少ないので、高い立場から見れば従来の戦闘よりも人道的である」と述べて、無差別爆撃を正当化した。加害者研究においても、被害者との物理的・心理的距離は罪責感を麻痺させ、加害行為を容易にすることが指摘されているが、「高い立場」から爆撃を命令し、爆弾投下を可能にした20世紀以降の「空の戦争」は、爆撃の下で苦しむ無数の人々の視点を完全に欠落させることで行われてきた。1970年代以降の空襲記録運動とその継承活動は、爆撃を受ける側の「空襲」の視点に立ち、こうした「高い立場」から攻撃を加える「空爆」を批判的に捉え返す営為であり、現在進行中の空爆の下で起きている現実と、今後長期にわたって続く破壊的な影響を人類につきつけている。

 一方、これまでも度々指摘されてきたように、帝国主義の時代に誕生した飛行機が初めて戦争の兵器として利用されたのは、バルカン半島と北アフリカでの植民地戦争からであり、日本も1930年に植民地統治下の台湾で起きた霧社事件の際に、空爆による大規模な「鎮圧」作戦を行った。また、十五年戦争において日本は、アメリカによる無差別爆撃の被害を受ける前に、錦州や南京、重慶に無差別爆撃を行う加害国でもあった。さらに、連合国軍側の攻撃対象は、大日本帝国の植民地や東南アジア各地の日本軍の拠点、「満洲」の満鉄沿線の工場地帯に及んだ。それだけではなく、原爆が投下された広島・長崎と同様に、東京や大阪などの大都市には、戦時労働力として動員された植民地出身の人々が居住しており、多くの人々が空襲の被害を受けた。彼らの被害はこれまであまり語られてこなかったが、被害の実態調査や、「創氏改名」後の日本人名で慰霊碑に記録されてきた名前を本名に変更する取り組みなどが近年市民活動によって進められている。彼らがなぜそこにいたのかをふまえれば、「日本国民の被害」として均質化されがちな空襲経験を、植民地支配責任の観点から再度捉え直す必要があるだろう。

 以上をふまえて、一人目の報告者である長志珠絵氏には、戦時下の「防空」の動員・管理の対象であった女性や植民地出身者について報告していただく。また二人目の千地健太氏には、東京大空襲戦災資料センターにおける朝鮮人被害者に関する展示の経緯について報告していただく。両報告を通じて、空爆/空襲論においては、顔も名前もない集合的な死者として、あるいは「庶民」「民衆」「日本人」として括られがちであった空襲言説をジェンダーと植民地主義の観点から再考する場となるであろう。また、コメンテーターは伊香俊哉氏と田中利幸氏に依頼した。

空襲/空爆の問題は、現在の日本社会とも無縁ではない。日本政府は植民地戦争や植民地支配に起因する空襲の被害者、中国への侵略戦争の際に行った爆撃の被害者に対する謝罪や賠償を行っておらず、国内の空襲被害者についても、「戦争被害受忍論」を理由に補償を拒み続けている。また、朝鮮戦争・ベトナム戦争の際には、在日米軍基地は米軍機の出撃・補給基地として無差別爆撃に関わった。そして、現在進行中の空爆による無差別大量虐殺を止めることができていない。本シンポジウムが、20世紀初頭から現在まで続く、無差別大量虐殺とその不処罰の歴史に抗するための議論の場となることを期待したい。

<主要参考文献>

荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波書店、2008年。

伊香俊哉『戦争はどう記憶されるのか 日中両国の共鳴と相剋』柏書房、2014年。

栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』岩波書店、2022年。

長志珠絵「『防空』のジェンダー ―戦前戦後における日本の空襲言説の変容と布置」『ジェンダー史学』11号、2005年。

長志珠絵「交差する植民地主義とジェンダー ―歴史認識としての空襲」『日本思想史研究会会報』39号、2009年。

田中利幸『空の戦争史』講談社、2008年。

塚崎昌之『大阪空襲と朝鮮人そして強制連行』大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会、2022年。

林博史『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』高文研、2023年。

前田哲男『戦略爆撃の思想 ―ゲルニカ、重慶、広島』凱風社、2006年。

2
8月

同時代史学会2024年度大会 自由論題報告者の募集

 同時代史学会2024年度大会 自由論題報告者の募集

今年度の同時代史学会年次大会は、本年12月7日(土)、駒澤大学(東京都世田谷区)にて開催の予定です。つきましては、当日午前中に実施される自由論題報告の報告者を募集します。日頃の研鑽を発表し合い、議論を交わせる貴重な機会です。会員の皆様には、ぜひ奮ってご応募くださいますよう、お願い申し上げます。

なお、機材や運営上の観点から、本年度の自由論題については原則、対面開催となります。この点、ご承知おきください。

1.日時:2024年12月7日(土) 午前10時開始(最大13時20分終了予定)

  *御一人の持ち時間は報告40分+討論20分=計1時間を想定してください。

2.場所:駒澤大学 駒沢キャンパス 3号館

*アクセス:https://www.komazawa-u.ac.jp/access/

*キャンパスマップ: https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/campus/komazawa.html

3.開催形態:対面開催

4.論題:日本を中心とする第二次世界大戦期以降の歴史を主な対象とする歴史的研究全般

5.エントリー資格:同時代史学会会員であること

  *非会員で応募される方は、エントリーと同時に入会手続きをお済ませください。

   参照・本会HP「入会のご案内」: http://www.doujidaishi.org/about/admission.html

  *当日、PCを利用される方は、御自身で持ち込みを御願いします(Mac使用の場合はアダプタも含む)。

6.エントリー方法:以下の項目を、電子メールか郵送で、下記9までお知らせください。

① 報告者氏名、及び現在の所属

② 報告タイトル

③ 報告要旨(400字以内)

7.採否:理事会で審査の上、9月末日までに応募者本人に直接採否を通知します。

8.締切:2024年8月31日(土)必着

9.応募及び問い合わせ先:戸邉秀明(自由論題担当理事・東京経済大学教員)

E-mail:tobe ★ tku.ac.jp

  〒185-8502 東京都国分寺市南町1-7-34 東京経済大学 戸邉秀明 宛

*郵送の場合、封筒に「同時代史学会自由論題応募」と書き添えてください。

以上

2
12月

同時代史学会2023年度大会 オンライン参加登録について(12月7日締切)

今年度の同時代史学会大会は、午後の全体会、および総会のみ、ハイブリッド開催します。

自由論題報告については、オンライン配信は行いませんのでご了承下さい。

オンラインから参加される方は、12月7日(木)までに、下記のフォームから登録して下さい。(メールニュースでご案内した申込締切を延長します)

※会場においでになる方は、登録は不要です。

 ZOOMのIDは、大会・総会の当日までに、【同時代史学会2023年大会(gakkaitaikai+2023doujidaishi ★ gmail.com)】よりお送りします。

※オンラインでの大会への参加は、同時代史学会会員、および会員の紹介がある方に限定します。

※オンラインでの総会への参加は、同時代史学会会員に限定します。

【大会参加登録フォーム】

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf2BCI67WAEZpObHdLvaOOs8G2oQ3K109tqzOfv5b6tlCMegA/viewform?usp=sf_link

28
11月

2023年度大会「安定化させる力学とかき消されていく声――1973年以降の水俣から考える」

同時代史学会2023年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

日時 2023年12月9日(土)
会場 東京経済大学国分寺キャンパス2号館(東京都国分寺市南町1-7-34)
(総会と全体会はハイブリッド開催、オンライン参加の場合は事前申し込みが必要です)

会場校へのアクセスの基本は国分寺駅南口より徒歩(所要12分)となります。
徒歩の道順、並びにバスのご利用の仕方については、以下の東京経済大学のHPを参照してください。
アクセス https://www.tku.ac.jp/access/kokubunji/
キャンパスマップ:https://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/

タクシーをご利用の場合は、東京経済大学の「東北門」へお回りください。なお、タクシーの構内(会場建物まで)への乗り入れはできません。

参加費 無料
日程
10:00~12:00 自由論題報告(対面のみ)
12:40~13:10 総会 (オンラインによる中継を予定)
13:30~17:40 全体会(オンラインによる中継を予定)
「安定化させる力学とかき消されていく声―1973年以降の水俣から考える―」
井上ゆかり( 熊本学園大学水俣学研究センター 研究員 )
原子栄一郎( 東京学芸大学環境教育研究センター 教員 )
遠藤邦夫 ( 水俣病センター相思社 元職員 )
18:00~   懇親会

※昼食をご持参ください。
当日は土曜日のため学内食堂(生協)は閉まっており、また大学の周囲には食堂がありません。昼食については、少し歩いたところにあるコンビニでご購入いただくか、事前にご用意いただくように御願いします。もちろん、国分寺の駅前まで戻られると、食べる場所には困りません。

25
10月

同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

同時代史学会2023年度大会 自由論題 報告一覧(事前要旨含)

*以下、会場ごとに、報告の①タイトル、②報告者(名前のよみ/所属等)、③要旨、の順で掲載しています。

*A~Eの全5会場は、すべて東京経済大学2号館の2階教室となります。

*開催形態は、全5会場とも、対面のみとなります。

A会場[B202[小教室]]

報告A-1

① 馬の食料化から考察する沖縄戦飢餓:沖縄島北部と宮古島の事例から

② 謝花直美(じゃはな・なおみ/同志社大学〈奄美₋沖縄₋琉球〉研究センター嘱託研究員)

③ 沖縄戦で飢餓をしのぐために馬を食べたという住民証言は多い。戦前には馬は沖縄各地の日本軍飛行場建設のための徴発、食糧増産の農耕、戦闘直前には住民立退き・避難の荷物車運搬に活用された。住民は所有する家畜の扱いにも制限を受けた。食糧確保が課題となった持久戦準備のために、沖縄県は家畜数を把握し所有者の自由屠畜を禁止した。管理が強化された家畜は豚の場合、連合軍侵攻前に多くが保存食糧にされたと考えられる。一方の馬については、日本軍徴発後からすでに食糧化が始まっており、戦争進行により統制・秩序も崩壊し 、飢餓拡大とともに住民もまた役畜であった馬を食糧としたと考えられる。本報告では、沖縄戦の飢餓拡大と深刻化を「馬を食べる」ことから明らかにしつつ、日本軍と住民、住民同士の対抗的関係について、立退き・避難地となった沖縄島北部と馬産地宮古島の例を通して考察する。

報告A-2

① 「戦後」台湾の経験と日本の社会運動:ライフヒストリーからの考察

② 松田京子(まつだ・きょうこ/南山大学人文学部教員)

③ 日本による植民地統治下の台湾で、植民地政府による学校教育を受けた台湾の人々のなかには、「戦後」の台湾で起こった二二八事件、その後の50年代白色テロルによって、大きな被害を被った人々がいる。「政治受難者」である彼ら彼女らは、例えば釈放後も日常生活の中で様々な困難を経験し、さらなる政治的な「受難」に直面する場合もあった。そのような中で、彼ら彼女らにとって日本語は「思考し表現するための主要言語」(洪郁如『誰の日本時代』法政大学出版局、2021年、p.6)であったといえる。日本統治期の経験は、ポストコロニアル状況の中で、彼ら彼女らにどのような影響を与えたのか。また彼ら彼女らにとって、「日本」とはどのような存在であったのか。また彼ら彼女らの「受難」に対して、「戦後」日本の社会運動はどのように向き合い、どのように関わったのだろうか。これらの問題を、ある夫妻のライフヒストリーにそって、具体的に考察してみたい。

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B会場[B203[小教室]]

報告B-1

① 占領期検閲と高群逸枝の女性史学

② 蔭木達也(かげき・たつや)

③ 近年、連合軍占領期検閲に関する研究が進展している。しかし、歴史学系の著作における占領期検閲の影響についての研究は、戦中と戦後の断絶に鑑みて、検閲の研究を分析する作業が困難な部分がある。戦中期に皇国史観を掲げた研究者は戦後、著作を発表する間も無く追放され、占領期検閲の影響を辿ることは難しい。逆に、津田左右吉など戦中期は弾圧されていて戦後すぐに活躍した歴史学者は、占領期検閲で大きな問題となるような論述をする必要がなかったため影響がわからない。占領期検閲の影響が最も強く現れるのは、戦前に皇国史観に近い立場から天皇に関する研究を行い、しかし戦後占領期検閲の影響を受け、自説に修正を加えて歴史研究を続けた歴史研究者に限られる。そこで本報告では、一九三一年から歴史研究の道に没頭し、戦中期も研究成果を書籍や論文で発表し、戦後まで継続的に日本女性史の研究に取り組んだ高群逸枝を取り上げ、GHQとの関わり、著作出版の経緯などを分析し、占領期検閲の歴史学への影響の一端を明らかにすることを試みたい。

報告B-2

① 毛呂清輝の戦後における言説

② 蓬田優人(よもぎた・ゆうと/東北大学大学院文学研究科博士後期課程)

③ 毛呂清輝(1913~78年)は、戦前から戦後にわたる昭和期に活動した「右翼」または「昭和維新」運動家である。國學院大學に在学中、神兵隊事件に参加した彼は、戦前期には大日本生産党や維新公論社等の組織に関与し、戦後には、機関誌『新勢力』の主幹を務め、同誌において影山正治や葦津珍彦、または鈴木邦男等、広く昭和期の右翼・愛国・保守運動を牽引した人物を、論客として多く呼び寄せた。

 毛呂が積極的に自らの思想を発信・展開するのは、戦後(公職追放の解除)を迎えてからである。自らが携わる『新勢力』をはじめとするメディアにおいて毛呂は、戦後日本における「国民運動」としての「昭和維新」を模索・提起したが、これまでその思想・活動について殆ど顧みられることがなかった。本発表では『新勢力』の他、『共通の広場』等のメディアにおける毛呂の言説を取り上げるとともに、「昭和維新」運動史上での毛呂の位置を明らかにする。

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C会場[B206[中教室]]

報告C-1

① 知識人たちの内灘闘争と内灘試射場返還

② 宮下祥子(みやした・しょうこ/立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)

③ 全国初の本格的な反米軍基地闘争として知られる内灘闘争(1952~53年)は、戦後日本の通史では必ず言及されるものの、本格的な歴史研究の対象とされる機会は稀であった。本報告は、清水幾太郎を中心とする論壇知識人と金沢在住知識人たちの議論を手がかりとして、内灘闘争および内灘試射場返還(1957年)の内実に、従来の歴史叙述とは別の角度から光を当てるものである。

 闘争時、外部の知識人・革新政党・労組・婦人団体等が盛んに内灘を訪れて重要なアクターとなったが、彼らの多くは、米軍基地問題の根本要因をなす日米安全保障条約の破棄を究極の目標としていた。他方で、内灘砂丘・海面の接収「絶対反対」を叫んだ内灘村民のほとんどは零細な農漁民であり、彼らにとっては生活権の擁護こそが差し迫った問題であった。両者の異質性は闘争の結末に決定的な影響を及ぼしたが、そこに向き合った知識人の議論と関与を明らかにすることで、闘争の再考を試みたい。

報告C-2

① 反戦・反軍運動と女性解放運動が交わる時:1970年代初頭の沖縄におけるウィメンズハウス

② 大野光明(おおの・みつあき/滋賀県立大学人間文化学部准教授)

③ 1972年秋、沖縄県コザ市にウィメンズハウスというスペースが米国のベトナム反戦運動団体パシフィック・カウンセリング・サーヴィス(PCS)によって開設された。PCSは1969年にカリフォルニア州で活動を始め、反戦意識をもつ兵士の抵抗をさまざまなかたちで支援していた。その後、PCSは米国西海岸の諸都市へ、そして1970年春以降には東京、沖縄、岩国、フィリピンなどへと活動拠点を広げた。ウィメンズハウスは沖縄駐留部隊に所属する女性、男性兵士の妻子、日本のウーマンリブ活動家、沖縄の女性などが、女性としての抑圧について自らの経験に即して話し、考え、解放を求めるスペースとして運営された。本報告では、ウィメンズハウスがなぜ、どのようにつくられたのか、また、どのような活動が行われたのか、文書資料とオーラルヒストリーから明らかにする。越境する女性運動と反戦運動の歴史を交差させ、70年代初頭の沖縄での取り組みの歴史、内容、意味を検討する。

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D会場[B204[演習室]]

報告D-1

① 1960年の日玖通商協定の締結と池田政権の対キューバ「独自路線」

② ロメロ・イサミ(ろめろ・いさみ/帯広畜産大学准教授)

③ 1959年の革命の勝利後、池田政権 (1960〜64年) は、米国の敵国であったにもかかわらず、日本はキューバに対して「独自路線」を展開した。なぜ日本はこのような外交を打ち上げたのか。先行研究では、日本のキューバ糖依存が強調されている。当時、キューバは日本の砂糖輸入先国の1つであった。そして1960年に締結した日玖通商協定によって日本政府は、キューバが価格競争力を維持する限り、年間45万トンの砂糖輸入をコミットメントしたのだ。したがって、1961年に米国政府が池田政権に対キューバ「封じ込め」政策への協力を求めたとき、日本は協力できなかった。国交を断絶すれば、国内砂糖が減少する可能性があったのである。

 しかし、田中高が2012年に『ラテンアメリカ・レポート』誌で掲載した論文「日本キューバ貿易小史-通商協定締結の軌跡」を除いて、日玖通商協定を1次史料で検証した研究は存在しない。本報告では、日・米・キューバの外交史料を軸に、池田政権の対キューバ「独自路線」に影響を及ぼした日玖通商協定の締結過程について論じる。

報告D-2

① 1982年歴史教科書問題発生時の日韓の反応と共同研究の流れ

② 谷口綾美(たにぐち・あやみ/南山大学大学院国際地域文化研究科国際地域文化専攻博士後期課程)

③ 本研究では、1982年に起こった歴史教科書問題について取り上げる。日韓の両国政府と政治家の動きは、先行研究を参照しながら、国会議事録、新聞記事を資料として分析した。世論の動向を知るための手段としては新聞記事を資料とし、それぞれ発行部数が第一・二位を占めている、日本の「読売新聞」「朝日新聞」、韓国の「朝鮮日報」「東亜日報」を分析対象とした。研究者の動きについては、先行研究の読み取りに加え、両国の関連学会の機関誌に掲載された声明等の分析を行った。

 また、このような摩擦を乗り越えるため、歴史共同研究の動きが活性化する傾向が見られた。これについては、先行研究や共同研究に参加した研究者が書いた文章に加え、共同研究の成果物として出版されている教材等を資料として調査を行った。対立と、乗り越えようとする動きの両面を見ることで、今後の日韓間における歴史・教育研究の道標を作るための一つの材料となることを目指したい。

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E会場[B205[演習室]]

報告E-1

① 江藤淳と1980年代初頭の憲法論争

② 多谷洋平(たや・ようへい/立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程後期課程)

③ 本報告では、文芸評論家・江藤淳(1932~99年)が、自身のGHQ占領期の研究と関連する形で行った日本国憲法をめぐる主張と、それに対するメディア上での知識人の反応に焦点を合わせ、1980年代初頭における憲法論争を再検討する。

 1978年、文芸評論家・本多秋五らと第2次世界大戦における日本の降伏形態をめぐって、「無条件降伏」論争と呼ばれる論戦を繰り広げた江藤は、翌1979年10月から、米国ワシントンDCのウィルソン研究所を拠点に、占領期の言論検閲に関する資料の検索と検討を精力的に行っていく。また、江藤は言論検閲の研究と並行して、日本国憲法に関しても主張を行い、この点においてもメディア上で論戦が展開されていくこととなった。

 本報告では、江藤の日本国憲法をめぐる主張を整理するとともに、当時の知識人たちが江藤の議論にどのような反応を行ったのかを確認することで、1980年代初頭における憲法論争がいかなる意義を持つものであったのかを考察したい。

報告E-2

① ポスト冷戦移行期「日本」の自画像:「湾岸戦争に反対する文学者声明」をめぐる議論を中心に

② 名合史子(なごう・ふみこ/東京外国語大学大学院博士前期課程)

③ 1991年湾岸戦争のさなか、柄谷行人をはじめとした日本の一部の知識人が「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表した。この声明は、反戦という立場を表しただけでなく、ポスト冷戦世界における日本を再考するような意味合いを持つものだった。本報告では、「声明」とその批判を含めた同時代の議論の分析を通して、「声明」が「日本」をめぐるナショナル・トランスナショナルな問題にどのように応えていたかを検討する。「声明」とその議論の大部分は、日本国憲法と天皇制をめぐるネーションとしての「日本」の問題を引き受け、戦後の歴史化を迫った。一方で、アメリカや東アジアという「他者」を部分的に認識し、トランスナショナルな歴史観の中から暫定的な「日本」の理念を見出す可能性と限界を露わにした。これらの議論は、ポスト冷戦移行の中で一部の知識人が共有した、過去を歴史化することと、過去を超越して未来を創ることの葛藤と切迫感を表すものだった。

以上

16
10月

同時代史学会2023年度大会 趣旨文・報告要旨

【趣旨文】

 本年度は1973年に水俣病第1次訴訟の熊本地裁判決が出て50年の節目にあたる。そこで、同時代史学会では、「安定化させる力学とかき消されていく声ー1973年以降の水俣から考えるー」と題して大会企画を組んだ。

 2002年に設立された同時代史学会では、すでに2008年に「消費からみる同時代史」と題して、高度経済成長期の消費生活と公害問題のあり方について論じた。また、本年度5月に開催された歴史学研究会の現代史部会では、「社会運動と環境・民主主義― 新自由主義時代の民衆像を求めて―」と題する企画が組まれている。他方、1990年代から活動を続けている水俣フォーラムがこの秋「水俣・福岡展2023」を開催したほか、今月は2013年に発足した「公害資料館ネットワーク」のシンポジウムも予定されている。

 これらをふまえ、本企画では熊本地裁判決後の「水俣」について、被害者やその家族のその後の「生」のリアルや地域社会の実像をていねいに拾いながら、「かき消されていく声」を考察したいと考えた。その含意は以下の通りである。

 ある段階で社会的に喚起されたり再喚起されたりする問題は、そのつど「安定化」させる力学にさらされ、さまざまな現場の「声」がかき消されていく。今日の原発問題をはじめ、戦争や震災からの「復興」といった過程にも、同様の現象が見られるだろう。この「安定化」に関わる動きは多元的で複合的である。加害企業や行政による動きもあれば、メディアや一般的な世論の動きもある。地域社会内部でのさまざまな人間関係によってもそれはもたらされるだろう。大量消費社会や新自由主義によって痩せ細っていく公共圏の問題もある。アカデミズムや教育現場の関与も否定できない。

 1950年代に「奇病」として顕在化した水俣病は、1959年に新日本窒素肥料株式会社(以下チッソ)の工場排水による有機水銀中毒であることが熊本大学医学部の研究班によって特定されたが、行政やチッソの妨害などから被害者の訴えは封印された。1960年代後半に全国的に反公害の機運が高まるなか、1973年の熊本地裁判決によりチッソの加害責任が確定するが、それ以後も、補償協定をめぐる直接交渉が行われたほか、環境庁(当時)の定めた認定基準をめぐる未認定患者の問題は現在も係争中である(9月27日 大阪地裁判決)。その間、「水俣病関西訴訟」で国や県の行政責任が問われるなか(2004年10月15日最高裁判決)、国家による「和解」や「救済」にむけた取り組みがある一方で、水俣では市民同士の分断を修復する「もやい直し」の試みが1990年代以降取り組まれてきた。

 そうしたなかで水俣のローカルな現状は、ともすると美化され神話化される。その傾向は、アカデミズムの良心的な研究活動にも内在しうるし、「水俣を教える」という場面においても、無視できない傾向としてあるだろう。過去の問題を現在の問題に直結させて考える「非歴史的思考」の陥穽もある。リアルな(そして歴史的な)「人間」の存在がともすれば軽視されるこれらの傾向に対して、私たちはまず、生身で等身大の「水俣」が1973年以降も存在するという当たり前の事実を再確認したいと思う。そこには、被害者同士の軋轢や葛藤も当然含まれよう。そうしたローカルな視点を見失うことで、「安定化」させる力学に対して私たちは無防備となる。今回の大会では、被害者や地域社会の実像を美化することなく提示し、「かき消される声」や「安定化する力学」の具体像を1973~1990年代を軸に検討したいと思う。

 そこでまず井上ゆかり氏には、「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」と題して、1973年以降の「かき消されていく声」の実状を、女島の漁民やチッソ労働者の視点、また現在の胎児性世代の訴訟や認定されない被害当事者の状況などを中心に紹介していただく。これまで多くの患者さんに接してこられ、「人間の営みを中心とした理論形成」を志してこられた井上氏に、さまざまな立場をふまえた生のリアルを見据え、「安定化」させる力学にさらされた現場の視点から問題提起していただく。

 また、原子栄一郎氏には、「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」と題して、ご自身が経験された研究上の転回をふまえ、「チッソは私だ」という緒方正人さんの「魂」の視点から論じてもらう。緒方さんの視点は、加害企業や行政を免罪しかねない危険性があるものの、その視点を抜きにした社会批判もまた表面的なものになりかねない。水俣病事件を環境教育として取り上げるさい、その視点をいかに活かしたらよいか。ご提案いただければと思う。

 これら2つの報告をふまえ、患者支援団体である水俣病センター相思社の元職員・遠藤邦夫氏には、本企画担当者である及川英二郎との「対談」を通して、主に「もやい直し」に至る経緯やその歴史的意義について、「集合的トラウマ」の両義的側面などに着目しながら論じていただく。活動家として、また支援者として関わってこられたご経験をふまえ、社会運動のあり方やその限界について論点を提示していただければと思う。

 「安定化」させる力学がいまもなお作動ししつづけるなか、水俣が発信する問いは何か、それはどのようにして受け止められるべきか。「水俣」を論ずるさい、「公害」一般のなかでそれを普遍的に思考する視点とともに、その固有性を注視し、個々の「人間」に立脚点を見出しながら、「公害」だけではない他の諸問題とリンクさせて思考する視点が同時に求められよう。これら2つの視点は、せめぎ合い、かつ共存することで、より生産的な知見が得られるはずである。フロアからの積極的な参加を期待したい。

報告1:井上ゆかり(熊本学園大学水俣学研究センター)

「一次訴訟判決後から現在までの水俣病被害当事者の『かき消されゆく声』」

 1973年の水俣病第一次訴訟判決から今年50年を迎えた。この判決では加害責任と一時金の賠償命令のみであったため、患者がチッソと直接交渉し現在の補償協定内容になった。翌年には認定申請患者協議会が結成され、いわゆる未認定患者総申請運動が始まり、係争課題は加害責任追及から水俣病かどうかに変わっていった。こうしたなかで幾度も被害当事者は声を上げ続け勝訴し、結果として国は1996年の水俣病総合対策医療事業から2005年、2009年と3度「チッソとの紛争状態の終結」として「行政責任は今後追及しない」ことを条件に和解施策をとってきた。しかし、この和解は必ずしも被害当事者側が望んだ形ではなかった。

 2023年9月27日に水俣病不知火患者会近畿訴訟大阪地裁判決で原告全員を水俣病と認める司法判断が下された。同訴訟の熊本や東京での判決も控え、さらには第二世代訴訟、また新潟の二次訴訟も続いている。事態が長期化するのは、 訴訟で原告が勝訴すれば潜在していた被害当事者が新たな認定申請者として増加するという状況が50年も続き、その反面、地元ではこれまでの和解が「水俣病ではないのに一時金を貰っている」という地域内での差別を生み出し、申請が抑制されていたからにほかならない。

 一方、水俣市議会の議会運営委員会は2019年に水俣病問題を審議する「公害環境対策特別委員会」の名称から「公害」を外す議案を可決し、2023年百間排水口の樋門撤去工事が突如発覚し被害者団体の抗議行動が起こった。水俣市長は「ここまで注目されるという認識はなかった。」と地元新聞の取材に答えている。 権力が公害への強い圧力を示す水俣において、被害当事者が声を上げ続けることは、その声をかき消そうとする圧力との闘いでもあった。一次訴訟原告は「人間としての復権」、いまの第二世代訴訟原告は「胎児性世代、不知火海沿岸住民を代表する闘い」だと表現する。

 この報告では、故原田正純らと地域に入り調査研究をすすめてきた経験を踏まえ、漁民やチッソ労働者らの現状と「かき消す」力とは何か、さらに研究者としての中立とは何か考えてみたい。

参考:井上ゆかり『生き続ける水俣病:漁村の社会学・医学的実証研究』(藤原書店、2020年)

報告2 原子栄一郎(東京学芸大学環境教育研究センター)

「水俣病を環境教育として取り上げることにおいて、緒方正人さんを考材とすることによって何がもたらされるか? 私の大学環境教育実践から」

 現代環境教育の世界標準は、ESD(持続可能な開発のための教育)である。その根本課題は、「持続不可能な社会を支えている教育を考え直し、その向きを変えること」である。環境教育を担う者にとって、これは避けて通ることができない課題である。

 報告では、私の大学環境教育実践の試みを紹介する。実践では、教育にかかわる一人ひとりが自分を棚上げにしないで、自分のこととして根本課題を受け止め、<この私>はどこから来たのか、<この私>は何者か、<この私>はどこへ行くのかを、自分を振り返り、よく吟味し考えてみることを基本方針としている。このもとに、持続不可能な社会を象徴する水俣病を取り上げて、「一人の人間」として、いろいろな立場から水俣病に深く長くかかわった人(たち)に着目し、その人(たち)に関する文字資料を読み、映像資料がある場合には視聴して、その過程で<この私>は何をどのように感じたり、思ったり、考えたりしたか、自分の心の消息を綴り、クラスメートと共有し議論するワークを行っている。

 緒方正人さんは、このシリーズ「水俣病から考える」ワークの中で扱う「一人の人間」である。

 報告では、大学環境教育実践の概要を紹介した後、緒方さんの「魂のゆくえ」(栗原彬編『証言 水俣病』岩波書店、2000年)をテキストにして彼の来歴をたどる。その際、来歴の中に見て取ることができる「転生」と呼びうるような生の質的転換、特に「魂」の境地への到達と、それを引き起こした出来事や事情に注目する。その上で、2000年代半ばに研究上の「自己分裂」を引き起こしていた私に与えたインパクトを含め、水俣病を手掛かりにして現代環境教育の根本課題に取り組むことにおいて、緒方さんを考材とすることによって何がもたらされるか、現代環境教育の根本課題、人間として生きる、水俣病のとらえ方、環境教育のパラダイムなどとのかかわりでお話ししたいと思う。

1
10月

同時代史学会2023年度大会(第一報)

同時代史学会2023年度大会(第一報)

 同時代史学会2023年度大会を、下記のスケジュール・テーマで開催します。

 詳報は改めてお知らせします。

12月9日(土) 

会場:東京経済大学

10:00〜12:00 自由論題報告(対面のみ)

12:40〜13:10 総会 (オンラインによる中継を予定)

13:30〜17:40 全体会(オンラインによる中継を予定)

「安定化させる力学とかき消されていく声―1973年以降の水俣から考える―」

井上ゆかり( 熊本学園大学水俣学研究センター 研究員 )

原子栄一郎( 東京学芸大学環境教育研究センター 教員 )

遠藤邦夫 ( 水俣病センター相思社 元職員 )

18:00〜   懇親会

10
7月

同時代史学会2023年度大会 自由論題報告者の募集

 同時代史学会2023年度大会 自由論題報告者の募集

今年度の同時代史学会年次大会は、本年12月9日(土)、東京経済大学(東京都国分寺市)にて開催の予定です。つきましては、当日午前中に実施される自由論題報告の報告者を募集します。日頃の研鑽を発表し合い、議論を交わせる貴重な機会です。会員の皆様には、ぜひ奮ってご応募くださいますよう、お願い申し上げます。

なお、機材や運営上の観点から、本年度の自由論題については原則、対面開催となります。この点、ご承知おきください。

1.日時:2023年12月9日(土) 午前10時開始(最大13時20分終了予定)

  *御一人の持ち時間は報告40分+討論20分=計1時間を想定してください。

2.場所:東京経済大学 国分寺キャンパス 2号館

*アクセス:https://www.tku.ac.jp/access/kokubunji/index.html

*キャンパスマップ: https://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/

3.開催形態:対面開催

4.論題:第二次世界大戦以後を主な対象とする歴史的研究全般

5.エントリー資格:同時代史学会会員であること

  *非会員で応募される方は、エントリーと同時に入会手続きをお済ませください。

   参照・本会HP「入会のご案内」: http://www.doujidaishi.org/about/admission.html

6.エントリー方法:以下の項目を、電子メールか郵送で、下記9までお知らせください。

① 報告者氏名、及び現在の所属

② 報告タイトル

③ 報告要旨(400字以内)

7.採否:理事会で審査の上、9月末日までに応募者本人に直接採否を通知します。

8.締切:2023年8月31日(木)必着

9.応募及び問い合わせ先:戸邉秀明(自由論題担当理事・東京経済大学教員)

E-mail:tobe ★ tku.ac.jp

  〒185-8502 東京都国分寺市南町1-7-34 東京経済大学 戸邉秀明 宛

*郵送の場合、封筒に「同時代史学会自由論題応募」と書き添えてください。

以上

11
11月

同時代史学会・2022年度大会 全体会報告要旨

全体会 「70年代の国際関係の変動の歴史的意義を考える」

【趣旨文】

 今年は沖縄返還、日中国交回復から50年という節目の年である。だがこれは独り日本という国に生じた特殊なエピソードというわけではない。そこには、1960年代半ばから米国が本格的に介入した冷戦の熱戦化の典型であるベトナム戦争や、それに端を発した反戦運動の興隆の影響があったことは明らかである。さらに、その背景には、いわゆる「1968」に象徴されるフェミニズムや労働疎外などに取り組む若者中心の広範な社会運動と、それを受けた各国の政治的動揺があった。

 同時に、国際関係そのものにも地殻変動が起き始めていた。西側諸国との経済・軍拡競争に疲弊したソ連・東欧圏の西側への接近と、それに端を発した中華人民共和国の立場の変化、「第三世界」勢力の登場と異議申し立てのインパクト等。新たな状況によって、第二次世界大戦の勝者たちが形成した戦後秩序にそもそも伴っていた妥協的側面の限界が露呈したことも、1970年代の変動の、より大きな背景を形成していた。1972年の2つの出来事は、その日本的な現れに他ならなかった。

 1970年代を1つの大きな時代の転換点とみる試みは、当然のことながらこれまでにも多数試みられている。同時代史学会でも、すでに2010年度大会「転形期―1968年以後」において、1960年代から80年代を1つの長い転換期と見立て、諸運動の転換とその意味を検討した。2017年度大会では歴史民俗博物館の企画展示と合わせ、「「1968年」を測り直す―運動と社会の連関、その歴史的射程」と題して、地球規模の共時性を持つ1968~69年の若者たちの運動の歴史的意義をあらためて掘り下げた。また2014年度の「『復帰』後の沖縄を歴史化する」では、沖縄に焦点を絞る形で、1972年以後の変動が持つ意味を再検討した。

 このような検討が進めば進むほど、1970年代の転換は、その後にどう活かされたのかという問いが浮上してくる。冷戦終焉直後の1990年代初頭には、それまでの運動の蓄積が戦争責任・植民地支配責任の問題などで多大な成果をもたらしたにも関わらず、その後、歴史修正主義と新自由主義に席巻されてしまったのはなぜか。この点についても、当会では2018年度大会で「転換期としての1990年代」と題して1990年代の歴史化を始め、2019年度大会「〈戦争の記憶〉をめぐる同時代史―歴史表現はどう向きあってきたか」では、90年代の遺産の前提にある、1970~80年代のさまざまな試みについて、表現方法の観点から検討を加えた。

 今年度はこれらの成果をふまえつつ、次のような視点で、議論をさらに展開していきたい。先に述べた、60年代後半に始まる国際的な文脈を、日本はどのように受けとめたのか。この点を、従来のように日米・日中といった大国間関係のなかだけで捉えるのではなく、新たな「国際関係」の視点を探ることで、重層的に理解する道を拓きたい。1970年代の日本において、その焦点のひとつはアジアといかに向き合ったかに絞られるが、それを今日、どの側面で捉え究明するのかが、同時代史の研究では試されるだろう。

 そこで本年度の大会では、以下の構成によって、1970年代の国際関係の変動が持つ歴史的意義を再考する。

 まず東アジア国際関係史を専門とする成田千尋氏に報告をお願いする。成田氏は、1972年の沖縄返還を、日米関係だけでなく、大韓民国や中華民国の側からも捉え直し、そこに関わる複数のアクターからポストコロニアルの課題を浮かびあがらせた。その成果をふまえ、1970年代の日本が、東アジアにおいて何を問われていたのかを浮き彫りにしていただく。

 次に、社会学を専門とする木下直子氏に報告をお願いする。「慰安婦」問題は1990年代になぜあのような形で注目されたのか、そしてそこで語られないものはなんだったのか。その究明には、60年代以来のフェミニズム言説を中心として、日本社会の「慰安婦」をめぐる言説史と、語る主体の歴史的検討が必要になる。この点を深めてこられた木下氏に、60~70年代のアジアとの直面がもたらしたインパクトと困難性を考察していただく。

 この2報告に対して、アメリカの国際関係思想史を起点として、国際関係における正義や記憶の問題を幅広く論じられている三牧聖子氏、沖縄における「慰安所」と地域住民との関係を拠点として、東アジアの戦争や植民地の記憶を捉え直されている洪玧伸(玧は王ヘンに「允」)氏のお二方にコメンテーターをお願いした。今回の主題に連なる多様な文脈を明らかにしていくことで、議論の豊富化を図りたい。

 以上の構成と当日の議論によって、1970年代像の更新や、1990年代半ば以降の大転換に至る歴史像の構築の一助となれば幸いである。

 参加者諸氏の活発なご議論を期待する。

【タイム・スケジュール】

 趣旨説明:13:30~13:40

<報告>

 成田千尋(立命館大学衣笠総合研究機構):13:40~14:30

  沖縄返還をめぐる東アジア諸国の歴史・安全保障認識

 木下直子(特定非営利活動法人社会理論・動態研究所):14:40~15:30

  70年代フェミニズムの感性を辿る――「慰安婦」とアジアをめぐって

<コメント>

 三牧聖子(同志社大学 大学院グローバル・スタディーズ研究科):15:40~16:00

 洪玧伸(玧は王ヘンに「允」)(一橋大学):16:00~16:20

 全体討論:16:30~17:30

【報告要旨】

沖縄返還をめぐる東アジア諸国の歴史・安全保障認識

成田千尋(立命館大学)

 第二次世界大戦後の日本において、米国の施政権下に置かれた沖縄の返還問題は、一義的に日米間の領土問題として捉えられていた。しかし、1960年代後半に日米間の沖縄返還交渉が本格化すると、沖縄米軍基地が自国の安全保障に不可欠な役割を果たしていると捉えていた大韓民国政府及び中華民国政府は、沖縄が日本に返還されると米軍基地の自由使用が不可能になり、基地機能が低下すると捉え、日米両政府に対して基地機能の維持を求めるようになった。他方で、大韓民国と敵対していた朝鮮民主主義人民共和国政府や、中華民国と敵対していた中華人民共和国政府は、沖縄基地の安全保障上の重要性を強調する日米両政府の沖縄返還に対する姿勢を批判する一方、沖縄は日本の一部だとして、沖縄及び日本で展開されていた日本復帰/沖縄返還運動に連帯しようとする意志を表明した。

 このような東アジア諸国の沖縄をめぐる意思の表明は、1972年に沖縄の施政権返還が実現するとともに見られなくなっていくが、沖縄の日本への返還問題は、米軍基地が置かれた沖縄の安全保障上の役割が変化する可能性とともに、かつては琉球王国という独立王国であった沖縄の地位の変遷を、周辺の東アジア諸国にも想起させることとなった。このため、東アジア諸国の沖縄返還をめぐる動向には、沖縄に対する認識とともに、当時の日本に対する認識も反映されていると考えられる。

 報告者はこれまで第二次世界大戦後から70年代にかけての沖縄返還をめぐる大韓民国政府及び中華民国政府の動向・認識の変化に注目して研究を行ってきた(『沖縄返還と東アジア冷戦体制:琉球/沖縄の帰属・基地問題の変容』人文書院、2020年)。だが、当時の東アジアの状況についてより深く理解するためには、両国と敵対していた朝鮮民主主義人民共和国政府及び中華人民共和国政府の動向や認識についても明らかにする必要があると考える。両国については入手できる史料の面で限界があるが、本報告では主に両国の新聞資料を活用し、沖縄返還をめぐる両国の動向・認識の変化を明らかにするとともに、これまでの大韓民国政府及び中華民国政府に関する研究の成果をあわせて検討することで、1970年代の日本が、東アジアにおいて何を問われていたのかを考えるための一助とすることを目指す。

70年代フェミニズムの感性を辿る――「慰安婦」とアジアをめぐって

木下直子(特定非営利活動法人社会理論・動態研究所)

 1970年代の日本では、後に第二波フェミニズムとして位置付けられるようになる「侵略=アジアと闘うアジア婦人会議」の運動やウーマン・リブ運動などが展開された。どちらも1970年より活動を始め、植民地支配以来の日本の加害が継続している状態を問題視し、日本の加害・女性の被害の象徴として「慰安婦」に言及するテクストを遺している。また、1976年には加納実紀代らにより銃後史研究が、1977年には松井やよりや富山妙子らにより「アジアの女たちの会」が立ち上げられた。これらの活動は、女性たちが具体的にアジアの諸外国と出会っていく経験となった。
 本報告では、こうした運動に携わったフェミニストたちの問題意識や活動を再評価し、彼女たちがどのように時代を捉えていたのか、日本とアジアとの関係性を軸に「慰安婦」に焦点を当て考察する。報告者は、自著『「慰安婦」問題の言説空間––日本人「慰安婦」の不可視化と現前』(2017年、勉誠出版)で「慰安婦」をめぐる言説史の一端に注目したが、本報告では個別の運動家の背景にも目を向け、アジアの国際関係の変化がいかに受け止められていたのかに注意を払いながら、当時の活動が後にどう生かされたか考察を試みる。世代により見えていたものが違うが、そこで切り拓かれたものを論じながら、1990年代以降の「慰安婦」運動に連なる系譜やその後の変化について検討する。